179 望郷
そもそもスーサン領の成り立ちは西から来る悪魔に憑りつかれた魔物からの防人として集められた人々が築き上げてきた場所だ。それゆえに領民の防衛意識は高く、魔物との戦いには真っ先に向かっていく。
特に熊が最も多く出没する地域であり、多大なる被害を出すことも少なくはないが、何度傷を負っても立ち上がってきた。しかしその状況を見直す必要が生じた。
二百年前の熊である。その被害はあまりにも大きくスーサンの民の独力では悪魔の奸計に抗しえないと誰もが気付いたのだ。それゆえ非常事態においては周辺の領から増援が送られてくる運びになった。
しかしそこで問題が発生した。このクワイにおいては大規模な戦闘集団とはすなわち騎士団であり、騎士団である以上高位の聖職者の許可が必要である。
特に領をまたいで騎士団を結成するには必ず教皇が掲げる聖旗を必要とする。つまりクワイにおいて軍事行動を行うには中央の許可が必須なのである。クワイの外から見ればそれがどのような目的をもって作られたルールであるかは想像に容易いがこの国の人々にとってはそれが普通なのである。
事実上カンツは軍を連れてきたというより聖旗を持ってきたというべきであり、同時に教都から派遣された騎士団は聖旗を持ったカンツを運んできたに等しい。
傍から見れば非効率はなはだしいが権威の象徴である聖旗があることは士気を大いに上げることも事実であり、集団が纏まるためには象徴が必要であることも想像に容易かろう。
だからこそ、このスーサンに送られた兵はカンツのもとに集いつつあった。
スーサン領に入って五日ほど。本来の集合場所はスーサンの中心都市から離れたとある町だったが、そこはすでに熊の侵攻によって壊滅的な被害を被ったと報告を受けており、都市部に近い場所に兵を集結するように指示を出してあった。
全ての兵にその命令がいきわたるかどうかは不明瞭だったものの戦力の逐次投入の愚は避け、最大戦力をもって対処にあたらねばならないと結論を下していた。
さらに熊は徐々にこの都市部に近づきつつあるとの報告もある。つまりこの集合場所こそが絶対防衛線であり、ここを抜かれることはスーサン領の崩壊を意味していた。聡い兵はその空気を感じ取っており、それゆえに不安や焦燥が渦巻いていた。
「ようやく終わったか」
ため息をつきながらアグルは椅子に座る。ここ数日はろくに休めていない。加速度的に増加した人員にいきわたる糧食の手配と陳情という名の愚痴や文句を聞かせられていたからだ。
どうやらすぐに出陣しないことに対して不満が溜まっている兵が多いらしい。そもそもアグルはそんな相談を聞く義務はないのだが……どうやら直接上には言いづらい文句が溜まっているようではある。
もっともそれらの仕事をこなせるだけの器量があること自体彼の優秀さの証明でもあるのだが。
「これが神に祝福されし騎士団の内実とはな。呆れたものだ」
彼自身かつては騎士団の末席に加わることを夢見ていただけにこの醜態には失望を隠せない。そしてこれ以上騎士団の活動を長引かせるのも悪手ではある。これは一般の騎士団員には知らされていないが熊に襲撃された町には騎士団が活動するための食料を備蓄していたのだ。
熊が狙っていたのかどうかはわからないものの食料がなければ長期戦は不利だろう。アグルの役職としては由々しき事態である。このような事態になれば必然的に短期決戦によって熊を打倒、最悪でも退かせなければならない。もっと露骨に言えばあえて突撃させて熊に殺させなければこの軍隊は維持できないだろう。
「……ふん。ティマチは無能だったがそれゆえに上からは扱いやすかったのだろうな。無駄な突撃であっても無意味ではない……何も知らぬ兵には気の毒だがな」
皮肉を込めた独白だったが、そこにわずかばかりとはいえ罪悪感を滲ませているのは少なくとも彼が人の死を喜ぶような感性を持っていないことの証だろう。それでも止まるという選択肢を持ち合わせていないのも彼らしさではあるのだが。
そのころファティは集結しつつある騎士団から離れ、ある都市の一室にて一歩も外に出られずに数日を過ごしていた。それはセイノス教徒からすれば気高き聖女を熊の穢れから守るための行為だが事実上軟禁に近い状況だった。
