陰謀の匂い
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
《空の目号》は、ゾーナン空域を離れて針路を東北東に採り……巡航に入った。トーンズ側から見て、南方にある国境森林地帯を「国境」と呼称してはいるのだが、実際にはトーンズ側から森林地帯を越えても概ね100キロ程度は無人の荒野が続く。
テトは太古の昔に中央山地から西に伸びてアデン海に注いでいた大河が失われた後に、残された水脈路の真上に位置しており……比較的浅い深度でも豊富な地下水が得られる事もあって、第二期以降の早い時期から連続性は無いが、何度も人間集落が形成されて来た歴史がある。
現代に至る10000年もの時の流れの中で、この地に人が住んだり……魔物や、その時々に近隣を縄張りとした蛮族に滅ぼされたりを繰り返しながら、現在に続くテトが形成されたのは今から約300年前で、やはり南方からの避難民……祖国で虐げられていた人々がこの地に辿り着いて、ひっそりと定住し始めたようだ。
テトから北西に10キロ程行くと、旧モロヤの残党が巣食っていた砦があった丘があるのだが、その丘がある北側に寄らず西に向かって20キロ程行った辺りから、地下水脈に沿うように西に伸びて行く森林地帯が始まる。やはりテトは地政学的に見ても「トーンズ南端の玄関口」として見做されるような位置にあるのだ。
そして数年前から何度も押し寄せて来るテラキアの軍勢は主に南西方向から現れる。つまりはトーンズ側から見てテトが南側に突出しているだけで、トーンズの主要な地域とテラキア王国は、間に低木森林地帯を挟んで今尚100キロ以上「お互いの認識している境界線」が隔てているのである。
こういった事情もあってか、これまでテラキア側が軍事的な目標にしているのはテトだけであり、南方から軍勢が森林地帯を超えて……つまりは自国側から真っ直ぐに北進して来る……という事は無かった。テラキア側からしてみれば、この南北100キロ余りの「緩衝地帯」を自国領土として扱うメリットが無いのだ。
旧モロヤ地域から闇雲に森林地帯を目指して北上し、挙句に《青の子》の巡回部隊に補足されるのは、圧政から必死になって逃れて来る難民だけである。尤も……その難民達も「テトを経由するように」と食料や水を与えられ、改めて諭されるのではあるが。
これが北サラドス大陸のレインズ王国や……ロッカ大陸、南サラドス大陸に幾つか存在する先進国家であれば、「植民」という思想によって将来的な国家経済に資するような施策を採ったりしそうなものだが……「大国」と言われながら、テラキアにはまだまだそういう余裕は無いようである。
そうは言っても、それはトーンズ側にとっても同様であり……大統領を始めとして国家の運営に携わっている者達にとっては「東西200キロ、南北100キロ」と号する国家領域を主張してはいるのだが、その実態として……人口の9割9分は国土の東半分の地域で暮らしており、西側には精々……藍玉堂が所有する一連の工場群程度しか存在していない。理由は単純で、この地域は南方の森林地帯のような浅い深度に地下水脈が存在しておらず、定住地を築くのが困難だからである。
しかも藍玉堂の工場群は他国では有り得ない「転送陣」という移動手段によって、そこで活動している者達は全員、サクロから「通勤」しているのである。
よって……トーンズ国内で「人が住んでいる」という地域の西限はサクロから30キロ程度西にあるソン村であって、ここはそもそもが「将来のサクロ市域拡大の妨げにならないように」というルゥテウスの配慮で、今の位置にキャンプからの建物を魔導によって移築して作られた「人工都市」であり、本来ならばサクロ……これは西側の工業地域を含めた領域と直接隣接させても問題は無かったのだ。
それでもトーンズが西方領域の領有に拘るのは、彼らとしては最終的にサクロから500キロ隔てた大陸西岸……アデン海まで領土を拡げて、現在も「飛び地」的な扱いでアデン海沿岸で活動している「アデン海に漕ぎ出そうとしている戦時難民を渡海前に救い上げる」という事業をもっと有機的に行えるようにする……それを幾つかある国家の最終目標に掲げているからである。
「蛮族国家の圧政に苦しむ人々の救済」……それをトーンズ国の国家アイデンティティの一つにしているのであった。
ゾーナン空域を出て、東北東に40キロ程飛行したところで前方見張り員から「1時方向に天幕のような人工物あり」という通報が入ったので、ソンマは減速を指示した。
「本船前方……1時の方向に人工物あり。距離約20キロとの事です」
店主を始めとする要人一同は再び乗員区画に戻って左舷側のキャビンにある椅子に座り、各々窓の外を眺めていた。少し前から厨房員が厨房にある電気釜を使ってどうやらパンを焼き始めたらしく、その匂いが乗員区画一杯に広がってきたので、「そろそろ夜食の時間かな」と思い始めていた頃に、前方艦橋からソンマの声で船内放送が流れたのである。
「お……。何か見付かったみたいだな」
「左様ですな。人工物……軍拠点ですかね」
「どうだろうか。俺の記憶ではここら一面、特に起伏の無い荒野が続く地域だったと思うが」
「前方……艦橋から見た方がいいですかな。ここの窓は普通の窓ですから夜の暗闇しか見えませんし」
ロダルが苦笑しながら立ち上がったので、他の者達もそれに倣って隣室である前方艦橋に移動を始めた。
「どんな感じだ?」
艦橋に入った店主の声に、上層の船長席からソンマが
「はい。間も無く真上に到達します。既に全景は確認出来る位置ですよ。現在地点はゾーナンの東北東60キロの辺りです」
