405 虚栄の熾火
ある女性は重いペストに侵され、生死の境をさまよっていた。
しかし銀の聖女様が奇跡をもたらし、その命が悪魔に穢されることはなかった。……つまりストレプトマイシンによってペストが治った。
後半の事実は村人が知るはずもなく、聖女様のおかげだと固く信じていた。
こうして快癒した女性は聖女……つまりサリとの面会を希望し、直接礼を言いたいと語り、サリはそれに応えた。
事実上監視役の美月はなるべくサリが他人と接触することを避けるように命令されていたが、たった一人の病人と会うだけなら大事にはならないと判断した。
こうして念のために人払いをした家屋でサリは面会することになった。念のために美月は隣の部屋で待機していた。
「お加減はいかがでしょうか」
「はい。聖女様のおかげで峠を乗り切りました」
感謝の言葉に対して笑顔で応える様子は聖女のように見えなくもない。
だが……。
「聖女様。ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい。何なりと」
「聖女様には御姉妹がいらっしゃいますか?」
ぴしりと笑顔に目に見えないほどの小さなひびが入る。そのひびの奥には目立たないようにしてあるが決して消えない傷がある。
傷を見せないように丁寧に、崩れそうな橋を渡るようにゆっくりと返答する。
「……何故、そのようなことを?」
「私は一度だけ王都ハンシェンに赴いたことがあります」
「もしやリブスティですか?」
「ええ。もっとも商品を卸しただけですが」
リブスティは大きな祭りであるがゆえに例え地方に在住していても何らかの理由で訪れるセイノス教徒も多い。
とはいえ直接銀の聖女と会ったことがある者はいないとたかをくくっていたが……。
「銀の……私の顔を見たことが……?」
声が細くなるに伴い、表情には陰りが増えていく。
「いいえ。ですがあなたとよく似た赤い髪の女性を見ました。あの方は一体どなたですか?」
病人だった女性は屈託なく笑っているが、サリは忍び寄る過去に膝が震えていた。何しろその赤い髪の女性とは、サリ自身の本来の姿なのだ。
「私の……姉……のような人です」
銀の聖女から見たサリの立場を説明する。
かろうじてまだサリは銀の聖女だった。
「お姉さまでしたか。その美しい御髪以外はよく似ていますね」
「ええ……よく言われます」
村人が全く疑う様子を見せなかったおかげで徐々にサリは落ち着きを取り戻し始めていた。しかしそれも次の言葉で吹き飛ぶ。
「ですが聖女様の<光剣>とは比べるべくもありません。あの方が敬礼する姿を見ましたが、ありふれた<光剣>でした。王都ハンシェン全てを照らすような聖女様の<光剣>は誰にも及びません」
クワイ、あるいはセイノス教独自の価値観だが、銀髪を例外として顔の美醜をあまり気にしない。それよりも魔法の剣の輝きを貴ぶ。その心の気高さが剣に表れると信じているのだ。
ゆえに他人の<光剣>をわずかなりとも罵倒することは地球人にとって髪や肌の色を侮辱することに匹敵、あるいはそれ以上に屈辱なのだ。
「ですが……その、姉は……『私』の教育係を務めておりまして……」
「ご謙遜なさらないでください。気高い聖女様ならば教育係などいなくとも、必ずや立派になられたことでしょう」
女性にとっては敬意と感謝を込めた言葉だったのだろう。しかしサリにとっては……耐えられなかった。
「――――」
サリが顔を伏せる。
隣の部屋で様子を窺っていた美月は何かが壊れる音を聞いた。現実に発生する音ではなくサリの心の中にあった何かが壊れる音。
止めなければならないと判断し、二人がいる部屋に踏み込んだ時にはすでに遅かった。
「聖女さ――――え?」
顔を上げたサリの表情は……憤怒に彩られていた。血走った目に浮かび上がる血管。
女性は目の前にいるのが誰かわからなかった。先ほどまで会話していた銀の聖女様はどこに行ったのか本気で心配し始め、まるで夢の中にいるようだった。だから目の前にいる誰かが腕を振りかぶっていても全く危機感がなかった。
サリは右腕を全力で女性の顔に叩きつける。
女性の歯が砕け、サリの右腕に鈍い痛みが奔る。
床に倒れた女性が殴られた頬をおさえ、茫然とサリを見上げている。サリはその手を払いのけ、今度は左腕で殴る。
「私が、私は、あのガキよりも、素晴らしいんだ! あんな私がいなければ何もできないような子供に、私が劣っているはずがない!」
心にたまった言葉を吐き出しながら殴る。いつしか馬乗りになり、ろくに身動きもできない状態に追い詰めてもまだ殴り続ける。
遠慮や容赦、そして痛みは全て怒りが吹き飛ばす。
「あの、あんなガキは! 私が教えなければ何もできなかったんだ! ちょっと髪の色が銀色だからってちやほやされて! 調子に乗って! 認められるべきなのはあいつじゃない! 私だ! あいつの称賛は全て私に行くべきだったんだ!」
むちゃくちゃな理屈を喚き散らし、その言葉よりも勢いのある拳を振り回す。
拳は血に濡れているが、その血は二人の体から流れ出た血だ。それほど殴れば気絶してもおかしくはないのだが、女性はかろうじて意識があった。
「も、申し訳ありません。聖女様」
か細い声で、許しを請う。
女性は訳が分からなかった。突如として聖女様が悪魔にとりつかれたように思えたが、そんなことは起こりえないと確信していた。
ならば結論は自分が聖女様に言ってはならないことを言ってしまったということ。聖女様が理由もなく誰かを殴るはずなどないのだから。だから絶対に悪いのは自分に決まっている。
その卑屈な論理はある種の自己防衛だったのだろう。
自分より立場が上の相手から虐待や暴力を振るわれた者の思考としては珍しくない。だから今できる最大限の誠意として謝罪し続ける。
しかしそんな言葉はサリの耳には届かない。
「私が、私こそが聖女だ! あんなやつよりも私の方が真摯に祈っている! 救いをもたらすために努力している! 私こそが聖女と呼ばれるにふさわしい!」
「そ、その通り……です。あなたこそ……聖女にふさわしい……」
息も絶え絶えのその言葉でサリはようやく動きを止めた。
荒い息をどうにか鎮め、我に返ったサリの視界に入ったのは涙と血に塗れ、顔が腫れ上がった女性だった。
冷静になるにつれて赤黒く染まっていた顔が蒼白になる。誰がどう見てもこれは大失態だ。
無抵抗の信徒を殴るなど聖女とはとても思えない。
失敗をすればどうなるのか。自分自身が聖女だと信じ切っているが、しかし命を握られているという立場を忘れてはいない。
自分がどんな立場であっても自らの保身のためならばサリはいくらでも頭を巡らせることができる。長所と呼ぶには杜撰すぎ、短所と呼ぶにはずるがしこすぎる彼女の知性が警鐘を鳴らしていた。




