307 贖い
旅支度が最も早く済んだのは当然ながら遊牧民たちだった。そもそも普段から旅をしながら暮らしている彼女らにとって旅支度とは日常の所作と何ら変わらない。
まだ慌ただしくしているラオから来た一団を横目で眺めていたチャーロのもとを訪れたのはウェングに連れられたアグルとタストだった。
「チャーロさん。こちらは教皇猊下の御子息のタスト……タスト様と、銀の聖女様の叔父のアグルさんです」
チャーロはこの二人と顔を合わせることは初めてではなかったが、多忙だったのでこうしてきちんと紹介されるのは初めてだった。
「チャーロと申します。御子様、アグル殿お初にお目にかかります。何か御用でしょうか」
女らしくびしっと背筋を伸ばし、勇ましい声をあげて返答する。
「ええ折り入ってお話したいことがあります」
ちらりと周囲を窺い、次に手近な天幕を見た。
「こちらへどうぞ」
視線の意味を理解したチャーロが誰にも聞かれないように天幕へと案内し、タストは二人と視線を交わし、天幕の外に残った。誰もここに来ないように見張るためだ。
「まずはアグル殿。謝意を。使者様への無礼な御言葉を止めていただいたこと、感謝の念に堪えません」
「お気になさらずに。貴女が使者様の言いように反駁したことは間違っていません」
「いえ、使者様の言い分は全て正しい。下知が下れば疾く従うのが正しい信徒の在り方です」
タストは一度も目をそらさずにチャーロの顔を見ていた。その顔は黒い。彼女が嘘をついているのは明らかだった。
(この能力、久しぶりに役に立ったかな)
嘘を見抜く。交渉事においてはある種ジョーカーのような能力だった。
「チャーロさん。貴女は本当にそう思っていますか」
「無論です。私は敬虔なるセイノス教徒ですから」
こちらは嘘をついていない。セイノス教徒であることを誇っているけど、中央に対する反感はある。味方に引き入れる条件はそろっている。
「その献身と皆を率いる度量。貴女は素晴らしい御方です。何故あなたほどの方が司祭ではないのかわかりません」
「アグル殿。我らは司祭になれるほどの献身を未だに見せることができておりません。我々が忠節を尽くしていれば――――」
「いいえ。あなた方が司祭になれることは永劫ありません。このままでは。それはあなた方がよくご存じのはずだ」
天幕の室内の温度が数度ほど下がった気がする。ここまでくればもう後には引けない。退く気もない。
「高原で暮らしていては礼拝義務を履行することができない。だから司祭になる日はこない」
タストが断言すると今までのチャーロは苦難の日々を思い起こすように目を伏せた。
「失礼ですが……お二人は、何が言いたいのですか?」
お互いの緊張の糸はいよいいよいよ千切れる寸前まで張り詰めている。
「僕が教皇になり、この世の不平等を正します。そのために力を貸してくれませんか?」
タストが自分たちの計画を説明した後、チャーロはよろよろと後ずさり、姿勢が崩れないように天幕の骨組みで体を支えていた。
「まさか、そのような……本気ですか……御子様」
「もちろんです」
「それはつまり、現在の教皇猊下を……?」
言葉の続きを口にすることはあまりに恐れ多いのか言い終わることはなかった。
「タスト様を正当な選挙によって教皇の座に。それが我々の願いです」
「そう……ですか」
少なくとも想像より乱暴な手段でないことがわかったのか心の均衡を少しだけ取り戻したようだ。
チャーロの動揺はタストの想像よりも上回っていたが、むしろこれが普通だ。アグルのように躊躇なく教皇の座を奪い取ろうと言い出す平民はほぼ絶無だろう。天に星と太陽があるのと同じように教皇は天上に坐するのが自然なのだ。
「あなた方はまず、聖女様に教皇になっていただき、しかる後タスト様にお譲り頂く、ということでしょうか」
うろたえながらも冷静な判断ができるチャーロには内心で舌を巻く。そして、銀の聖女という援助者がいなければタストに大した価値がないことも自覚してしまうが、それは心の棚にしまっておく。
「はい。そして僕が教皇になれば、あなた方に決して理不尽な生活を押し付けないとお約束します」
ふう、とため息をつくチャーロは先ほどに比べると三十歳は年を経たように見える。
「先に申し上げておきますと……我々に不満はないのです。現在の教皇猊下や、都から我らに何としても魔物を駆逐せよと命じられればためらいなく我が身を捧げましょう」
これも間違いなく本心だ。
「ですが夢を見てしまうのです。私でなくともいい。だれか、我らがトゥッチェのなかから誰か一人でも司祭に、司教になるものが現れれば、より安心して楽園に旅立つことができるのではないかと」
「それは夢ではありません。それを夢で終わらせないために行動するべきです」
どこかの受け売りのような言葉だけれど、チャーロにはよい響きだったらしい。
「やはりあなた方は私とは違いますね。凡人と偉人の差でしょうか」
発起人がアグルであることを考えれば真の意味で偉大なのは誰か明らかだが、自分が花を持ったほうが交渉を上手く進められるだろう。手柄を横取りするようで気分が悪いけどしょうがないと心の中で言い聞かせる。
「偉人や凡人などという区切りはありません。我々は皆平等です」
「もしもそれが叶うなら、願ってもないことです」
お互いに敬礼を向ける。これでようやく味方が増えた。
チャーロはちらりと天幕の入り口を見る。外にいるはずのウェングを見つめているのか。
「これは私個人とトゥッチェの両方の話ですが……私たちには負い目があります」
「負い目? 誰にでしょうか?」
「ウェング様に」
がっしりとした印象のチャーロにしては珍しく罪を告解するように体と言葉が沈んでいた。
「ご存じかもしれませんが、私は五年前の戦で信徒としての在り方を示し、褒賞を頂く機会を得ました」
それはアグルから聞いた話と一致する。
「その結果としてウェング様はこのトゥッチェにお越しいただきました。しかし……もしも私があの戦いで戦功を挙げなければ、ウェング様は王族の宮で安らかに過ごせていたはずです」
表には出さなかったが、チャーロの反応に軽く驚いていた。
あれだけ理不尽な仕打ちを受けてもまだチャーロは王族への敬意が薄れていない。それどころかウェングの身を案じ、王族の暮らしが安息に満ちており、同時にそれが続くことを希っている。
あくまでも反感があるのは中央の政治ということで、王族やセイノス教には心の中の畏敬の念は消えていないのだろうか。
「前族長のウェング様の母上もウェング様を案じていました。我々の世代のトゥッチェの民は皆、やるせない思いを持っているのです。それがウェング様にぶつけられることになったのは我らの未熟というほかありません」
天幕の外にいるウェングには聞こえているのだろうか。それが彼の救いになるかはわからないけれども。
「もしも償う機会があるのなら、せめてそれを全うしたい、そう思います」
チャーロの言葉は彼女の心を表すようにいつもまっすぐだ。
だから自分もまっすぐに言葉を返すべきだ。
「あなた方の願いをかなえるために僕がいます」
再びお互いに<光剣>を差し出し敬礼する。部屋の中にはきらきらと光が舞っていた。