そう言われた一同は右舷側の「《明視》付与された」舷窓や床窓から地上を見下ろす。
「うむ。軍の拠点……と言う程でもないが……」
「そうですな……。行軍中の野営でしょうか」
「そうだな。恐らくは親方の言う通りだ。兵力は……1000居るか居ないか……」
「はい。典型的に最近テトへ押し掛けて来る規模の部隊かと思います」
テトで何度も戦闘指揮を執っているロダルが指摘した。
「見てみろ。地面に行軍跡が見えるぞ。どうやら南から来ているな……」
「おお!本当ですな。上空からだとこのように見えるのですね……これは素晴らしい」
「だな……。本当に丸見えなんだな……」
驚く監督と、それを聞いて笑い出す親方。「上空偵察」と「夜でも昼間のように見える《明視》付与」の威力を改めて思い知っているという感じか。
「いや待て……。ちょっと様子が変だぞ」
店主の指摘に、ロダルも首を傾げながら応じる。
「そうですね……私にも違和感が……」
「何……?どういう事だ?」
「えぇ……親方様。この連中……こんな荒野のど真ん中に野営しているくせに歩哨の数が異常に多い気がするんですよ」
「うむ。ロダルの言う通りだ。何故こんな警戒態勢を執っているんだ」
「あ、なるほど……。確かにこんな時間なのに外に居る兵が多いですな。どうしても昼間のように明るいから今が真夜中である事を忘れてしまいがちですが……」
ラロカが苦笑する。
「店長、ちょっとここから……あの行軍跡を辿って、南へ50キロくらいの範囲で飛んで貰えないか?周囲の状況を知りたい」
「南ですか?承知しました。回頭っ!右90度。出力調整。60パーセントで100キロ巡航」
「了解ですっ!右90度回頭サー!」
こうして……動力騒音を押さえながら《空の目号》は南に船首を向けてゆっくりと前進し始めた。
「まずは周囲の状況を確認しないとな……」
「しかし先程の……店主様が仰られていた話の通りだとすると、今の部隊は『あの場所に誘い出されている』という可能性もあるわけですよね?」
「あの場所……というか、あそこはあくまでもルートの途上にあって最終的な目的地点はもっと北……もしかすると国境森林地帯かもしれんな」
「え……?国境の森まで、あそこからまだ100キロ以上はありますよね?」
「そうだな。さっき見た感じだと、あの部隊はテラキア軍としては典型的な『歩兵ばかりの』編成だったようだ。何やら馬も何頭か散見したが、あれは輜重隊が使用しているんじゃないだろうか」
「そうなると未舗装地の行軍速度としては1日で25キロ程度じゃないかなぁ。今の奴らも皮革防具とは言え、完全武装に近い状態だった。もしあの恰好での行軍ならやはり25キロが限界だろう」
そう言うと店主は針路を南に採っている飛行船の床窓から地上を観察して
「ふむ……。奴らの行軍跡を見ても、強行軍というわけでも無さそうだ。そして……既に奴らは行軍を開始して1旬以上は経過しているんじゃないだろうか」
「そこまで判るのですか……」
ラロカは感心している。その隣でロダルが同様に頷いている。彼から見ても店主の観察力と分析力は驚異的に感じているだろう。つくづく今夜の飛行に店主様が同乗頂いて良かったと……心中で胸を撫で下ろしている。
飛行船は地上の様々な情報を拾いながら、野営地から南側へ50キロ程飛んだ。店主はその間にも、かの部隊の行軍跡と野営跡を地表から特定し続けている。
「ここまでずっと真っ直ぐに北に向かっているようだな。店長。もういいぞ。さっきの野営地まで引き返して貰えるか?奴らの様子をもう少し見てみたい」
「承知しました」
ソンマからの指示で180度回頭した飛行船は再び北に居るはずの……部隊の野営地に向かって引き返し始めた。
「ちょっと地図を見に行こう」
店主は艦橋後方の扉から隣の区画……乗員区画にある大地図が張られている作戦区画に戻った。他の者も後に続く。
「船長。現在地から南に行くと、どの辺りに出るんだ?」
「南ですか……?そうですね……少し離れてはいますが、この辺り……ここですね。100キロ程南になりますが、ホーロという町があります。テラキア王国がモロヤを併合する前の頃から王国の北端に位置する、それなりに大きな町ですね。昔はモロヤとの最前線だったそうです」
「ふむ。最前線だったというのであれば……元から軍事拠点としても機能していた可能性が高いな」
「あっ……つまり、さっきの部隊はそこから来ているのではないかと?」
「その可能性はある。であれば……既に拠点を出て150キロの旅をしているという事になるな。やはり……既に1旬以上の行軍をこなしている事になる。そうなると国境の森までまだ1旬以上の距離だ。それなのに……この位置で何故か強く警戒する動きを見せている……。さっきの行軍跡に残っていた野営跡は3つ目までが概ね15キロの間隔だった。1日20キロも進めていないな」
「引き返した辺りから見えた4つ目の野営跡は25キロ先だった。つまり奴らは今夜も含めて警戒態勢に入ってから4日目で、それまでは1日25キロの通常の行軍をしていたと思われる。ホーロを出て1日25キロの行軍で4日。そしてここ4日間は警戒行軍。最低でもホーロを出てから8日は経過しているという事になるな」
「警戒態勢のままでの移動であれば……斥候を四方に送りながらですから、仰る通りの行軍速度になってもおかしくはありませんね……」
店主の指摘にロダルも同意する。
「俺がこれまで見て来た様子だと、奴らの持っている情報部隊は……《青の子》と比べて能力が相当にしょっぱい。偵察範囲もそれほど広く無さそうだし、時間も掛かる可能性は高いな」
