328 栄達の墓地
部屋の中で祝杯を挙げていたソメル家の当主ニムアがその話を聞いたのは偶然だった。
町の人々の反応を探らせていた女官から聞いた噂話だった。
「ほお。それは何とも傷ましい事件ですね」
「はい。まさか一夜にして数千人の信徒が魔物に惨殺されてしまうなど、悪夢としか言えません」
それは銀の聖女が目の当たりにしたある事件についての噂だ。つまりトゥッチェにほど近い関でそこの住人が皆殺しにされた、という話だ。いわゆる関の惨劇、そう呼ばれている事件。
その事件そのものは事実だが、当然ながら真相を知りえる者は誰もおらず、脚色や誇張がふんだんにふりかけられた噂話となって銀の聖女の出自と並んで教都中を駆け巡っていた。
「聖女様はその事件にたいそう心を痛めておられるとか」
「そうですか。では、聖女様の心の悩みを取り除いて差し上げるのが我々の務めですね。ルファイ家になど任せてはいれません。幸いにも、手はずはすぐに整えられます」
ニムアは見せつけるように一枚の書状を取り出す。
「その文はいったい?」
「ルファイ家も一枚岩でないということです。これを上手く使えば教皇猊下の裁可を待たずに騎士団を設立できます。我らが騎士団を主導し、この世の正義を示そうではありませんか」
ニムアは輝かしい未来を信じて行動を始める。それが、アグルの思惑通りとも知らずに。
時は少し遡り、アグルとタスト、ウェングが三人で会話しているころ。
アグルは自身の策を二人に説明していた。
「関の惨劇の噂を広めます。サリをはじめとした幾人かに準備をさせています」
「あの場所での出来事を? それに何か意味があるのか?」
「ただ噂を広めるのではなく、聖女様があの光景を見ていかに傷ついたか、また魔物を許せないかを吹聴するのです」
「嘘をつくってのか?」
「嘘ではないでしょう。あの方が傷ついていたのは事実です」
それはあの関を訪れた全員が知っていることだ。だからこそ、その場にいた人間ならむしろ銀の聖女の清らかさを積極的に誇張するかもしれない。
「そして、その噂を聞いた人……特にソメル家の現当主をその気にさせるのが目的ですね?」
「はい。そして蟻と戦わせます。蟻を侮っているソメル家は負けるでしょう」
「そうすればルファイ家に反対している勢力を抑えることができる……?」
「その通りです」
多分、うまくいく。
人は信じたいものを信じる。特に、それが物語のように筋書きが出来上がっているのなら。
銀の聖女が傷ついており、それを助ける力が必要としている。その期待に応えたい。それはいかにもセイノス教徒らしい行動と思考だ。
「しかし、大掛かりな作戦を行うなら騎士団を結成しなければなりません。教皇猊下が見逃すはずはないでしょう」
「いいえ。騎士団の結成には聖旗があればよいのです。教皇猊下の派閥の中に聖旗を管理する部署があるはずです。そこを裏切らせ、聖旗を持ち出させるのです」
つまり梯子を外させるわけだ。
ソメル家も疑いはするだろう。しかし聖旗そのものを持っていけば信じないという選択肢はない。これらの神聖なる道具はクワイにおいて象徴であり、絶対的だ。だからこそ厳重に管理されている。
「無理です。そんな簡単に持ち出せるはずがありません」
「可能でしょう。教皇猊下の協力さえあれば」
タストもウェングも息を呑む。アグルは教皇さえも利用するつもりなのだ。
ニムアたちを焚きつけ、権威を失墜させる作戦を進めさせる。それを教皇に密告し、その功績を利用してルファイ家の内部に食い込む。この騒動を利用して成り上がるつもりだ。
ルファイ家の権勢が盤石ならつけ入る隙もないだろうがこうももめごとが立て続けに起こるのなら藁に縋りたくもなるだろう。ただそれでも戦争を意図的に起こすのだ。当然だが――――。
「でも、全部上手くいったとしても蟻との戦いで人がたくさん死ぬかもしれないだろ」
かもしれない、ではなく確実に少なくない人々が死ぬ。それも、くだらない権力争いのせいで。
「死傷者をなるべく出さない負け方でよいのです。トゥッチェでの戦いならば当然ウェング様の知己も加わります。教皇猊下に差配していただき、騎士団内部に動向を制御できる人員を配置すればよいのです」
つまりわざと負けて適度なところで撤退する。最小限の被害で切り抜けるつもりなのだ。それでも人は死ぬ。十や二十ではない。数千、うまくいかなければ数万、ソメル家の現当主が率いれば、ソメル家の一員であるティキーの友人だっているかもしれない。
しかし。
「あの蟻を放置しておけない。すぐに、団結しないといけないんだ」
タストの言葉に他の二人も頷く。
転生者がこの世界を危機に陥れることを黙って見ていられない。心中で嘯く。
しかしタスト自身も気付いていなかったが、彼は内心で憤っていた。何故なら、無視されているから。
ファティが騒がれるのはよい。当然だ。だが、もう一方の当事者であるはずのアグル、一応はルファイ家の末席を穢し、王族の血を引く身であるタストは言葉の端にさえ乗っていない。無視され続けている。そこに心の底では不満を感じていた。
「そうだな。俺も覚悟を決めるよ」
「では、タスト様。猊下に進言くださいませ」
「うん。アグルさんは噂の広まり具合を見るんですよね?」
「はい」
「じゃ、俺はどうにかしてトゥッチェと連絡を取らないとだな」
各自がはかりごとに向けて動き出す。
だが転生者であるウェングとタスト、そしてファティの人柄を理解してしまっているアグルは理解できていなかった。
銀の聖女という存在がどれほど人心を掴んでしまったのかを。
セイノス教において王族の血がとてつもなく重要視される理由の一つは王族から救世主が復活するという伝承が残されているからだ。
王族の血を引き、数多の奇跡を起こし、銀の髪を持つ聖女こそ、復活した救世主ではないのか。そんな噂が誰ともなくささやかれていた。
肥大した妄想はやがて狂気にさえたどり着くことを、まだ気づいていなかった。
そして、当のファティが本当は何を考え、願っているのか。それを誰も正確に知っていなかった。それどころか知ろうとさえしていなかった。




