58 冬の一日
寒い。それしか言うことがないほど寒い。
どうも魔物は冬眠という能力を持つせいで、寒冷期でも活動する能力が低いのかもしれない。地中にある巣でもこの寒さなら地上に出ればどうなるかは考えたくもない。どうしても我慢できない時は地上にある小屋で炭を熾して暖をとっている。地下で火や炭を使うと酸欠になりかねないためどうしても地上の建物で少しだけ扉を開けて体を温める。隙間風の寒さを恨めしく感じるのはどこの世界でも変わらない。
もしかしたらここまで寒いのはやはりこの巣が万全ではないからなのかもしれない。前の巣はもう少し地中深くまで巣を掘っていたがここはもっと浅い。深くに穴を掘っていた方が暖かくなったかもしれない。もっと時間か人員があれば対策も打てたが、もはや間に合わない。
今起きている蟻は全部で6人。兵蟻の方が女王よりも早熟だったらしく直近に産まれた蟻以外は冬眠することができた。食料は足りる。大丈夫だ。何度も計算したから問題ない。冬を乗り切ってみせる。
心が折れそうです。寒いしひもじいです。干しリンや種は飽きたぞオラー。念のために食料として渋リンの枝などを保存しておいたけど多分食べられない。
動物が一度に食べられる食べ物の量は決まっている。栄養価の低い食料を食べるとカロリーが低すぎて体温が上がらないらしい。一度それで震えが止まらなくなったのでもう二度と食べるつもりはない。
食べ物のレパートリーが少ないことは精神的にきつい。
予想外なのか予想通りというべきか正直に言ってめっっっちゃくちゃ暇! 一日中食っちゃねしなくちゃならないのはホント暇! かと言って何か作業をするとエネルギーを消費するからもっと食い物がいる。現状何が起こるかわからないため少しでも余裕を持っておきたい。
昔の人って冬は何してたんだ? 何か内職でもしてたんだろうけど、大変だったろうに。あー、ネット見てー。ゲームしてー。本読みてー。エアコンの効いた部屋で鍋でもつつきてー。なんでもいいからあったまるもんが食べたい。
「そんなあなたにこれ! ドライジンジャー!」
わーすごーい! 辛生姜を乾燥させたんだね! 水で戻して食べてみよう!
「辛い! ちょっと苦い! でも体が温まってきたぞ!」
……うん。こんな寸劇で無理矢理テンションを上げないといけないくらい暇なんだ。でも加工食品を作っておいて助かった。こんなものでもないよりましだ。
ちなみに今冬眠してる連中は巣穴の一室で一塊になって眠っている。猫とかペンギンなら和む光景だけど蟻だとな……黒いたわしが絡まりあっているようにしか見えん。虫が好きな人だとこんなのでも至福なのかなあ?
冬籠りを始めてから一か月。まだ余裕はあった。
「畜生っ! くそがっ!」
思わず小さな死体を壁に叩きつける。そうせざるを得ないほど怒っていた。
「こんな! こんな奴に全部計画が狂わされるのか!?」
その死体とは、ネズミだ。魔物ではなく地球において標準的なサイズのネズミだ。いつの間にか入り込み、渋リンを漁っていたらしい。こいつらだって必死なんだ。生きるために、オレ達を出し抜こうとした。
頭ではそうわかっていてもやはり怒りは湧いてくる。
そしてこんなちっぽけな命によってあっさり危機にさらされるのもまた、生物の宿命である。
食料の残りを再計算する。ちょっと節約すれば何とかなる。このままの寒さならば。冬はまだ始まったばかりだと、わかっていたはずだ。
寒さのあまり目が覚めた。それともいま目が覚めなければ永遠に眠ったのだろうか。ぞっとしねえ。今日はひときわ寒く感じる。食い物を節約しているから余計にそう感じるのかもしれない。仕方ない火を熾そう。
「誰か炭持ってこい。あったまるぞ」
……? 返事がない。いやな予感がする。今のオレなら探知とテレパシーを併用することなど容易い。だからこそ今動いている蟻が減っていることには探知能力に集中するまで気づけなかった。
6人のうち5人はもう死んでいた。最後の一人ももう長くない。蟻としての本能なのか、今まで何度も蟻の死を目撃した経験なのかそれは見当がついた。多分食料を削りすぎたんだろう。オレの命令を遵守するため食事が足りなくても空腹を我慢したのかもしれない。
これからは全部ひとりでやらなくてはいけない。食事の用意なんかもやらせてたから物凄く面倒だ。自分でやるって言ってもオレを極力働かせたがらないんだよなあいつら。
食事で思い出したけど、こいつらどうしよう? つまり食うかどうか。こいつら自身も女王蟻以外は死ねば食べるみたいだし、食べても問題はないはずだ。それでも、昨日まで生きていた蟻の死体を食べるのは、少し躊躇われる。
ひとまず食料を取りにいこう。またネズミでもいれば困る。食糧庫につい、おかしい。