笑う店主の言葉にタム船長が苦笑しながら「これは……恐れ入ります」と頭を下げる。
「まぁ、俺から見ても『お前ら』の能力はもう、世界最高水準に達しているがな」
「店主様からそのように仰って頂けるとは……光栄の極みでございます」
監督も頭を下げる。彼がその昔……《赤の民》から諜報術を学び終えて帰還してから16年……そして店主と出会ってから10年。《赤の民》の諜報術に、彼独特の感性と店主から与えられた超常的技術と知識まで加えて鍛え上げたこの《青の子》は、レインズ王国の現役士官学生として王都の裏世界を観察した店主から見ても、王国が抱えるあらゆる情報組織を凌駕していると言わざるを得ない程に洗練されているのだ。
「俺は今……こいつらが真っ直ぐ北……国境の森に向かって進んでいる理由を色々考えてみたのだが……」
店主は顎に手を当てつつ腕を組み、考え込む素振りを見せながら自らの推理を述べた。
「やはり考えられるのは『情報操作』の類に乗せられて、無駄に北部方面に引っ張られている……としか思えない」
「ど、どう言う事でしょうか?」
「流されている情報の中身までは判らんがな……。ホーロとかいう町から一直線に北に向かっているという行為は戦略的にも戦術的にも無意味……無策に見える。だがそこに……『偽の情報』が流されていたら……こんな無駄な行軍にも理由付けが出来る。まぁ……つまりは奴らの位置と周囲の情勢を見て逆算して考えただけだ」
笑いっ放しの店主に対して、ドロスも含めて周囲の者達は……その智謀に息を飲んでいる……。
「店主様がお考えになる……『偽報』の類としては、どのようなものを……お考えになられますか?」
「だから、その内容までは判らないさ。どこのお偉いさんが騙されて誰があの部隊に対して指令を出したのか。俺はテラキア人の『偉い人』じゃないからなぁ」
「そ、そうですか……」
「ホーロには《青の子》の諜報員は潜入しているのか?」
「さて……こちら側の細かい采配はイバンに任せております故……」
店主からの問いにドロスが答えた。
「ならばイバンに聞くか……」
「はっ。イバン殿を呼んで参ります」
「うむ。俺達は艦橋に戻っているからな」
タム船長が一礼してイバンが居る後部艦橋へ歩き去った。
「それにしてもあんな場所で警戒態勢を……益々謎ですなぁ」
「そうだな。偵察部隊ならまだしも、あれは明らかに戦闘部隊だ。1000人規模の軍隊に少なくとも1旬に渡って『無意味そうな行軍』をさせているんだ。今のテラキアがどれだけ豊かな国なのかは知らんが、そんな部隊を無駄に動かせる程に物資に余裕があるとは思えないな」
店主と親方が話し合っているところに、イバンを連れたタムが戻って来た。
「お呼びでしょうか」
「イバン。ホーロの町については知っているな?」
「はい。先程向かっておりましたね。途中で引き返されたようですが……」
「そうだ。ホーロの町についてお前はどこまで把握しているんだ?」
「ホーロですか?現地からの報告によれば……」
「お。ホーロにも諜報員が居るのか?」
「え……?あ、はい店主様。ホーロはモロヤ併合前からテラキア北部の中心です。北部だけで無く、テラキア内部でも大邑ですから」
「そうか……という事は、軍事拠点としても機能しているんだろうな。さっきの話では十数年前までは滅んだモロヤとの最前線だったんだろ?」
「は……。少々お待ちを……」
イバンは懐の隠しから黒い表紙の手帳を出してページを捲り始めた。見覚えのある……以前ラロカやドロスが使っていたものと同じ表紙だな……と店主が考えていると
「あ、ございました。ホーロにはかなりの部隊が出入りしているので、その常備兵数は精確に把握するのは難しいようですが、5千から9千という報告がこれまで上がっております」
「随分と数字の差があるな。しかし最低でもやはり全軍の1割くらいは駐留しているのか」
「はい。そういう事だと思います。テラキア北部には主だった集住地を3カ所確認しております。ホーロは規模こそゾーナンには劣りますが、モロヤ併合前にはテラキア北部最大の町だったとの事です。そしてテラキアという国家の軍制は王族を中心とする『個人』が兵を養っており、その人物が移転する際には自家軍も引き連れますので、軍拠点に対して軍勢の出入りが頻繁に起こるのです」
「なるほどな。私兵軍制とは後進国らしいな。ならば戦略的にはゾーナンよりもこっちの方がよっぽど重要なわけか」
政体としてまだまだ部族制度の残滓が残るテラキアですら、その軍事力は多分に個人が養う「私兵」によって担保されている。しかし、今の時代において「先進国」とされるレインズ王国でさえ、国軍以外にも拝領貴族による私兵保有を認めており、むしろそれを「諸侯軍」として国防力の一端を担わせているのだ。
「国民軍」として、国家の軍事力を完全に個人と切り離している国は……恐らくこの世界ではトーンズ国だけであろう。
「はい。ホーロを統治している『邑長』なる人物は王族が務めているそうです……。えっと……前国王の弟の次男……?つまりは現国王の従兄弟に中る人物ですかね」
「そんな事まで調べ上げてるのか。それでも駐留兵力に『幅』があると言う事は……単純にその町が北部の主要拠点なだけだな。しかしそれでも1万近い兵力が留まっているという事は……一応は北方、トーンズ方面に対する防衛を意識している……元から警戒はされているのか……それとも単にその『邑長』とか言う奴の抱える私兵が駐屯しているだけなのか。だとするとこの国の政治体制は『封建制』に近いのか……?」
