306 聖女の帰還
銀の聖女とその一行は降って湧いた教都からの帰還命令に騒然としていた。
天幕の中にざわめきが広がる。
「関の惨劇を引き起こした魔物を放置しろと言うのですか!?」
教都からの使者に対してそうまくしたてたのはチャーロだった。彼女もまた銀の聖女の戦列に加わっていた。
ラオから来た部隊の隊長でさえ不満を隠そうとしていない。普段の彼女なら中央からの命令とあらば喜んで首を縦に振るだろう。
険のある視線を一身に集めながらも使者は揺るがない。むしろこう反論してのけた。
「これは教皇猊下からの直々の命令です。これに従わねば異端審問官の派遣さえも検討しなくてはなりません」
異端という言葉に皆ピタリと押し黙る。それは炎であぶられるよりも、雷にうたれるよりも強烈にこの場の信徒の心を穿った。
「ならばせめて何故聖女様を帰還させなければならないのか。その理由を教えていただけませんか?」
押し黙った集団の仮とはいえ長であるアグルが誰もが聞きたがっていることを聞いた。使者は勿体ぶるように答えた。
「もう布告はすんでいるころですからよいでしょう。スーサンに熊が現れたのです。それも三頭」
またしても天幕にざわめきが広がるが、先ほどの怒りとは違い、恐怖と戸惑いがあらわになっていた。
「ご理解いただけましたか? 聖女様にご足労頂くのは恐縮ですが、やむなきこと。こちらのことはこちらで何とかしていただきたい」
大半は使者の言葉に納得したが、それができないものもいた。
「我らよりもスーサンを優先すると?」
「チャーロ殿!」
アグルから言葉を慎むように名を呼ばれるが、チャーロは使者を見る視線を弱めない。
「猊下の御心は私にはわかりません」
典型的な役人の逃げ口上を悪びれもせずに口にした。ここから遠く離れた教皇に事の真意を尋ねるなど不可能だし、よしんば尋ねたところで返事が返ってくる保証もない。
結局のところ従うしかないのだ。チャーロ一人が異を唱えたところで結果は変わらない。
「失礼いたしました使者様」
「いえ、わかればよいのです。できる限り急いで聖女様を教都にお連れください」
チャーロの手が色を変えるほどきつく握られているのに気づいたのはアグルだけだった。
銀の聖女が教都へ帰還しなければならない事実はすぐにこの集団の内外に伝わった。もちろん転生者たちにも。
「あなたもいったり来たり大変ね」
急いで旅支度を改めるファティを手伝いながらティキーも声をかける。
「それはそうですけど、紅葉さんはこれでいいんですか?」
ラクリを殺した魔物は今もどこかにこの大地をさまよっているはずだ。そんな危険で残酷な魔物をこのまま放置しておいていいのだろうか。ティキーはそれに納得できるのだろうか。
「いいのよ。仇なんか討ってもなんともならないし、それに戦うのはあなたばかりよ。あなたはつらくない?」
「わたしは……別に……」
誰がどう見てもなんともないとは思えない表情だ。きっと自分でも自覚があるのだろう。
「戦うの、嫌いなの?」
「……血を見るのは得意じゃありません。でも、あんなことをした魔物は許せません」
普段の彼女の表情とは違い、明確な敵意を感じる。関の出来事は彼女にとって大きな傷になっているらしい。魔物と仲良くしようという普段の主張を棚上げにするほどに。
(一度泣いたらすっきりした私は淡白なのかしら。それとも年の功?)
少なくともティキーは自分がもう引きずっているとは思っていない。かと言って目の前の少女に何を伝えればその心を晴らすことができるかわかるほどの人生経験は積んでいなかった。
(むしろ今は仕事に集中した方がいいのかしら)
以前もっと自分の意志で考えろ、という意味の言葉を言ったが彼女の年齢を考えればむしろ信頼のおける誰かに命令を出してもらい、それに従う方がストレスは少ないかもしれない。
命令してくれる誰かがいることは意外に楽なのだ。
(私の勘だと男どもがなんか企んでるっぽいし……どうも全員がすれ違ってる感じがするのよね。私たちは同じ世界からの転生者だってだけの赤の他人だからそんなに仲がいいのも変な話なんだけどさ)
彼女の悩みの種は尽きそうになかった。




