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46 死中に活なし

 ラーテルの追撃から逃れたのは蟻だけではなかった。三人の人間もまた、幸運にも生き永らえることができた。

「サリ、大丈夫?」

「私に怪我はない。トマとコッキの2人こそ重症だ。急いで村に戻ろう」

 無傷なのはサリだけで、二人の男女、トマとコッキは重傷を負っていた。蟻の矢によって負った傷であり、ラーテルからの攻撃ではないが、なるべく早く処置しなければ危険な状態だろう。

 もっとも3人は″矢″というものを見たことがなかったが、ラーテルの登場があまりにも衝撃だったために、その特異性は忘れ去られた。

「あれはまさか話に聞く″熊″か?」

 コッキがぽつりと漏らした。

 ちなみにこの国ではラーテルを熊と呼ぶ。そう訳せることとその理由を″彼″が知るのはもう少し後のことだ。

「そうだろうな。スーサンの更に西に住むという″熊″だ。今年は出たとトラムさんから聞いていたけど……そいつがここに来たのか?」

「多分違うはずよ。どこかから来た熊がたまたまここで眠っていたのかもしれない。何故起きたのかはわからないわ」

 サリの疑問を受けてトマが答える。スーサンからここまではかなりの距離があり、その間誰にも見つからずに移動したとは思えない。あの邪悪極まりない熊は目につくもの全てに襲いかかるという言い伝えがあるからだ。


 さらに伝承に曰く、熊は長く眠ったのち目を覚まし災いを為すという。

「……私のせいだ」

 ぽつりとサリが漏らす。2人の視線がサリに集中する。サリは文字以外にも様々な知識を授けられてはいたが……それを役立てることはできなかったようだ。

「私が撃ち落としたあの鳥、あれは熊を呼び寄せる悪魔に憑りつかれていると聞いたことがある」

「お前のせいじゃないぞ、サリ」

「そうよ。貴女はセイノスの信徒として正しいことをしたのよ」

「それだけじゃない。みんなが止めたのに進むことを決めたのも私だ。その傷だって私を庇って受けた傷だろう!?」

 失敗した人を責めないのは優しさだろう。だが時として人は責められないことが何よりも苦しいことがある。今のサリはまさにそうだった。

 だからこそ二人はサリに届けるべき言葉を届けなければならない。そう思い、二人は顔を見合わせ、口を開いた。

「サリ、よく聞いてくれ。俺達は前の村長、お前の母親に恩がある」

「そう。あの人は私たちみたいな下働きの人間にも優しくしてくれた。亡くなってしまったのは私たちにも責任がある……魔物との戦いで手傷を負ったのよ」

 サリには親の記憶が少ない。しかし村の誰からも慕われていたことは何度も聞いている。在りし日の聖人たちのように母が人々から慕われていたのなら――強くあらねば。そう決意し、前を向く。

 しかしその足取りはすぐに止まった。目の前には急斜面が広がっていた。無傷のサリならともかく、負傷した二人には厳しい。

「迂回しよ――」

 そう言おうとした瞬間木が倒れる音が聞こえた。三人はびくりと身を竦ませる。熊の足音だ。こちら側に近づいてきている気がする。

 目を合わせる。すべきことは明らかだった。

「サリ、お前は先に行け」

「貴女だけでも先に戻って熊が現れたことを伝えるのよ」

「だが……」

「行ってくれ。俺達もすぐに追いつく」

 わずかにうつむいたサリはゆっくりと頷いた。

「必ずだ。また村で会おう」

 足を取られぬよう慎重に、だが迅速に駆け下りていく。

 その姿を見届ける前に来た二人は道を引き返す。

「これで少しは恩を返せただろうか?」

「ほんの少しだけなら。私たちは私たちの義務を果たしましょう」

 鈍い地響きはゆっくりと近づいていた。


 駆ける。走る。急ぐ。

 時に躓きそうになりながら、息苦しい森を進み続ける。

「神よ、私をお許し下さい。友を置いていく私をお許しください」

 罪悪感は消えない。ただ一人で祈るだけでは。

 そして今までよりもひときわ大きな地響きが轟いた。足を止める。

「二人が戦っているのか?」

 戻らなければならない。あれは自分が招いた悪魔だ。あの二人は自分をあんなにも思っていてくれたのに。だがすぐに村へ向かって走り出した。

 聖典にもある。魔物、ましてや悪魔との戦いで逃げてはならないと。

 聖典にもある。友人を見捨ててはならないと。

 聖典にも、聖典にも。にもにもにもにも聖聖典にににももああ、あああ。ああああああああ


 熊への恐怖が蘇る。まるで恐怖をせき止めていた壁が無くなったように、その恐れはくっきりと心に大きな傷を残した。

 呼吸は乱れ、体からは冷や汗が滴り、指先は震え、涙は止まらない。

 彼女の顔は恐怖に歪み、普段の彼女を知る人間からはサリだとはわからないだろう。

 もはやあれと戦うどころかその顔すらも思い出すことさえ恐ろしい。祈りの言葉も、敬礼も何千回と繰り返したはずのそれらは悪魔に吸い込まれたかのように思い出せない。

 否。そうではない。彼女が思い出せないのではなく思い出さない。言葉を出せば息が乱れる。動作を行えば足が止まる。つまり熊から逃げ出すための冷静な判断として、無駄な行為を行わないために思い出さない。

 恐怖に駆られて度を失いかけてはいるが、正気を失ってはいない。

 彼女は理性によって逃げ出した。信徒としての誇りも、友人の友誼も、前村長の娘としての義務も置き去りにして。ただ自分の身を守るために行ったその行動を――誰が非難したとしても彼は非難しないだろう。その結果が彼に不利益な物であっても。




 実のところあの二人はすでに死亡しており、今戦っているのは蟻だけだった。

 そしてあまり知られていないがこの世界のラーテルには、最後に狩った獲物と同じ生物を優先的に狙う性質がある。

 つまりこの場で彼女が戻ったところで何の意味もないどころか、村にラーテルを呼び寄せる可能性が高くなる。

 そう。彼女はトゥーハ村をひと時の間とはいえ救ったのだ。その選択を成したのは信仰でも祈りでもなく、彼女自身の怯懦と冷静な判断力だ。

 もしも彼女が敬虔なセイノスの信徒らしく勇敢で友情に篤ければこの時点で村は重大な危機に瀕していただろう。

 もちろん彼女は自覚していないし、それを理解したところで喜ばなかっただろう。そして彼女の賢明で妥当な選択は、蟻たちを重大な危機に陥れた。


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うちの猫は液体です 新作です。時間があれば読んでみてください。
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