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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第四章 戦乱の大陸
103/129

勅使来たる

【作中の表記につきまして】


アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。


士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

「ふむ。チラは暫くの間、今の『風を吹かす』鍛錬を続けろ。最初は今のように左から右へ空気が動くだけでいい。そのうちこの……ビーカーの中だけで空気を動かせるようになるだろう。とにかく根気強くな。上手く風が吹かなくても我慢して続けるんだ」


「う……うん……」


 鍛錬初日にして「そよ風」を吹かす事に成功したチラは、店主の指示に多少疲れた表情で頷いた。


「疲れたら休め。無理をしなくてもいいからな。疲れて集中力を欠いたまま続けると却って危険だからな」


チラの向こう側でアトもサナから「炭の作り方」についての説明を真剣な表情で聞いている。姉の「成功」を見て彼も発奮したのだろう。


「えっと……つまりチラちゃんは風の魔法が得意という事なのでしょうか……?」


ノンの質問に対して店主は笑いながら


「まぁ、概ねそう考えて構わんだろう。鍛錬初日にこれだけの資質を示したんだ。風……というか『空属性』だな。空気を操る資質に優れていると思う。俺の知る限りでは空気を操るのが上手い奴は空を飛ぶのも巧い」


「えっ!?空を飛べるのですか?」


「まぁ、自分の体を宙に浮かすのはまた別の魔法体系になるんだが、『飛翔』魔法を使用した際の飛行制御に長けた奴は、大体がこの『空属性』の制御が得意な奴だな」


「但し、この空属性は攻撃系魔法としては単体使用でそれ程の効果は期待出来ない。攻撃に使用する際には、『空』と隣接した水属性か地属性の魔術との『合成』を利用するのが一般的だな。礫や砂を作り出して強風を起こして相手にぶつけるとか……大気中に細かい氷を作り出してから、やはり強風によって吹雪にしたり温度を更に下げたり……まぁ、他属性の攻撃を強化するようなやり方が多いかな」


 嘗て、サクロの近郊に巣食っていた山賊達の頭目が率いていた側近部隊を壊滅させた魔法ギルド所属の魔術師、当時のギルド内序列9位……現在は7位であるショウ・ノディラクスも、やはり空属性を得意とする魔術師であった。


彼は水属性魔術で氷結状態を作り出し、そこに空属性で暴風を合成投入して極低温の猛吹雪の状態を範囲を限定して作り出して山賊を血液まで凍らせて凍死させ、更に地属性魔法で鋭利な砂を作り出してから再度暴風で砂嵐を作り出してその死体を粉砕した。


彼のように鍛錬を重ねた魔術師になると自身で定義した範囲の中で自在に気圧の段差を作り出して乱気流を人為的に作り出す事も可能なのだ。


「別の属性と……合成……混ぜる事が出来るのですか?」


「うむ。通常はさっき並べたように……こうだな……4つの元素属性は『四(すく)み』の状態にある。空属性に限って言えば、地属性に弱く、水属性に強い。この2つの元素属性とは隣り合っているので、鍛錬さえ積めば風属性が得意なチラでもそれなりに扱えるようになると思う。しかし対角に位置する火属性については難しいだろう。つまり魔術師としてのチラは『空属性を得意とし、火属性を苦手とする』という事になるな」


「つまり……火は使えないと?」


「いや、一概にそうとも言えない。俺の記憶の中には4つの属性を全て使えた魔術師も居る。まぁ、そいつらは所謂(いわゆる)『天才魔術師』と呼ばれるような連中だったがな。しかし、そういう奴らでもやはりその中で『得意・苦手とする属性』というものが存在しているんだ。ただ、本来であれば対角に位置して苦手とされる属性も才能と努力で克服して使用していただけの話だ」


「なるほど……。では今の時点でまだチラちゃんが火……属性?が使えないというわけでは無いのですね?」


「まぁ、そうだな。何しろまだ鍛錬初日だ。漸く『空属性の親和性が高い』という事だけが知れた状態で、そこまで決めてしまうのは尚早だろう。そして今言った属性配置的な意味で『対角属性同士の合成』は隣接属性よりも大きな効果を発揮する事が多い」


「え……?つまり……もし火の属性?も使えるならば空の属性と合わせて使えば効果が高いのですか?」


「そうだ。想像してみろ。お前は最近そういう事をしていないだろうが、竈の中で燃え盛る火に風を送ると火は強くなるだろう?逆の場合もそうだ。火属性の魔法に空属性による気圧変化を合成させることで『爆轟』という現象を起こす事が出来る。まぁ、お前は見た事の無い現象だろうがな。破壊力は相当なものだ」


ニヤニヤしながら説明する店主に対して、ノンは少し怯えたような表情になる。


「それと……これは魔術を使う上で大事な事なのだが、魔術……まぁ、魔導も含めて魔法全般だな。魔法世界には『禁呪』、または『禁術』と呼ばれる魔法が存在する」


「きん……じゅ?」


「そうだ。魔法世界……まぁ、主に魔法ギルドの力が及ぶ範囲ではあるが……『使っちゃいけませんよ』という感じで規制されている魔法だ」


「使ってはいけないのですか……?なぜです……?」


「主な理由としては『威力が大き過ぎる』からだ。また『制御が困難』であるために起こす結果について予想が難しいもの……なので使うのは『まかりならん』と言うわけさ」


「なるほど。つまりは魔法ギルドでも危ないと思っているわけですね」


「そうだ。まぁ、直接的に『試みる』事自体が禁じられている魔法もあるんだが……そういう魔法はどれも『奥義級』や『伝説級』のものばかりなので実際は難易度の問題で試みる事自体が現実的では無い。魔法世界で禁忌(タブー)とされているものとしては『三元素以上の合成を禁じる』というのがある」