店主は苦笑した。後半の呟きについては誰も理解出来ずにいた。
「先程の野営軍がホーロから出て来ている……というのは、間違いの無い事なのでしょうか?」
「行軍跡の状態からすればホーロから来ている……少なくとも経由をしているのは確実だろう。そんな奴らがこれだけ北方……トーンズとの国境地帯に向かって一直線に行軍しているのが、やはりおかしい」
「我々以外の者から工作を受けている……という疑いは確かにありますな」
監督が腕を組みながら店主の推理を肯定した。
「そのような事など……全く考慮に入れておりませんでした……お恥ずかしい……。私もまだまだ修行不足で……」
2人の会話を聞いたイバンが項垂れている。自分の未熟を自覚して……精神的に凹んでいるようだ。
「いや……、そんなに落ち込むなイバン。これは……店主様の洞察力が異常なのだ。俺ですらサクロの責任者としてテトの戦況には気を配っていたが……まさかそんな『裏』があるなどとは思ってもいなかったわい」
ラロカが苦笑いを浮かべながら甥を励ますと、ドロスも
「親方様の言う通りだイバン。私だって、店主様から今このお話を聞いて初めて思い至ったのだ。今日のこの時……この船に店主様が乗り合わせてくれた己の幸運を喜ぶのだ」
「ははは……いやいや。俺もこうして上空から観察して初めて気が付いた事が多かったんだ。さっきも言ったが、こうして真上から見ると行軍跡がしっかりと見えるからな。『どっちの方から来てるのか』と『その方向には何があるのか』という手掛かりが貰えたからこそ、こういう推測が出来るんだ。これは《青の子》全員のおかげだよ」
周りでこの会話を聞いていた者達……床窓を覗き込んでいる観察員達までもが、藍玉堂店主様の智謀に改めて畏敬の念を抱いている。
「ふむ……しかしどうやら『謎』が解けて来た感はあるな」
「ど、どのような事なのでしょう?」
親方がやや食い気味に店主に尋ねる。彼もサクロ市長として国家の防衛にはかなり心を砕いているのだ。
「これを仕向けている『奴』の真意までは判らんがな。そして『そいつ』が……偽報を流しているのは確かだな。それは恐らく……
『北の国がテラキアを狙って南方への侵攻を企図している……もしくは既に侵攻を開始している』
まぁ、そんなところだろう。あの部隊は……いや、厳密にはあの部隊を『所有』している奴はそれに踊らされて要撃の目的でホーロから部隊を派遣している。同様に……これは多分別の拠点だとは思うが、
『テトは今や北の国がテラキアを侵略する拠点になっている』
なんて感じで吹き込まれているんだろうな」
「え……!?わ、我が国が侵略……?」
店主からの「答え」を聞いた親方が驚愕の声を上げた。
「ウチの国が……ですか!?」
ロダルも同様に息を飲んでいる。
「そう考えると、テトに対して『バカの一つ覚え』のように吶喊して来ているのも多少は頷けるというものだ。奴らにとっては『侵略に対する迎撃』という危機感から執拗に兵を送ってきているのだろう。しかしトーンズ軍によって殲滅を受け続けている為に、あっちの『お偉いさん』に全く情報が与えられない状況が続いている。奴らにとって唯一判っているのは『兵を送っても帰って来ない。もっと送らねば侵略されてしまう!』という事だけだからな」
「た、確かに……追撃は徹底的に行っております。それこそ『一人も帰さない』つもりで……」
「これを『仕掛けている奴』からしてみれば、最初は手頃な『ぶつけ役』として、『最近北に、いきなり現れた正体不明の国』……どういう国かも判らん存在をダシに噂を流し、討伐軍を送らせてみたら……その兵が戻って来ない。再び向かわせるように仕向けても結果は同じだ。だから……これ幸いと……『あそこに軍をぶつければテラキア軍を磨り潰せる』という事に気付いて『偽報活動』を繰り返しているのではないかな」
再び開陳された店主の推理を聞いて、前部艦橋は静まり返った。これを聞いた誰もが……ドロスですら絶句しているのである。
店主はそんな様子にはお構い無しに推理を続ける。
「もしもそうであれば……これだけ繰り返し『そう仕向け続ける』事が可能なのは……国家の中枢に近い位置に居る奴か。さっきのイバンの話の通りなら、王族の中に『そうさせている奴』が居る事になる。もしくは『その王族を唆している』奴かもしれない。ふーむ。王権を巡る国内の権力争いか。はたまたテラキアを内部から壊したい奴が暗躍しているのか……」
「あっ、あの……しっ、しかし……そんな事をして……国自体の力が弱まったら……」
漸くラロカが店主の推理に対して口を開いた。
「いや、首謀者が権力の奪取を目的としているならば、テラキアは既にこの『地域』における『超大国』なんだろ?多少その力が弱まったところで周辺諸国……既に奴らが滅ぼした国の残党も含めて、それでも『圧倒出来る』という自信があるんじゃねぇか?問題は後者だ。テラキア内での権力が目的では無く、単純にテラキアの破壊が目的だった場合……首謀者の特定が相当面倒臭くなる」
「え……?」
「テラキアをぶっ壊したい奴らなんて『ごまん』と居るだろ。既にテラキアに滅ぼされた亡国の残党だってそうだし、『これから滅ぼされそうな国』にしたってそうだ。つまりテラキア王国に対してそれを仕掛ける理由がある奴が多過ぎるんだ。それを炙り出して止めさせないと、テトはいつまでも狙われ続けるんだぞ?」
「あっ……そういう事ですか……」
「これが逆に『権力争い』による謀略であれば話は簡単だ。こっちの諜報員を使って、そいつが『やっている』事を暴露しちまえばいいだけだからな。『関係の無い北の国』にご迷惑を掛けている事をしっかりと『騙されている奴ら』に解らせればいいんだ」
