476 私が凡人になっても
ファティは珍しいことに今日は駕籠の外で昼食をとることになった。というのも本日の来客が駕籠に収まりきらなかったからだ。
もっともクワイのいかなる建物でもこの巨体は収まらなかっただろう。アベルの民の巨体は。
相も変わらず海の色をした巨体はどこにいても圧迫感を伴い、気圧されてしまう。とはいえファティはアベルの民を賓客としてもてなさなければならなかった。もちろんアベルの民のもてなし方など誰も教えてくれないし、そもそも知らないので手探りだった。
ひとまず巨大な杯にお茶、そして果実などを用意して体裁だけは整えた。
「本日はようこそお越しくださいました」
ファティが挨拶を述べるとアベルの民も巨体をわずかに傾がせた。お辞儀……のようなものだろうか。侍女たちが用意された食事をアベルの民の近くに差し出すと、アベルの民の腕……のようなものがぱっくりと裂けた。
侍女たちは顔を見合わせ、次にファティを見た。指示を仰いでいるのだろう。困惑しているのは自分も同じなのだがこの場の中心が自分自身であることも何とか自覚していた。
「えっと……そこに食事を入れればよいのでしょうか?」
『その通りです。よろしくお願いいたします』
頭の中に丁寧な声が響く。この声も慣れてしまえば安心感を覚える不思議な声音だった。
しばし、茶を飲み、果実を食す。
『美味でした。様々なものが欠乏する中でこれほどの歓待を用意していただき誠に恐縮です』
これまた奇怪な容貌に似つかわしくない細やかな礼だった。
色々とスケールの違いに戸惑うこともあるが、今のところアベルの民は良き隣人であり続けていた。だから自分自身も良き隣人でありたいと思う。
「いえ、これもあなた方がいつも獲物を狩ってきてくれているおかげです」
虚飾やお世辞が一切ない心からの言葉だ。あの肉の正体を知った今となってはアベルの民がもたらす食料の恩恵は計り知れない。
『ですが少しばかりもめてしまいました。あなた方が鹿を許可なく狩ってはならないと知らずに鹿を狩ってしまい申し訳ありませんでした』
どうやらアベルの民はその釈明に訪れたらしい。ここでアベルの民といざこざをおこしてはダメだ。つまり、自分のやるべきことは明確だ。
「いえ、知らずにしてしまったことですから、あなた方に責任はありません」
『寛大な御言葉に感謝いたします』
一応これで問題はない……のだろうか。それきりアベルの民は何も話さない。
表情や感情の機微がわからないアベルの民は全く何を考えているのかわからない。一応彼らなりの理由があってクワイを助けてくれているというのはわかるのだが、やはり真意を知りたかった。
「アベルの民さん。その、あなたはどうしてここまでしてくれるんですか?」
『以前にも応えましたが全ての助けとなるためです』
もしもファティが本当の意味で敬虔なるセイノス教徒ならこの説明でおおよそ理解できるのだが、今やセイノス教においてありとあらゆる中心である彼女はセイノス教の何たるかを全く理解していなかった。
「それはそうですが……でも、あなた方にもあなた方の暮らしがあるでしょう?」
『自らが苦しんでいることが誰かを助けない理由にはなりません』
とても立派な言葉だ。その言葉を無条件で信じられたらどんなによかっただろうか。なるべく表情に出さないように疑いの眼差しを向けると、それをどう解釈したのかアベルの民はゆっくりと会話を続ける。
『さらにあなたの銀の輝きはまさにこの世の至宝です。これを助けずして我らは我が祖国に顔向けできません』
アベルの民としてはこれ以上ないほどの褒め言葉だったのだろう。だがファティにとっては銀の光を持たない自分には興味がない、そう言われているようにしか聞こえなかった。
アベルの民が去って少し時間が経つと今度は久方ぶりにアグルが駕籠を訪ねてきた。
「聖女様。ご機嫌麗しゅうございますか」
「ええ。大丈夫です」
アグルさんからこういう慇懃な態度で接されることは珍しくない。それに慣れてしまっている自分がとても嫌だった。
「国民は皆あなた様の御威光を照覧できることを喜んでおります」
ごてごてとちりばめられた美辞麗句に偽りはないのだろう。本気で銀の聖女のためならば必死で働くに違いない。だが、ファティ・トゥーハにはどうなのだろうか。
「アグルさん……あの……」
「いかがいたしましたか?」
どうしても、どうしても気になる。本当にこの人は私を見てくれるのか。それとも銀の聖女が大事なだけなのか。この質問をしてしまえば後戻りはできないかもしれないが、それでも止まれなかった。
「もしも、もしも私の髪が銀色じゃなくても、もしも私が銀の聖女じゃなくても私に尽くしてくれますか?」
口から出た言葉は決してもとには戻らない。アグルの顔を覗けずに目を伏せる。
「聖女様」
アグルから呼びかけられ、さらに肩を掴まれ、びくっと体を震わせる。
「聖女様は聖女様であらせられます。他の何かであることなど考える必要はございません」
アグルの瞳をのぞき込む。これもきっと本当なのだろう。でも。つまり。それは。
質問には答えていないのだ。
きっとこの人もただ銀の聖女が大事なだけなのだろう。
はい、と小声で答える。
「明日の夕刻にはスーサンにたどり着きます。どうぞ、心構えを」
また、はい、と答える。先ほどよりも小さくか細い声だった。