「三元素……?えっと……3つの属性を混ぜてはいけないという事で合ってます?」


「うむ。その通りだ。さっきも話したが、特に攻撃系魔法では単属性よりも2つの属性を合成する事で効果や威力が増す。ちょっと修行した魔術師であれば合成魔術はそれ程敷居の高いものでは無い。しかし3つ以上の属性を合成するとなれば話は別だ。3つの属性を合成する場合、必ずどこかで『対角属性』の合成が入る。対角属性の合成はそれだけで高等魔法であるはずだ。そこに更に別の合成が加わる。これは恐らく普通の魔術師……いや魔導師でも制御が非常に困難であるはずだ。そうなると想定した範囲内で投影させるのも難しいだろうな」


「どうなるか分からないと……?」


「そうだ。過去にも魔法ギルド内外で身の程知らずの魔術師や魔導師が三元素合成を試して大きな事故を起こしている。独りで領域に籠っているどっかの魔導師がどっかの大陸で独りで吹っ飛ぶのはどうでもいいが、王都のど真ん中にある灰色の塔(魔法ギルド本部)の中でそんな事故が起きたらどうだ?」


「あっ……そ、そうですね……危ないですね……」


「幸いにして禁術である三元素合成を行ったバカな魔術師とその周囲の奴ら(ギルド員)を巻き込んで吹っ飛んでも……灰色の塔自体は頑丈に出来ているからな。被害が外に広がって王都市民に犠牲者が出たという話は聞いた事が無い。以前はそういうバカの起こす事故が頻発したからギルドでは禁止されているんだ」


「合成魔法……とは言っても、属性同士は少なからず反発し合うんだ。その反発すらも上手く制御出来ないと二元素合成でも事故は起き得る。だからまずは自分が一番親和性の高い属性元素の制御を慣熟させる必要があるんだ」


「なるほど……チラちゃんも気を付けてもらわないといけませんね」


「そうだな。今はまだ初歩の初歩だが、そのうちこいつは地下二階で鍛錬を進める事になるだろうな」


ルゥテウスとノンは、目の前で空属性魔術を鍛錬しながら触媒をチョロチョロ消費させているチラを見守るのであった。


****


 1月22日。王立士官学校での観覧式から2日が経ったこの日、軍務省に王宮から勅使が遣わされた。勅使は直接、本省庁舎3階にある軍務卿執務室を訪れ、緊張の面持ちで片膝を着く巨体の軍務卿に対して国王陛下の詔を読み上げた。


「ヨハン・シエルグ侯爵は本日午後、王宮へ参内すべし」


「ははっ!謹んで承りましたっ!」


軍務卿の音声(おんじょう)溢れる返答を受けた勅使はビクリと体を震わせ、「では申し付けましたぞ」と上ずった声で念を押して王城に戻って行った。


 勅使を送り出した後、執務室に独り残されたシエルグ卿は執務机に戻って椅子に深々と腰を下ろし


(何だ……?この時期に陛下からの御召しだと……?)


この突然の参内命令を訝しんだ。勿論彼は、その昔……士官学校で教官職を勤めていただけあって、毎年1月20日……つまり一昨日に士官学校で年に一度の恒例となっている観覧式が実施され、国王陛下が士官学校を訪れた事実は認識している。


しかし……彼が知っている「観覧式」とは前国王時代のものであり、彼が現役学生時代や卒業して任官した後に奉職した教官時代も含め、観覧式に訪れたのは先代のサルファス王で……先代国王当人は士官学校で学ばれたので、観覧式では却って精力的に授業の参観を実施する事も無く、毎年午前の授業が終わる頃には王城へ還御されていたと記憶していた。


なので現国王が毎年欠かさず王妃を伴って観覧式に臨んでいた事は、元王都防衛軍所属のシエルグ卿は「国王の動静」として認識はしていたが……年度によっては授業終了となる四点鍾(15時)まで熱心に個々の授業参観を実施していた事までは知らなかった。ましてや……中庭の北西隅まで移動されて1年1組の剣技授業まで参観したなどと、露程にも考えていなかったので、今回の「御召し」の可能性として観覧式については全くの考慮外であった。


 通常……「午後に参内せよ」という詔を受けた場合、臣下は三点鍾(昼の鐘)が鳴る頃までには王城に入り、宮殿の中にある「控えの間」にて呼び出しが掛かるまで待機する事になる。なぜ昼の鐘の前までかと言うと……場合によっては陛下と「午餐(昼食)を供にせよ」と声が掛かる場合があるからである。


実際、諸卿の一員である軍務卿にはそのような声が掛かる可能性が少なからずあり、軍務卿自身も心の準備はしていたが、声は掛からず……結局「控えの間」で軽食を摂った彼が伺候の間に召されたのは14時を少し回った頃であった。