「な、なるほど……」
「しかしあれだな……誰だか知らんが、『仕組んでいる奴』は1つだけ間違いを犯している」
「え……?何をでしょうか?」
ラロカの問いに、店主は久しぶりに見せる「悪い顔」をしながら
「自分が『ダシ』に使った相手が悪過ぎるってことだ。『いくら兵をぶつけても全て未帰還兵にしてくれる』などと便利に思っているかもしれんが……所詮は蛮族。トーンズはそんな小細工が通用するような相手じゃないんだがな……」
「いえ……相手の誤算は……その北の国に『店主様』がいらっしゃる事だと思いますよ」
店主の言葉に、ドロスが苦笑混じりで応えた。
「どうだ監督……。『あっちの王国』も中々面白くなりそうだが、こっちも色々と面白くなってきたじゃねぇか?」
「ふっ……そうですな……。しかしこれがエスターの蛮族。3000年もこんな事を繰り返して……我らの先祖は苦しめられてきたわけですから……」
ドロスは少し怒りの混じった表情で答えた。
「で、どうするんだロダル。こっちから仕掛けるのは少し待って、まずは『からくり』から調べた方がいいんじゃないか?」
「そ、そうですね……。このままでは本当に……キリが無い感じになりそうですね。イバン、今店主様が仰られた話……調べてみてはくれないか?」
「はい。承知しました義兄様。テラキアの都への増員ももちろん……更に南方の諸国についても諜報範囲を拡げるようにします。幸いにして……この《空の目号》さえあれば秘密裡に諜報隊の移送も容易でしょうから……」
イバンは笑いながらロダル将軍……義兄からの依頼を承諾した。この《空の目号》には後部艦橋側にロープを使って最大で高度10メートル程度の乗降を可能にする機構が備わっている。
キャンプの訓練場では、《青の子》の訓練生が頻繁にロープを使った懸垂降下の訓練を行っているし、収容時には専用の巻取機を使って素早い空中回収も可能だ。これによって、《転送陣》を必要とせずに遠隔地への高速輸送手段を手に入れたのである。
《空の目号》はその後、北に向かっていた部隊の野営地の真上まで戻り、改めて位置の測定と兵力の詳細な観察を行った後に、サクロの軍本部に
「国境森林地帯……サクロから南西60キロ地点辺りを目標にテラキア軍1000弱の軍勢が進軍中」
という内容で通報した上で、その場に居合わせたロダル将軍によって騎兵隊……機動弩兵500騎を急行させて迎撃体制を執るように命じられた。時刻は深夜2時を過ぎた頃であったが、出動命令は速やかに発令されて明朝7時を目途に騎兵隊が招集編成され、作戦目標に対して出発する事になった。
真下で野営をしているこのテラキア軍の部隊が、このまま進路を変えずに北方の森林地帯に達するにはまだ7日……仮に途中から強行軍になっても5日は必要であるのに対し、レインズ王国から導入した軽快で抜群のスタミナを持つ中間種軍馬による高機動の騎馬隊であれば、60キロの距離を2日もあれば余裕で走破出来る。南方からの越境侵略に対して十分に迎撃態勢を整える事も可能であるし、仮にこの部隊が進路を変えたところで、今後も毎日1回の上空偵察によって修正は容易に可能である。
何しろ相手は……「上空から自分達の存在や進路が監視されている」事に全く気付いていないのだから……。
「よし、こいつらの事は迎撃部隊に任せよう。明日からも上空偵察さえ切れさせなければ理想的な迎撃態勢を整えられるだろうさ」
一段落したところで、最低限の観察員を残して出力50パーセントで東方向に針路を変えつつ、更なる移動偵察を続ける事にして、乗員一同は交代で夜食を摂る事になった。ソンマも操船指揮をタム船長と交代した。
今回の飛行には前回とは違って厨房員も搭乗しているので、焼き立てのパンや熱々のスープ、肉と野菜のソテーなどが出て来たので、昨日昼間の飛行にも参加した者……隊員もそうであったし、ロダルやイバン、ソンマも驚いている。
「これは……こんなに立派な『料理』が給されるとは……凄いですね」
王都レイドスの士官学校で出されるような固いパンとは違って、焼き立ての柔らかなパンを千切りながらロダルが感想を述べた。
「お前の兄貴が製作した『電気式』の調理器具を使っているからな。ちゃんとした料理の専門家が作れば、美味く仕上がるのは当然だ」
「いやぁ……美味いですなぁ」
ラロカも喜んでいる。
「統領様にも召し上がって頂きたかったですね」
ソンマが笑っている。「食べる事が好きな」我らが統領は昼間に簡素な軽食だけを食して船を下りて行ったのだ。
「さて……お前ら、全く寝て無いだろう?仮眠を摂りたい奴は寝ておいた方がいいぞ。起きていたいという奴は……仕方ない。これでも飲んでおけ」
と、店主が右手をサッと振ると……机の上に藍玉堂の作業場で使う中型の鍋が出現して、周囲の者達は仰天した。鍋の中には「青い液体」が8分目辺りまで入っている。
ノンがいつも「ピンク色の色水」を鉄道作業員の為に製作している時に使用している30リットルは入る大鍋では無く……それよりも2回り程小さい鍋だが、コップに注ぎ分ける事で全ての乗員に行き渡るくらいはありそうだ。
「え……?これは?」
「いつもはノンが作っているんだがな。あいつが作ると変な色になるんだが……俺が作るとこういう色になる」
「ピンクの色水」を思い出して笑っている店主の横でソンマが
「あっ!あの時の……色水みたいな……アレですか?」
この飛行船の船体製作中に妻から飲まされた「驚異の色水」を思い出したソンマが声を上げると
「え……?色水?」
