178 本じゃわからない景色
騎士団の行軍は概ね順調だったといっていい。もちろんそれらの裏にはアグルをはじめ騎士団員の努力があった。
進路上の村の人口や食料の備蓄を調べ、ある時は人足を雇い、悪路を予想して道案内を頼み、スーサンへと向かう手はずを整えた。ありがたいのはそれらにほとんど費用を払うことはなく、信徒からの献身で成り立ったことか。アグルとしては若干の罪悪感を感じていたが……それを感じているのはアグルだけのようだった。それがなおさら彼をいら立たせていた。
途中で騎士団員を増やしながら西のスーサンに向かっていたが、その途中で海老を同行させる決断をした。
ちなみにこれはアグルの独断で眉をひそめる団員もいたが、水の消耗が予想以上であることを必死に説いた。実際に水不足は感じていたのだろう。カンツや銀髪の視界には決して入れないことを条件にようやく海老を連れ歩くことができた。これだけでも前回よりは状況がましになっているはずだった。
すっかり慣れ切った駕籠の中でサリと楽しげに会話する。普段は今日会った人はどうだった、外の景色はこうだったなどと他愛ない会話をしているが、今日はやや不安そうな顔色をしていた。
「サリ、それほど急いでいないような気がするけど大丈夫なの?」
前回の竜との戦いにおいては騎士団の遅れが原因で甚大な被害を出してしまったために行軍の遅れを気にしているようだった。
「心配ないわ。熊が出るのは春か秋になるそうよ。私たちは秋ごろになる前にスーサンにつきさえすればいいの」
普通に考えれば西の果てにあるスーサンから教都まで指示を仰いでいれば時間が足りない。しかし熊のそうした習性があるからこそおっとりと都から駆けつけても、春の被害さえ無視できれば間に合うことになってしまう。
「でも、それじゃあ春に熊が出たらすごく被害がでちゃうんじゃないの?」
「それも大丈夫。春は神により偉大な加護を頂いているの。春に現れる熊は決して人を傷つけられないわ。今はもう少し気を楽にしなさい。ここからその調子だと身がもたないわ」
はい、と小さく返事する。その表情は姉にたしなめられる妹のようだった。
しかしながら熊だろうが何だろうが生き物である。生き物とは書物に載っている行動だけを繰り返すわけではないということをまだ知らなかった。
まもなくスーサン領に入ろうかというところでその凶報はもたらされた。
「熊がもうすでに信徒を襲っているだと!?」
「は、はい。すでに五つを超す村が襲われております」
アグルは伝令に送られてきた青ざめた顔をした兵に思わずオウム返しをしてしまう。だが無理もないだろう。それは川の水が甘くなるよりもありえない出来事だったはずだ。
しかも伝令である以上現在進行形で悪化している可能性は高い。もうすでに他の村も襲われているかもしれない。
「どうやら急を要する事態のようですね」
「カンツ様!」
一斉に周囲の人間が敬礼を行う。しかしカンツの表情も険しい。
「時節をわきまえずに神の慈悲さえも聞き入れず、何の罪もない信徒を襲うとは……二百年前に現れたあの熊のようですね」
その場にいた人間の表情が凍りつく。誰しもがそう思っていたがそれを口に出すことを恐れていた。
二百年前。
このスーサンに現れ暴虐の限りを尽くした熊がいた。季節も何もかもを無視して暴れまわり、信徒をただひたすらに殺しつくし、一説によると数百万の民が犠牲になったとさえ言われている。
当時の人々は聖典にある、民から信仰が失われた時に現れこの世を滅ぼすという終末の獣ではないかとさえ噂されたらしい。
最後には国の総力を結集し、遂には獣を撃ち滅ぼすことに成功したがその傷が癒えるまでには数十年の月日を必要としたという。
確かに今回の熊は二百年前の出来事を彷彿させる。このまま例年通りの熊と戦うつもりでいいのか? 全員の心に不安の影が差した時、カンツの言葉は明かりとなって皆の心を照らした。
「ご安心なさい。此度の戦にはかの銀の聖女であるファティ様が同行なさっています。例え真実に終末の獣だったとしても我らが遅れをとることは決してないでしょう」
信徒たちの顔が星の如く輝きだす。驚くべきことに銀の聖女の名はこのスーサンにも轟いている。……そのせいで熊狩りであるアグルは目立っていないのだが実際にトゥーハ村に現れた熊を追い詰めたのはファティである以上やむを得ないだろう。
「まずは全軍と合流し、情報を集めるのです。さすれば必勝は間違いないでしょう」
「は!」
きびきびと動き出す面々。カンツは当たり前のことを言っているにすぎないが、それがまさに金言であるかのように受け止められていた。
(具体的にどう対策をとるかは何も言わないのか)
カンツは予定通りことを進めると決めただけで何か物事を進展させたわけではない。ただ右往左往しているよりかはましだがそれだけだ。
そういうアグル自身も有効な手立てを考えつかないのだが……
アグルは去年の出来事を忘れたわけではない。教皇とその一派が今も銀髪を虎視眈々と狙っていると確信している。
今はアグルが駒として使えると判断したから生かされている状態だろうと推測している。
だがいざとなれば騎士団を盾にして銀髪を連れ出して逃げるくらいのことはするだろう。迂遠な形でアグル自身に危害を加える可能性も高い。
そもそもアグルを兵站担当という重要でありながら評価されづらい担当にしたのはアグルを試す目的もあるだろう。
(ひとまずは奴らの思う通りに動くしかないな。いかに銀髪が優秀な兵器だとはいえ熊に何度も勝てるかどうかはわからん。それにむしろすぐに倒してしまうと面倒なことになりかねん)
何度でも言うが。生き物とは予想もつかない行動をとる。味方であっても、敵であっても。