210 命の水
「う……ぐ……」
苦しい。喉から何かが飛び出しそうで、胸に生命活動に必要な酸素が供給されない。
このままでは――――
「あー! 死ぬかと思った!」
やっば! お茶が気道に入ってむせて呼吸できなくなった。こんなんで死んだら教科書に笑い物として載るぞ多分。不意打ちの銀髪は強烈すぎた。
オレを触れもせずに殺そうとするとは卑怯なり銀髪。や、これは流石に冤罪だな。銀髪は別に何も悪くない。
ていうかそもそも……?
「何であいつがこんなところにいるんだ……?」
もちろんその疑問に答えられる奴はいない。ヒトモドキの都を監視しているカッコウから大規模な軍隊の移動は確認できていない。小規模な兵隊の移動はそれほど珍しくもないから銀髪の移動に気付かなかったらしい。
事実として銀髪に随伴する部隊はせいぜい数百人だ。いやそれでも砦の規模からすれば立派な援軍だけどな。その部隊の中には見知ったアグルの顔もある。あと、妙に目立つ赤い色の髪をした女もいる。あいつらほとんど黒髪黒目だから結構珍しい。銀髪ほどではないけど。
こういう事態になったのならもうあの砦から目を離すわけにはいかない。銀髪がもしもこの高原に来るならオレの計画の全ては白紙に戻さないといけない。
まだあいつに見つかるわけには絶対にいかない。
「紫水。リザードマンの残党がこっちに向かってくるよ」
ち、こういう時に限って邪魔が入る。監視している一団が、リザードマンたちと鉢合わせしそうになっているらしい。
「一旦隠れろ。やり過ごしてから再び監視開始だ」
それまでおとなしくしてくれよ銀髪。
ラクリはファティとサリを伴い結局自分が今までいた部屋に戻ってきた。
「何のおもてなしもできず申し訳ありません」
どこまでも恭しい態度で接するラクリ。それに対してやや気後れする態度を隠せてはいないファティ。その二人にひっそりとついているサリ。
この部屋には今三人の女性がいた。
「いえ、構いません。ここまで来たのはラクリさんに聞きたいことがあったからなんですが、その前に私たちがここまで来た理由を説明した方がいいですか?」
「ぜひともお願いします」
キラキラと目を輝かせるラクリに対して半ば受け売りのような言葉を使って話し始めた。
「私たちはもともと北にあるシャオガン領にあるイエンという都市に行くための行軍の途中だったんです」
もともと軍として行動していたがファティを含めた集団が一部単独行動をとっていた。
「イエン、では北の悪鬼ども討ちに行くのですね!」
「ええ、そうなります」
イエンはこの高原、トゥッチェを東に向かい、さらにそこから北上した先にある、まさしくクワイの果てとも呼べる都市だ。そこで悪鬼と呼ばれる魔物を討つ。それがこの軍の目的であり、同時に彼女に課せられた任務だ。さらにその道すがら、戦闘に参加し、魔物を討つかもしれないとも聞いている。
ただ、討つ、という彼女の理想とは程遠い行動に自分自身が加担することになることは彼女の心に影を落としていたが、やらなければならないことは理解している。
「あの悪鬼どもは我々の寝こみを襲い、無辜の民を殺して回るとか。何としても討たねばなりません」
そう、確かにそこに助けを求める人々がいるのだ。だから避けるわけにはいかないし、逃げるなど論外だ。
冷静に考えればわざわざ遠方に赴かなくとも魔物に襲われている民草はごまんといるはずだが……そこに思い至らないことは果たして正か邪か。
「その姿は醜悪で口から生えた牙は常に血で濡れていると聞きます。いと気高き貴女様にあのような穢れた魔物と戦わせることは忍びないのですが……これも神の御意思でしょう」
一気にまくしたてるラクリにまたしても気おされてしまう。正直に言うとファティは押しの強すぎるラクリが得意ではないのだが、それを率直に言うとこの少女は砦から身を投げ出しかねない。
そろそろ本題に入るべきだろう。勢いに押されながらもなんとか軌道修正を試みた。
「その、それでトゥッチェに関して調べてもらえましたか?」
そもそもファティがここを訪れたのはトゥッチェ、ひいてはそこにいるかもしれない転生者を探してのことだ。転生者であるティキーからラクリがそこにいるという文を受け取ったためにここまで来た。
少々ややこしいのだが、トゥッチェとは地名でもあり、部族の名前でもある。正確には地名がそこに暮らしている部族の通称になった、ということだ。
「はい。聞くところによるとある少年が馬に簡単に乗る方法を編み出したとか」
ラクリは吐き捨てるように言う。
その少年に対して、そしてトゥッチェに対してもいい思いをしていないのは明らかだ。
事前にタストに調べてもらったのだが、トゥッチェが大部分のクワイの民に快く思われていないのはまさに馬にある。
「馬にまたがるだけでも野卑に過ぎるというのにまさか簡単にまたがるようにするなど碌な男ではないのでしょう」
クワイにおいて馬に直接またがるのはとても野卑、つまりいやしく汚らわしい行為である。
理由としてはいかにマディールを受けた魔物であっても直に触れると穢れが移るとされているからだ。