そもそもセイノス教の高位の聖職者はやや引きこも……外に出たがらない質であるため軟禁状態が不自然だとは周囲の人々は感じないのだ。もしも彼女が正当な方法で外に出たいと訴えれば……どうなっただろうか。
そんな状況でも彼女に一目会いたいという信徒は山のようにいたがごく一部の貴人を除いて彼女と対面することは叶わなかった。
そのため彼女の話し相手は必然的にお偉いさんかサリに限られていた。
そしてどこの世界でもそうであるように、お偉いさんとは話が長いうえに退屈なのである。それにクワイにおいて、いわゆる偉い人は大体聖職者である。聖職者というのは大体が話好きだ。それも相手の話を聞くよりも自分たちのことを話すのが大好きなのだ。
まあ要するに、暇を持て余しているところに長々と坊主の説法をされては気が滅入るに違いない。さりとてお偉いさんの機嫌を損ねるわけにもいかない……立場には苦労がつきまとう好例であろう。
「お疲れさまね。ファティ」
疲れ切ったファティにサリが優しく声をかけながら樒の櫛で髪をすく。今まで何度繰り返してきたかわからない行為だがファティにとってはもっとも心安らぐ時間だ。
「ありがとうサリ。それで外の様子はどうなっているの?」
ファティとは違い、サリは多少の外出を許可されており、それなりに情報は耳に入っていた。
「表向きはそれほど慌ただしい様子はないけど……やっぱり空気が重いわね」
「そう……じゃあ熊が人を襲っているの?」
サリは数日前にアグルからファティを不安がらせないためになるべく外の状況を知らせないように頼まれている。しかしながら嘘をよしとしない敬虔なセイノス教徒たらんとするならば真実を述べなければならないと判断した。
「村がいくつか襲われて、遠くの町でも被害がでたそうよ」
「そんなに……でもまだ騎士団は出発していないんですよね?」
「ええ。あれだけの人数だもの。そんな簡単には動けないわ」
「でも、今この時にも誰かが襲われているかもしれないんだよね」
「それはそうかもしれないけど……アグルさんやカンツ様も少しでも早く騎士団を動かそうと懸命に努力しているはずよ」
「それはわかってるけど……でも……」
自分が部屋の中で怠惰に過ごしているうちに傷つけられている人がいると思うと居ても立っても居られない。
だが前年トカゲと戦った時にサリが叱責されたことを忘れたわけではない。勝手な行動を行えば誰かに迷惑をかけることはわかっている。
「今は焦らないで。みんなを信じて待ちましょう?」
「うん、信じてないわけじゃないの。ただ、不安なだけ」
町が不安の霧に包まれる中でサリは何をしているのだろうか? 実のところ、何もしていない。彼女の立場は曖昧模糊としており、決まった仕事が割り当てられているわけではない。
強いていうなら聖女様の話し相手だ。貴族であれば女官や側付きという役職があるにはあるのだが、そもそもファティ自身何の役職についていないのだ。あれほどの戦果を挙げ、丁重に扱われていても依然として彼女はただの村人に過ぎない。故に彼女の下につく役職など存在しない。
役職が存在すると立場を明確にしてしまい、交渉の材料としての価値が下がるというアグルの判断だが誰もそれに気づいてはいない。
それゆえサリの立場はよりいっそう不鮮明に、というより誰も気にしていなかった。所詮彼女は銀の聖女の添え物なのだから。
だからこそスーサン随一の防衛都市をゆっくり眺めることができていた。結局のところ彼女は彼女で暇だったのだ。
「もし? そこの赤毛の御方」
「何でしょうか?」
突然老婆に話しかけられたサリははきはきと答える。きりっとした厳格そうな老婆だ。
「あなた様は銀の聖女の侍女であらせられるサリ様でしょうか?」
侍女、そう聞かれた瞬間にピクリと頬を硬直させたがそうとは悟らせずに背筋を伸ばして答える。
「はい。私は銀の聖女の教育係を務めておりますサリ・トゥーハと申します」
老婆は驚きに目を見開き、最敬礼を行う。
「失礼いたしました。私の無知をお許しください。サリ様」
「構いません。私に何か御用でしょうか」
「銀の聖女様にお目通りは叶うでしょうか?」
「それはできません。あの御方に拝謁したいと願う信徒はあなただけではありません。あなただけを優遇することは神の御意思に反するでしょう」
