343 高貴な病
「けつゆうびょう……? 何だそれは?」
当然ながらイドナイには意味が理解できていない。仮に漢字が理解できたとしても訳がわからないだろう。血の友の病だ。一体何故こんな字をこの病に当てたのかは知らないけどこの病が恐ろしい病気なのは間違いない。
「わかりやすく言うと血が固まらなくなる病気だ。遺伝病の一種。一度怪我をするとそのまま出血多量で死ぬこともあるけど、もっと恐ろしいのは内出血。お前らの言うところの血が溜まるってやつ」
この場合の内出血とは青あざができるくらいなら可愛いものだ。脳内や関節などの目に見えない部分が出血の方が頻度が多く、危険らしい。文字通り体の中には手が出せないのだ。
「それは知っているが……どうしてそうなる? 呪いではないのか?」
「どうして……遺伝子……って言ってもわかんないか。要するに体を作るための設計図みたいなものがオレたちの体にはあるんだ。わかるか?」
「ふむ。魂魄のことか」
いや、魂と遺伝子は全くの別物……というかそもそも魂ってあるのか? 転生した身の上としてはないと困るんだけど……って脱線してどうする。
「で、その設計図には性別を決定づけるものもある。ここまではわかるか?」
「うむ。女は陰より生まれ、男は陽より生ずる。理解できるぞ」
陰陽思想? こいつらの宗教なのか? ……そういうスピリチュアルな話じゃないんだが……そっちの方が理解しやすいなら放っておくか。
遺伝学における基礎の一つ。性別を決定する遺伝子を内包する染色体。それこそが性染色体。性別が存在する生命体なら雌雄がもっとも大きな区切りである性別が染色体において特別な位置を占めるのは必然だろう。
「そして性別を決定する設計図の中に病気になってしまう部分が含まれてしまっている。そうでないと性別によって明らかに発症率に差がある理由が説明できない」
「う……む。確かにそうだな」
理論立てて考えれば遺伝子というものを理解していなくても伴性潜性遺伝という理屈を理解できるはずだ。
XY染色体がどうのこうのという説明をしても混乱させるだけだ。というかそもそも性決定が地球人類と同じかどうかはわからないから曖昧な説明になってしまう。
「で、その病気になってしまう設計図は子孫に引き継がれる。それが遺伝病のざっくりとした概要だ」
イドナイは難しい顔をしながらもなんとか話についてきてくれている。意外にインテリなのかもしれない。そうでなければ、次の質問を思いつくはずはない。
「だがおかしくはないか? 女ではけつゆうびょうは発症しないのだろう? その設計図が女には存在しないということにならないか? それでは子々孫々に伝わらないではないか」
イドナイの疑問は正しい。血友病の面倒な点はその遺伝様式にある。
「遺伝子……つまり設計図は原則として対になっているんだ。陰と陽で対になっているみたいなもの……で、わかるか?」
「なるほど。生物ならば陰と陽、その両方を持たねばおかしい」
今のところはわかりやすさを最優先にしておこう。この辺りはメンデルさんを知っている人ならだれでもわかるはずだ。
「そして対になっている設計図にはどちらかを優先させる法則がある」
「女ならば病気にならない設計図を優先するが、男では病気になっている方を優先させてしまう……そういうことか?」
「大体そんな感じ」
地球人類の場合、X染色体上にしか血友病遺伝子が存在せず、Y染色体ではその遺伝子を補うことができないことが男に血友病が多い原因だ。
細かい説明をするとなると性決定様式を調べないといけないので現時点では不可能だ。多分雄ヘテロだと思うんだけど……一応哺乳類に近そうだし。
「ではつまり……その設計図を持っているのは母親なのか?」
「より正確に言うと、血友病の潜在的な保因者はほとんど女性だな。男が発症したら生き残らないだろうから、男が保因者である可能性は低い」
イドナイらしくない大きく、長い溜息が漏れる。長い間背負い込んでいた荷物が少しだけ解けたようだ。
「恥を忍んで言うが……少し安堵したよ。子供らは私のせいで死んだわけではないのだな」
あれか。親の後悔の一つ。もっと丈夫な体に産んであげればよかった、ってやつか。
多分、裏切ったクランの女にお前のせいで私の子供は死んだ、とでも言われたんだろう。生物というものは自分の責任であるよりも、誰かのせいにしたがる生き物だ。
イドナイ自身も自分を責めていたのかもしれない。だからこそ、子供にやさしくしているのかもしれないけどね。
「その保因者はどうすればよいのだろうか。病気を産まれながら持ってしまった子供は悪なのだろうか」
厳めしい悪鬼の顔が、路頭に迷う子供のように見えたことは気のせいではないのだろう。この問題は誰を責めても良い結果にはならない。それこそ保因者である女性を追放してしまえばそれで済む話だけど、イドナイ自身が納得できないはずだ。
「断言しておくけど、血友病に治療法は存在しない」
「……」
遺伝子治療とか、方法はどこかにあるのかもしれないけどこの世界でそれを実現するにはあと百年はかかるだろう。
「なあイドナイ。背が低いことは悪か?」
「……? いや、悪ではないだろう」
イドナイは突然の話題転換に首をひねっている。
「でも戦いだと不利だよな」
「うむ。だがそれは生まれ持った才だろう」
「そうだよ。それと一緒だ。血友病は生まれ持った個性だ」
「生きることに向いていない個性だったとしてもか?」
「まあね。オレの知っているとある個性は、貧血を起こしやすくなるけれどある病気に対して耐性を獲得していた」
マラリアと鎌状赤血球症。遺伝学をかじれば嫌でも知っているはずだ。
「それと同じでもしかしたら血友病の遺伝子も何かの役に立つのかもしれない。一概に悪と切って捨てるのは早すぎないか?」
遺伝病は本人に何一つとして落ち度のない病だ。
それを持っているだけで本人の人格や尊厳が失われてはならない。ただ、王のクランが近親婚を繰り返したせいで血友病の保因者が増加してしまった可能性はゼロではないけれど……それはあくまで可能性だ。
「……そうだな。治せなくとも、共に歩むことはできるか」
「多分な。でも、申し訳ないけど血友病を持った子供の母親はきちんと記録しておいた方がいい。血友病の子供には十分なケアが必要になる」
「やむを得んか。助言感謝する。この先どうなるかはわからぬが……心の靄は晴れた。また旅立つとしよう」
……どうやらこいつは流浪の旅に出も出るつもりらしい。
自分の国には戻らないのか。……しかし、ふとオレには思いついたことがある。
「イドナイ。ちょっとだけ待ってくれるか?」
「ん? 何かあるのか」
「ああ。オレは政治に強くないからピンとこないけど、ティウ……まあオレの味方の一人にそういうのに強いやつがいるからな。相談してみれば、いい策が思い浮かぶかもしれないぞ?」
「策? 何の?」
「もちろん――――反逆者に引導を渡す作戦だよ」




