41 トランプの絵柄は定まっていない
話し終えたトラムは大きく息を吐いた。自らの意思が弟に届いたことを信じて疑っていない。
「兄さん。あそこで何か動かなかったか?」
「どこだ?」
アグルが指差した方向へと目を向ける。
そして軽い衝撃と何かが裂ける耳障りな音。
「……?」
胸を見る。何もかもが赤く染まっていたが、飛び出した剣だけが白かった。
誰が何をしたのか。それすら理解できずにトラムは絶命した。
「……夢を語っている兄さんはいつも輝いていた。そんな兄さんを応援することが誇らしかった。でも姉さんのせいで兄さんは堕落した。夢を捨てて無難な生き方を選ぼうとした。そんな兄さんは見てられないよ」
彼の手は震え、瞳からは涙が零れ落ちる。もう取り返しはつかないが。
「女はいつだってそうだ。自分は何もせず、理不尽な要求を突き付けてくる」
はじめは穏やかだった口調は徐々に怒声どころか咆哮とさえ呼べるほどになった。
「おかしいだろ! 兄さんは姉さんよりも、誰よりも優秀だった! なのに、なのに、なのに!」
息を吸う。肺から呪いと嘆きと怒りが絞り出される。
「男だからなんて理由だけで修道士より上には行けない! それどころか姉さんが巡察使だから修道士になれたなんて言われる始末だ!」
慟哭は響く。人のいない虚ろな森に吸い込まれていく。
「今年産まれた教皇の息子だってそうだ! 男だから教皇どころか司教にさえなれやしない! 田舎の土地を与えられて、閑職に追いやられるに決まってる。そのくせ政治の実権を握ってるのは全部教皇だ! こんな世界間違ってる!」
彼はようやく落ち着いたのか、その口調は幾分穏やかになっていた。
「だから俺は変えてみせる。あいつを使ってのし上がってこのクワイを変えてみせる。兄さんの本当の意思を継いで誰もが理不尽な差に苦しまない、博愛に満ちたクワイに変える!」
踵を返し、速足でその場を去っていく。静寂に包まれた森には死体一つだけが残された。
それを見守っていた人間はいない。人間は。
「何じゃ、こりゃあ」
いやいやまじで何? 誰か何が起こったのか解説プリーズ。あまりにも急展開すぎて指示を出す暇がなかった。
弟が兄貴を刺したらいきなり叫び出しましたよ、奥さん。この世界の人間にはいきなり叫ぶ癖でもあるのか? 危ない人には近づいちゃダメだっておじいちゃん言ってた。嘘です。オレが物心ついた時には祖父母は皆亡くなってた。いかんまだ混乱してる。
話を要約すると可愛さ余って憎さ百倍ってか? どこの昼ドラだよ。この世界のヒトモドキちょっとやばすぎない? まともな奴が一人もいねえ。
そろそろドン引きするのはやめて重要な情報を確認しよう。あの男が正確にこの世界の事情を見ていたのかはわからないが、嘘はついていないだろう。あれが演技だとは思えないし、そんなことをする必要もないはずだ。
まずこの国は宗教国家である。なんてこった。オレの嫌いなもんが世に蔓延っているとは。
聞いた感じだと宗教のトップが政治を行っているようだ。政教分離なんぞ概念すら存在しないに違いない。巡察使が相当敬意を向けられていたのはそういった背景があるんだろう。なんでこんな世界に転生したかなあ。
次はまたしてもオレの頭の固さを証明してしまったようだ。
この国は女系国家らしい。オレの中に教皇や国王は男性だという既成概念があったみたいだ。正直ちょっと驚いた。
でもよく考えてみよう。男か女のどちらかが国家元首になる単純な確率は二分の一だ。もちろん雌雄の数が同数であると仮定した場合にだが。地球ではたまたま男性が権力を握って、ここでは女性が権力を握っただけ。それこそ地球の方が少数派である可能性も否定できない。
蟻に至っては全て雌だし、自動的に女系国家にしかならない。もしも異世界がここ以外にもあるのなら統計でも取ってみたいな。
また脱線した。ではこの情報は何かの役に立つか。まあ正直あんまり役に立たない。クワイとかいう国のトップに誰がなろうが、蟻に対して友好的になるとは思えない。それに弟は差別のない国と言っていたがそれは人間にとって差別のない国であって、人間以外の動物については何も語っていなかった。ようするにそういうことだ。
人はそう簡単に変わらないし、人の集合体である国はなおさらだ。面倒ごとに巻き込まれる前にさっさとこの国を出るだけだ。
そういえばなんであいつ死体を置いていったんだろう。事件の証拠になるのに。
ああ放っておけば魔物が死体を片付けると思ったのか。はっ、ならオレがあの死体を確保すれば弟の犯罪を示す証拠になるんじゃ!?
名探偵よろしく犯人はお前だ! 証拠はここにある! なんて言えるんじゃないか!?
「お前らそこの死体を巣まで運べ! できるだけ急げよ! ただ魔物に襲われたら置いていっていいぞ」
「いえすゆあはいねす」
どこで覚えたんだその言葉?
後で考えれば、情報が多すぎたせいで混乱していたんだろう。見落としている問題が多すぎた。
まずあの村の文明では死体は物的証拠になり得ない。
というか、近代以前においては物的証拠という概念が乏しく、犯人であるかどうかは基本的に自白が優先される。現代人には理解できないほど「人間」の証言が第一だ。
犯人が人間でない場合は被害者の証言がほぼすべてであると言い切ってよい。それが真実であるかどうかなどそもそも考慮しない。魔物が証言するとは思考の端にすら乗せていないからだ。
今回の加害者がどういった行動に出るかなどわかりきっていたはずなのに。