 「伺候の間」は「謁見の間」とは違って、極々内々に国王と……通常は重臣が面談を行う場所である。なので謁見の間のように玉座があるわけでも無く、装飾は豪勢ではあるが尋常な大きさの王が座る椅子と、大きなテーブルを挟んで召喚された者も椅子に座って会話を交わす事になる。護衛の近衛儀仗兵も最小人数に絞られ、国王の背後には、護衛責任者のシュテーデル大佐が立っていた。


巨体の軍務卿が伺候の間に入ると、既に国王は机の向こう側に座っており


「軍務卿、待たせたな。遠慮せずに座れ」


と、()()()に声を掛けてきた。


「はっ。では失礼致します」


伺候の間にある机や椅子はどれも豪壮な造りをしているが、巨体の軍務卿が腰を掛けると……その椅子ですら小さく見え、国王の背後に立つ近衛大佐は驚きを表に出さぬように素早く目を伏せた。


「卿を今日ここに呼んだのはな……先日の士官学校での観覧式の事でな」


国王陛下の口から「観覧式」という名詞が発せられて、軍務卿は「ん……?」という顔になった。


「観覧式でな。マーズ卿と言葉を交わしたぞ」


「マーズ卿……あっ……!こっ、公爵閣下の……」


マーズ卿の名が続けて国王の口から発せられて、今度は軍務卿の顔色が多少変わった。


「マーズ卿のな。素晴らしい武勇を目にした。流石は噂に違わぬ……何であったか……」


「『北部軍の鬼公子』でございます」


国王の背後から近衛大佐が言葉短く言上した。


「うむ。そうであった。北部軍の鬼公子だ。そしてあの生徒……へ……ヘンリッシュだったか?これまた士官学校の生徒で素晴らしい腕前の者がおってな」


国王陛下は殊の外上機嫌で士官学校の主任教官と首席生徒の名前を口にした。軍務卿はいよいよ落ち着かなくなり……


「さ、左様でございましたか……」


と、答えるのが精一杯であった。


「このシュテーデルも加わっての包囲戦……だったか?何でも、マーズ卿が申すには『本来の戦技授業』だったか?そのようなものらしいの」


「ほ、本来の……でございますか」


「うむ。その生徒……去年入学した一回生だそうだ。その者をマーズ卿や、このシュテーデルを含めた『剣の達人』数人で囲んだのだがな。際立った腕前であった。このシュテーデルですら翻弄されてな。そうであったな?」


国王は首だけ斜め後方を見上げるように曲げ、近衛大佐に確認した。


「はっ。陛下の仰られる通りにございます。小官如きはまるで歯が立たず……お恥ずかしい限りでございました」


「何と……!貴殿は王都でも名高い剣士ではないか……!」


 昨年末、自身でマルクス・ヘンリッシュの「業」は目にしたが、それは「槍術」であり、相手も手練れとは言え士官学校の戦技教官と長柄武術経験のある生徒であった。その時も大層驚きはしたが……今目の前の国王の後ろに控えているのは、シエルグ卿も知る「王都の剣豪」とも呼ばれるエリオ・シュテーデル男爵である。


王都防衛軍出身の軍務卿は、当然この近衛大佐の名声は認識しており……闘技大会の優勝者との模擬戦では、毎回のように圧倒的な実力を示していただけに……その口から「まるで歯が立たず」という言葉を聞いて少なからず衝撃を受けた。


 国王陛下は衝撃を受けて開いた口が塞がっていない軍務卿の様子には構わず


「それでな……マーズ卿や学校長のエイチ提督が余に申したのだ。『陛下が今御覧になられたのが本来の白兵戦技である』とな」


「はっ。僭越ながら小官も、自身で参加してみてマーズ卿の申され様に対して納得せざるを得ませんでした。今後は近衛師団の訓練において、かの『戦技授業』を採り入れる所存でございます」


近衛大佐はきっぱりと言い切った。余程あの「授業」で「包囲される恐ろしさと包囲する難しさ」を思い知ったのだろう。


「王城警護の責任者であるシュテーデルもこのように申しておるぞ?軍務卿もな、一度あの『本来の戦技授業』とやらをその目で確かめるべきだと思うぞ。国内の諸軍であの訓練法を採り入れるべきだ。まぁ、軍人でもない余が其の方にこんな事を言っても笑い草であろうがな。はっはっは」


笑い出す国王に対して軍務卿は心底肝が冷え切っている。国王陛下があの授業を御覧になられた……。そしてマーズ卿から「本来の戦技授業」について説明を受けた……。これは拙い……「あの数字」は……あの資料は既に陛下の手許に渡っているのではないか……?