だから大抵馬に騎乗するのではなく、馬車を利用する民が多いし、もっと余裕があれば人力の駕籠によって移動する。さらに一部の聖職者や貴い身分の方々は大型のみこしのような駕籠に乗ることになる。当然ながらファティも実際にはただの村娘でありながら、その貴い身分だと判断されている。
さらにトゥッチェという部族は子供でも馬を乗りこなし、移動しながら生活を続けている。
これは高原という過酷な環境に対応するには移動し続ける遊牧生活が適しているという経験則による生活様式なのだが、根本的に農業、畜産が主産業の定住民による国家であるクワイにとって決まった土地に暮らさないことへの忌避感のようなものが働いてしまっている。
このようにトゥッチェは真偽が定かである風説と、文化の隔たりによって心象を悪くしてしまっていた。実は古代中国においても馬に騎乗することが卑しいとされた時期があるのだが……ここでそれを知っているのは誰もいなかった。
「そんなこと言わないでくださいラクリさん。みんな私たちと同じ人間じゃないですか」
とりなす言葉もラクリには届かない。
「いいえ聖女様。下賤の民と心など通うはずがないのです。お姉さまも聖女様も何故トゥッチェをそれほど気にかけるのかは知りませんが――――」
「失礼ですがラクリ様」
ラクリの言葉を遮ったのは今までひっそりと佇んでいたサリだった。
「貴女は聖女様の御言葉に反するつもりですか?」
ラクリはチラリと一瞬サリに視線を向けたがすぐにファティに向き直った。
「申し訳ありません聖女様。ご気分を害しましたか?」
「いえ、そんなことは……」
自分の真意を汲み取ってサリが発言してくれたのはわかる。しかし少し言葉が強すぎるし、どうもラクリはサリのことを軽んじている、あるいは無視している。
多分それがラクリという人物の性格なのだろう。大事な人以外は徹底的に見ないふりをする。
この二人をどうとりなせばいいものか。考えてみるも二人の間に視線をさまよわせるばかりだ。そもそも彼女は誰かの間をとりもつ、ということがとにかく苦手だ。……かつて両親の仲が悪かったことを思い出す。それは彼女の拭い去れないトラウマになっていた。
いたたまれない空気を何とかしようとして、部屋の外から声をかけられた。
「聖女様、アグルです。よろしいでしょうか」
「ひ、ひゃい」
(へ、変な声出ちゃった!)
とはいえ救いの声でもある。とてもではないが自分の力だけでこの空気を払しょくできそうにない。
「では失礼します」
アグルは謹厳実直を体現したかのような所作で部屋に入る。
「この砦の信徒たちが逃げ延びた砂漠トカゲを追走するようです。聖女様も参加なさいますか?」
険しい顔になったラクリが何か言いかけるよりも先に返事する。
「わ、私も行きます」
逃げた相手を追うことは気が進まなかったが、少しでも身近な人たちに危険なことをさせたくなかった。……この場から逃げたいという気持ちもないではなかったが。
砦に攻め入った砂漠トカゲの大部分は討つことができたが、後詰の部隊はいるし、かろうじて逃げ出せた砂漠トカゲもいないわけではない。
しかし、
「どうやら我らに恐れをなしたようです。影も形もありません」
確かにどこにも砂漠トカゲはいなかった。それを臆病とみなすか、戦術的とみなすか、いずれにせよ無駄骨に終わりそうな気配ではあった。
しかし何もここには砂漠トカゲ以外の魔物がいないわけではない。
「聖女様! 魔物です! 駕籠の中にいてください!」
言葉が言い終わるよりも早く、駕籠から飛び出て巨大な昆虫、地球においてはアリジゴクに酷似した、を両断する。
おおっ、という歓声が周囲に満ちる。
砂漠トカゲではなかったものの襲いかかってきた魔物を見過ごすわけにもいかない。
「聖女様。御身が穢れます。すぐに駕籠にお戻りください」
「ありがとうございますアグルさん。でも少しだけ外にいてもいいですか?」
実はこの旅では、というよりもファティは外出する際はほとんど駕籠の中にいる。観光に来たわけではないのだが常に狭い駕籠の中にいれば気がめいってしまう。特に今のような気分では。
「わかりました。ではサリをお連れください。この辺りにもう砂漠トカゲはいないとは思いますが十分にご注意を」
まばらに草が茂る大地をぼんやりと歩く。
この辺りはあまり草が生えない寂しい土地だと聞いていたけどその通りみたいだ。その景色が今の自分の心を表しているというのは感傷的すぎるだろうか。
(みんなが仲良くなってほしいとは思うけど……上手くいかないな)
サリとラクリ。二人ともいい人だ。親しい人間に見せる優しさはとても暖かい。しかしそれでもさっき二人はお互いに向き合うことさえなかった。あくまでも知人の知人、あるいはそれ以下でしかなかった。
もしも歩み寄れるきっかけがあるとすればそれはファティ自身しか作れない。しかしあの部屋ではまごつくばかり……こんな調子で果たして魔物と人が和解する未知など切り開くことができるのだろうか。
ましてや会話一つままならず、ただ見つけ次第殺す。それしかできない自分に?
