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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第四章 戦乱の大陸
100/129

鬼公子の本領

【作中の表記につきまして】


アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。


士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

 国王陛下の開始合図を聞き、マルクスを囲んでいた4人の剣士が一斉に撃ち掛かる。


正面に立つシュテーデル近衛大佐は木剣を持った右腕を狙って突きを送る。これがもし「一対一」での立ち合いならば全く違う攻め方をするのだろうが……彼の役割は、標的の若者を自分の正面を向かせたままにするというものなので、敢えて若者の得物を狙って切っ先を送り……他の「攻撃役」の3人に対する反撃手段を封じ込める一手を選択した。


マルクスを挟むように左右の側面を占めていたシーラー、バーンズの両近衛中尉は同時に上段からの振り下ろし、そして背後のヨーグ教官は右肩から左腰へ至る斬り下げを行った。達人級の4人による同時攻撃である。特にヨーグ教官はこれまでの経験があったので、「脅し」では無く……腰を入れて本気で撃ち掛かっている。


普通に考えれば囲まれている首席生徒は得物である木剣を取り落とした上に両側面から側頭部と右肩を背後から斬り下げられ、木剣使用と言えど大怪我を負うところなのだが……。


その4人の木剣は全て空を切り、包囲の中心から目標である首席生徒の姿が消えていた。しかし次の瞬間……ヨーグ教官とバーンズ中尉の立ち位置の隙間から、主任教官の持つ大木剣が凄まじい勢いで突き出された。大剣はバーンズ中尉の下半身の前を横切るように突き下ろされ、彼が踏み込んでいた左足の更に左側の床を抉り込むように打つ。ヨーグ教官とシーラー中尉からは、タレンが何故そのような突きを放ったか……朧げに理解出来た。


 マルクスは4人同時の撃ち込みが来た瞬間に、信じられない速度でバーンズ中尉とシュテーデル大佐の間……自分から見て左前方に跳んで囲みを脱し……瞬時に左回りで体の向きを変え、振り向くそのままの勢いで自分の左手に立っていたバーンズ中尉の左足が着地する瞬間を狙い、右足で払いに行ったのだ。


しかし足払いを繰り出した瞬間……そのバーンズ中尉の左足先を掠めて凄まじい下段突きが襲って来たので咄嗟に右足を引っ込め、軸足であった左足一本でシュテーデル大佐の背後へと小さく跳んだ。タレンの火の出るような突きによって、バーンズ中尉は訓練開始直後に転倒させられる危機を脱していたのだ。


 シュテーデル大佐は突きを放った瞬間に、目標が自身の右手側に動いた気配を察し、突いた切っ先をそのまま右側に撥ね上げたのと……タレンの突きが入るのが同時。しかし自身の視界から目標が消えたのでタレンの突き出されて床を打った大剣の切っ先に思わず視線が移ってしまったが……


「大佐っ!後ろですっ!」


というタレンの言葉に反応し、跳ね上げた剣が右側に流されているにも関わらず咄嗟に左前側へ跳んだ。前方に跳ばなかったのは、自身の正面にはマルクスに躱されたままその場に残っていた他の3人の剣があったからだ。

結局彼は自分の左前に位置していたシーラー中尉の背後に向かって跳んだ事になる。そこから本能的に流された剣を引き付けて左回りで体を反転させたが……それまで自分が居た位置の背後で、目標である首席生徒が振り出していた右足を引っ込める光景が目に映った。どうやらタレンにバーンズ中尉への足払いを阻止された首席生徒は、そのまま左足一本で大佐の背後に跳び、引いた右足で再び今度は大佐の右足を払いに行ったと思われる。


 大佐が咄嗟に左前方に逃げたので足払いは不発に終わり、その足を再び引っ込めた光景を振り向いた大佐が目撃した事になる。


「もう一度囲んでっ!彼の足の動きをよく見て下さいっ!」


タレンからの声が飛ぶ……と同時に声を放ったタレン自身が再び大剣の切っ先を今度はマルクスの喉元めがけて突き出した。マルクスはそれを紙一重とも言えるタイミングで右回りに体を捻って躱し、その勢いのままにバーンズ中尉の左足を再び払いに行く。しかしここでタレンの突きに一歩遅れる形で、同じ方向からヨーグ教官が前方に跳びつつ再び上段斬りを繰り出して来た。


この時点でまだ2人の近衛中尉は初撃の振り下ろしから反応出来ておらず、ヨーグ教官は振り下ろされた彼等の木剣を飛び越えるような形で突っ込んで来た。マルクスはこれを右前方に移動する事で回避し、今度はバーンズ中尉の背後に回り込んだ。


 漸く近衛中尉2人が次の行動に移る頃には、マルクスは全ての攻撃を回避した上に自分から2度の足払いと2回の跳躍で囲みの外に出ていた。結果的に大人達は首席生徒を囲み切れずに彼の正面に5人が固まって対峙するような位置取りにされてしまった。


「足を……彼の足の動きをよく見て下さい。特に大佐殿は足の動きを追って頂ければ……」


タレンはその後の言葉を口にする事無く、左回しに大剣を中段薙ぎした。今の位置取りだと味方の4人は彼の右側に固まっているので左側にしか空間が無いのだ。横薙ぎした勢いで自身の体が右前方に引っ張られるところを、そのまま強引に大剣を掬い上げ、上段からの縦方向の振り下ろしへ旋回させて姿勢を立て直す。まさに攻防一体の動きで道場武術のセオリーを打ち破るようなタレンの身のこなしは観覧席に居る者達の驚きを誘う。


