465 綺麗な月
どこにでもある部屋の中、手慣れた様子で旅支度を整えている久斗に声をかける。
「よ。準備は順調か?」
実を言うとこれは皮肉だ。久斗には待機を命じていたからだ。
「ええ。おかげさまで」
驚いた様子もなくあっさりと皮肉で応じる久斗。成長を実感するな。
「で? 待機せずにヒトモドキを追討しようとする理由はなんだ?」
久斗の最近の役割は去年組み込んだヒトモドキの子供たちのお世話だ。つまりスパイ第二世代の養育。どんな敵を倒すよりも大事な仕事。
「単純に僕がついていった方がいいでしょう。まだ味方になって日が浅い遊牧民や子供たちだけでは荷が重いはずです」
道理ではある。けど……。
「それだけか?」
「……それに、僕は美月を助けたいです。随分長い間……待たせてしまっていますから」
理屈を整えて、ダメ押しで感情論を口にする。うむ。交渉の切り口としては悪くない。
「いいよ。ちゃんと働いてくれるならな」
「ありがとうございます!」
朗らかな笑顔で礼を述べる。
実のところ久斗にはヒトモドキを翻弄するために同行して欲しかった。あえて待機を命令したのは自分の意志で行動してほしかったからだ。
蟻は従順だけど、オレに反対してでも行動した方がいい時というのは少なからず存在する。久斗や美月にはそういう思考も持ってほしい。
……ま、本気で反逆しそうなときは確実に始末する体制が整っているからこそこんなことを言い出せるわけだけど。久斗はその辺りを薄々気付いてそうではあるかな。
美月は歓声が木霊する教都チャンガンの民を心の中で見下す。
教皇のこれから西に向かい、そこで聖女が救いをもたらす手助けをするという演説を聞いた途端に今までたちこめていた暗雲が晴れたかのように歓喜に満ち溢れたのだ。
心底理解できない。
具体的に西に行って何をするのか。どうすれば救いがもたらされるのか。そもそも聖女が正しいのか。
どれ一つとして明確な回答がないけれど、それでも銀の聖女の一挙手一投足を注視し、それによって喜びを得る。
論理の対義語がこの衆愚どもなのだろうかという疑問さえ頭を掠める。
腹立たしいことに表面上は美月も喜んだふりをしなければならない。それが彼女をいらいらさせていたのだが、そこは長年培ってきた忍耐と演技力で表には出さなかった。付け加えるなら、自らが見下す敵に自分の心情をわずかながらでも悟られるのが我慢ならなかったのかもしれない。
特に、遠目から近づいてくる相手には。
あでやかな銀髪をなびかせて近づいてきたのはもちろん銀の聖女だった。この女はよっぽど暇なのか事あるごとに美月に話しかけてきた。
それはセイノス教徒なら望外の喜びだったのだろうが、美月にとっては針山を歩くよりも苦しい時間の始まりだった。
「こんにちはミーユイ」
ミーユイは美月の偽名だった。正確には美月、をクワイの言葉にするとそう読むのだが、少なくとも美月はこれを偽名だと認識していた。
「こんにちは聖女様」
可能な限り愛想を振りまき、敬虔なるセイノス教徒のように敬礼する。今までに何度となく繰り返した動作だったが、いまだに慣れることはない。
「お怪我はもう大丈夫ですか?」
「はい。これもすべて聖女様のおかげです」
美月は去年負傷したが、そのケガの治りが遅く、周囲、特に銀の聖女を不安にさせていた。
……実のところ、これは美月の仮病で、同情され、また疑われないようにするために病人のふりをしていたのだ。もっとも、そんなことをしなくても疑われはしなかっただろう。
なにしろこいつらは他人を疑うということを知らない。
こういう会話をするたびに稲妻のような憤怒が心を焦がす。
お前たちのせいで。お前のせいで、みんな死んだ。お前が殺したんだと叫びたくなる。
何という無知。
私がスパイだと気づく素振りもない。
煮えたぎるはらわたを飲み下し、敬虔なるセイノス教徒らしくふるまう。
「此度も聖女様がお決めになった西方への移住もきっとうまくいきます」
「え、ええ。そうですね」
わかりやすすぎるほど顔を曇らせる聖女。つまりどうせ今回も周りの奴らの言うがままに従ったのだろう。
訳がわからない。何故こんな奴を崇めるのか。美月がちょくちょく銀髪と会話していることを羨む声を聴いたのは一度や二度ではない。
逆に本性を知らないからこそあれほど崇められるのだろうか?
どうしてこんな奴に力があるのか。こいつさえいなければ。いや、いっそこいつの力が私にあれば……。
益体のない思考を振り払う。
セイノス教徒らしく、追従のことばを間抜けな聖女様に捧げるとしよう。
「我々はあなた様のためならばいかなる努力も惜しまず、その身を捧げます。どうか私たちを御導きください」
銀髪は戸惑ったような、落胆しているような表情をしていた。




