460 西行記
少なくとも現在のクワイが窮状にあるという事実を認識していないものはこの場にはいなかった。強いて言えばファティだけが正確には認識していなかったが、危機的状況であるとは理解していた。
ただし、その窮状から必ず逆転できると信じるか、それとももうどうにもならないと諦めるか、あるいはそれ以外か、それらは個々人の胸の内に秘められていた。
しかしアベルの民から発せられた助けの手はその胸の内を暴く矢となった。
もっとも素早く、劇的な反応を見せたのは教皇だった。
「ありえません! 穢れた魔物に助けられるなどセイノス教徒の恥!」
これがこの場の大多数を占める意見だった。
誤解無きように注釈するなら、教皇は決して亡国の瀬戸際であることを理解していないわけではない。ただ国民の命よりもセイノス教徒としての義務、すべての魔物を救うという至上命題を優先しているだけにすぎず、セイノス教徒なら当然のようにそれに賛同するだろう。
どれだけ苦しんでも、命が絶えてもそれを恨むことなどないに違いない。だが、次のアベルの民の言葉は全くの予想外だった。
『何故ですか? 魔物に助けられてはならないと聖典には書かれていないでしょう?』
「!? 確かに記されていませんが……」
教皇たちへの衝撃は計り知れない。知恵無き魔物が言葉を話すどころか聖典の内容を理解しているというのはありえるべきではない事態だった。
『ならば助力を受け入れて何の問題があるでしょうか。我々が手助けしてはならない理由はあるでしょうか』
「……」
単純な理屈だ。
セイノス教徒にとって魔物は救うべき存在。その施しはあくまでも一方的だが、同時に施されてはならない理由はない。そもそもセイノス教は他者への奉仕を賛美する宗教なのだから。
が、しかしそれは奉仕する側、される側に知性があるという前提が必要なのだ。
そして、魔物とは知性なき哀れな生き物でなくてはならない。
この矛盾をアベルの民はどう説明するのか。
教皇は声を大きく張り上げる。
「ならば、なぜあなた方は我々と会話できるのです! 魔物に知恵などあるはずがないでしょう!」
侮辱ともとれる発言に、アベルの民は淡々と答える。もっとも、アベルの民に焦りや怒りという概念があるのかもわからないが。
『我々が我々となったとき、大いなる意思が我々に知恵を授けたのです。そこで我らは使命に目覚めました』
「使命……?」
『はい。生きとし生ける全ての助けとなる。それが我らの教義です』
教皇は今度こそ完全に沈黙する。アベルの民が語る使命。それは、セイノス教徒にとって救い、に近い。
であるのなら。
「あなた方はすでに聖別を受けているのですか?」
そう疑問をこぼしたのはタストだった。
本来聖別は王族の身が行える秘儀である。しかし何らかの奇跡により自然に神から聖別を受け取ったとしたら? アベルの民がこうして会話できる説明にはなる。
だがしかしそのような奇跡が起こるのだろうか? そう疑問に感じた教皇とその配下はふと横を見る。
まさしく神の奇跡をこの世に知らしめるために産まれた銀の聖女を見る。ここに確かに奇跡はある。であるなら、神が他にも奇跡を現すこともあるかもしれない。そんなことを考えていた。
黙ってしまった教皇に代わり、今度はアグルがアベルの民に質問する。
「では、あなた方は何故聖女様をご存じだったのですか?」
『我々はかねてよりこの地に興味を持っておりました』
「クワイに? いえ、そもそもあなた方は一体どこにお住まいなのです?」
『ああ、最初にそれを告げるべきでした。我々はここより西方に住んでいます。あなた方の言うところのスーサン領よりもはるかに西です』
この発言にも驚きを隠せない。
スーサンより西は悪魔の住まう荒れ果てた土地だとされており、そんなところに住まう生き物などいるはずがない。
だがしかし、神より直々に聖別を受けたのならば、そんな土地でも暮らしていけるのだろうか?
『そこで数多の敵と戦い、暮らしておりました。この地に、我らから見て東の地に興味を持っていましたが、強大な獣に邪魔され、思うように進むことができませんでした。しかしここ数年、獣の勢いが弱まっていったのです』
「……銀の聖女様は熊、スーサンの西に住む獣を何頭も打ち倒しました。それが原因でしょう」
アグルの言葉に教皇が言葉をかぶせる。
「国王陛下の討伐によって道が開けたのならば、これこそまさに神の思し召し。むげにするわけにはいきません」
『多謝。何度かこの地を行き来するうちにあなた様の光を目にする機会がありました』
「えっと、私の、まほ……神秘ですか?」
唐突に話題を振られたファティは少しばかり慌てている。というよりも話が大きすぎてついていくのにせいいっぱいだった。
『はい。あの神々しい輝き。我らはそれに魅せられました』
セイノス教徒にとって神秘の輝きはそのものの魂、心、肉体の輝きを示す重要な要素である。輝きが素晴らしいものほど人格者であり、尊ばれるべきだと幼少のみぎりより誰もが教わっている。
その尊さを共有できることは姿かたちが違っても、同じ価値観を持っていることを示している。
『ゆえに、我らはあなたがたを助けます』
誓うような、祈るような言葉。それに今まで黙っていたタストが応えた。
「助ける、といいますが具体的にあなた方は我々に何をしてくれるのですか?」
『あなた方に我々と一緒に来ていただきたい。西で我々と一緒に暮らしていただきたい』