「主任教官殿……凄い……」

「何だぁ!?あの動きは!」

「大剣の動きじゃないよね?」


生徒側の武術経験者達から溜息が漏れる。12年の剣術経験を持つアマリエル・ロイドですら見た事の無い立ち回りだ。


タレンの繰り出した上段からの強烈な撃ち下ろしを、これまで体捌きだけで躱していたマルクスは初めて木剣を使って左側に受け流し、そのまま他の4人が固まる反対側……右方向へ滑るように身を翻してタレンの左側へ回り込んだ。しかしタレンもマルクスの足運びを見ているせいか、即座にそれに反応して真後ろに跳び退がった。


 シュテーデル大佐は他の3人に視界が塞がれて思う通りに動けない。ヨーグ教官はともかくとして、2人の近衛中尉がマルクスの動きに全くついて行けていないのだ。こうなると「多対一」の優勢を全く利用出来ず……むしろ自分の行動が阻害されて能力の半分も出せない状況にされてしまう。それは「囲まれる側」の戦術的成果である事は言うまでもないが……まんまとその術中に嵌ってしまった大佐は小さく舌打ちしながら、3人の人垣の左側に移動して様子を窺おうとした瞬間……


「うおっ!」


タレンが跳んだ位置の陰から、マルクスが剣を構える事無く突っ込んで来た。突然の肉薄に大佐は思わず声を上げながら胸元に剣を構えようと切っ先を引き付けた所にマルクスは右手に握っていた剣を無造作に下から振り上げて大佐の剣を下から掬い上げる……と言うよりも撃ち上げた。


両手で握っていた自身の剣が下から強烈にかち上げられたが、大佐は辛うじて剣を撥ね飛ばされる事無く咄嗟に後方へ退く。その際明らかに胴ががら空きとなったので一瞬……敗北を覚悟して腹に力を入れたが追撃は無かった。タレンが振り向きざまに両者の間へ大剣を振り下ろしたからだ。


窮地は脱しはしたが……これだけの人数で取り囲んでいたはずなのに、始まってみればその包囲をあっさりと破られて、士官学生1人に大の大人が5人でキリキリ舞いしている……いや、やはりあの歴戦の公子だけは……互角とは言えないが、あの凄まじい動きに対応している……。


この訓練が始まる直前までは、あの御曹司の言葉を信じる事無く「王都でも名高い達人」として


(何を大袈裟な事を言っているのだ……まぁ、陛下の仰せだ。軽く付き合ってやるか)


程度に考え、見下し気味に包囲に参加したのだが……いざ始まってみると、あの若者の動きに全く対応出来ないばかりか……御曹司の足を引っ張っている始末。自らの不甲斐無さにシュテーデル近衛大佐の自尊心(プライド)は早くも打ち崩されそうだ。


 マルクスは打ち下ろしてきたタレンの大剣に、一瞬自分の得物が押さえられたが……すぐにそれを右側に剣を滑らせて力を流した。同時にタレンの右足を自らの左足で払いに行ったが、タレンも素早く後方に跳び退いたので、敢えてそれを追う事無く大佐を目で追う姿勢を見せた。


(タレンが思った以上にやるな。自分は完全に牽制と他の者達の補助に徹しているようだ。ならばまずはこの近衛士官から排除するか)


そう判断して、後方に退いたシュテーデル大佐を追おうとした瞬間……これまで遅れ気味の動きを見せていたシーラー中尉が「オオオォッ!」と気合の声を発しながら、右回りに体を捻って剣を中段で薙いで来た。


マルクスは体捻りで不安定になったシーラー中尉の横薙ぎの剣を受けずに長身を屈めてくぐり抜け、そのまま彼にしゃがんだ姿勢のままで足払いを放った。コマのように右回りに回転しながら繰り出したマルクスの左足が、体を捻って不安定になったシーラー中尉の軸足へ鞭のように襲い掛かり、それを勢いよく払ってシーラー中尉を盛大に転倒させた。


「うがあっ!」


床に尻を打ち付けて声を上げるシーラー中尉に構わず、マルクスは更にコマの軸にしていた右足一本でシュテーデル大佐に低い姿勢で襲い掛かる。シーラー中尉に目が行ってしまった大佐は対応に遅れた。構えを取ろうとする大佐の剣に再度強烈な打ち上げを見舞い、剣を離すまいと必死に堪える大佐が再びがら空きにした右腋下に右拳を繰り出す。ギョっとした大佐が防御の為に慌てて右肘を下げたところに、今度は一転して右足を払って大佐をも転倒させ、そのまま大佐の背後まで滑るように駆け抜けた。


力一杯大剣を床に振り下ろした反動でタレンが動けなくなった数秒の間に、シーラー中尉とシュテーデル大佐が立て続けに転倒させられ、南北の観覧席に居た者達は揃って仰天した。剣技台の上で6人が目まぐるしく動き回るうちに突然2人が転倒したのだ。


「王都に並び無き達人」が転倒する様は国王陛下に強い衝撃を与えた。自らの下命によって何度か彼の立ち合いを闘技大会後の模擬戦で上覧した事はあったが、あの達人が成す術も無く他の者同様に押し込まれて背を地面に付ける姿を見るのは初めての事であったのだ。


シュテーデル大佐の剣術人生において、体を投げ出して相手からの攻撃を回避したという経験は勿論存在する。その際にも確かに床を転がるような破目にはなったが、それによって相手の攻撃を躱して反撃の切っ掛けになったりもした。しかし今回の場合は明らかに相手からの能動的な仕掛けによって足を掬われて転がされるという屈辱を受けたのだ。


転がされた大佐は一瞬、体姿勢を失調したが……すぐに我に返って起き上がった。幸いにして剣は手放していなかったので、すぐさま辺りを見回して自分を転がした若者の位置を目で追う。既に大佐は肩で息をしており、常の立ち合いよりも自分が相当に消耗している事を自覚していた。


「一人で距離を詰めようとするなっ!多少距離を取ってもいいから包囲を続けるんだっ!」


再びタレンの鋭い声が飛ぶ。転倒しているシーラー中尉を庇うかのようにマルクスに対して牽制の突きを繰り出すタレンを見て、ヨーグ教官とバーンズ中尉は二手に分かれて若者の背後に回り、最初の位置から西側に3メートル程の場所で3人が再び首席生徒を包囲する形に戻った。

攻撃役の3人と牽制役が4人で一斉に撃ち掛かったにも関わらず囲みを突破され、撃ち込みを難なく躱された挙句、実力者であると目されていた近衛中尉1人と、達人として名高い近衛大佐が一方的に転倒させられた。


(こ、この若者の動きは……俺が知っている『剣術』ではない……!)


