445 ラジカルドリーマー
エミシ、クワイ、およびそのほかの誰もが予期していなかった事態ではあった。
この大陸全土に外からの侵略者の魔の手が広がっていた。クワイにおいては醜悪で神を恨み続ける魔物として忌み嫌われている魔物である。
何故ならその魔物は神秘の輝きを一切受け付けないのである。これは彼女たちの教義にとって許されざる冒涜であり、存在そのものを許してはならないのだ。故に、その魔物には名前さえ付けられていない。通称は海から来る魔物。
その魔物のエミシにおける名は、クマムシ。その魔法は、魔法無効化。まごうことなきクワイの天敵である。
灰色の津波のように押し寄せるクマムシ。真に恐ろしいのはここが沿岸部から離れた平野であることだ。本来の生息地である海から大きく離れた陸地にさえ進出できる恐るべき適応能力を持つとは誰も予想できなかった。
クマムシにとってこれは新天地を求める行為なのかもしれない。すでに海岸は無数のクマムシで埋め尽くされており、それらが命を繋ぐ食料を見つけるために陸地に進出したのかもしれない。
が、ひだまりの広さは限られている。クマムシの進出は他の生物を押しのけることによってしか果たされない。
クマムシを忌み嫌い、事実として天敵であるセイノス教徒にとってまさに地獄のような光景だった。
だがもちろん栄えあるセイノス教徒である彼女らには地獄を目前としても恐怖などない。邪悪で低俗な魔物を許しはしない。
神に愛され、救いをもたらし、清く正しい彼女たちが負けるはずは――――あった。
数百人からなる小軍団は数匹のクマムシに傷一つさえつけることができずに駆逐されていく。精神のあり様が戦闘の勝敗に直結しない好例であるだろう。
むしろ途轍もない雑食であるクマムシにとってこの突撃は何故か自分から進んで食べられに来る不思議な獲物がまだ潤沢にいることを示し、結果的にクマムシへの呼び水になってしまったことを踏まえれば完全な悪手だった。
クマムシは歩を進める。人口の多い方角へ向かう群れはクワイ建国以来一度もなかった未曾有の危機だった。
だがしかし、いついかなる時も神は我らを見捨てない。それをクワイの民は知っている。最期の希望――――銀の聖女がいる限り、決してあきらめることなどないのだ。
銀色の光が一閃する。
見よ、これこそ不遜なる悪魔を裁く光。哀れなる魔物は清められ、楽園にて安らかに眠るだろう。
今まで蹂躙されるばかりだったセイノス教徒たちは一斉に祈りを捧げ、歌を唄う。
それらは全て銀の聖女にして、クワイの新たなる王を讃えていた。
戦場から離れた町、その一室で、タストとウェングは勝利に沸き立つ他とは違い暗い顔を突き合わせる。
「偵察に向かわせた連中の話によると、ここから南にある村は壊滅していたらしい」
ウェングは運よく合流できた遊牧民の一部を纏める立場になっており、その機動力を活かして各地の情報収集にあたっていた。
「そうか。こっちも、やっぱり無傷では済まなかった。あれだけ言い含めているのに、網を投げる前に突撃する兵が後を絶たなかった」
握りしめられた拳は固く、しかしぶつければ粉々になりそうなほどに頼りなかった。
タストが立案した作戦はこうだ。
まず網を投げつけ、動きを封じる。そののち<光剣>で切り続け、敵を仕留める。実際には傷一つつけられないのだが、それでも闇雲に突撃するよりはましなのだ。
タストとしては練習のつもりだった。今回の海から来る魔物はたった数匹。入念に準備を重ねれば、問題なく蹴散らせる。だがふたを開けてみればまともに拘束さえできない始末。もしもファティがいなければ被害がさらに増大しただろう。
「こんなはずじゃなかった……僕らだけでも、上手くやれるはずだったんだ……」
こんなはずじゃない。もはやタストの口癖になっている言葉だった。誰しもがそう言いたくなる時はあるだろうが、最近は度が過ぎていた。
「なあ……やっぱりファティちゃんに俺たちに従うようにいってもらった方がいいんじゃないか?」
「僕らが最近どんなことを言われているのか知ってるだろう? 余計従わなくなるよ」
タストとウェング、そしてアグルは陰口を叩かれることが増えた。少なくとも本人の耳に届くほどに。
曰く、聖女様の腰巾着。男の分際で聖女様に近づく不埒者。これでもまだいい方で、聖女がいなければ何もできない無能などと揶揄する声もある。例え銀の聖女に言い含められたとしても、そんな自分たちの命令を素直に受け取るだろうか。
だがウェングはタストの本音はそこではないと推測していた。
要するに惨めなのだ。女に頼らなければ人一人まともに動かすことができない無力さが。
何しろ、ウェング自身も同じようなことを考えているのだから。
ちっぽけなプライドを捨てられない。そう自覚していても、すべてを論理のもとで進められるほど二人は賢明ではなかった。