 軍務卿の巨体が震え出した様子を見て、ロムロス王は


「どうした……?体調が優れぬのか?……そう言えばな。マーズ卿が申しておったぞ。士官学校本校では、あの戦技教育が何時の間にやら廃れてしまっているとな……。どういう事なのだ?チュークスの分校の方では今でも伝統が残されていると聞いたがな」


「そっ、そっ、そ、それは……。臣も把握致しかねる事で、ご、ございまして……」


「ふむ。そうか。どうやら相当前の時代に廃れたと聞いた。何れにしろ、余にとっては初めて目にするものであった。其の方もな。見た方がいいぞ」


国王陛下の御言葉はあくまでも気軽な感じである。どうやら「戦技教育の変質による弊害」についてはまだその御耳に達せられていない……シエルグ卿はそのように見て、落ち着きを取り戻した。


「はっ!可及的速やかにその御言葉に従いまして……件の戦技教育が廃れた原因を精査致しますっ!」


 軍務卿はやおら立ち上がり、その巨体を折り曲げて深々と国王に一礼した。その顔には汗が浮かんでいる。礼装の下は冷や汗でビッショリと濡れていた。


「忙しいところを大儀であった」


国王も立ち上がり、伺候の間の反対側の扉から退出して行く。近衛大佐がその後に続いた。軍務卿は頭を深々と下げたままそれをやり過ごし、扉が締まる音を聞くと大きく息を吐き出して頭を上げた。


(いっ、いかん……。もう時は残されておらん……)


手巾(ハンカチ)で顔の汗を拭いながら、軍務卿は大股の足取りで王宮を後にするのだった。


****


 「勤務終了後で構わない」と、軍務卿執務室へ来るようにと伝令からの言伝を聞き……ジェック・アラム法務部次長は、その日の業務日誌を書き終えて時刻が17時になってから自らの執務室を出て庁舎3階に向かった。


(ふむ……今日も()()()見張りについているのか……)


先日来、この軍務省庁舎3階の南側にある軍務卿執務室周辺には、何やら不穏な気配が漂っている。


と……言っても、アラム法務官が「その気配」を察する事が出来るのは、予め()()を主導している情報部長のマグダル・ヘダレスから


「現在……情報部の捜査員によって軍務卿執務室周辺を『それとなく』監視している……事になっている」


という通知を受けているからだ。勿論これは「監視を受けている」当人である軍務卿や、その執務室に勤務する3人の秘書官も了解済みであり、この「監視」自体が「教育族」に対する欺瞞行動となっていると言える。

先日、密かに接触した情報部長の話によれば……現在の情報部はヘダレス情報部長以下、拘束中の課長を除く捜査係長までもが「軍務卿派」に鞍替えしており、末端の捜査員から上がってくる報告に関しては全て情報部長が「何かしらの味付け」をしてから情報局長へ渡していると言う。


つまり、「事情を知らぬ者」が見るとこうして監視を受けている……ように感じる軍務卿執務室周辺ではあるが、その実態は「監視だけはしているが、実効性は全く無い」という事になっているのである。


 軽いノックの後に「失礼致します」と、アラム法務官が前室に入ると……事情は既に弁えているのか、ウエイン秘書官が軍務卿の執務室に伺いを立て、やがていつものように「どうぞお入りください」と、法務官を招じ入れた。


「ジェック・アラム。出頭致しました」


法務官は軽く会釈をしながら入室し、執務机を立ってこちらに向かって来る巨体の法務官に対して挙手礼を行った。

その法務官から見て、どうも軍務卿の顔色が冴えない。最近起こったこの一連の「騒動」で色々と心労が増しているのであろうが、それにしても今日の()()は一段と悪いように見える。


「どうかされましたか……?お顔の色が優れない御様子ですが……」


法務官が思い切ったように尋ねると、軍務卿は疲れ切った様子で応えた。


「本日な……王宮から御召しがあったのだ……」


「えっ……!?おっ、王宮からでございますか?何かその……定例のご面談などでは無く……?」


「ふむ。わざわざ勅使がいらしてな。まぁ……『呼び出された』という恰好だ」


「何と……!そっ、その……『例の件』に絡んでの事でしょうか……?」


法務官の顔色まで悪くなって来ている。「軍務卿派と教育族」の省内における暗闘は、年が明けてから情報部が局長の指揮から離脱して「軍務卿側に付く」という形になってから、情報戦において軍務卿派の優勢に傾いたと思われた。

情報局長から教育族側へ流れている情報は情報部長がコントロールしているし、教育部長側に流れている情報も、ヴェライス・デルド情報次長によって「耳障りの良い」内容だけが送られており、教育族側は相手の行動や状況経過が全く把握出来ていない恰好になっているはずである。


勿論、鋭敏な頭脳と優れた政治力、人脈の手札を持ち合わせているポール・エルダイス軍務次官も独自の情報網を持ち合わせてはいるが……各局に派遣されている秘書官経由の情報収集には自ずと限界があり、手も足も出ない状況である事には変わりない。


そもそも、教育族側は「軍務卿によって自分達が軍部から排除されかかっている」という認識はあっても、それに対して「日限」が設定されているという事実を知らないままでいる。

彼等はこの暗闘が「年単位」で続くもので、既に一度定年を迎えているシエルグ卿を次官よりも先に「勇退」に追い込めば勝利出来る……という認識なのだ。


 ヘダレス情報部長からの経過報告によって「状況を有利に進めつつある」と確信していたアラム法務官にとって、「軍務卿が国王陛下から『呼び出し』を受けた」という事実は……それらの状況を一気に覆される可能性……つまりは「教育族の排除」では無く、「自分達も含めた軍務省全体に対する粛清」という「最悪の結末」に直結する事態へのカウントダウンが聞こえて来るような気持ちにさせた。