 転がされたままのシーラー中尉が呆然としていると


「シーラーっ!さっさと立てっ!お前はまだ敗北したわけじゃないんだぞっ!」


首だけで振り向いて部下に激を飛ばすシュテーデル大佐にタレンが後ろから近付いて耳打ちした。


「大佐……お気付きですか?あの若者は我らに対しては主に足払いによる転倒や武器を狙ってくるだけです。口惜しいですが、彼は我らを相手に手加減しているつもりなのでしょう」


「なっ……!」


薄々そのように感じてはいたが……タレンにハッキリと言われてシュテーデル大佐は言葉を失った。


「先程も申し上げましたが、彼の目的はあくまでも自らの護身です。彼にしてみれば『5人もの手練れを引き付けている』程度に考えているのではないですかね。実際の戦場で彼のような指揮官が敵兵を引き受けてくれれば周囲の味方はかなり楽を出来そうです」


大佐とは対照的にタレンは笑っている。既に自尊心(プライド)を半分折られている近衛大佐は


「お……おのれ……!若僧が……いい気になりよって……」


二人が言葉を交わしている間も、慌てて起き上がったシーラー中尉も加わって当初決めていた3人の攻撃役が再びマルクスを攻め立てている。しかし若者は先程と違い、足捌き(フットワーク)を使った回避では無く、手にしている木剣を使って3人からの撃ち込みを全てはじき返している。恐るべき防御技術だ。足を使ってチョロチョロと動き回られるよりも、このような足を止めての全方位防御は、傍で見ている者達に強烈なインパクトを与える。


何しろ剣技の冴えを買われて抜擢を受けている士官学校の剣技教官と国王警護の儀仗隊士官3人の一斉攻撃を受けて、それを涼しい顔で捌いているのである。まるで背中にも目が付いているとしか言い様が無いくらいに自身の背後からの攻撃も全て木剣で弾き返しているのだ。


ヨーグ教官は、最早このような状況には慣れてしまっているが、2人の近衛中尉は険しい表情で撃ち込みを続けている。相手からの反撃が無いのをいいことに半分ムキになっているように見える。


「おのれっ!」


マルクスの正面と左手から攻撃を加えていたヨーグ教官とシーラー中尉の間から、憤怒の気合を発したシュテーデル大佐が木剣を振りかぶって撃ち込んで来た。味方2人の隙間からの攻撃なのでどうしても横薙ぎという選択は採れず、上段からの斬り下ろしか突きしか行えない状況で、彼は振りかぶりからの斬り下げを選んだ。


この渾身とも言える一撃すら……目の前の若者は何でもないかのように受け流した。その直後に今度は大佐とは反対側……シーラー中尉と右後ろのバーンズ中尉との隙間を縫ってタレンの大剣が凄まじい勢いで突き入れられて来た。


 マルクスはこの強烈な突きを木剣を両手持ちにして跳ね上げると、その反動で身を沈めて右回りで左足による足払いを繰り出した。


元より彼を木剣の間合いで取り囲んでいた3人は突然視界から相手が消え、直後に自身の右足首に衝撃を感じて、バランスを失った。足払いを放ったマルクスは、軸足となった右足一本で先程よりも大きく跳躍し、転倒したバーンズ中尉を高々と飛び越えて、後方宙返りをしつつ難なく後方に着地した。


息を乱す事も無く……相変わらず涼し気な顔をしたままのマルクスに対し、近衛大佐が一喝した。


「小僧っ!我らを相手に()()()()事は許さんっ!本気で撃ち込んで来いっ!」


国王陛下の御前である事を忘れたかのような近衛大佐の激昂ぶりに、再び転がされて慌てて立ち上がった3人やタレンまでもが驚いた。


「別に手を抜いているわけではありませんが……」


怒鳴られた相手は、相変わらず木剣を右手に引っ提げたまま構えも取らずに苦笑しつつ応える。その態度が余計に剣の達人の癇に障った様子を見たタレンが慌てて


「ヘンリッシュ、構わん。大佐殿もこのように仰られている。君もその、手にしている剣で反撃しろ」


「そうですか……承知しました。それでは失礼しますよ」


(まぁ、そろそろ授業終了の時間も近付いて来たしな。あの近衛大佐は余程名が売れている奴なのか?所詮はチャンバラの腕だけが達者な奴っぽいが……)


 マルクスは全く構えを取らないまま、突如右前方に飛び込んでシーラー中尉の左側へ擦れ違い様に木剣で胴を薙いだ。シーラー中尉は、その一閃に全く反応出来ず……まともに胴斬りを食らって2メートル程吹っ飛んだ。彼の後ろに居たタレンが慌てて右側に避ける。


シーラー中尉はそのまま倒れて立ち上がれない。今の擦れ違い様の一撃で鳩尾(みぞおち)を打たれたようで、腹を押さえて悶絶している。


タレンも含め、残された4人は唖然としている。勿論観覧席でこの様子を見ている国王一行と1年1組の生徒も同様だ。皆一様に「何が起きたのか……?」というような顔をしている。


「さて……。お言葉に甘えさせて頂きますよ」


そう言葉を残して、首席生徒は左に跳んだ。その先に居るのはバーンズ中尉である。今度は着地と同時に左足で彼の左脛を蹴った。先程までのように足を払うのではなく、「蹴たぐった」のである。


