391 その門をくぐる
エミシが新たな敵と戦い続けているとは露知らず、クワイの民は我々こそが邪悪な蟻を討つのだと息を巻き、陸地を呑む津波のように樹海に向けて東に進軍していた。
しかしそれに反して銀の聖女や教皇などのクワイの中枢たる人物たちはその波とは逆方向に向かっていた。
目的地は教都チャンガンの西に位置する王都ハンシェンに向かっていた。
本音を言えば速やかに樹海に向かいたかったが、国王から直々の呼び出しでは断るわけにもいかない。
だが人の流れと反対となれば否が応でも目立つ。特にタストやアグルは今までの経験から敵がこちらの位置を把握するすべを持っているのではないかと疑念を感じていたので一計を案じた。
教都チャンガンから決戦前の巡礼という形式をとって王都ハンシェンに集団で向かわせたのだ。木を隠すなら森。人を隠すなら人。タストたちは巡礼の集団に紛れて王都に旅立った。
あるいはエミシ側はラーテルや西藍と戦ってさえいなければ十分に捕捉しえたかもしれないが、結果としてエミシ側は銀の聖女の行方を完全に見失ってしまった。
文字通り切り札を隠すことに成功したのだ。それはタストやアグルが想像している以上の戦果だったが、やはりそれを確信するのは難しかった。
なぜ今ここで王族がファティを呼ぶのか。ここでファティが戦場を離れてもよいのか。そしてそもそもの用件は何のなのか。
様々な不安に苛まれながらもファティとタストにとってはリブスティ以来となる王都へと向かっていた。
十数日をかけたどり着いた白い王都は以前と変わらずにそこに聳え立っている――――ように見えた。
だがタストはぬぐいようのない違和感に襲われていた。どこが違うというのではなく、全体的に陰っている。人々の顔が暗いのではない。辺りを行きかう人々の顔は教都チャンガンと同じく、あるいはそれ以上に歓喜の表情を浮かべている。
なのに、暗い。
それが町の空気や人々の様子といった形而上ではなく、物理的、視覚的な形而下の産物であるとようやく気付いた。
単純に以前訪ねたときよりも王都ハンシェンは汚れているのだ。一度見たものを忘れないタストにはそれがはっきりわかった。
以前は曇り一つなかった王都の白い街並みがところどころ薄汚れており、ひびが入っている場所もある、まるで掃除を手抜きしているようだった。
しかしふと記憶を思い返せばこの町を誰かが掃除していた記憶などない。これだけ白い街並みなら少しでも手抜きがあればすぐにわかるだろう。
タストはこの国の様子というものをほとんど御簾越しにしか知らない。だから普段誰が道端を掃除しているかは知らない。もっとも前世でもそんなことを気にしたことはなかったが。
今は気にするべきだろう。自分はあまりにもこの世界のことを知らな過ぎたから。
「私どもも不思議に思っております。何故千年間穢れを知らなかった都が黒ずんでいるのかを。恐らくは邪悪な悪魔がこの世に顕現している証でしょう。しかしながら悪魔さえ討ち果たせば元に戻り、我々が楽園に旅立つ姿を見送ってくれるでしょう」
王都の住人に質問をすると、同じような言葉だけが返ってきた。
つまり誰一人としてこの都を掃除していたのか知らないどころか、そもそも掃除が必要だとさえ思っていなかった。
道具を使い続ければいつか壊れる。そこに住んでいればそれだけで汚れる。それが自然の摂理。
ならば誰かが普段から掃除していたのだろう。それも、働いていることさえ知られていない誰かが、それこそ妖精のように。
「魔物に掃除をさせていたのか……?」
ありえる話だ。
農家では掃除するのに海老の魔物を使っていた。ここでも何かの魔物を建物の修繕に使っていたのかもしれない。
まっとうなセイノス教徒なら聖別を受けた魔物の行動は害がない限り見て見ぬふりをする。
だが、それがこの町の為に懸命に働いているとは思うまい。知らず知らずのうちに魔物に依存しているのがこの国の真実だ。
だが、今なぜ掃除が滞っているのか。
辺りを見回すと、魔物の姿が全く見当たらない。
「まさか……蟻の転生者が何かをしているのか……?」
恐らく敵対している転生者は魔物を操れる。
この都の魔物を操り……いや、それなら直接襲わせた方が早い。
「……何を企んでいる……?」
じわじわと牙城が崩されている気配を感じながら、ますます焦燥が募っていった。
その焦燥は一部正しい。この国から魔物の姿が消えていることはエミシの計略なのだった。
翌日、宿を出た一行のもとにある女性が尋ねてきた。意図的にその人となりを示す表情や服装を消した黒子のような人物だった。
「初めまして。教皇猊下。銀の聖女様。王族の下働きを務める、一、でございます」
丁寧な祈りを捧げながら、女性は懐から一枚の刺繍を取り出した。聖旗を簡略化したその模様は王族に仕える一族であることを示していた。
「一、殿。陛下からの御用をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
教皇でさえ上から物を尋ねられないその人こそ王族の付き人の一族。ほとんど王宮から出ない王族の意志を代行する役割を持ったその一族は名前を与えられず、数字でお互いを区別するのだという。
タストは初めて会ったが、教皇は何度か会ったことがあるのだろう。
「はい。偉大なる国王陛下からの御達しです。あなた方を王宮に招待するとのことです」
その場は驚愕のあまり誰一人として言葉を発さず、静まり返った。
正確に言えば、王宮は王都の内部にはない。王宮を守るように扇状に王都が広がっており、王都に面していない場所は全て険しい山に遮られ、極めつけのように王宮そのものは険しい壁に遮られ、誰一人として寄せ付けない。
用意された駕籠に乗り、ちらりと横目で自分の母親である教皇の顔を見ると、緊張のあまり蒼白になっていた。
教皇でさえ王宮に入るということはそれほどに重大な事件なのだ。
どれほど揺られていたのかはわからない。だがやがて、巨大な門の前にたどり着いた。
一、が何事かを叫び、門の横わきから手だけが差し伸べられた。その手に一、が紙を乗せ、その手がまた門の向こうに消える。
符丁か何かだろう。一片の誤りもあればこの門は決して開かれないに違いない。
やがて重苦しい音を響かせて門が開く。
このクワイで、王族以外ほとんど足を踏み入れていない聖域の扉が開こうとしていた。