どう見てもおかしい。減っていない。食料が予想よりも減っていない。ここ数日の兵蟻6人分は間違いなく減っていない。
踵を返す。1人だけ虫の息だった蟻の首を噛み砕く。何をしているかだって? もちろんこいつを食べる。
躊躇うだと? 昨日は生きていたからどうだと? 間抜けが! この間抜けが!! 女王蟻は栄養が足りなければ卵や繭を食べることもあるという。そして人間にはカルネアデスの舟板という寓話がある。多数を生かすために一人を殺しても場合によっては罪にならないという考え方だ。この場合6人の命よりオレの方が優先されるべきだと判断したらしい。
だからこそ奴らはこの数日絶食していた。
計算することを教えて正解だった。オレ以上に正確に現状を分析しオレを生かすために行動した。難点を言うなら全員食事を抜くべきではなかったことだ。一人くらいは生かしておくべきだった。その方がオレの役に立っただろう。それ以外に何の瑕疵もない。蟻としても人としてもオレもこいつらも何ひとつとして間違ってはいない。
まだほんの少し温かい体を貪る。体に力がみなぎるのを感じる。何が何でも生き抜いてみせる。一殺多生など生温い。この世は多殺一生。多くを殺さない動物など存在しない。屍の果てにこそ、生がある。
冬は誰にでも平等に訪れる。トゥーハ村にもまた冬が訪れ、一面に雪景色を飾っていた。
「雪がすごく積もってますね」
吐く息は白く、ファティや他の村人も厚着を重ねていた。
「今年はよく降る。老人たちは驚いているな」
アグルもまた服を着こんでいた。もっともこの国の田舎村に生まれた人間にしてみれば″服を着こむ″という行為は贅沢以外の何物でもない。
「ああ、ファティ様、アグル様。これもあなた方が熊を倒して、その報酬を分けていただいたおかげです。ありがとうございます」
一人の女性が歩み寄って祈りを捧げる。彼女の言う通りこの村は常ではまず考えられないほどの大金を手にしていた。熊を討伐した報酬の一部は防寒具や食料の購入に充てられた。熊が村の貯えの大部分を荒らしてしまったせいで村人たちのほとんどは今年の冬を越せない可能性が高かった。
そんな村人からしてみれば二人は古の聖人に匹敵するほど偉大である。
「熊を倒したのはアグルさんなんですけど……」
「謙遜しなくていい。熊はファティがいなければ倒せなかった」
二人の偉ぶらない態度が村人たちの尊敬の念をいっそう掻き立てていた。
アグルたちが熊を討伐した後、都に熊の悪石を届けると、ちょっとした騒ぎになった。何しろ熊がこの領に現れたのは数百年ぶりで片田舎の農民が討伐したのだから。誰もが疑ってはいたがスーサン出身の鑑定士が太鼓判を押した以上、誰も文句は言わなかった。
かくしてアグルは大金を手にし、トゥーハ村へ凱旋することになったが、しなければならないことは山積みだった。まず都や他の村々から当座の食料を購入し、家の再建に取り掛かった。冬が近づいていたため温かい食事と寝床がなければ命に関わる。
さらに荒れた田畑などを整備するにはどうしても冬眠するわけにはいかなかったため、冬に活動するための食料と道具を大量に購入することになった。これだけでもかなりの出費だったがアグルは後悔していない。
あるいは都で聖職者として復帰することもできたがそれも良しとはしなかった。彼の狙いはもっと上にある。自分を高く売りたいなら自分から売り込むのではなく、相手から話を持ち掛けられるまで待つべきだ。
その予想は正しかった。
「聖女様、アグルさん、大変です!」
「サリ。どうした。要件を言ってくれ」
現在の村長代理はアグルだが、サリも資材等の管理を行えるようにはしてある。そもそも文字を読める人間が少ないため若い彼女にも手伝ってもらわざるを得ない。口では答えず、サリは一通の手紙を差し出した。大声で話すことではないらしい。アグルは手紙にざっと目を通し、驚愕に目を見開いた。
「明日、教皇様の御子がいらっしゃるだと?」
国王がこのクワイで最も貴い存在である。これに異論を唱える者はいない。しかし最も権力のある人物と言われれば教皇であると誰もが答えるだろう。
しかしながら教皇と国王はクワイが開かれて以来ただの一度も反目しあうことはなかった。権力者同士の衝突が少なかったことこそが千年栄えたことの秘訣だろう。
「あの、御子様って頻繁に村に訪れたりするんですか?」
「まさか。いくら自分に捧げられる土地とはいえ、こんな田舎にまで来ることはまずない」
アグルは村の総力を尽くして、もてなしの準備を整えた。それでも都のさびれた商館の方がだいぶましだっただろう。