「ぐわっ!」


左脛に激痛を覚えて崩れるように屈み込もうとするバーンズ中尉の剣を握る右手から力が抜けた。すかさずマルクスは、()()を下から跳ね上げた。強烈な撃ち上げを受けた中尉の木剣は、彼の手を離れて飛び、そのまま東側の通路に落下した。


 儀仗隊の2人を瞬時に打ちのめし、戦闘不能に追い込んだ首席生徒の動きに辛うじて目が追い付いた3人は、それでも突然の状況変化に反応出来ない。この切っ掛けを作ったタレンも予想以上の事態に


(うーむ……ちょっと煽り過ぎたか……。まさかあの儀仗隊の2人が何も出来ないとは……)


本来であれば、国王に直言してまでこのような機会を設けたのはマルクス・ヘンリッシュの個人的な腕前を見せるのもそうだが、自分としては「この形式の戦技授業」を陛下に見せたかったのだ。これではマルクスの強さが際立ち過ぎて、却って「本来の戦技授業」の印象が薄れやしないかと心配になった。


タレンがそのように思っている間に、首席生徒は向きを変えてシュテーデル大佐に突っ込んで行ったので


「ヨーグ君!彼を止めろ!」


と、呆然としているもう一人の味方に声を掛け、自分もマルクスの背後へと跳び掛かった。


 これまでとは打って変わり、マルクスが正面から突進して来たので大佐も驚いたが、すぐに木剣を握り直して右腋側に持ち手を引き付けて剣身を左側に寝かせ、防御の構えを採った。彼が剣を学んだオベリンガー道場が属していた「リンゲン流」の特徴として、剣の握り(グリップ)を詰めて握り、柄頭(ポンメル)側を長く残して持ち、余した柄の部分も防御に利用する。


勿論……柄を「受け」に使うのは非常に高等な技術であり、これを実戦で使う事自体が随分と勇気の要る行為なのだが……達人エリオ・シュテーデルはこれまで何度もこの僅か数センチの柄部分で相手の剣を受け、切っ先を返す力に転換して強烈なカウンターを相手に食らわせて来た。


このリンゲン流の奥義とも言える防御の構えでマルクスの突進を迎え撃ったが、首席生徒の動きは近衛大佐の予想を大きく上回り……大佐の構える位置の1メートル手前でその視界から消える。大佐は一瞬面喰って構える剣に思わず顔を伏せた。


「大佐殿っ!後ろですっ!」


タレンからの鋭い声が掛かり、それを聞いたシュテーデル大佐は本能的に前に向かって跳んだ。前方には突進するマルクスを追って来たタレンが居たので、彼の向かって左側に跳び抜けるというような形になった。


 大佐の背後に左回りで一瞬にして回り込んだマルクスは、前に跳んだ大佐を追って一緒に前に跳ぼうとした瞬間……右側から殺気を感じて踏み留まり、素早く後方に上半身を退いたところに右側からヨーグ教官の鋭い突き込みが来た。彼の位置から、大佐の背後に回ったマルクスの姿がしっかりと見えており、背後から大佐を撃とうとするのを阻止する為に渾身の上段突きを繰り出したのだ。


しかし……これは少々反則になるのだが……マルクスの持つ「賢者の武」という人智を超えた「武の素養」は、相手の動きを目からの情報で捉えているわけではなく、その「気配」……のような、「動く物体」が動かす空気の波動のようなものを感じ取るもので、その察知能力は例え自分の背後に居る者の挙動ですら精密に感じ取る事が出来る。そして同じく賢者の武によって極限まで高められた身体能力は、「達人」と呼ばれるシュテーデル大佐の動きすら「高速度のコマ送り(スローモーション)」のように捉える事が出来る。


つまりマルクス……ルゥテウスは、その気になれば達人だろうが名人だろうが相手の動きを自分を中心とした全方位で「視覚に依らず」その動きを精密に、そして「ゆっくりに見える」が如く把握する事が出来るのだ。


この能力は彼を基点として距離が近ければ近い程、効果が高まり……多少の距離があっても十分に発揮する。そしてその範囲は観覧席にまで及んでいる。国王陛下一行や同級生達の動向すら……彼はその「武の素養」によって把握しているのである。


 ヨーグ教官渾身の突き込みすら彼は軽々と躱し、その勢いのままに目の前に飛び込んで来た戦技教官の両足を払った。彼は突き込みに全精力と言っていい程の力を掛けていた為に、この足払いに全く対応出来ず……受け身すら碌にとれないままの勢いで前方に大きく転倒した。


マルクスは、自分の目の前を右から左に横切るように、バランスを崩しながらダイブして行く担任教官越しに飛んで来たタレンの繰り出す大剣を跳ね上げて、一旦下がってから左に跳び、着地と同時に床を滑り込んでいる担任教官の手から木剣を蹴り飛ばした。


「ううっ……ここまでか……」


着地先の床で無念そうに呻く担任教官を飛び越え、右側のタレンに牽制で剣を一振りしつつマルクスは更に前方のシュテーデル大佐に肉薄した。

剣技台の上で、マルクスの包囲網に参加した者で残っているのはタレンと、近衛大佐だけとなっている。大佐は咄嗟に振り向いて先程と同様に顔の前で柄を余して剣を横たえる姿勢で防御の構えを取り、突進して来る首席生徒を迎え撃とうとしている。その表情には「達人」と呼ばれた男の自信は鳴りを潜め……これまでの剣術人生で突如現れた「超人」の一撃から、何とか逃れようとする必死さがありありと映る。