「そうだな……ある意味では今回の件と大きく関係している内容であった」


「そっ、それで……?もしや……『あの資料』が陛下の御目に触れられたとか……?」


法務官は小さく震えている。「あの資料」……マルクス・ヘンリッシュが彼に突き付けてきた「新任士官が赴任初年度に戦死する統計」という細かな数字が記載された紙片は、その後にヘダレス情報部長によって庁舎地下2階の資料庫にある「戦死者統計」や「傷病者統計」、「傷病恩給支給審査報告書」などの公式資料に基いて検証した結果、極めて精密な数字である事が確認されている。


この確認作業は、内容が内容だけに……情報分析係の職員に任せる事が出来ず、情報部長自らが実施したらしい。法務官に調査結果を語った際の情報部長の顔色も相当に青褪めていた。


「いや……まだ『あの数字』については陛下も御存知で無いようだ。そう言った意味では、()()士官学生は貴官との約定を守っていると言える」


「そっ、そうでございますか……」


 法務官は大きく息を吐いた。「あの士官学生」は定められた約定について、理由も無く破棄するような事は無いと頭では理解していても……内容が内容だけに安心しきれるものでは無いのだ。


「しかしな……貴官も学生時代に体験しただろう……?一昨日の1月20日に……毎年恒例となる今上陛下夫妻による観覧式が実施されたのだ」


「観覧式……あっ!たっ、確か……陛下が士官学校の授業を視察……参観される行事でございましたな。なるほど……もうそのような季節でしたか……」


「その観覧式だ。観覧式に臨まれた陛下は、どうやら『あの士官学生』が所属するクラスの戦技授業を御覧になったらしい」


「陛下が……ヘンリッシュ殿の武術を……あの……」


「マーズ殿が直接陛下に例のあの……『本来の戦技授業』の内容と共に、実際の訓練内容を模範演技として御覧頂くように具申したそうだ」


「でっ、では……陛下には『本来の白兵戦技』として、御認識されたと?」


「うむ。そのようだな。我々が昨年末に観た時とは違い……剣術の内容で、あの士官学生に対してマーズ殿を始めとした包囲側には警護隊長であるシュテーデル男爵まで加わったそうだ。他にも陛下の随員の中からも手練れの儀仗士官も加わったのだが、やはりヘンリッシュだったか……?あの士官学生の『業』は際立っていたらしい」


「そ、そうですか……あのヘンリッシュ殿の武術は……小官のような武芸の造詣が浅い者が見てもその……常軌を逸しているように思えますからな……」


「陛下はヘンリッシュの腕前と……包囲側で最後まで残ったマーズ殿の武勇を賞賛しておった。あの……王都でも剣名の誉れ高いシュテーデル男爵までもが二人を激賞しておったわ」


軍務卿は顔色を悪くしながらも、苦笑いを浮かべた。


()()授業を御覧になられた陛下より御下問があった。『なぜこの訓練方法が今の士官学校本校では廃れておるのか?』とな。私は杳とした答えを申し上げる事が出来なかったわ……」


「さ、左様でございましたか……」


「とにかくだ……私は陛下に『白兵戦技授業が変質した原因』の調査を約束してしまった。最早……時は残されておらんぞ……」


「あの『数字』を陛下に御覧頂くのはやはり……」


「当然だ!あのような悍ましい数字……大勢の前途ある若者の命が無駄に散らされた事実を知られては……とにかくだ!あの教育族の慮外者共を一掃した上で改めて陛下にお詫び申し上げる他あるまい」


「承知致しました……。今月25日には、件の……情報課長の独断行動に対する軍法会議が開廷されます。本件には小官も『検察官』として出廷致しますので、その席において検察・弁護側双方で召喚した()()から、少しでも多くの証言を引き出し、それを以って閣下の権限にて断じて頂くという事で……」


「そうか。分かった。確か……士官学校の教頭と、学校長の意見具申を突っ撥ねた教育部長が呼ばれているのだったな?」


「はい。仰る通りでございます。その2名……特に教育部長から可能な限りの言質を引き出すよう力を尽くします」


「ふむ。頼んだぞ。残された時間を考えると、かなり『ギリギリ』ではあるがな……」


国王陛下に「本来の白兵戦技」を知られた事で、両陣営……特に軍務卿派の動きが慌しくなり始めた。


****


 1月24日、サクロの街ではついに蒸気機関車による鉄道が開業する運びとなった。レールも既に上下線、及び各駅の待避線、留置線等も敷設が完了し……路線の両端の駅には転車台が設置された。


但し、牽引機関車の増産は間に合わず……当面は最初に製作した試作機関車が1編成で使用される事になり、元からあった有蓋貨物車2輌に1輌加えて貨物車輛3輌に新造された旅客車輛4輌を連結して7輌連結による編成で「一番列車」を走らせる事になった。


