73 万物の霊長
とある蟻がこの村を観察してヒトモドキと呼ぶ動物の生態を観察していることなどつゆ知らず、トゥーハ村の住人は花の季節を存分に味わっていた。
タッシルとはまたの名を花の季節とも言い、年に二度ある時期をさす。要するに発情期のことだがこの国ではそんな呼び方はしない。
タッシルはこの国で最も重要かつ神聖な季節であり、それゆえにこの季節に犯罪を起こす人物は厳重に処罰されるし、その予防策も整えられている。
つまりまだ発情期がきていない子供は徹底的に男女別に隔離されている。外出する場合も決して異性とは顔を合わせないようにしている。普段まだ幼い子を育てるのは男性の仕事だがこの時ばかりは女性が面倒を見る。
彼の予測した通り本来なら隔離された建物で子供全員が‟教育“を受けるはずだが、諸事情あって身分が著しく高い子供などがいる場合、その子だけが別の場所に隔離されていることもある。
当然ながら銀色の髪を持つ少女などは身分の高低に拘わらず最敬礼を払うべき存在であり、凡百の農民と同じ扱いをするなど決してあってはならない。それがトゥーハ村の村民全ての総意だった。
その総意を彼女自身がどう思っているかは――――
「素晴らしいです。聖女様。貴女のお年でこれほど文字が書けることなど神の御導きに違いありません」
「ありがとう。サリ。でも聖女様と呼ぶのは……ちょっと……」
「ファティ様は聖女様です。銀の髪を持ち、熊に致命傷を与えた貴女以上にその呼び名に相応しい人などいません」
月の光のような銀の髪をきらめかせる少女は言うまでもなくファティである。
対して赤い髪の女性は二代前の村長の娘であるサリだ。その口調が示すように彼女たちの関係は友人というよりは主従に近いものだった。少なくともサリにとっては。
トゥーハ村が熊に襲われてから今日まで並々ならぬ苦労を押し通してきたが、厳しい冬に負けず、誰一人欠けることなく春を迎えることができた。
その歓喜はタッシルの到来によって頂点に達していた。まさしくこの村は幸福のただなかにあった。
それを新しい住人である村長も祝福していた。
「聖女様。こんにちは。ご機嫌いかがですか」
「ティマチさん。こんにちは」
彼女は新しくこの村に赴任してきた村長である。都から派遣されると聞いていたので、村人はみな一体どんな偉ぶった人間かと思っていたが、何のことはない。
前村長と同じく誰にも分け隔てなく接する聖職者の鑑のような人物だった。
ちなみにこの国ではほとんどの場合村などの共同体の長は聖職者になる。例外は単に人が足りていないか僻地すぎて放っておかれているかだろう。
「今日は巡察使タミル様から贈られてきた櫛を持ってまいりました。檀から作られた最高級の品だそうです」
「そんな上等な櫛、私にはもったいないですよ」
「何をおっしゃいます。その銀髪はこの村の、いえこの国の宝です。細心の注意を払って手入れしなければなりません。サリさん、聖女様の髪を梳いて差し上げなさい」
「はい」
ファティに対する態度とは違い部下に命令する口調そのものだったが文句ひとつ言わずにきびきびとファティの髪を梳き始めた。
彼女に何かが贈られるのは珍しい出来事ではない。銀髪の少女を一目見ようと、はるばる遠方から客人が訪ねてきたこともある。今年になって噂が広まるにつれ、そういった人間が大幅に増加した。
セイノス教徒にとって銀色の髪とはそれほど神聖な存在なのだ。
「聖女様。失礼します。ああ村長もここにいらっしゃいましたか。夕餉の用意ができましたよ」
そういって部屋に入ってきたのは村の大工兼農民で、サリの親戚にあたる老婆で、名前をククルという。もっともこの村に古くから住んでいる住人は大多数が親戚のようなものだが。
長年の畑仕事や左官工事で曲がってしまった腰に鞭うちながらもファティの為に腕を振るって料理を作っていた。
「もうそんな時間ですか。では私は失礼します」
そういって家から出ようとしたティマチをファティは呼び止めた。
「あの、ティマチさんも一緒に食べませんか?」
その言葉に「まあ」と感嘆の念を現したのは村長とククルだ。心優しい少女の言葉に感動したようだ。
「ありがとうございます。聖女様。ですが仕事が残っております。もしよろしければまた誘ってください」