自分が何とかこの一撃を躱し……その隙を突いて「北部軍の鬼公子」が「彼」の背後を強襲してくれれば……。その思いで顔前に剣を構えた大佐の目に……いや、この戦技場の中で剣技台に注目していた者達の目に……マルクス・ヘンリッシュの信じられない動きが飛び込んで来た。


 マルクスは先程と同じような大佐の「受けの姿勢」を見て、その意図を即座に理解し……寝かされた剣身の方に強烈な撃ち込みを入れた。長身とは言え、細身で貧弱な見た目の若者とは思えない程の凄まじい斬り下ろしを大佐の剣は打ち返す事が出来ず、むしろ剣を叩き落されないように柄を握る両手に力を込める事に精一杯となった。


その後の首席生徒の動作を……大佐はその目に留める事は叶わなかった。自身の防御の型に構えた剣に驚愕するような力で若者の剣が撃ち下ろされた直後、それとは別に自分の右肩と首筋の間辺りに鈍器で殴られたような衝撃を受けたのだ。


頸動脈に強い圧迫を受けたのか……それとも受けた衝撃で脳を揺らされたのか、大佐はその場で意識を失った。時間にして十数秒間だろうか。彼は前のめりに床に崩れ落ち、そのまま動かなくなった。


「大佐殿っ!」


タレンがその時目にしたのは……近衛大佐の構えた、水平に寝かされた剣身に右手一本で上段からの撃ち下ろしを放ったマルクスが、その剣先が大佐の剣に触れると同時に、まるでその打ち付けた剣の反動を利用したかのように跳び上がって、水平に体を捻りながら大佐の右首筋に浴びせ蹴りを見舞ったのだ。とんでもない体捌き……体術である。


大佐の死角になっているであろう角度から、その首筋に対してマルクスの左膝が突き刺さり……大佐はその場に倒れた。前のめりに倒れる「嫌な倒れ方」をしたので、タレンは思わず声を上げてしまったのだ。


「大丈夫です。手加減はしてありますのですぐに起き上がるでしょう」


 首席生徒は恐ろしいまでに余裕綽々の態度で、全く息も乱していない。タレンはそんな彼を見て……北部の戦場を生き延びた「一人の武人」として戦慄を覚えた。


シュテーデル近衛大佐と2人の儀仗隊士官……バーンズ、シーラー両中尉の本来の伎倆がどれ程のものなのか……実はタレンは知らない。何しろ彼は昨年の初夏を迎える頃まで北部方面軍の一員として北の大地で騎兵中隊の采配を振るっていたのだ。新任官の頃より途中、士官学校教官として王都で過ごした3年間を除き、延べ13年もの間……王都を離れた北の僻地で生命を張っていたのだ。そのような彼が王都の華やかな剣術界について、その事情を知る由も無いし、興味も無かった。


それでもこの、「年に一度の恒例行事」である観覧式に、国王陛下の随員に選ばれるのは……決して疎かな実力では務まらないと思われ、そういった事情からタレンは国王随行の警備要員である彼等を「手練れ」と見たのだ。


そして彼らの剣技における実力は確かであったが……しかしそれでもその「腕前」は、あの首席生徒も失笑する「道場剣術」のそれであり、剣捌きはそれなりに見事ではあったが、集団戦には全くの不慣れで……自身の正面視界の外からの動きに殆ど対応出来ないという「道場武術の弱点」を露呈させる結果となった。


(やはり……やはり「剣術」では、あのヘンリッシュの動きにはついて行けなかったか……)


国王随行の「達人たち」に軽い失望を感じながらも、彼は「残された最後の一人」として、目の前に居る「怪物」と相対さなければならない絶望感のようなものを感じ……逆に苦笑していた。


「結局こうなってしまったか……。やはり私だけ残されて終わるわけにはいかんよな」


この包囲訓練が始まってから……まだ2、3分しか経っていないはずだ。その短時間でマルクスを囲んでいた5人の中で残っているのは、もう自分だけである。


相手は一回生の生徒であるが、その戦闘力は最早常人とは隔絶したものであると認めざるを得ず、今更自分一人が足掻いても他の4人の労に報いる事も覚束ないだろうが……。


 タレンはこの短時間の立ち回りで、すっかり自分の息が上がっている事に気付き心中で毒づいた。どうやら足にも()()()()。自分は騎兵出身なのだ。本来であれば戦場での機動は乗馬に任せ、上半身だけで武器を扱う……それが今は自分の足を使ってこの剣技台の上で動き回らなければならない。


武器にしても同様で、彼が10年来……その生命を預けてきた「相棒」である長鞭ではない。あの相棒は、現在……自宅の部屋……自室の暖炉の上の壁に飾られている。最早その役割を終えた傷だらけの相棒の姿を見るたびに……戦場で散った同僚や部下の事を思い出して感慨に耽る……王都に戻って来た頃のタレン・マーズは、平和な毎日に心が馴染まず……それでいて愛する妻と2人の子供に囲まれて……心の中に葛藤を抱えながら暮らしていた。


 その時……肩で息をしながら疲労を感じ始めていたタレンは、何か不思議な感覚……強敵(マルクス)を目の前にして、何やら心の底から湧き上がる「昂り」を感じ、戸惑いを覚えた。


北の戦場で……三叉境界を舞台に自分達の国と実家の領域を荒らし回る匪賊を追い立て……巧みに自らの馬と後続の部下を導いて、彼等の側面に、背後に回って突入し……手当たり次第に馬上から無法者を殴り付け、突き飛ばし……ああ……自らの愛馬……騎兵としては大柄である自分を乗せても戦場を縦横に駆け回ってくれた……今は屋敷の厩舎に閉じ込められている「ルデル号」が……そして自らの手に握られたあの長鞭……鉄芯入りの樫の棒の先端部分にいくつもの鉄環を嵌め込んだだけの相棒……。