 サクロ時間の朝7時……始発となるサクロ中央駅には大勢のサクロ市民が押し掛け、記念となる一番列車の切符を求めて切符売場は長蛇の列になっていた。


駅の下り線ホームで簡単なセレモニーが行われ、一番列車に「満を持して」乗り込もうと鼻息荒くやって来た大統領と首相が祝辞を述べて客車に乗り込んだ。


「煙が結構入って来るので、窓は開けない方が宜しいかと思います。まぁ、寒いですしね」


キッタが笑いながらトーンズ国首脳一行に説明する。機関車からの騒音から離す為に、機関車の後ろに貨物車を挟み、後方4輌を客車とする編成にしたのだが……やはり速度が出る為にどうしても煙が「後ろに流れる」という事だけは克服出来なかった。


「店主様から『排気管(マフラー)』という部品を提案されたので、2号機で試験的に取り付けてみる予定です」


「まだ改良の余地があるのね」


工場長と大統領が話す横で、軍関係者として駐留していた南方のテトの街から再び駆け付けたロダルと……何と4日前に出産を終えたばかりの妻であるシュンが並んで座っている。店主によって、結局は「ごく軽い」分娩となった彼女は、先日の宣言通りに産後僅か4日という身体でこの一番列車に乗り込んで来た。彼女の産んだ女の子はトーン大統領により「ユナ」と名付けられ、今日は祖母であるアイサが預かっている。


「それでは私は……運転席に乗り込みますので……」


 そう言い残してキッタは客車から降りて行き、先頭の機関車の運転席に乗り込んだ。本日の一番列車を運転するのは、彼がここ2旬に渡ってみっちりと運転技術を教え込んだソン村出身の若者で既に試走で鉱山駅との往復を何度も行っているが、念の為に工場長も運転席に乗り込む事にしたのだ。


「間も無く定刻でーす!列車から離れて下さーい!」


駅係員がメガホンを持って大声でホームに居る者達に呼び掛けている。一番列車の発車時刻は8時が定刻である。ホーム上には大勢の人間……次の列車を待つ客や一番列車の乗客を見送りに来た者が居たが、数人の駅員によって列車から引き剥がされる。


ボォォォォッ ボォォォォォッ


なかなか離れない者達へ威嚇するかのように汽笛が鳴らされ、それを聞いてビックリした者達が漸く列車から離れると、出発を合図する鐘が「カーン!カーン!」と鳴らされて……機関車の上下から大量の蒸気による煙を吐き出しながら一番列車は動き始めた。


「う、動き出したようですね……」


「そのようですな……。馬車の数倍の速度が出ると聞いてますが……」


 大統領と首相が窓の外を眺めながら話している間も、列車はグングンと加速し始め……外の景色もそれに従って前から後ろにどんどん流れて行く。加速は止まらず……5分もすると時速100キロを超え、「流れていた」景色も「飛ぶような」という形容に変わっていき、大統領も首相も口数が少なくなってきた。


「は……速いですね……」


シニョルは若い頃から女主人(エルダ)に従って何度も馬車に乗っているのだが……公爵家が所有する最高級の《重量低減》付与の掛かった高級馬車など比較にならない速度で疾走する様子に言葉を失っている。


乗り込む前は大はしゃぎしていた他の乗客達も窓の外の景色が前から後ろにすっ飛んで行く様子を黙って見ている。時速100キロという速度での移動は……この時代の「普通の」人々を沈黙させるようだ。


 異様に静まった客車の中に、前方から聞こえてくる機関車が吐き出す蒸気の音とレールの継ぎ目を高速で通過するカタンカタンという音だけが響き渡り……やがて10分もしないうちに


ボォォォォォォッ ボォォォォォォッ


と、汽笛が鳴らされて……どうやら最初の駅である「エラル」に到着するようだ。サクロ中央駅からエラル駅までの距離は約20キロ。線路の北側に引かれた未舗装の農道を使うと徒歩で5~6時間程度かかる。恐らく馬車を使っても2時間くらいはかかるであろうこの駅間を蒸気機関による自走鉄道車輛だと僅か15分足らずで到着してしまうのだ。


隣でキッタが見守る中、運転士は徐々に制動を掛けていき……列車は無事にエラル駅のホームに入線した。時速100キロ、いや最高で120キロは出ていたであろう客車に乗って恐々としていた人々は、無事に最初の駅に到着し、ホームに居た人々の歓声を聞いて漸く緊張が解け、口々に走行中の感想を話し始めた。


「たっ……大した速度でしたな……」


セデス首相が顔に浮いていた汗を手巾で拭いながら感想を述べると


「そうですね……このような乗り物が本当に走るようになったのですね……」


統領様も感慨深げにホームの人々の姿を眺めながら


「本当に……本当に……」


と、繰り返し呟いていた。


 エラルでは何やら貨物が下ろされただけで、乗客の乗り降りは無くそのまま次の「アイナ」の駅に向かって動き始めた。エラル~アイナ間の距離は15キロ。所要時間は約10分である。


速度による緊張の解けた乗客達は、漸く心にゆとりが出来たのか……田園風景や、この区間で北端を掠めるオアシスの「人造湖」の風景についての感想を語り合っている。


ちなみに……人造湖からは、サクロ建設と並行して農地の開発が行われ、北に向かって何本か用水路が引かれていた。鉄道線路はこの開削された農業水路の上に橋で渡されており、この区間の架橋工事は上下線共に線路敷設においても最後に行われている。