そのままサリは立ち去ろうとする。
神の意思という言葉を持ち出せばおおよその信徒は雷に打たれた如く押し黙るのが普通だ。逆を言えば強い目的と意思を持つのであれば反論することも可能であろう。
グワっと老婆が手を伸ばしサリの腕を掴む。そのしわがれた手のどこにそんな力があるのか。自分の腕がもげるのではないかという錯覚さえ覚えるほどだった。
「お願いしますサリ様。私の孫を救うには貴女様におすがりするしかないのです!」
目に涙を浮かべた老婆に対してサリはゆっくりと口を開いた。
「わかりました。お話を聞きましょう」
その夜。
銀の聖女ことファティは昼間サリと会話していた老婆と向かい合っていた。
「お初にお目にかかります聖女様。おお、なんとお美しい銀の御髪。絵姿では到底表せないでしょう」
セイノス教において最敬礼を恭しく行う老婆は年齢を感じさせない優雅さを持っていた。
「初めまして……ええとお名前は?」
ファティもまた最敬礼を行いながら問う。絵がどうのという言葉も気になったがそれ以上に老婆が何者かが気になった。
「私は名乗るほどのものではございません。ただの婆にございます」
自室に突然現れた老婆に困惑を隠せない。しかしその悲壮な表情から真剣さは伝わってきた。
「じゃあ、その、何の御用ですか?」
「このような礼儀に適わぬ訪問でありながら優しく声をかけて頂いたことを感謝します。ご存じだとは思われますが……この町には熊が迫っております」
「熊がいるのは知ってましたけど……そんなに近づいているんですか?」
「はい。ここから歩いて五日ほどの村が襲われたようです。ここに来るのも時間の問題でしょう」
「もうそんな近くに!?」
情報伝達のタイムラグや熊の歩行速度を計算すると今まさに熊がここを襲っても不思議ではない。
こんなことをしている場合ではない、そんな思いが脳裏をかすめる。
「熊を討伐に来た騎士団の方々はこの町から少し離れた場所に布陣しておりますが……実はその先にそれほど大きくない村があります」
「それは……とても危ないですよね。早く避難しないと」
ふるふると老婆は首を横に振る。
「それができないのです。その村が襲われると同時に騎士団は出陣するつもりのようですから」
「そんな!? それじゃあその村の人たちは!?」
「……我々スーサンの民は皆覚悟ができております」
沈痛な、しかし前を見据えながらはっきりと断言する。あまりの意思の強さに思わず息を呑んでしまう。
「……ですがそれも我が身のことならば。あの村には私の昆孫(孫の孫の孫)がおります。あの子が悪名高き熊に食われるのはあまりに忍びない」
一般に魔物に食われた人間は楽園に旅立てないとされる。しかしその魔物の悪石を砕けば魔物に囚われた魂も解放され楽園に旅立てると聖典に書かれている。だからこそ魔物に食べられることを信徒は恐れるし、そのような魔物を決して逃してはならないのである。
だが、それも一絡げに纏められるような魔物であればの話。あの熊ならばその悪石を砕くことがどれほど難しいかなど考えるまでもない。
「お願いです聖女様。私の昆孫を救い、ひいてはこのスーサン領を救ってはいただけませんか? 無理を言っているのはわかっております。しかし貴女様しか頼れる御方がいないのです」
片膝をつきながらファティに縋りつく老婆は確かに救いを求める弱き民の一人だった。仮にも聖女と呼ばれる自分がこの求めを断っていいのだろうか?
しかし以前の失敗がちらついてしまう。勝手な行動はとれない。だが老婆はファティの心を読んだかのように補足する。
「もちろん貴女様にご迷惑はおかけしません。私が無理に貴女様を連れ出したことにすればよいのです」
「でもそれじゃああなたが責任をとらないといけなくなるんじゃ?」
「私ももう年です。今更どうなろうと構いません」
老婆は本気だった。本気でなければこんなことはしないしできないだろう。ならば、応えないといけない。
「わかりました。私が貴方のえっと、昆孫を助けます」
「ああ、感謝します聖女様! 神と、救世主様に感謝します!」
目に涙をうっすら浮かべた老婆はもはや思い残すことなどないようだった。