戦場で過ごした日々が……その思い出が……疲れ切っていたタレン・マーズを奮い立たせた。


「ヘンリッシュっ!ここにはもう私一人だけとなってしまったが……おめおめとやれるわけにはいかんっ!」


普段の温厚な様子から一変して、大喝一声したタレンは長鞭の代わりとなる大木剣を特殊な持ち方のまま頭上で振り回してから、胸元で構えた。その身からは凄まじいまでの闘志が噴き出しているように見え、床で転がったままの者や観覧席でこの様子を見ている者を瞠目させた。


「じゅ、ジューダス公の……再来……」


国王の左側で、これまで終始無言でこの「本来の戦技授業」なるものを傍観していたデヴォン教育部長がそう呟き、それを耳にした国王も


「むぅ……あれが……北部軍の鬼公子か……」


と、口にするのが精一杯だ。エイチ校長も固唾を飲んで見守っている。


「いくぞぉっ!」


左手を大木剣の把手に、右手を剣身の鍔元辺りで握る特殊な持ち方をしつつタレンは気合の声と共に、マルクスの胸辺りの高さを右から左へ水平に大きく薙ぎ払い、直後にその遠心力を利用して左手側で剣先の軌道を縦方向に斬り回して大きな振り被りから凄まじい上段斬りを浴びせて来た。強烈な大剣の十字斬りをマルクスは剣で受けずに後方に跳び退く事で躱し、その反動を利用して振り下ろし際の隙を狙ってタレンの右側から斬り付ける。


 タレンは素早く把手を引き、手首を回転させてその一撃を弾き返し、今度は彼の方がその反動を利用して大剣の切っ先を左回りで水平に斬り付ける。今度は躱すことをせずにそれを剣で受けたマルクスだったが、遠心力と反動を利用した強烈な大剣の水平斬りは、受けた剣ごと若者の体を左側に吹っ飛ばした。


「おぉ!凄ぇ!」

「主任教官殿……凄い……」

「ヘンリッシュ君を吹っ飛ばしたぞ!」


観覧席に居る1組生徒達から驚きの声が上がる。彼らは入学以来初めて、戦技授業では圧倒的な力を見せていた首席生徒が攻撃を受け切れずに身体を飛ばされる場面を目撃したのだ。


この授業の終わりに実施された「5人の大人による包囲」が始まった当初は、5人を相手にまったく引けを取らず……むしろ押しているようにさえ見えたのだが、タレンだけが残される状況になってからは……いや、タレンは包囲訓練が始まった当初から唯一、あの首席生徒の動きに対応し、再三に渡って他の包囲参加者の危機を助けていた。


しかし彼の善戦及ばず、他の参加者が次々と排除されて行き……彼だけが残された状態で、またしても何か一段、力を解放したかのような主任教官の動きに、他の生徒達だけでなく剣技台の床に転がされた者達も愕然としてそれを見ていた。


 シュテーデル大佐も、ヘンリッシュから首筋付近に受けた浴びせ蹴りによって短時間ながら失っていた意識を取り戻し、床に倒れていた彼の目に映ったタレンの立ち回りは……達人などと呼ばれていた自分にすら目が追い付かないような大剣の動き、そして公爵家の御曹司とは思えぬ……闘志を全面に漲らせた驍将の姿であった。


「流石は主任教官殿。やりますなぁ」


吹っ飛ばされはしたが、特にバランスを崩す事無く着地したマルクスは、それでも表情を変える事無く感嘆の言葉を口にする。


「地に足を着けた戦いは苦手なんだがな……流石にもう、足に()()()()よ」


苦笑しながらタレンが応じる。


「それでは私の無駄な足掻き……最後まで付き合って貰おうかっ!」


再びタレンが前に出て、今度は前方のマルクスに向かって跳びながら何と空中で体を一捻りして右斜め上から強烈な斬り下ろしを浴びせ、マルクスがそれを両手で頭上に掲げた剣で受けると、すかさずその反動を利用して着地と同時に下段周りで今とは逆に左下から右上げに振り上げるようにマルクスの左脇腹を狙って来た。


マルクスはそれも剣で受ける。再びその反動を利用してタレンは右回りで体を捻って水平に一回転し……今度は右脇腹目掛けて大剣を振り抜いて来た。それすらもマルクスは剣で受け止める。


 このような感じでそれから暫くの間、まさしく暴風とも呼べるタレンの大剣の重さと長さを生かした縦横無尽の斬り付けを、これも信じられないような剣身の取り回しで受けまくるマルクスの驚異の防御技術が展開され、この場に居る者が……即位前の頃から幾度もの闘技大会の上位決戦を見続けて来た国王ですら見た事も無いような「激闘」が剣技台の南西側で繰り広げられた。


見た目は圧倒的にタレンが押しており、マルクスは防戦一方に見える。それでも険しい表情のタレンに対し、マルクスの表情には殆ど変化は見られない。


 この打ち合いの攻防はそれから3、4分程続いた。国王の目には闘技大会の決勝戦で見られるような、達人同士の何か洗練された……ともすれば舞踏のようにも見える道場剣術による(せめ)ぎ合いでは無く……お互いの生命を懸けた、そう……見栄えなど全く考えない、それでいて特にタレンから発せられる凄まじい闘気が観覧席(ここ)まで伝わって来るような、「生命の奪い合い」を見ているような錯覚を覚えた。


最早……観覧席、そして剣技台やその外側の通路に退いた者も、目の前で繰り広げられている攻防に対して言葉を発せられる者は居ない。シュテーデル大佐ですら、意識を取り戻した場所から動く事無くこの攻防に魅入ったように見つめている。彼の目を以ってしても何か心を揺さぶられるようなタレンの気迫と、それに呼応するかのようにひたすら彼の大剣を受け切っている若者の姿が、「剣を操る技術」……つまり剣術の域を超えた「生き残る為」の本能に訴えかけるその猛攻を目の当たりにした者達は……