洗練された動作で緩やかに敬礼する村長はどこか気品を感じさせた。やはり教養豊かな家庭に育った女性なのだろう。
「今日は白米にたっぷりの塩で湯がいた豆、隣村から頂いた山菜を汁物にしました。さあ祈ってからいただきましょう」
祈りを済ませてから食事を始める。この国では食事時であっても沈黙を貴ばない。時と場合にもよるが、食事時に歓談するのはごく普通の光景だ。
「サリさん。今日はどのようなことを教えましたか?」
サリはファティの教育係であり、村の内外から羨望の眼差しを向けられている。他に教育係に名乗りを挙げる人物もいたが、ファティ本人の希望によりサリが教育を続けている。
「本日は聖典の一節を複写しました」
「まあ! もうそんなこともできるんですか? なんてすばらしい。私のひ孫にも見習わせたいわあ」
「あの……やっぱり私もみんなと一緒の方がよかったんじゃないですか?」
そういうと老婆は首が千切れんばかりにぶんぶんと首を横に振った。
「滅相もありません! あんな不出来な子らと聖女様を同じ教育を施すことなどできません」
「……そう……ですか」
「聖女様には不便をかけますが……タッシルの最中には子供は極力家から出てはなりません。成人を迎えるまで今しばらくお待ちください」
「いえ、不便だとは思ったことはありません。サリもよくしてくれていますし……」
ちらりとサリに目線を向けると慇懃に頭を下げた。きっと彼女はそんな反応が欲しくて声をかけたつもりではないだろう。
「ご飯だってとっても美味しいし……皆さんもよくしてくれているから不便じゃないですよ」
不便ではない、と強調しているようにも聞こえる口調だった。
「それなら構いませんが……成人してからは出歩いてもよくなります。それからはたくさんの男とチェルコしてくださいね」
チェルコという単語がどのような意味を持つかは……察してほしい。ただ翻訳の難しい言葉であるのは確かだ。
ファティは意味することを察し少し顔を赤らめたが老婆は全く別の意味で解釈したらしい。
「もし聖女様がルファイ家に迎えられることがあればその時に恥をかかないようにチェルコの経験を積むことは大事ですよ。御子様もきっと喜んでいただけます」
サリもまたこくりと首肯する。これがこの国の一般常識だった。
「その……一生一人の人と……チェ、チェルコすることはいけないことなんでしょうか」
「まあ! よくご存じですね! 南のラオでは昔そのようなことがもてはやされたようですが……嘆かわしいことです。より多くの男性とチェルコしなければ強い子が産まれないというのに」
どうやらククルはサリがファティに教えた知識だと勘違いしたらしい。そのサリは怪訝そうな眼差しをファティに送っている。
「さらにラオではタッシルでもないのにチェルコを行うことがあったとか。神の御定めになられた神聖な季節を何だと思っているのでしょうか。彼女らはこの球に閉じられた世界から楽園に向かうつもりがあるのでしょうか」
老婆は憤懣やるかたなしといった語気で声を強める。話はまだ終わらないようだ。
ファティは頭を下に向けていた。
そんなファティをサリはじっと見つめていた。
もし太陽系第三惑星において万物の霊長などと名乗っている生命体がこの世界に生きる人と名乗る生き物を見れば何というだろうか。
恐らくは受け入れがたいだろう。
まず発情期という存在が野蛮、あるいは動物的すぎると思うかもしれない。
次に多夫多妻という文化が受け入れられないだろう。ある惑星では雄と雌はつがいになるべきだという認識が強いからだ。
反対に恐らくはこの異世界の人は万物の霊長の生活様式を決して受け入れはしないだろう。
いずれかの文明が劣っているわけでもいずれかが生物として未熟であるわけでもない。ただ違うだけだ。
絶対的に異なる。どうしようもないほどに、埋めがたい溝がある。
この世界と交流を持つことがあれば摩擦は避けられないだろう。
文化と精神、肉体が違うとはそういうことだ。
だがしかし。
その差をこともなげに飛び越えることができたとしたら。
やはりそれは他とは違う何かを持っていたはずだ。あるいは持っているはずの物を持たなかった。
本人の自覚があろうとなかろうと。




