390 その血の行方
窒素からアンモニアを作成する場合、その最大の障害は空気中の窒素、分子式はN2、の窒素同士の三重結合である。
この結合はとんでもなく固く、それをぶった切るための手法こそハーバーボッシュ法とも呼べる。
が、しかしそんな三重結合をいともたやすくぶった切れる奴らがいる。
それこそが窒素固定生物。
農業的に関りが強い作物がマメ科植物だ。多くのマメ科植物が窒素固定細菌である根粒菌と共生しており、それらが痩せた土地でも育つのはこの根粒菌が関わっている。
ここまでは以前も少し話したかもしれない。
そして窒素固定を行う場合、ほぼ間違いなくニトロゲナーゼを持つ。まあ正確に言うと窒素の三重結合を乖離できる酵素をニトロゲナーゼって呼んでるらしく、ニトロゲナーゼにも色々種類はあるらしい。
ただし、ニトロゲナーゼの多くに含まれる元素の一つ、それこそが――――モリブデンだ。
「なるほど。ならそのニトロゲナーゼというものがあればアンモニアをいくらでも作れるのかしら?」
瑞江がややけだるげに尋ねてくる。やる気があるのかないのかよくわからん。
「流石にそこまで簡単じゃない。まずニトロゲナーゼは抽出するのが難しい。理由はいろいろあるけど特に酸素に弱いからだな。そこら辺の空気にさらされただけであっさり活性を失ってしまう」
しかしそれでも頭をこねくり回して使えるようにしてしまえるのが人間の知恵だ。
「そのニトロゲナーゼをベースにして、工業的に利用するために産まれたのがモリブデン窒素錯体。今回作ったのはそれだ」
実を言うとオレも詳しく知らんけどね。でも結果だけを見ればそうとしか思えない。
あの状況でアンモニアを作るためにはそれがあったとしか考えられない。
「それはなんとかわかったがのう。どうやってそのモリブデン錯体とやらを作ったのだ?」
「それが実はな? オレたちの、蟻の体内にもデヒドロゲナーゼが存在するんだよ」
魔物である蟻はかなりの雑食だが、特に幼虫の間は枯れ木や落ち葉などを食べる。
地球のシロアリも体内にデヒドロゲナーゼを生産できる微生物と共生しており、それらはシロアリの体内で非常に複雑な環境を作り上げているらしいく、単離は非常に困難だ。
オレたちも何らかの微生物と共生しているのか、それとも自力でデヒドロゲナーゼを作成できる遺伝子を持っているのかはわからないけど、デヒドロゲナーゼを持っているのは確かだ。
それも多分、地球の生物のデヒドロゲナーゼよりも強力な酵素を持っている可能性さえ否定できない。そうでなければここまで活性の強い触媒は生み出せないはずだ。
「これは偶然に偶然が重なったようだけど、蟻の体内に存在するデヒドロゲナーゼがモリブデンと結合することによってモリブデン錯体が誕生したんだ。ネズキリスの魔法、モリブデンを操る魔法によって」
ネズミとカミキリスの混血が何を思ったのかは想像しかできないけど、何らかの方法で生き埋めから脱出しようとしたはずだ。
とにかく手近な武器が欲しくて、蟻の体内にあるデヒドロゲナーゼ、正確にはそこに含まれるモリブデンを操ることに成功した。流石に蟻の死体でネズキリスの魔法が作用するかを実験したことはなかった。モリブデンも大量に析出させるのが難しい物質だから盲点だった。
それを利用して土中のモリブデンを何とかかき集め、結果としてデヒドロゲナーゼが上手い具合にモリブデンとさらに結合し、酵素としての活性を失わずに大量に作成された。
だがそれ以上は何もできずに力尽き、さらに運搬途中だった海藻から放出された水素、一緒に埋まっていた空気中の窒素と反応してアンモニアが生成された。この時爆発で一時的に酸素が少なくなっていたのも功を奏したかもしれない。
ただ、このモリブデン錯体はやはり酸素に弱かったのだろう。生き埋めから解放され、大量の酸素に曝された結果分解されてしまった。これが当初モリブデン錯体を見つけられなかった理由だ。
しかしこの欠点でさえも混血の魔法で対処可能だ。
恐ろしいことにこの魔法の使用中はモリブデン錯体の酸素に対する耐性さえ獲得させてしまえる。これはまだ研究中だからはっきりしないけど、酵素としての能力、つまり水素と窒素の反応活性さえも強化しているかもしれない。
「デヒドロゲナーゼからモリブデン錯体を上手く作れたから他にも何かできないかどうか試した結果作れたのがヒドロキシルアミンを作るアンモニアモノオキシノケナーゼだ」