「あのヘンリッシュを防戦一方に追い込んでいるマーズ主任教官の凄まじい撃ち掛かり」


を驚くよりも


「これ程のマーズ主任教官の撃ち込みを、よくも凌ぎ切れるな……」


というマルクスの剣捌きに感心が集まっている。今や鬼公子の戦場時代を彷彿とさせる一方的な攻勢を華奢な首席生徒が、それでも破綻を見せる事無く受け返している……闘技大会でも見る事の出来ない程の立ち合いが繰り広げられている。結果的に……一対一の攻防となったが、道場剣術とは一線を画すような「生命の削り合い」は続いている。


 やがて……静まり返って木剣の打ち合う音だけが響き渡る戦技場に、授業終了5分前の予鈴となる職員が各校舎を回りながら振り鳴らす手鐘の音がチリンチリンと聞こえて来る頃になって


「むうぅ……これまでか……」


小さく呟いたタレンが、最後の力を振り絞るかのように……下段から真上に向かう打ち上げから、体を右回りで回転させながら、振り向き様に渾身の上段突きを繰り出して来た。観覧席でこれを見守る国王陛下にも「ブンッ、ゴウッ」っと聞こえて来そうな程の剛撃が首席生徒の顔面を襲ったが……若者はやはりそれを読んでいたかのように自身の体を左回転させ、体を開いて突きを躱し……いつのまにか左手に持ち替えていた木剣で大剣をカチ上げ、同時に右足でタレンが握っている大剣の柄と剣身部分の間にある鍔元を蹴り上げた。


渾身の突きを放ち、伸び切った両腕には最早大剣を保持し得る握力は残っておらず……タレンの両手から離れた大木剣はクルクルと回転しながら舞い上がり、2人の立つ場所から数メートル離れた場所に、乾いた音を立てて落下して転がった。


―――カタン、カランカラン……


タレンの大剣が床に落ちた瞬間……剣技台を含めた戦技場全体の時が止まったように思えた。


「勝負……あったな……」


得物を失ったタレンが、肩で大きく息を継ぎながらも……別段に悔しさを表す事も無く振り向いて、まだ剣技台の床に横たわったままのシュテーデル大佐の下へ歩き始めた。


倒れている近衛大佐を助け起こし


「大佐殿、お疲れ様でした。申し訳ございません。力を尽くしましたが……やはりあの生徒を打ち負かす事は叶いませんでした」


苦笑しながら労うと、相手は


「いえいえ……私は本日……いかに自分が『井の中の蛙』だったのか……を実感しました……。世の中は広い……。あなたの様な勇者然り、あの若者……生徒然り。剣理を追及する道に終わりは無いようですな……」


これも苦笑いを浮かべて、立ち上がった。


「ヨーグ教官、立ち合いは終わりだ。我らは敗れたが、陛下に『本来の戦技』を十分に御覧頂けたと思う。生徒達を集めてくれ。間も無く午前中の授業も終わる時間だろう」


タレンはヨーグ教官にも声を掛けた。彼は既に自力で立ち上がっていたが……その後に目撃した、噂に違わぬ主任教官の豪勇振りにすっかり感動しており、震える声で


「はっ……は、はい……主任教官殿……おっ、お疲れ様でございました……。すっ、素晴らしい立ち合いを……見させて頂きました……私は……幸運であります」


「何を言うんだ。君だって()()に参加していたじゃないか」


「い、いえ……申し訳ございません。結局は主任教官殿の足を引くような事になってしまいまして……」


「そんな事は無いさ。相手はあのヘンリッシュだ。そう簡単に連携を取らせてくれるわけが無い。君が謝る事は無いよ」


 主任教官は笑いながら担任教官を労った。ヨーグ教官はその言葉に恐縮しながらも観覧席の生徒達に


「剣技台の上に集合だっ!」


大声で呼び掛けた。この声を聞いて生徒達は漸く我に返り……


「すっ、凄かったな……」

「あれが……達人同士の戦いなんだな……」

「俺には無理だなぁ……」


などと口々に感想を述べながら観覧席を下りて来る。


シュテーデル大佐も、部下である2人の近衛中尉を助け起こして


「いい勉強になったな」


と、笑いながら声を掛けた。


「そうですね……自分はもっと精進しませんと……」


バーンズ中尉は肩を落として反省を口にし


「あの生徒は……一体どこで修行したのでしょうかね?」


シーラー中尉もすっかり自信を打ち砕かれたように呟いた。2人の近衛中尉は、超人的な強さを見せた首席生徒の事もそうだが、「北部軍の鬼公子」と呼ばれた戦場で名高い、王都にもその雷名が轟いている驍将の強さを間の当たりにして、明らかに態度を改めている。


彼等2人が救護室の件から見てきたタレン・マーズ少佐という人物は、穏やかな物腰で……その落ち着いた態度もそうだが礼儀も正しく、階級でも職位でも……そして爵位でも下であるはずの自分達にまで丁寧な言葉遣いをする腰の低い学校関係者……そのように思っていたマーズ卿が見せた「北部軍の鬼公子」としての凄まじい気迫と、あの士官学生との死闘に大きな衝撃を受けたようだ。


マルクスの常人離れした武術の腕前に関しては、初めてそれを見た国王一行はともかく……学校長や級友も含めた士官学校関係者はこれまで何度も目の当たりにしてきたが、公爵家の御曹司たる主任教官については


「この学校に赴任して来る前は、北部の国境地域で騎兵隊を率いていた実戦経験者」


というよう履歴を持っている割に常に落ち着いて、穏やかな……よく言えば「人格の安定した」、そして悪く言えば「噂程には迫力の無い」という印象であったが……やはり十年もの年月、北の国境線で生命のやり取りをしていた歴戦の驍将の実力は本物であったと……この場に居る全ての武術経験者も含めた皆が改めて思い知らされた。


