377 聖戦
痛む体を引きずってどうにか教都チャンガンに到着したタストは異様な雰囲気にたじろいでいた。
口々に救いへの希望と祈りの言葉を口にする。それだけならまだしも教皇からの要請により旅支度を行っていた。一人や二人ではない目に見える全ての民が一斉に旅支度を行う様子は民族の大移動が始まろうとしているようだ。
駕籠から出たタストは一体何が起こっているのか道行く人々に尋ねることにした。
「失礼ですが皆さまは一体なぜ旅支度をなさっているのですか?」
「これは修道士様。教皇猊下の御達しによって我らも邪悪な魔物の討伐に同行することになったのです」
確かにそういう事態は予想していた。あれだけのことがあれば何か蟻に対しての行動を行わなくてはならないだろうと。しかし――――。
「まさか、全員が戦いに参加するんですか?」
老若男女問わず旅支度を整えている。つまりこの教都チャンガンの住人全てが蟻との戦いに赴くということだ。
「当然ではないですか。蟻さえ討てば救いが訪れるのです。もはや財を蓄える必要などないでしょう。他の領にも同じような布告が成されたそうです」
めまいがしたのは傷のせいだけではない。あまりにもめちゃくちゃすぎる話だ。ありとあらゆる家財を捨てて魔物の討伐に向かう? 戦争になればもしかしたら返ってこられないかもしれないという問題ではなく、そもそもここに帰ってくるという選択肢を完全に放棄している。それがクワイ各地で行われている? まともではない。その命令を聞く住人も、そんな命令を出した教皇も。
「もうすぐ銀の聖女様がここにいらっしゃると聞き及んでおります。その時までに準備を整えなくてはなりませんね」
あくまでも笑顔で接する住人に対して生返事しか返すことができなかった。
聖戦とは一言で言えば、権利の集約である。
クワイに国という単語はないが、地球の言葉なら国家と呼べる以上、そこには様々な権利や制約が発生する。実務における最高権力者である教皇とてそれは例外ではない。
しかし非常時、例えば二百年前にスーサンに現れた熊など、において権力が分散されている場合対応が遅れてしまう危険がある。それを防ぐために教皇と国王によって聖戦が布告されると、すべての権限が教皇に集約されるのだ。共和制ローマにおける独裁官と根本的な発想は同じである。
もっとも権力が集約されたからと言って全ての人民が納得するかと言われればそれは話が別だ。権利と心は必ずしも結びついているわけではない。……だが。
この状況を一体どう説明すればいいのか。
それを知るためには母親である教皇に会うしかない。しかしそれは容易ではないはずだった。自分のような小物に会う必要がないと突っぱねられるはずだった。
しかし意外にも教皇への面会はすぐに叶うことになる。
白い宮殿の一室。
華美ではないが、品良く整えられた調度品が備わっていた。タストはそこに通され、教皇が来るまでここにいればよい、そう言われていた。
普段の謁見の間ではなく、一室で向かい合うということは教皇としてではなく、一個人として面会するということだろうか。
緊張したまま時間だけが過ぎていく。そして唐突に部屋の扉が開かれた。服装は正式な教皇の服装ではなかったが、いつものように硬く、とがった岩を想起させる姿だった。
「タスト。面会を求めた理由は何ですか?」
極めて事務的な口調だったが……軽く驚いていた。名前を呼ばれた……というかそもそも自分の名前が憶えられていたことそのものが驚きだった。それほどに実の母親とは疎遠だった。
「単刀直入にお尋ねします。聖戦を布告し、すべての民を樹海へと赴かせるわけは何ですか?」
本心を打ち明けてくれるとは思っていないが、せめてその意図くらいは掴もう。そう思って発した質問だった。が、教皇の答えは全くの予想外だった。
「決まっているでしょう。世に救いをもたらす聖女様を支援し、可能であれば救いをもたらすさまを見届けるためです」
目の前の女性が何を言っているのかわからない。頭が真っ白になって何度となく聞いた聖女や救いという言葉だけがループしている。
まさかという言葉をしまい込んでまた尋ねる。
「本当に救いがもたらされると思っているのですか?」
どうか否定して欲しいという願いを込めていることに、目の前の女性は気付いただろうか。
「無論です。あなたも聞いたでしょう? 神の声を。ならば我らはそれに従うのみです。聖女様に身命を捧げ、救いをもたらすのです」
ああ。本気だ。自分には嘘を見抜く力がある。その力が目の前の女は本気で言っていると告げている。
自分はどこかで教皇のことを悪人だと思っていた。自らの私欲の為に謀略を張り巡らせているのだと思っていた。
違うのだ。
この人たちは本気で世界を救うつもりなのだ。
トゥッチェの民を冷遇するのも、魔物を討伐するために犠牲を出すのも、セイノス教に、聖典に従い、すべては世に救いをもたらすため。すべてはそのためだ。
心の底から無私無欲。対して……自分はどうだろうか。教皇の心中を察そうとしていただろうか。嘘を見抜く力がありながら今まできちんと会話してこなかったのは、教皇が悪人だった方が都合がよいと、自分が悪を倒す正義の味方だと思いたかったからではないだろうか。
「教皇猊下。もしも、銀の聖女様がその身を捧げよと、あるいはその地位を明け渡せとお命じになった場合、どうなさいますか?」
「それが聖女様の御望みであるならば否やはありません」
明確に断言し、嘘をついてなどいなかった。
なんとまあ、革命など起こすまでもなく、権力はすぐ手の届く位置に近づいていた。これならクワイの改革など造作もないだろう。銀の聖女の後ろ盾さえあれば教皇でさえ平伏するのだ。
革命は労せずして成されるだろう。革命家たちがなにをするでもなく、ただ銀の聖女にお願いすればそれですべてが上手くいく。
もっとも。
この国に未来というものがあるかはわからないが。
すぐに面会を終え、部屋を辞して……その後の記憶は曖昧だった。




