392 絶望を捨てよ
門をくぐり、王宮に足を踏み入れる。
そこにあったのは華美な邸宅や荘厳な聖堂――――などではない。
むしろその逆。
見渡す限りの田畑。
土と水、そして緑の匂い。遠くには畑仕事にいそしむ百姓がいた。見間違えようもなく、牧歌的な光景。
クワイの民にとって王族の暮らしは謎に満ちている。ただひたすら寝食を忘れて祈り続けているという話や、豪華な屋敷で享楽にふけるという不敬な妄想を行う輩もいる。
だが目の前の風景はどこにでもあるクワイの暮らしそのものだった。
これでは教皇の方がよほど贅沢な暮らしをしているだろう。
「ここが……王宮ですか……?」
ぽかんとした口から言葉をこぼしたのはファティだ。駕籠は門の前に置いてきたので珍しく彼女は徒歩だった。
答えるのは王族の付き人の一族である、一、だ。
「はい。ここが王宮であり、ここで住まう人々は皆王族です」
ぎょっとして遠くで土を耕す百姓を見る。
「つまり、あそこにおられる方も……?」
「はい。王族の一員です」
一行の中にある王族の想像図が音を立てて崩れる音が誰の耳にも聞こえた。
一足早く正気に戻ったのはタストだった。
「よく考えれば当然かもしれません。王宮で暮らしているのは王族だけですし……外界と隔絶されているわけですから生活は自給自足になるのですよね」
「その通りです」
一、はさも当然という風にうなずく。彼女にとっては王宮と王都の往復こそが生涯をかけて行う仕事であり、日常の一部なのだ。驚くべきはその暮らしぶりを誰一人として他人に漏らさない付き人一族の忠誠心だろう。
「俺……本当ならここで一生暮らすはずだったのか……?」
タスト以外に聞こえないように漏らしたのはウェングだ。
彼は王族だがトゥッチェの民に預けられた。その境遇に各人が抱く感情は様々だが……王族のままここで暮らしていれば決して一生ここから出られないはずだった。
それならまだそこら辺の農民に産まれた方がまだ立身出世の余地がある分ましだっただろう。
タストはその独り言を黙殺しつつ、歩き始めた、一、を追い始める。
ぞろぞろと、一、に率いられた修道服の集団はこの王宮にいかにも似つかわしくなかった。
一行は身分を隠すためにごく普通の修道服を着ていた。しかし王宮に入るので可能な限り衣服を整えていたが……これでは擦り切れた服の方がいくらか目立たないと思えたほどだ。
百姓……にしか見えない王族の方々が一行を横目で眺めている。これがクワイの尊敬と忠誠を一身に集める王族なのだからどうにもいたたまれない。
(でも考えればおかしくないか)
タストは浮足立つ一行に比べて比較的冷静でいられた。それは彼がクワイという国家に対し先入観というものを捨て去ろうとしているからかもしれない。
(きちんと暮らせば人口は増える。人口が増えればどうしても下働きが必要になる。場合によってはあぶれた人口を外に出す必要もある。そういうことを王族は繰り返してきたのかもしれない)
目の前の光景をわずかでも見逃すまいと目を皿にする。
が、そこで目の前に簡素な衣服をまとった女が立っていた。たくましい腕に日に焼けた体。何人か成人した息子がいそうな年齢で、農婦という言葉を辞書で引けば彼女が出てくるかもしれない。
誰だろうか。
一行が不思議そうな視線を向けると、一、は跪き<光剣>を差し出す、最敬礼を行った。
「銀の聖女様をお連れしました。陛下」
ぽけっとした表情をしたのもつかの間。
教皇は、一、に続いて最敬礼を行い、ようやく他の者もそれに倣う。
この農婦にしか見えない女性こそがクワイの王。
クラム・タミル・リシャオ・リシャン・クワイ国王陛下。
跪いて見えなかったが、国王はすたすたと歩き、やがて誰かの目の前で止まり、声をかけた。
「初めまして銀の聖女様。私が国王です」
突然の出来事に混乱しきっていたファティはかろうじてこう返した。
「は、初めまして」
国王は泊まる場所に案内します。そう言って集団の先導を始めた。
「我々の暮らしぶりが意外でしたか?」
温和そのものの顔つきと声で国王は語り掛ける。小麦色に焼けた肌からは太陽の匂いがする気がした。
「はい。みなさん、とても穏やかにくらしておられるんですね」
「ええ。土を耕し、育て、神と救世主、我々を支えてくれる民に日々感謝しています」
気負いや傲慢とは無縁の声音だった。きっと国王はこれからもここでゆっくりと暮らしていくのだろう。そう錯覚するほどに。
「我々王族の使命はありとあらゆる命を育て、聖めることです」
「聖める?」
「はい。聖別は清浄なる空気と土があるこの土地でしか行えません。故に、この場で少しでも多くの命を聖め、民が安らかに暮らすための一助とさせていただきます」」
確かな自負と、顔も名も知らない民たちを思いやる心。徳の篤さが心の奥まで根付いているのだろう。
「陛下、その、とてもすばらしいことだと思います」
誰かを想い、その為に祈り、何も傷つけることなく眠る。ファティにとって国王は理想の人間の姿だった。
「ありがとうございます聖女様。不躾かもしれませんが……あなた様の<光剣>を見せていただいてもいいですか?」
「はい。わかりました」
手を天にかざす。雲を切り裂くほどの銀の剣が屹立する。
周囲にとって見慣れた光景だったが、ふと国王を見ると静かに涙を流していた。
「へ、陛下?」
「いえ、仔細ありません。感動のあまり涙が出てしまっただけです」
目元を拭った国王は――――周囲が止める間もなくファティに跪いた。
「聖女様。あなたこそまさしく救世主の再来。本来であれば王位を謙譲しなければならないでしょうが、国王はその命が尽きるまで務めるのが習わし。ご容赦くださいませ」
空気が固まる。
セイノス教徒にとって今の言葉はあまりにも重い。絶対不可侵にして天上に最も近い存在である国王が自らその地位を譲ると言ったのだ。それはもはや銀の聖女がこの地上で最も尊い存在であることを国王が認めたに等しい。
「聖女様。あなたは、この世界を救ってくださいますか?」
唐突な質問に気後れすることもなく、はっきりとファティは答える。
「はい。もちろんです。私がみんなを救います」
ゆっくりと顔を上げた国王はファティと目を合わせ、ゆっくりと微笑み、ファティもつられて笑顔になった。
「では、私もあなた様が世界を救うさまを隣で見ることを許していただけますか?」
「え? でも、ここの土地はどうするんですか?」
ファティも幼いころは農作業を手伝っていた。何の手入れもされていない土地は荒れると知っている。
「御心配には及びません」
ゆったりと微笑む国王がそう言うなら大丈夫なのだろう。ファティはそう思ってしまった。
「わかりました。一緒に行きましょう」
二人は共に笑顔で見つめ合う。
だがお互いに致命的な齟齬を抱えていることに気付かない。
ファティにとっての救いとは命を救い、守ること。つまり平和だ。
国王、あるいはセイノス教にとっての救いとは魔物を滅ぼし、楽園へ旅立つこと。この世の命に固執することなど意味はない。例え死しても楽園に旅立てば救われると信じている。
その齟齬を十分に認識しているのはタストだけだった。