何しろ明日だ。もう少し早く教えてもらえれば準備の整えようもあったものの。直前まで連絡がなかったのはよからぬことを企む者たちへの用心だろうか。……単にこちらの事情など気にしていないだけかもしれない。
「御子様は次の教皇様になるんですか?」
「いや、教皇様は大司教様からの信任で決定される。教皇の子が教皇になるわけではない。それに――御子様は男だ」
ほんの一瞬暗い影をちらつかせながらアグルは答える。ファティは少し不思議そうな顔をしてから、
「ああ、そうでした」
と答えた。
ファティは熊の一件以来急激に大人びた。もともと成長が早かったが今はまるで何かに憑りつかれたかのようにはきはきとしゃべるようになった。しかし、時折今のように不思議そう、あるいは戸惑った表情をするようになった。自分以外誰も気にしていないようだが……。
「領都で話を聞いたが、才に恵まれ、男だてらに神学を学んでいるとか」
「凄い人なんですね」
いや熊を倒す方が凄いだろう。とは思っても口には出さなかった。
「駕籠がいらっしゃったぞ」
皆が一斉に顔を伏せる。
駕籠といってもかなり大型で複数人の人足で運ぶ。このサイズなら駕籠ではなく輿と呼ぶべきだがここでは駕籠と呼ばれている。
この世界にも馬は存在するし、馬車も存在するのだがクワイの貴人はよほどのことがない限り馬を用いない。主な理由は二つあり、一つは馬車の車輪の性能が良くないため揺れやすいこと。もう一つの理由は……くだらない理由だ。
教皇付きの司祭が、いくつかある駕籠の中からアグルに問いを発した。
「村長はどこだ」
「先日の熊の来襲の折り、楽園へと旅立ちました。今は私が代理として村長を務めております、修道士アグルです」
駕籠の中からどこか馬鹿にしたような気配が漂ってくる。見えなくともわかる。男が村長など、修道士など務まるはずがないという意思が伝わってくる。ましてや熊を狩れるはずなどないと。
(今に見ていろ差別主義者ども。お前らのような連中をクワイから一掃してやる)
「ではそなたが熊狩だな? 案内せよ。御子様はそなたの話を所望している」
こいつの心根がどうあれ御子が釣れたのは確かだ。逃がすわけにはいかない。
「はっ、こちらへどうぞ」
この村で一番ましな建物である村長宅へ向かう。幸いなことに熊には襲われなかった家だ。家の前まで来ると駕籠から涼やかな少年が降り立ち、司祭を伴い家の中に入っていった。
実のところこの世界では暖房器具というものがあまり発達していない。何故なら知的生命体の多くが冬眠によって冬ごもりを行うため、わざわざ暖を取る必要がないのだ。老人や未熟すぎる個体は冬眠ができないためある程度の暖房は可能になっているが、やはり未発達といわざるを得ない。ましてや片田舎の農村では。
つまりあり合わせの暖房器具しかこの場には存在しない。司祭の外の空気よりも冷たい視線がアグルに突き刺さるが、悲しいかな、無い袖は振れない。やや気まずくなった空気を破ったのは御子だった。
「じゃあ、アグル。熊を討伐した時の話を聞かせてもらえますか?」
「はっ。信じられない話でしょうが」
そう前置きしてから事の仔細を話し始めた。詳しく説明するためにファティも同席させている。
「つまり、熊に致命傷を負わせたのはこの銀髪の娘なのだな?」
「その通りでございます」
声音は半信半疑といったところか。普通なら信じないだろうが、銀髪の効果は頭の固そうな司祭でさえ揺れ動かせるほど絶大だった。
「凄い話だね」
御子はゆったりと微笑みながら疑ってはいない様子だ。人がいいのか、何か確信があるのか……。
「ねえ、彼女と二人で話してみたいけどいいかな?」
その言葉にはこの場の全員が驚いた。司祭は露骨に顔を顰め、なじるような口調で話す。
「いけません。農民と二人で話すことなど許可できません」
「そんなルールはないよね?」
「いいえ、あります」
御子はじっと司祭の顔を窺う。アグルは、自分が口を挟める立場ではないことはよく理解していた。
「ううん。そんなルールはないよ」
事実だったのだろう。やがて司祭はため息をつきファティ以外の者に退出を促した。
アグルは御子の思考をはかろうと必死に頭を働かせていたが、どう転んでも悪い結果にはなるまいと腹を括った。
二人きりになると少女は目線を所在なげにさまよわせ、かと言って自分から話しかけることもできずに身をこわばらせている。アグルがいなくなったことによって緊張のピークに達したらしい。
「そんなに固くならなくていいよ」
「そういうわけには……え?」
今の二人が話した言葉はこの村の言葉ではない。この世界の未だどこにも存在しないはずの言葉だった。
日本語だ。
「この世界では初めましてかな。今は教皇の子供だけど、地球ではバスの運転手だったよ」
彼はとても流暢な日本語でそう言った。