せめて、機会があれば……
「ファティ!」
サリの声でぼんやりとしていた意識を現実に引き戻す。
「どうかしたの?」
「そこの茂みで音がしたわ。気をつけましょう」
無言でうなずく。この世界は日本のように安全な場所が多く存在するわけではない。
慎重に辺りを探っていく。すると小さな穴を見つけた。足音を殺し、息をひそめて一層慎重に近づく。
そこには一匹の砂漠トカゲがいた。ただし、体は小柄で負傷しており、息も絶え絶えの様子だ。石槍を持つ手は今にも崩れ落ちそうで、痛々しい。
「ファティ、下がって。これなら私が……」
「サリ、少しだけ待ってくれる?」
サリは訝しんではいたがその言葉に従ってくれた。きっと、これはチャンスだ。神様が私にくれた、チャンス。意を決して砂漠トカゲに話しかけた。
「あの……けがは大丈夫ですか?」
「ファ、ファティ!?」
背後から驚きと狼狽の声がする。確かにセイノス教にとってはありえない、あってはならない行為だ。何故なら魔物とは邪悪な存在で悪石を砕き、救いをもたらさなくてはならない存在だ。そんな魔物に自分から話しかけるなど決してあってはならない。
「サリ……ごめんなさい。少しだけ私のわがままを止めないで……」
顔を引き攣らせながら絶句するサリだが、ファティはそれに気付いた様子もない。目の前の砂漠トカゲにどういうべきかを必死に考えている。
しかし砂漠トカゲは言葉をかけても何も反応しない。
「その……これ、いりますか?」
持っていた水筒のようなものを取り出し、地面に置き、一歩下がる。
直接手渡そうとすると警戒されるという判断からだ。
しばらく警戒していた砂漠トカゲは、やがて槍を地面に置き、水筒に口をつけた。
それから……時代劇などで見るように正座して握りこぶしを作って頭を下げた、のだろうか。少なくとも敵意は感じなかった。
心の中でほっとする。言葉は通じなくともこちら側に悪意がないことと、少しでも喉を潤してほしいことは理解してもらえたようだ。
「その水筒は差し上げます。だから、元気でいてください」
砂漠トカゲはじっとしたまま動かない。しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。早く戻らないとアグルたちが自分たちを探しに来るかもしれない。そうなればこの砂漠トカゲはどうなるかわからない。
ちらりと横目でサリを見る。
「サリ……このことは内緒にしておいてくれる?」
「え、ええ」
ほっとする。自分が処罰されるのはいい。しかし彼女まで累が及ぶのは避けたいが……その方法も思い浮かばない。せめて黙っていてくれるようにお願いするだけだ。
来た時のように慎重にゆっくりとアグルたちのもとへ帰っていった。
(わかってる。これが許されないことだってくらい……このトカゲさんたちはあの砦のみんなを殺したってことくらい)
それでも。助けたかった。
命は決して無駄にしていい物じゃない。きっとわかり合える方法がある。その証明になったかはわからない。けれど端緒にはなったかもしれない。
(もしも、さっきのトカゲさんが仲間にこのことを話してくれたら……)
淡い希望ではある。それでも、彼女は信じたかった。
誰もが手を取り合う日が来ることを。
(何考えてるの……?)
サリは今まで尽くすべきだと信じていた聖女を見る。
恐怖、困惑、焦り……様々な感情が渦巻き、自分自身でさえその感情を明らかにすることができなかった。
あれはない。絶対にありえない。目の前で起こったことは悪魔が見せた幻影だと心の底から思いたかった。
あんなことは怒られる、処罰される、と言った生易しい言葉では済まされない。
(これじゃあ――――――異端になってしまうかもしれないじゃない)
異端とは救いがもたらされないこと。セイノス教徒が何よりも恐れること。
しかし銀の聖女のはずの彼女は異端そのものでしかない行為をしてしまった。
(何なの……?)
もちろん誰も彼女の疑問に答えてくれはしなかった。
たった一人きりになった砂漠トカゲは偶然見つけた洞穴の前で固まったまま動かなかった。
しかし不意に、口に含んでいた水を吐き出し、ファティが置いていった水筒を石槍で砕いた。
誰もここに来なかった。そう主張するかのように。