ロダル将軍が立ち上がって鍋を覗き込みながら右手をパタパタと仰いで匂いを嗅いでみたが、何も匂いはしないようだ。
「まぁ、とにかく……仮眠しないなら飲んでおけ。寝不足は判断力が鈍るからな」
店主が更に右手を振ると、藍玉堂で回復薬の店頭売りに使っているガラスのコップがズラリと並び、彼の手にはお玉が握られている。
店主は鍋の中の青い液体をコップにどんどん注ぎ始めた。「お前らも飲んでいいぞ」と一般の隊員にも声を掛ける。
「本当ならば飲んでから1時間くらい仮眠を摂れば尚良しなんだがな。まぁ、そうせずとも効果は十分出るだろう」
「これは……匂いもしない……水のようですな……」
コップを手にしたドロスが、その中の匂いを嗅いでから中身を一気に飲み干した。どうやら彼は仮眠も摂らずに、そのまま翌朝からの北サラドスでの任務に向かうつもりのようだ。
「ふむ……味も全くし……なっ!?」
いつもは冷静な監督が大きく目を見開いた。どうやら薬効はすぐに現れたようだ。
「こっ……これは……ど、どういう事なのでしょうか……」
この監督の様子を見たラロカもコップを一気に空けた。そしてやはり老体に溜まっていた疲労が一気に吹っ飛んで驚いている。
「凄い……こ、これは……薬なのですか?」
「まぁ、薬と言えば薬だな。元はノンが作っていたものをイメージしたものだが……」
「ノン様のですか……?」
昨日の朝からずっと働き詰めになってたイバンも、疲れが一気に霧散して呆然としている。
「あいつが何年か費やして研究した回復薬を基にして、得られた薬効を強化しつつ水だけを材料にして作り出したのがこれだ。普通の薬剤師では作れない……ちょっと変わった作り方をするんだが、気にするな」
店主の許しを貰って、この「色水」を飲んだ一般隊員達も一様に驚いている。あまりにも明快に……圧倒的な「効果」を即座に感じられるからだ。
「鉄道の線路を引いていた作業員や工兵達も飲んでたぞ。お前は知らなかったのか?」
店主がロダルに尋ねると
「いえ……何やら支給している酒の消費量が極端に減っているとは聞いておりましたが……」
「あぁ。そうだ。この薬は吸収力を急激に引き上げてしまう効果があるからな。酒を一緒に飲ますと危ないんだ。命を落とす可能性も出て来る程にな……」
「え……!?そっ、そうなのですか?」
「だから鉄道作業員達には酒と併飲する事を厳しく禁じたし、《青の子》の奴らは普段から酒は飲まないだろ?」
「確かにそうですな。我らは特に飲酒は禁じてませんが……工作任務上で必要に迫られて仕方なく飲む時以外は酒を嗜む者は非常に少ないと思います」
自らもそのような習慣を持つ監督が頷く。《青の子》の諜報員は、任務の都合で酒場などでの聞き込みを実施する時には「申し訳程度」に酒を口に付けるが、それ以外の場所では全く酒を口にしない者が大半……というか、訓練期間に「酒を無理やり飲まされた状態で一般訓練に参加する」という訓練が課されており、これによって「酒の怖さ」を覚えるので訓練終了後は多くの者が「飲酒忌避者」になる。
以前にも書いたが、昔の貧しかったキャンプ時代ならばいざ知らず、近年の《青の子》の訓練生の選抜は非常に「狭き門」となって厳しい為、訓練所入りした子供達はそれこそ……必死になって自己研鑽に励む。「国を護る」という意識の強い彼らは訓練が終了して正式隊員となってからも、その気持ちは強く……酒で身を持ち崩すような者は皆無である。
これはやはり愛国心の他に「国民から期待され、敬われている」という誇りもあるし、何より……彼らを率いている《青の子》の幹部達に腐敗の気配など一切無く、彼ら一般隊員以上に自らを厳しく律する生活を送っている事に尽きる。
「ほらほら。遠慮するな。1人1杯だがどんどん飲め」
店主は新たに交代でやって来て、その場で遠巻きに彼を見守っていた隊員達にも手招きしながら「色水」を勧めた。若い隊員達は藍玉堂店主様に恐縮しながら
「い、頂きます……」
「ありがとうございます……」
などと口々に頭を下げながら青い液体の入ったコップを受け取り、その場で飲み干す。
「えっ!?」
「なんでっ!?」
「こ、これは……」
と、普段冷静かつ無口な彼らが仰天している様子を見て、店主のみならずソンマも可笑しくなった。
「流石の彼らも『これ』にはビックリしているようですね……」
先日は自身も仰天していたソンマが、「あの日」を思い出しながら笑い続ける。
「あ、あの……この薬は、藍玉堂に注文を出せば……?」
毎度藍玉堂に、回復薬を発注してくれる「お得意様」のロダルが恐る恐るといった態で尋ねて来た。
「いやぁ……これは生憎ですがノンさんか、店主様でないと作り出せない代物でして……」
店長が苦笑する。
「え……店長さんでも作れないのですか?」
「ですねぇ……。あれは……ノンさんの『特殊な力』で作るものですしねぇ……」
「あ、なるほど……アレですか……」
「まぁ、今でも毎日2000人分くらい作ってるからな……。お前自身が大鍋を持参すればやってくれるんじゃねぇか?但し、瓶詰は自分でやれよ?くくく……」
「え……?鍋を持参すれば作って貰えるのですか?」
その昔……キャンプの自警団隊長に就任する前の僅かな期間、藍玉堂の店員として研修を受けた経験のあるロダルが……店長やノンから瓶詰作業を習った当時を思い出しながら聞いて来た。
「まぁ、俺が見た感じだと一度に錬成する量が大鍋6杯分から7杯分に増えたところであまり変わらなさそうだがな。大鍋1杯で120人分くらいは出来るのかな?」
「あぁ……、あの大きな鍋ですか……」
