68 バベルの塔はすでになく
文字。
人類の発明品の中でも優れたものの一つだろう。文字の発明により多数の人間が知識を共有し、後世の人間にも知識を残すことを可能にした。
文明を縦にも横にも広げるためにはこの発明は必要不可欠だった。文字を広く普及させることに失敗して滅んだ文明も存在するとか。それ程文字は重要だ。
しかし、人間と同等以上の知性を持ちながらも文字という発明ができないであろう生物も存在する。例えばイルカだ。
イルカは超音波、つまりエコーロケーションによってコミュニケーションを行う。このエコーロケーションは三次元的なコミュニケーションであり、二次元の産物である文字とは極めて相性が悪い。もしイルカが文字を発明するとしたら立体的な像のような人間には理解しがたい文字になるかもしれない。
もっともこれはオレの単なる想像だが。
そして蟻たち、というか魔物のコミュニケーションは基本的にテレパシーであり、生の感覚さえ他人に伝える、ある意味では究極の、ある意味では原始的なコミュニケーションだ。
そんな蟻たちが果たして文字を体得できるのだろうか?
何の心配もいりませんでした。十日ほどみっちり訓練するとひらがなを書くことには不自由のない程度に教育を施すことができた。
魔物の知能ってスゲー。
これで書類仕事も楽になるかな? お次は新しく産まれた女王との対面だ。
分蜂という言葉をご存じだろうか。蜂は新しく女王が産まれると古い女王が新しい巣を求めて新天地へと旅立ち、その際半数の働きバチを連れていく。
この世界の蟻の場合はどうだろうか。
たった今繭を破ったばかりの灰色の体はどことなくつやつやとしている気がする。これが若さか。では質疑応答を始めよう。
「ちゃんとオレの言うことは聞くな?」
「うん」
「命懸ける?」
「懸ける」
いやあとっても素直ないい子ですね!
親に逆らう感情がないのか、それともオレ自身が自我を持っていることが異常なのか? 何にせよ後継者争いなどの面倒ごとが減ったのは大いに歓迎するべきだな。この調子なら第二第三の女王もよい子に育ってくれるだろう。
ただ問題なのは蟻が増えすぎた場合かな。そうなる前に他の女王たちの出産数を制御しなければならい。地球の女王蟻は何らかの方法で蟻の個体数を管理しているようだけど……。
一人っ子政策なんてただの悪法だと思ってたけど、学ぶべきことは多いかもしれない。良いところも、悪いところも。
今のところ問題にはちゃんと対処できている。実験は失敗続きだけど、どこかの小学校中退の発明家だって失敗は成功の基だと言ってたからな。成功するまで続けよう。
それでもまだ足りない。このペースでは、半年後にラーテルと再戦するのは難しい。
やはり何らかのブレイクスルーが必要だ。
だからこそ――――藁にも縋る思いで「糸」を持ってその場所へ向かった。
北東の赤い木。蜘蛛が死の間際に話した場所へと。
テレパシーによる会話は概念的な距離や場所を伝えることに長けている。故に目指す場所の位置はおおよそ見当がつく。
そこに何が待ち受けているのか、何があるのかは全く聞いていない。罠ということはないだろうけど、そもそも蜘蛛が何を思ってオレにその言葉を託したのか想像すらできない。
蜘蛛にとって何か重要なものがあるはずだ。
春の香りが漂う森を抜け、山に近い森へと踏み入れる。心なしか植生も変わった気がする。松のような木が多いかな?
そして、赤い木が、正確には葉が赤い木が群生している場所に辿り着いた。ベニカナメだろうか。ここに何かがあるからだ。
まずは探知能力を使う。三次元のプラネタリウムのような光景が頭の中に映し出される。もう意識せずにこの光景は浮かんでくるが、今度ばかりは目を疑った。
以前に見た蜘蛛の光と全く同じだったからだ。つまり奴がオレに託した物は同族だった。
蜘蛛に聞いた話では奴の巣は以前ラーテルに襲われたらしい。だが生き延びたのが奴だけだとは言っていなかったし、別の場所に仲間がいないとも言っていなかった。数は少なく見ても十以上。真正面からやりあうのは不可能だ。
ただし、蜘蛛の全てが健康ならば。
蜘蛛は傍から見ただけでも衰弱しているとはっきりわかる。それに前の蜘蛛と比べると明らかに小ぶりの蜘蛛しかいない。考えられることはただ一つ。
こいつら蜘蛛の子供なんじゃね?
あいつバツイチ子持ちだったのかよ。また属性増えやがった。対抗するわけじゃないけどなんか納得いかない。
しかしまあ子供とはな。この世界の魔物はどうも家族とかを大事にするみたいだからな。命懸けで子供や仲間を守ろうとした魔物は一人や二人じゃない。オレには理解できないけど……そういう生き物もいることを覚えておこう。
さてでは何故この蜘蛛たちは何故こんなにも弱っているのか? 多分エサを獲ってくるはずだった親がいなくなったからじゃないかなあ。はっはっはっ。
オレのせいじゃん。
なんてこった。これはもう完全にオレの責任だ。弱肉強食の理としては気にする必要もないけど……流石に体を張ってもらった蜘蛛の望みを叶えないのは不義理が過ぎる。
罪には罰を。恩には賞を。文明人のごく基本的な鉄則だ。
それにこいつらを匿えば糸が手に入る。長期的に考えればメリットしかない。後はどうやって交渉するかだな。
そこであの蜘蛛糸だ。牢屋に落ちてあったあの糸にはオレには何も見えないけど、蜘蛛からすると何か特別な糸かもしれない。もしダメだったら力づくになる。
上手くいってくれよ。
蟻達は蜘蛛糸が見えるように一歩ずつ前に進む。こんなに近づいているのにろくな警戒もしていない。それほど弱っているのだろう。
「こんにちは。蜘蛛のみなさん」
「誰じゃ。貴様ら」
弱弱しい言葉だけど気勢はまだある。やはりこいつも偉そうな口調で話すらしい。
「ただの蟻だよ。まずこいつを見てもらえないか?」
持ってきた蜘蛛糸を見せる。これで反応がなければ一から交渉(物理含む)開始だ。
どこからともなく糸が現れて蟻が持つ糸に巻き付いた。
「……何故貴様ら地虫が母の糸を持っておる?」
Yes!
どうやらこの糸は身分証明書代わりに使うものだったらしい。恐らく蜘蛛の糸は何らかの情報をやり取りするツールになるようだ。後はオレの交渉力次第。慎重に事を進めよう。
蜘蛛糸は蜘蛛にとって武器であり、神聖なシンボルであり、文字が書かれた紙に相当する。
人間にも、蟻にとっても決して理解しえない文字。
この世界ではごく当然のように異なる生物が生み出した文明が存在している。人類という単一の生物種が築き上げた文明しか存在しない地球とは文明の多様性の桁が違う。
だからこそ、すべての魔物を統べる存在など絵空事でしかなかった。
即ち――――魔王など、存在するはずはなかった。
もっとも何を魔王と定義するかどうかも人によって、魔物によって異なってはいたのだが。




