468 馬鹿騒ぎ
唖然とするファティを振り返ることなく男性は少年に罵声を浴びせ始めた。
「この馬鹿者! 穢れた魔物の血で濡れた体で聖女様に触れるな!」
あまりの大声にファティはたじろぎ、しかし男性を制止しようとする……が、実際には手も足も動かず、誰かが助けに入ってくれないか先に周囲を見渡した。彼女にとって大人から叱責されることは前世のトラウマになっている。とっさに体は動いてくれないのだ。
だが……誰も助けない。それどころか少年を先ほどの魔物たちと同じように憎しみすら混じる視線でにらみつけている。
その視線が前世で父母から向けられていた視線を思い出して、また身をすくませる。
「聖女様! この少年は直ちに貴石を取り出し、砕きます! 御身を穢してしまった罪をお許しいただけますか!」
「――――え?」
意味がわからない。どうして血まみれの手で自分に触れただけで貴石を砕かれる……つまり、殺されなければならないのか。いや、そもそも順番がおかしい。罪を許したのなら、罰されるべきではないはずだ。
ここにセイノス教の独特の思考がある。
セイノス教にとって貴石を砕くことは最上の救いであり、命を奪ったとしても、決して何かを傷つけたわけではない。処罰として貴石を砕くことはあっても、それは救いであり、慈悲深い行為なのだ。
そもそも貴石を砕くことを殺人だと認識する方がおかしいのだ。それはセイノス教にとっての常識である。本来誰かに教わるまでもないことである。
だが、ファティは誰にも教わらなかった。銀の聖女ならばそんなものは誰かに教わる必要すらないだろうと買いかぶられていたせいで常識を学ばなかったのだ。
そして誰一人、ファティがクワイという国家、セイノス教という価値観からずれていることに気付かなかった。あるいはサリだけは気付いていたのかもしれないが……今更詮無きことだろう。
ファティの戸惑いをどう捉えたのか、男性はさらに言い募る。
「不快であれば私の貴石さえも砕きます! 平にご容赦を!」
「そ、そんなことはしないでください……気にしてませんから……」
「ですが聖女様。お顔が曇っておられませんか?」
事実である。先ほどから……いや、このところファティの表情は晴れることがない。その理由はこの国や信徒に対して感じている違和感が原因だが、それを口にしてしまえば何かが壊れてしまいそうでできなかった。
「その、それは別のことが理由なので……その子は何も悪くありません」
歯切れの悪すぎる言葉だ。前世ではそんな言葉ばかり口にして……実の親に、教育を施されることも少なくなかった。
きっと今も自分のせいでまた何か悪いことが起きてしまうのではないか。そんな漠然とした恐怖が胸をよぎる。しかし……。
「おお! 何という寛大な御言葉我々はあなた様に身命を捧げます!」
男性は敬礼し、頭を下げる。
それを見た周囲の信徒からまたしても銀の聖女の慈悲を讃える声が森に響く。
彼女は困惑しか感じない。そもそもなぜ自分が褒められているのか全くわからないのだ。
もっとはっきり言えば。
気味が悪い。
訳のわからない理由で自分を讃える声が気持ち悪い。守るべき、大切な人たちにそんなことを感じてはいけないのに、堪えることができない。追いかけてきた駕籠に逃げるように飛び乗った。
ファティは今ほどサリや紅葉と会いたいと思ったことはなかった。気兼ねなく話せる相手が欲しかった。
しかし二人とも行方がしれない。アグルやタスト、ウェングは最近忙しいらしくろくに話もしていない。それどころかむしろ避けられている気さえしている。
誰からも敬われているはずの銀の聖女はやはり、誰よりも孤立していた。
銀の聖女が立ち去るまでじっと頭を下げていた男性に修道士らしき女性が声をかけた。
「ああ、お前たち。聖女様に感謝なさい。あの方が厳しければ誰からも貴石さえ砕かれずに野ざらしのまま死体をさらされてもおかしくありませんでしたよ」
修道士の言葉に反応した男性は顔を上げ、一瞬だけ鋭い視線を向けてから、歓喜にあふれた顔を形作り、大声で感謝を述べた。
「皆さま! 私がここにいるのも皆様のお力添えと、聖女様の慈悲のおかげです! なにとぞこれからもよろしくお願いいたします!」
周囲の信徒たちはにこやかにうなずくと、また歩き始めた。
男性は周囲の視線が自分から外れたことを確認すると、少年の手を引き、森の奥へ密かに連れ出した。
しじまだけが佇む暗い森の中、男性は辺りを見回し、誰もいないことを念入りに確認してから少年と向き合った。
じっくりと少年の体を怪我がないか調べているようだった。
そして、予定通り無傷であることを確かめてから、ばっと少年を抱きしめた。
「ごめんね! ごめんね! 痛くなかった!? 辛くなかった!? こんなことをして本当にごめんね!」
哀切な言葉をかけ続ける。先ほどまでと同一人物だとは信じられないほどの豹変ぶりだった。
「大丈夫ですよ、久斗さん。練習通りにしてくれたから痛くなんてありませんでした」
そう。
男性の正体は正体を隠すために大人っぽく変装した久斗だった。
少年もまた、エミシで育てられ子供のスパイだ。去年組み込んだクワイの民の赤子にきちんと教育を施した子供だった。
「この任務が終わったら、美味しいものをいっぱい食べさせてあげるね。あんな頭のおかしい連中のいないところでいっぱい遊ぼうね」
「うん! 約束だよ。でも、こんなことで銀髪に近づけるの?」
「紫水がそう言っていたし、姉ちゃんも間違いないって言ってくれたらしいからきっと銀髪は僕たちの顔を覚えたはずだよ。まだ演技は続けなければいけないから気を緩めちゃだめだよ」
「はい」
元気いっぱいにあどけない顔を向けてくれる。こんないい子を任務とはいえ傷つけたことに罪悪感を抱えていた。
今回の任務は銀髪に接触し、なるべく情報を引き出すことだ。
しかし久斗はその真の目的も聞かされていた。
『銀髪の奴はな、どうもオレたちと仲良くしたいらしいんだ。そして自分たち全員で一緒に暮らしたいらしい』
そう紫水に説明された時の衝撃を覚えている。
『セイノス教の教義とはまた別の思想を持っているみたいだな。だからまずは、現実を見せつけてやろう。あいつが守ろうとした奴がどんなに馬鹿で、オレたちがどんな風に争っていたのか見せてやろう』
そのためにこの子をあえていじめる演技をすることにしたようだ。
ただし、その演技の最中に決してこの子を傷つけないように何度も念押しされた。どうすれば安全に倒せるか。どうすれば自害に追い込まれないか、何度も討論した。
これが本当のやさしさだろう。現実と理想をすり合わせつつ、可能な範囲で他人を思いやる。
それに比べてあの狂人どもはどうだ。
クワイの民はとっとと滅びるべきだ。
味方にさえ犠牲を押し付け、僕たちに知性がないと決めつける。どこが慈愛と慈悲にあふれているんだ?
それ以上に許せないのが銀髪だ。
何故僕たちと仲良くしたいなどと言える? お前がどれだけ殺した? お前がいなければ去年のような無茶は狂人どもだってしなかっただろう。
まず誰かと仲良くしたいならお得意の自殺でもすればいい。あいつの死体となら仲良くしてやってもいい。
とはいえあれはまだ生きている。だからまだ仲良くならなければならない。少なくともうわべだけは。
そしてきっと最後には……いや、それは紫水が決めることだろう。




