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472 お前は誰だ

 走る。走る。走る。

 昼間なのに暗い森を躓きそうになりながら、全速力で走る。一刻も早くあの集団からは離れたかった。

 そんな無茶がいつまでも続くはずもなく、遂に彼女は転げまわって倒れる。その勢いのまま口からついさっき食べたものが逆流する。

 地面に汚物がまき散らされる。もう胃の中に何もなくなったからなのか胃液さえも吐き出される。胃の中でけだものが暴れまわっているようだ。

 体中がねじ切れるように痛い。頭の中で太鼓が鳴っている気がする。真冬のような寒気が体の内側から襲ってきている。

 たっぷり数分はそのまま地面に倒れていただろうか。

 ようやく立ち上がったファティはとても汚れていた。土と吐しゃ物に塗れて、もしも誰かが今彼女の全身を見たら顔をそむけてしまうだろう。

「……あの人たちは本当に人間なの……?」

 最初に出た言葉がそれだった。信じられない。あんな肉を平然と食べていた。それを誰もが知りながら止めようともしなかった。ありえない。人間ならまずありえない。

 だが、その肉を自分も……。

 そこでまた嘔吐感がこみ上げ、口元をおさえる。さっきまで楽しく鍋を囲んでいた誰かが異星人のように見えて仕方がなかった。

 そして気になることがもう一つ。

「セアさん……やっぱり私だって気付かなかった」

 それがあまりにもショックだった。あの時はっきりとセアはファティの顔を見た。

 ただ単に忘れただけなのか。それとも……。

 冷静になり、先ほどの衝撃的な出来事のせいで心の蓋が緩み、疑問はもう止められなかった。

「私は……私の顔を誰も知らないの……?」

 護衛も肉屋のセアもファティの顔をちらりと見たはずだ。それでも何の反応も示さなかった。

 少なくともファティは顔を覚えている間柄だったというのに。

 本で読んだことがある。人は誰かから忘れ去られた時に本当に死ぬのだと。だが……その名前は知られていても、知人にさえ顔を覚えられておらず、自分のものとは思えない話ばかり広まっている銀の聖女という人物は今を生きているのだろうか?

「確かめ……ないと」

 国民の様子を見るという当初の目的はどこへやら。彼女は彼女のアイデンティティを確かめるために一歩踏み出した。


 その後もさっきと同じような調子だった。誰だかわからない銀の聖女という人物の話を聞き、食べてはならない肉を食べていた。

 何の偶然なのかトゥーハ村出身でファティが顔を知っている相手にも何度か会った。しかしどの人もファティの顔を見ても気付く素振りさえなかった。

 ファティの<光剣>や銀髪の美しさを讃えても、ファティの顔がどうだったのか誰も覚えていなかった。

 黒い髪のかつらをかぶっただけでそれがファティだとわからなくなるくらいに。


 ひとしきり歩き回ったファティは太い木の幹に寄り掛かった。そうしなければ倒れてしまいそうだった。

 もう認めるしかない。

 認めてしまうしかない。

「みんなが知っている銀の聖女は、銀の聖女であって私じゃないんだ。必要とされているのは銀の聖女であって誰も私を見てくれてない」

 セイノス教徒にとって聖人や聖職者を敬うのは当然だ。逆を言えば聖人や聖職者でありさえすればそれ以外の性格や能力はどうでもいいのだ。彼女はここに来てようやく悟った。

 誤解なきように注釈すると誰もファティの顔を覚えていなかったのは何も彼女たちが薄情だったからではない。

 銀髪があまりにも鮮烈に記憶に残っているせいでそれ以外にはあまり記憶に残らなかったこと。文化的に顔の美醜を気にせず、魔法による<光剣>の輝きや美しさに魂の清らかさが宿ると信じている。

 だから顔そのものにあまりこだわらない。これは優劣ではなく、純粋に文化および生物学的な差異なので誰が責められるわけでもない。もしもファティが<光剣>をかざせばだれもが銀の聖女だと認めただろう。だが地球人としての感覚を捨てられていないファティにはそれが感覚として受け入れられない。

 もっともそれらを受け入れられたところで彼女が幸福であるかどうかはまた別の問題だ。

 彼女の望みはまた別にある。

「私は、聖人だとか、国王だとか……偉い人になりたかったわけじゃない。ただ私と一緒に笑って、食事をしたり、たまに遊んだりしてくれる人が欲しかった。苦しむ人々に寄り添える人間になりたかった。どんなに偉くなっても顔さえ覚えてもらえないんじゃ意味なんてない!」

 セイノス教徒が求めているのは銀の聖女であってファティではない。それこそ銀の髪をして、同じような力を持ってさえいればファティでなくてもいいのだ。

 だが酷な言い方をすればそれは当然の摂理だ。

 セイノス教徒にとって聖人とは雲上の存在で人と隣り合う存在ではないのだ。

 そして聖人になることはセイノス教徒にとってこの上ない誉れだがファティにとってはそうではなかった。結局のところお互いに対する無理解がこの事態を招いたと言える。

 どちらにも悪意はないし、そもそも他の選択肢があったのかどうかはわからないのでこれもまた責任があるわけではないのかもしれない。

「魔物との戦いも、国王としての暮らしも、いつかトゥーハ村の暮らしに戻れるから頑張ってきたのに……それを望んでくれる人はいないの?」

 いないのだ。

 少なくともクワイには彼女が国王として、銀の聖女としての責務を放棄して欲しいとは誰も思っておらず、またファティ自身が苦痛に感じていると想像している人物さえいない。

 タストやウェングでさえも忙しさにかまけてファティの心情を汲み取っている暇はなかった。もしもティキーがいれば……どうだったかはわからない。

 だがあくまでもそれはクワイでの話だ。

 クワイには彼女が安らかな暮らしを営むことを誰も望んでいない。

 クワイには。


「聖女様? いかがいたしましたか?」

 ファティが振り返ると数日前少年と一緒にいた男性が立っていた。その男性の本名は久斗。ファティは知らないがクワイの民ではなかった。


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うちの猫は液体です 新作です。時間があれば読んでみてください。
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