「但しロダル。忘れてならないのは、俺の存在は別として……あの『色水』はノンだけしか作れないって事だ。だから当たり前だがノンが居るうちしか存在しないものなんだ。なので……いつまでもあれに頼っていてはいかんぞ」
「ノンさんが居ないと……」
「そういう事だ。お前がいつも注文している《回復薬》は同じノンがレシピを作り出したものだが、あれは『医薬品』として製法も確立している。ノンが居なくても藍玉堂が存在する限り生産出来るし、現に軍に納めているものは機械化された藍玉堂の工場で生産されたものだ。だから注文を受ければ材料が確保されている限りノンが居なくなっても、お前達の注文には応えられる。しかしさっきの『色水』は違う。この事は弁えていてくれ」
「なるほど。これから仮に軍の規模が大きくなって行った時に、それと比例してノンさん自身に掛ける負担も大きくなってしまう……そう言う事ですね?」
「その通りだ。あいつは元々は『薬剤師』であって、店長……いや、今はもうサナだな。サナのような《錬金術》という特異な力を使って『魔法のような薬』を作り出すような奴じゃないのさ」
ルゥテウスから見たノンは……彼の教えと、彼の祖父、そして母が遺した「ノート」によって習得した製薬技術と知識に、かなり強い誇りと拘りを持っている。決して自ら喜んで《錬金魔導》を使った「手抜きしているような胡散臭い色水」を毎日大量に作り出しているわけでは無さそうだ。
ならば、せめてその「製薬」という部分だけでも……彼女の誇りと拘りは大切にしてやろう……。主としてルゥテウスはそう思っているのである。
『前方0時の方向……何か人工物のようです。距離は30キロ』
ここで前部艦橋からタム船長の船内放送が入った。
「おっ、何かまた見つかったようだな」
「そのようですな」
親方が椅子から立ち上がり、他の者もそれに倣うかのように立ち上がって艦橋に移動した。
****
「これは……さっきと比べて規模が随分大きくありませんか?」
ロダルの声に対して
「そうだな……。2500人くらいは居そうだ。単純に野営地としての規模なら3倍近くはあるのではないか?」
ドロスが応える。
「監督の見積もり通りだな。3000は居ないが2500は居る」
「更にご覧下さい。彼らは北東に向かっている様子です……」
愛用のコンパスの蓋を開けて方位を確認しながら監督が付け加える。
「そうだな……。船長。こいつらの行軍跡はどれくらい前から見付けていたのだ?」
「はい。現在地点は先程の野営地からやや北東寄りで95キロ程度の位置です。行軍跡はつい先程……20キロ程手前の地点で南方から伸びて来たと思われます。本船はこの痕跡を発見し、それを辿ってこの位置まで移動して参りました」
「なるほど。そういうことか。こいつらが辿って来た先に船長は何か拠点について心当たりはあるか?」
「そうですね……この位置ですと、多少西寄りにズレますが……つまり100キロ程ですかね。南南西の方角に『ペスダ』という町があったかと思います」
「ほぅ……。100キロか。そこそこ遠いな。そこは拠点と成り得るくらいには大きいのか?」
「確か……人口はそれほどではありません。先程のホーロに比べればかなり小さな町です。しかし私の記憶ですと、昔からサクロまで来ていた隊商……今はテトまでしか入って来れませんが、その隊商が本拠地にしている町だったかと思います。以前、その隊商を率いていた者から聞いた事がございました」
「ほぅ、そうなのか。ならばもう奴らにとってテトは『行動範囲』とも言える距離なのか?」
「えー……確か……。隊商の巡回ルートとしてはテトの更に南にある『スモウ』という村を更に南下し、『メーズ』を経由して西に進みテラキア領内に入って『モーダス』、『ルウル』、そして……王が居る『ケインズ』を通過して最終的にそのペスダまで戻るという順序みたいですね」
「詳しいな。そんなところまで把握出来ているんだな」
「はい……。実は私……3年前にその隊商の雑用に雇われて同行した事がございまして……」
「凄ぇな……。そんな事までしてんのか」
「恐れ入ります……」
店主様のお褒めの言葉に船長は恐縮している。
「彼らは今のルート……ペスダからテト……嘗てはサクロまで回っていたのですが……これを約4カ月で回っていたようです」
「そう言えば昔……シュンの話で、サクロの村に隊商が訪れるのは年に2回か3回って言ってたよな。そのルートに旧サクロまで加えられていたとすると……シュンの話と概ね一致するな」
「そうですね……」
ロダルが当時を思い出しながら目を細めた。
「そのペスダだっけか?その町には、この真下に居るくらいの規模の軍が駐屯していたのか?」
「いえ……ペスダの町自体はそんなに大きくないはずなのです……私があの町を訪れたのは先程もお話ししましたが約3年前です。当時のペスダは人口1万にも満たない町……どちらかと言えば、その南にある首都ケインズの衛星都市のような役割を果たしていたかと思います。なのでこのような……2000人を超えるような規模の軍勢は居なかったと思います」
「ならば、この連中はケインズ方面からペスダを経由して来ている……という風に考えた方がいいのかな?」
「あぁ……。そういう事であれば辻褄は合いそうです。ケインズ周辺には総勢2万程度の軍が駐留しているそうです。王直属の兵力かと思われます」
「なるほどな。ではこの連中はその『一部』である可能性もあるのか」
「店主様。そう言われてみれば、こやつらの装束……先程の兵とは少し違うようですな」
床窓から真下を双眼鏡を使って観察していたドロスが何か気が付いたようだ。
「ほぅ?どれどれ……」