鉄橋の上を列車が通過する際には一際大きな走行音が聞こえて来て乗客から驚きの声が上がったが、列車はそのまま疾走を続けて無事にアイナ駅に入線した。


 アイナ駅では駅舎建築現場の残材整理を確認し終わった工事総責任者のロムが客車に乗り込んで来て、シニョルとイモールが座る席まで挨拶にやって来た。

彼はイモールの質問に答えて、先程の区間で聞こえた「大きな走行音」の正体が鉄橋を通過した時の音である事を説明した後に


「既に二期工事の計画も順調に進められておりまして、来月からまずはサクロ中央駅からランド通りをくぐらせて交差させる為の掘割工事が始まります」


と、延伸計画を報告した。


「大通りの下を鉄道が通るのですか?」


統領様が驚きながら尋ね返すと


「はい。店主様から掘削についての知恵をお借りしておりまして、軍からも引き続き工兵隊のご協力を頂けるそうで……」


「そうですか。なるほど」


「西側の工業地域まで延伸が叶えば、鉱山と工場の大量搬送が実現致します。我が国の工業規模が爆発的に増加する……店主様はそのように仰っておりました」


「なるほどな。ではまずは西に延ばすわけだな?」


首相の問いに


「はい。まずは西側の工業地域に接続した後は鉱山側の先……東側へ山地の麓に沿う形で延ばす計画ですが……」


「ん……?ですが……?」


「はい。一応、店主様と市長様のお考えでは延伸計画における目的地である『ネダ』の町は、トーンズ国の影響下に入っておりませんので……」


「ネダ……?おぉ!確か《赤の民》との繋ぎを付けていた町だな?」


「はい。そのように聞いております。《赤の民》の方々が……その……聞かされていた『別の仕事』を請け負う際の窓口を担っているそうですが……」


「うむ。私もそのように聞いていたがな。しかし赤の民の皆様はもう……『あの仕事』をやっていないのではないかな」


「ええ。市長様はそのように話されてました。今は我が国との交易だけで十分に暮らしが満たされていらっしゃるようですから」


このようなやり取りをしている間に列車は最後の区間であるアイナ駅~鉱山駅の約15キロを走り切って終着駅に無事入線を果たした。


 この一番列車に乗客として客車に乗り込んでいた者達は、元々この鉱山に何か用事があったわけでは無い。この世界……この時代の文明に初めて姿を現した「蒸気機関車を使った自走鉄道」という新しい技術に対して純粋に興味を持った故に高倍率の取り合いとなった、この一番列車の切符を手に入れて「とりあえず乗ってみた」という人々であった。


なので彼等は一度客車から降りるが、再び機回しを終えて上り線に牽き直される同じ客車に乗り込んでサクロの街まで戻るだけである。


そもそも実際に「サクロの町~鉱山」という区間に旅客による需要はそれ程無い……とルゥテウスとイモール、ラロカは見ている。元々は徒歩で2日かかる距離で隔てられている為、鉱山で働く者達は最早「鉱山町」と化しているこの地域に居住しているし、一応はそれまでも未舗装ながらサクロと結ばれた道を使って生活物資の移動も行われていた。


 今度の鉄道開通によって、一番期待されているのは「人の移動」よりも「物の移動」が劇的に発展する事であった。鉱山にて採掘され、更に精製された鉄鋼材をこれまで荷馬車を使って少しずつ……やはり2日掛けてサクロまで運び、更には西側にある工業地域に運んでいたものが、今日からは僅か30分程度で……しかもそれまでとは比べ物にならない程に大量に輸送出来るのだ。


今回の一番列車や、その後暫くは乗車を希望する者達が多いだろうと……客車を4輌も連結しているが、この「開業祭り」が落ち着いた後の「通常運用」では客車は1輌、他は貨車を10輌程度で編成するという計画になっている。


しかし、現状ではこの先の運用がどういう形になるのかは分からないだろう……。何しろ、これまで「徒歩で2日」掛かっていたサクロ~鉱山間50キロを、この列車は僅か30分余りで結んでしまうのだ。運賃も一律で銅貨50枚に設定されており……これらの内容を加味するとサクロから鉱山まで「通勤」も可能になるのだ。


これまで、鉱山に勤める者は鉱山周辺に住居を構え、それに伴って鉱山周辺に「鉱山町」が形成されて住民である鉱山労働者を相手に商売を行う者が店舗を構えたりしていたのだが、今後はそのような事情が一新される可能も考えられる。何しろ……物流事情が劇的に改善されるのだ。


鉱山側からは製鉄品が大量に搬出可能となり、これまでの物流事情によって生産能力に制限が課せられていたものが解放されることが予想出来る。そしてその鉄鋼材料を大量搬出した貨車がサクロから戻って来る際に、今度はこれまでとは比べ物にならない量となる生活物資を鉱山町にもたらす事になる。当然だが、鉱山町側の生活事情も一気に改善される為に鉱山での勤務を希望する国民も増えるだろう。


このように鉄道という交通機関は、国内に「流通革命」を起こして国力は勿論、国民生活すらも一変させてしまう可能性を秘めている。元より潜在的に技術力が高まっていた難民国家トーンズは、今回の鉄道開通によって漸く、本当の意味で「超大国」への歩みがスタートしたと言える。