 マルクスがタレン以外の4人に与えた打撃によるダメージは不思議な事に全く後を引いておらず、鳩尾を打たれたシーラー中尉、脛を打たれたバーンズ中尉、そして首筋に膝を叩き込まれたシュテーデル大佐も、嘘のように痛みが引いたので首を傾げながら国王陛下の座する南側の観覧席に戻る。入れ違いに北側の観覧席から生徒達が下りて来て、剣技台の上で整列する。


タレンも3人の近衛士官と共に段席に戻り再び国王の前で頭を垂れ……


「件の生徒に勝利する事は叶いませんでした。実に面目次第もございませんが……『実戦に近い戦技授業』に関しましては多少なりとも御目に掛けられたと思われます」


「うむ。大儀であった。北部での実戦で培われたその武勇……しかと見せて貰ったぞ。そしてこの授業か。敵は必ずしも単独に非ず。一対一の対決になる可能性よりも士官が包囲される状況……これは余にも当て嵌まるな?」


国王の言葉に反応したのはシュテーデル近衛大佐であった。


「御賢察の通りにございます。陛下。小官もこの学校を卒業した者として、本日は目から鱗が落ちたような気持ちでございます。本日の体験を参考に……今後は近衛の者達にこれと同様の鍛錬を課し、陛下の御身辺を御護り致す一助になればと……。マーズ卿、貴重なる経験を得る機会をお与え頂き……誠に感謝致します」


大佐はタレンに深々と頭を下げた。二階級上の……しかも近衛士官から頭を下げられたタレンは慌てて


「とんでもございません。大佐殿にはお骨折りを頂き……こちらこそ御礼申し上げます」


 このようなやり取りが南側の観覧席で行われている間に、剣技台の上に整列した1年1組の生徒に担任教官が


「国王陛下に敬礼っ!」


と、自らも観覧席に振り向き様に鋭く指示を発した。生徒達もそれに従い、直立不動で最敬礼を国王陛下に向けた。それを受けて国王以外の随員……学校長も含めて答礼する中、国王陛下は段席から立ち上がり


「今日は素晴らしい授業を観る事が出来た。皆の者、大儀であった」


右手を軽く上げて御言葉を述べると……そのまま観覧席の出口に歩き始めた。随員達も後に従う。タレンは一瞬、マルクスに視線を送り……小さく頷いた後に、国王を先導すべく小走りで一行の先頭に立って国王と共に歩き去って行った。


 一行が観覧席の出口に消えた後、1組の生徒達は腰と膝が砕けたように座り込む者、大きく溜息をつく者と……急激に緊張が解けた様子を見せたが、当然ながら首席生徒だけは何事も無かったかのように真ん中の最後列で佇んでいる。


自身もやはり緊張の抜けた顔で、ヨーグ教官が生徒達に呼び掛けた。


「よし……では授業を終わろう。級長、号令を頼む」


「はっ!全員気を付けっ!教官に敬礼っ!」


リイナの号令で生徒達は再度背筋を伸ばして教官と敬礼を交わし、午前の授業を終わらせた。「解散っ!」という級長の鋭い号令が再度飛び、一同は漸く東校舎の更衣室に向かい始める。国王陛下一行の観覧を受けた上で、これまでに無かった主任教官と首席生徒の激闘を目にした生徒達は一部、フラフラの足取りになる者も居たが概ね興奮に満ちた表情で訓練武器を片付けて戦技場を後にした。


 生徒達は、今日の授業の主役であった首席生徒に聞きたい事が山程あったが……当の本人はいつものようにズンズンと驚きの速度で歩き去って行ったので、慌てて後を追った。どうせ今は追い付かなくても、食堂で共に昼食を摂るのだ。


何も知らずに興奮気味に更衣室に引き上げる1年1組の生徒達は、この後更に驚愕の事態に直面する。

ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

王立士官学校入学に際し変名を使う。1年1組所属で一回生首席。

面倒な事が嫌いで、不本意ながらも「士官学校白兵戦技改革派」に力を貸す事となる。


タレン・マーズ

35歳。王立士官学校三回生主任教官。陸軍少佐。

ヴァルフェリウス家の次男。母はエルダ。士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に婿入りし、家督を相続して子爵となる。

主人公によって「本来の白兵戦技」を知り、白兵戦技授業の改革に乗り出す。


ロデール・エイチ

61歳。前第四艦隊司令官。海軍大将。第534代王立士官学校長。勲爵士。

剛毅な性格として有名。タレンの戦技授業改革に賛同して協力者となる。


ドライト・ヨーグ

28歳。王立士官学校教官。陸軍中尉。担当科目は白兵戦技(剣技)。1年1組担任。

若き熱血系教官。剣技においては卓越した技量を持つが長距離走は苦手な模様。


ロムロス・レイドス

47歳。第132代レインズ国王。(在位3025~)

名君の誉高い現国王。近代王室では珍しくの王立官僚学校を卒業しているせいか、軍部に対して疎遠であると言われている。


エリオ・シュテーデル

43歳。近衛師団国王親衛隊長。近衛大佐。男爵。

国王の身辺警護を務める親衛隊の隊長で随行責任者。国王の信頼篤く、剣術の腕前に関して全国区で名声を得ている。

新任官時当時の上官がジヨーム・ヴァルフェリウス公爵であった過去を持つ。


テムル・バーンズ

27歳。近衛師団第二儀仗隊長。近衛中尉。

ヨーグとは士官学校同期であり、准男爵家次男。剣技に優れ、学生時代は同級生のヨーグよりも剣技の成績が上であった。


エルズ・シーラー

28歳。近衛師団第三儀仗隊長。近衛中尉。准男爵。

剣技に優れた儀仗隊長。ヨーグが入試で1年浪人しているので同年齢であるが一期上に当たる。

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