441 ここでないどこかへ
翡翠だったものが光の粒となって消える。
それを見送るのは小さな蟻と老人の影。だが不思議なことに、小さな蟻はみるみるうちに巨大になり、老人を軽く見下す巨体になった。
「どうやら権限の委譲はうまくいったようですね。寧――――おっと、もう君の名前は呼べませんね。今の気分はいかがです?」
「……元の体に戻ったのはどういうわけです?」
「簡単ですよ。我々管理局員は自分が本物だと認識している姿になるのです。服装くらいなら問題にはなりませんが、根本的に姿を偽ることはできないのです。それよりも私の部下として働――――」
「断ります」
寧々はきっぱりと断る。躊躇いのかけらさえない返答に百舌鳥はわずかに頬を引きつらせる。
「そうは言ってもだね。君も翡翠を誅することによって彼の権限を獲得し、管理局の一員となったんだ。私の部下にならなければならないのだよ」
「お断りします。あなたの仕事ぶりはもうわかりました」
「わかっただろう? 私の有の――」
「いえ無能でしょう、あなたは」
ぴしゃりと言い切った寧々はすまし顔だった。
「私がここまで来られたのは偉大なる先達である小春と、私の後に続いた忠実な将軍翼のおかげです。あなたがやったことは私に名前のルールを伝えたことだけです。それとも私が部下にならなければ何かまずいことでもあるのですか?」
百舌鳥は表情を石のように固めており、何かを隠していることは容易に察せられる。
だが百舌鳥は厚化粧のように言葉を上塗りする。
「君の協力には感謝している。管理局員同士はお互いの本名を呼べない。私では翡翠を排除できなかった。私の助言に従い、監理局の運営を正常に戻した君の功績は大きい。だから私の部下に――――」
「くどい。私の上に立っていいのは紫水だけです。どうしてもというのならあなたが私の下につきなさい」
イライラが限界を超えたのか、百舌鳥は遂に演技をかなぐり捨てた。
「ふん! あの蟻の何がいい? 何一つ気付かずに私の庭を蠢くだけの害ちゅ――――」
「いいえ。あの方は少なくともあの世界、アベルが作られた世界である可能性に気付いていましたよ」
「何……?」
くるくると表情を変え、そのたび無表情になる百舌鳥。本人は感情を押し隠そうとしているのが簡単にわかっていっそ滑稽だった。
「鉱石などの資源が大きく異なり、魔物と呼ぶべき存在がいるのにもかかわらず、生態系や環境などは地球と致命的な差がなく、さらに生物の姿かたちも似ている。こんなことはおかしい。さらに化石資源などが全く見つからないことから、生物が異常な速度で進化した、あるいはどこかから連れてこられた。そう考えることは可能です」
百舌鳥は遂に押し黙り、ぴくぴくとこめかみを振るわせ始めた。
「もしかしたら環境などを改竄するテラフォーミング技術のようなものを使っているのかもしれませんね。まさしく神の御業でしょう。ま、地球をまねたのではなく、さらに真のオリジナルが存在するのかもしれませんが、それは今の私たちには関係のないことです。私たちが気にするべきなのは、なぜそれほどの力をもつあなた方がたかが蟻一匹殺せないのか。それだけはどうしても紫水でさえ謎を解けませんでした」
百舌鳥の顔は赤く、噴火寸前の火山を思わせる。それを見て寧々は自分の推測の確信を深めていく。
「ですがわからなかったのも無理はありません。神。あれをそう呼ぶべきかはわかりませんが、あれと繋がり、端末になった今の私なら記録を閲覧できます。ええ、まさに驚天動地でした」
わざと言葉を切り、反応をうかがってから真実を突き付けた。
「まさか自分よりはるかに優秀な前任者をあなたが消滅させたせいで、技術や知識さえも失われてしまったとはね!」
寧々の嘲笑と揶揄を受けた百舌鳥の反応は恒星の爆発よりも強烈だった。
翡翠でさえも見たことがないほど顔を膨らませ、今にも寧々にとびかかりそうな激しい怒りを漲らせていた。
そんな百舌鳥を意に介さず寧々は言葉を続ける。
「困りきったあなたはよその支部に頭を下げて何とか地球と前任者が事実上管理していた世界を運営できるようになった。その過程で使えるリソースが少なくなり、発言権が低下してしまったのは無様としか言えませんがね!」
ぶるぶると怒りに震え、黙っていた百舌鳥はやがて完全に動きを止め、不気味なほど冷静な声で寧々に尋ねる。
「言いたいことはそれで終わりか?」
「ええ。概ね言い終わりました」
「そうか。なら貴様は――――死ね!」
百舌鳥の宣言と共に、寧々の体が先ほど消滅した翡翠と同じような光に包まれた。
「く。くくく! はははは! 知らなかったか!? 我々が消滅する条件は二つ! 転生前の転生者に名前を呼ばれること! そして、直前に転生していた世界で完全に存在を忘れられること! お前はもう地球では誰も覚えていない! だから消える!」
「よく言いますよ。初めからそうするつもりだったくせに」
「んん? まあ否定はせんがね。最初から君は殺すつもりだった。そして君の仲間は君が死ねばすぐに死ぬように仕組んであった。どうかな? これで私が完璧な存在だとわかっただろう」
「愚かですね」
「ああん?」
あくまでも余裕を失わない寧々に苛立ちを隠せない百舌鳥。
「あなたは自分が大人物だと思っているようですがそれは間違いです。本物の偉大なる人は、自らの失敗を受け入れ、それを糧にできます。あなたは自らの失敗を受け入れられない。失敗を恥で上塗りし続けるだけです。いつか、あなたには紫水の牙が届くでしょう」
一瞬ぽかんとした百舌鳥は怒りの化身そのものと呼ぶべき顔つきで寧々を殴る。巨体であるはずの女王蟻の体は中身のない人形のように軽々と宙を舞い、床を転がる。
「は! 負け惜しみを! お前のやったことは全部無駄だよ!」
「いいえ。私はすでに任を果たしました」
光となって消えさりながらも、寧々は冷静に、淡々と恐怖など感じさせずに百舌鳥に遺言を残した。
その爪痕に不吉さと恐怖を感じ取り、寧々が行った記録を必死で閲覧する。そして何をしたのかはすぐにわかった。
「転生者が……ろ、六百!? あの短時間で!? いつの間に処理した!? いやそもそもなぜこんなタイミングよく……まさか、私が殺すよりも先に、転生者同士で殺し合わせて味方を転生させたのか!?」
まさしく死を恐れぬ計画的犯行に戦慄する。
「しかも自分の記憶の一部を転写して……いや、俺の名前に関する情報はほとんどない。は! 驚かせやがって! あんな奴らが俺の本名をわかるはずはない。結局てめえらの人生は無駄だったってことだ!」
高笑いする百舌鳥は自らの勝利を疑っていなかった。