 鉱山にて増結された折り返しの大量物資を満載した貨車と共に、吹っ飛んでいく外の風景を眺めながらトーン大統領は10年前に「青の子」と出会った夜の事を思い出していた。


「あの夜……私は店主様にお屋敷から連れ出されて……。憶えてますか?下町の……少し薄暗い酒場でしたわね」


向かい合う座席に座っているセデス首相に尋ねかける。


「はい……。忘れもしません……。私はあの夜、あの方に命を奪われる覚悟でおりました。我らの犯していた過ち……忘れもしませんよ……。あの時は統領様にもご迷惑をお掛けしまして……」


首相……イモールは苦笑いをしながら頭を下げた。


「何を言うのです。あなた方が悪いのではありません。あれは……私が愚かな考えで始めた事でしょうに……。店主様はそんな私をお赦し下さいました……。そしてあの夜……『ここに還る事』を私達に説かれたのですわ……」


「そうですな……。あれから10年です。10年でここまで来れました……」


ほんの数瞬前まで口元に笑みを浮かべていた首相の目から涙が零れた。向かいに座って語り出した統領様の頬も既に涙で濡れていたからだろうか。


「思えばあの方は……青の子様は……私ですら知らなかった、私達……『難民同胞の悲劇』をご存知でいらっしゃいました。私達は3000年もの間……苦難の日々を送っていたという事を……私は、目の前の皆さんを何とかお助けしようと精一杯でしたが……青の子様は……そうした私達の『歴史』をご存知だったのです……」


「統領様……私達は、あの御方があの時仰られていた……これまで苦難の道半ばで斃れて行った同胞達の『敵討ち』を……果たせたのでしょうか……。故郷に残して来た……父や母……そして……ナタル……私があの日救えなかった……逃げ出すのが精一杯で……ぐぅぅ……」


40年前の祖国脱出の際に自らが助かる事に夢中で見殺しにしてしまった両親や婚約者の事を思い出し……イモールは俯いて肩を震わせた。


 シニョルは何も答えずにいたが、暫くの間涙に暮れていたその相手が頭を上げて


「それでも……最近はもう……彼女の……あの時の事が夢に出て来なくなっていたのですよ……」


手巾で涙と鼻水を拭いながら、何とか笑顔を作ろうとするのへ


「そうですか……私もです。私も最近……弟達の夢を見なくなりました。私の……『敵討ち』は果たせたのかも……しれませんわね……」


統領様は穏やかな口調で答えた。


「それでも……この国に住まう人達の中には……まだまだ()()が済んでいらっしゃらない方達が大勢居るでしょう。これからです……私達が終わらせるのです。この……『呪われた大陸』で今も苦しむ人達の『敵討ち』を……」


「そ……そうですね……。お互いまだまだ……やる事が山積みですな……」


見習いを卒業した新人車掌がサクロへの到着を告げる声を聞きながら、大統領と首相は誓いを新たにするのであった。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。

難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。


ノン

25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務め、主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。

主人公から薬学を学び極め、現在では自分の弟子にその技術を教える。

肉眼で魔素を目視する事が出来、魔導による錬成を可能とする「錬金魔導」という才能を開花させる。


シニョル・トーン

61歳。エルダの独身時代からの腹心で現在は公爵夫人専属の女執事。

難民同胞を救うためにキャンプの創設を企図し、トーンズ建国に際して初代大統領となる。

難民を救う為に発揮された恐るべき鬼謀はドロスすら恐れさせるが、甘い物に目が無い。


イモール・セデス

59歳。シニョルの提案で難民キャンプを創設した男。

トーンズ建国に際してシニョルから首相に任命され、新国家の発展に心を砕く。

難民になる前は教師をしていた。最近涙もろい。


****


ロムロス・レイドス

47歳。第132代レインズ国王。(在位3025~)

名君の誉高い現国王。近代王室では珍しくの王立官僚学校を卒業しているせいか、軍部に対して疎遠であると言われている。


ヨハン・シエルグ

65歳。第377代軍務卿(軍務卿就任に伴って侯爵叙任)。元陸軍大将。元王都防衛軍司令官。

軍務省の頂点に居る人物であるが、軍務省を動かしている軍官僚達を嫌悪している。

タレン一派の提唱する「白兵戦技授業改革」を耳にし、主人公の持つ技量を目にした事で「歪められてきた白兵戦技」の責任を教育族に取らす決意を固める。

若い頃に士官学校の白兵戦技(歩兵槍技)教官の経験があり、その頃から生徒に恐れられていた。


ジェック・アラム

51歳。軍務省(法務局)法務部次長。陸軍大佐。法務官。

軍務省に所属する勅任法務官の一人で、ネル姉弟の軍法会議の際には検察官を担当する予定であった。事件の和解後には粛清人事を実施する「執行委員会」の中心となる。

主人公から、ネル家騒動の和解約定違反を問われる。


エリオ・シュテーデル

43歳。近衛師団国王親衛隊長。近衛大佐。男爵。

国王の身辺警護を務める親衛隊の隊長で随行責任者。国王の信頼篤く、剣術の腕前に関して全国区で名声を得ている。

新任官時当時の上官がジヨーム・ヴァルフェリウス公爵であった過去を持つ。

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