店主も床窓を覗き込む。彼は搭乗してから双眼鏡を全く使っていない。恐らくは《遠視》の魔導で直接観ているのだろう。彼の使う《遠視》であれば上空1000メートルからでも地上に居る兵士の顔まで容易に識別出来る。
「確かに……鎧は同じ硬皮革製みたいだが……装飾が違うな。こっちの奴らの方が手の込んだ細工の入った鎧を着ているように思えるな」
「仰る通りです。やはりこの軍勢は国王の直属兵なのでしょうか」
「何かそんな感じがするな。そしてこいつらが……テトを襲っている奴らじゃないのか?」
「ああ確かに!先旬に撃退したテラキア軍の兵が……こんな感じの鎧を着てましたね」
ラロカから借りた双眼鏡を覗いていたロダルが声を上げた。
「そうか……これまでもテトへの攻撃は都から派遣された国王の直属兵が担っていた可能性が高いな」
「既にテトで撃退……いや、殲滅した敵兵の数は約8500人程ですが……それはつまり、奴らの国王直属の兵を8500人削っていると言う事ですか?」
「まぁ……そうだろうな。国王の力を削ぐのが狙いで直属の兵力を減らすように仕向けている……可能性も考えられるな」
「あ……なるほど」
「しかしそうなると、国内勢力同士の争い……という線が強くなるな。海外勢力であれば通常は都の兵力を狙わずに南方の軍勢を削りに行くはずだしな」
「そうなると……我らはどのような対処を……」
「まずはテトの兵力を増強しろ。これまで1000人程度の軍勢で突っ込んで来ていた奴らが、この分だと……倍以上で押し掛けてくる事になる。ここからの距離を考えると……まだ1旬くらいは時間がありそうだから、すぐに手配しろ」
「はっ。了解です」
「《青の子》はケインズから北方寄りの上空偵察。それと南方にも諜報員を送り込みつつ……国内事情を重点的に探らせる事だな」
「はっ。すぐに手配します」
店主がロダルとイバンに今後の方策を指示したところで、艦橋正面から朝日が差し込んで来た。《明視》が付与された窓でも差し込んでくる日の光は普通に感じられるようだ。
「どうやら朝を迎えたようですな」
「この高度に居るから地上よりも先に日の出が見えるんだ。地上はまだ暁闇だろうな」
「あぁ……なるほど。テトは逆に日が当たる時間がサクロよりも遅い印象がありますね」
標高5000メートル級の山も珍しくない中央山地の西側の麓に位置するテトは日照時間が元々短く……この季節は空が明るくなってから実際に日が差してくる時間は遅めだ。
「よし。どうやらテラキア側にも色々とありそうだからな……こちらから逆に攻め入るのは暫く待った方がいいな。もう少し奴らの内情をしっかりと調べてから対応策を考えようじゃないか」
店主の言葉を聞いた一同は姿勢を改めて「はっ!」と応じた。
「よし。俺は帰るが……他に帰る奴はいるのか?」
ソンマやラロカ、ドロスの他にロダルとイバンも
「あの……出来ましたら私もテトに送って頂けますでしょうか?」
「私も……一度サクロに戻って動員整理を行いたいと思いますので……」
と、帰還を希望した。店主は笑いながら
「おお。いいぞ。ではテトに寄ってからサクロに戻ろう。集まってくれ」
5人を集めると、「ではな」と言い残してその場から消えた。後に残された者達は……突然目の前から6人が消えたので呆然としている。
やがて船長が我に帰り、艦橋の者達に
「よし……それではテトに向かって前進。地上が明るくならないうちにテト方面の偵察を終えてしまおう」
「了解です!」
操縦員が応じて、《空の目号》はテトに向かってゆっくりと動き始めた。「あの色水」を飲んだ隊員達は疲れも見せずにそれぞれの持ち場である窓から地上の様子の観察を続けた。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
ソンマ・リジ
35歳。サクロの《藍玉堂本店》の店長で上級錬金術師。
「物質変換」や「形質変化」の錬金術を得意としており、最近はもっぱら軽量元素についての研究を重ねている。古代技術の復興を目指して飛行船を製作した。
ラロカ
62歳。エスター大陸から暗殺術を持ち帰った元凄腕の暗殺者で《親方》と呼ばれる。
新国家建国後、首都サクロの市長となり変わらずイモールを補佐する。
羊を飼うのが巧いという特技を持ち、時折主人公に妙案を進言して驚愕させる。
ドロス
54歳。難民キャンプで諜報組織《青の子》を統括する真面目な男。
難民関係者からは《監督》と呼ばれている。頭のキレは素晴らしい割に滅多に笑わず、肚も据わっているがシニョルに対する畏怖が今でも非常に強い。
現在はトーンズ国側の采配をイバンに任せ、自身は主に王都の動静を探っている。
ロダル
39歳。トーンズ国軍を率いる将軍を務める。
アイサの次男で嘗ての暗殺組織《赤の民》にて十数年に渡って訓練を受けて新米暗殺員となっていたが、主人公に見込まれて指導を受け、キャンプの自警団……長じてトーンズ国軍の指導者となる。
イバン
27歳。ラロカの甥でトーンズ国諜報部隊《青の子》所属。
ドロスの右腕としてエスター大陸側の諜報活動を指揮する。
シュンの妹であるアイを妻としている為、シュンの夫ロダルとは義兄弟の間柄でもある。
タム
37歳。《青の子》に所属する古参の諜報員。既婚。
旧《赤の民》の領都支部に暗殺術を持ち帰ったラロカを尊敬しており、嘗ては暗殺員を志望していたが視力の良さを見込まれ、諜報員として育てられた。冷静且つ温厚な人柄でラロカやイバンからの信頼も厚い。
エスター大陸帰還事業初期からエスター大陸側で諜報作戦に従事しており、現在はラロカの甥であるイバンを後見しつつ、新造された《空の目号》の船長を務める。