「……すまぬがもう一度言ってくれぬか?」
「アンモニアモノオキシノケナーゼ。正確にはそれにモリブデンを合成した触媒だけどな。こいつもシロアリの体の中から作れた」
この辺りの酵素は硝化酸菌が多く持っていたはずで、例によって抽出が難しかったはずだ。アンモニアから硝酸を合成するための細菌なら成長加速が行えるようになっていたのでほんの三日でも少量の硝酸を作れたけれど、恐らくこれからはそんな必要さえなくなるかもしれない。
微生物から数々の化学物質が作られるのは微生物が産生する酵素による。いわゆる化学調味料なんかの大部分はそうやって作られている。つまりそれらの酵素を完全に制御することができれば多種多様な化学物質を容易に手に入れることができるはずだ。
もちろん微生物の酵素はそれぞれが綿密に組み合わさって働くものが多いから今はまだ机上の空論でしかないけれどね。
「コッコー。まとめると生物から酵素を取り出してそれらを改良し、様々な物質を作る、ということでよいですか?」
「大体そうなるな。ひとまずアンモニアの作成方法は海藻から水素を取り出す。それと一緒に空気中の窒素を水に溶かす。ただしこの二つは本来水に溶けないから海老の魔法を使う。その液体を混血の魔法を使いつつモリブデン錯体に触れさせてアンモニアを作らせる。んでそのアンモニアをもっかい海老の魔法でアンモニアと水に分離する。これが大体の概要」
魔物の遺伝子から産生される強力な酵素を魔法によって使いやすいように加工する。
地球でも似たようなことはできるけど、この世界でなければやはりできないだろう。
あるいは、これらの強力な酵素こそが魔物の成長の速さなどの要因なのかもいしれない。そうなると必然的に疑問が生じる。
前にも言ったけれど、酵素と遺伝子は切っても切り離せない関係だ。酵素が強力だということは遺伝子が地球の生物よりも優れていると言えなくもない。
が、しかし同時に妙なことはこの世界にも魔物以外の生物がいるということ。全く別の系統樹の生物が存在しているようでさえある。
これらの意味するところは……?
「王?」
「ん、ああ悪い。時間さえあればもっと色々作れるはずだからな。期待してくれていいよ」
「……あの銀髪にも効くかのう?」
多分全員が気にしているのがそこだろう。
どれだけ強力な兵器を作ったとしてもあいつに効かなけりゃ意味がない。
「わからん。わからんけど、これはきっとこの先も役に立つ技術だ」
再現性があり、誰にでも使える技術の積み重ね。それこそがきっと文明だ。
生物を極限まで利用する文明――――名づけるなら、バイオ文明ってところだろうか。
ヒトモドキはもちろん、地球とも、西藍とも違うオレたちの文明。
この文明の特徴は、大半が生物由来であるがゆえに持続可能、リサイクル可能であるということ。
石油などの化石資源はどうしても使えば消耗するし、その量には限りがある。しかし生物資源は循環し、再利用可能だ。
今はまだ無理だけど、そのうち水素やアンモニアを動力とした機械も作成できるはずだ。バイオエタノールという選択肢もある。流石にあと何年かかるかわからないけどな。
ただしそれはあくまでも技術的な側面。国家、あるいは種族として持続性はあるだろうか。
きっとある。
蟻という種族は新しいことを始めるのは苦手だけど、同じことを正確に続け、ルールを守ることには人間とは比べ物にならない従順さを持っている。
なにしろエミシには刑務所がないのだ。
罪人を罰しない、というよりきちんと注意し、訓戒すれば基本的に何度も罪を犯さない。人間なら様々な理由で再犯するけど、魔物にはそれが少なく、蟻に至っては再犯率はほぼゼロだ。
恐らくそれは国同士になっても変わらないだろう。ある程度の統一された指針さえ示してやればそれを続けていくことはできるはずだ。
人の世に争いが絶えたためしなし。
なら。
人でないものが世を治めれば争いが絶えるのだろうか?
なんともワクワクしてこないか?
科学者の夢の一つ、恒久的な社会の実現。
別にオレの身の安全が保障されるならこんな国なくなってもいいと思っていたけど……どうにもこの国自身、そしてこの国の行先にも興味がわいてきた。
いやはや、人生というのはこれだから面白い。




