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170 赤い繭

 時間は数日前に遡る。

 青い空に緩やかに舞う鳥。

 誰にも気に留められることはなく、彼、ないしは彼女たちの主のもとに逐一下に住む民の動向を送り続けていた

 おそらく今日の報告は重大なものになると確信しながら。


 数えきれないほどの歓声に見送られて熊の討伐隊が王都から旅立つ。今の数はそれほど多くないが途中の領で兵を募って最終的には数万の騎士団になることもあるらしい。

 その中には銀の聖女も当然いる。しかし彼、タスト・ヌイ・ルファイはそれを見送っていた。

 参加できない立場だったがそれ以上に彼には目的があった。巡察使の試験を受けるのだ。


「じゃあ気をつけて奈夕さん」

「はい、藤本さんも。試験の日に一緒にいれませんけど、応援しています!」

 いつものように眩しい笑顔で嬉しくなることを言ってくれる。

「ありがとう。ああ、そういえば君のお母さんも巡察使だったそうだね」

「はい。記憶はありませんけど、とても優しい人だったと聞いています。できれば会いたかったな……」

「ごめん。ちょっと無神経だったね」

「いいんです。でもすごく難しい試験だって聞いてますけど大丈夫なんですか?」

「そこは僕の努力次第かな。さ、そろそろ行かないとアグルさんやサリさんに怒られるよ」

「はい! それじゃあ行ってきます!」


 それがほんの少し前の会話。

 今は駕籠に揺られ家路についているが駕籠の中でも聖典を繰り返し読み込んでいる。

 今自分に足りないものは何か。いくらでもある。それでもあえて挙げるのなら地位と権力だろう。今のままでは何をするにも母親に縋らなくては動けない。それではきっと彼女を守れない。

 必要なのは敵を打ち倒す力じゃない。漫画のヒーローのようにヒロインを守る力なんかない。それどころかむしろ守られることしかできない。

 だから飛んでくる矢を防ぐ盾よりも忍ばせられた毒を知らせる銀の匙にならなければならない。彼女に必要な力はそれだ。

 それを得るためにはどうしてもこの国内部に食い込む力がいる。そのもっともわかりやすい力が地位と権力。しかしこのクワイでは男性がこれら二つを得るのは難しい。男の場合事実上の権力者である聖職者には修道士にしかなれない。

 しかしルールには抜け穴というものが少なからず存在する。

 修道士の中でもひときわ特殊な役職、それこそが巡察使だ。

 巡察使とはクワイの各地を巡り信仰が正しく守られているか、人々は健やかに暮らしているかを見守る役職である。ただし教都ほどの大きな都市では常駐している巡察使も少なくはない。

 この役職の特異な点は異端審問官の派遣権限を持つということ。異端審問官とは読んで字の如く異端であるかどうかを問いただす役職だ。このクワイにおいては異端として扱われることは死ぬことよりも恐れられている()()()

 異端審問官を派遣されるということは死刑かどうかを審議されているに等しい。異端審問の対象には領主、地球だと江戸時代の大名のようなもの、でさえその対象になりうる。

 つまり異端審問官の派遣権限をもつ巡察使は本来の地位よりも強い権限を持ち、畏怖を集めるということ。

 そして巡察使は男がなってはいけないというきまりはない。修道士なら試験に合格すればだれでもなれる。中には引退した教皇が巡察使となり各地の世直しを行ったという伝説もある。世界が変わってもお忍びで世界を巡る貴人というものに憧れるらしい。

 修道士には司祭から許可さえ得ることができれば簡単になれる。はっきり言えば親の七光りで修道士になることはできた。後は試験にさえ合格すればいい。

 ただし、その試験の難易度は人気に比例して相当に高い。試験にはかなりの人数が参加するが合格するのは一握りだ。日本の大学受験など目ではない。そして何より記録にある限りでは男が巡察使になった例はない。今の立場は司法試験に学校にも行かずに受験するようなものかもしれない。

 さらにその試験内容も一筋縄ではいかない。単純な記憶問題なら能力でどうともなる。しかし在りし日の聖人の心境を述べよ。神がこの地を作った時に百番目に作ったものは何か? などと意味のよくわからない、そもそも答えのない問題を議論させることもあるらしい。他人と議論する能力や聖典への理解力を測るのが目的なのかもしれない。

 しかもそれを判断するのは全て現役の聖職者、つまりほぼ女性だ。この時点で男では大幅に不利なのだ。

 そしてもっと厄介なのが実技試験だ。実技と言っても切った張ったを演じるわけじゃない。というかそもそも戦闘行為を行わないらしい。聖職者にとって重要なのは<光剣>の美しさで、光の強さや形などを判断する。

 剣の美しさはこのクワイにおいて一種のパラメータだ。例えば就職などの役に立つし、異性にモテるのも剣が美しい人間だ。顔の美醜や力強さなどはあくまでも二の次に過ぎない。

 もしもこの国に神秘を全く使えない人間が転移してきたとしたらろくな人生は送れなかっただろう。

 残念なことに魔法についてはごく普通の人間に過ぎない。そう願ったのだからそれはもう変えられない。自分自身の努力で神秘を磨くしかない。


「試験、か」

 まさか異世界に転生してまで何かの試験を受けるとは思わなかった。

 地球での試験、正確には受験には苦い思い出、いやトラウマがある。センター試験の時だ。

 その日は緊張していた。もちろん誰だって緊張するだろう。しかし自分は、今思えば馬鹿馬鹿しくなるほど、異常なまでに追い詰められていた。身内にもっと優秀な奴がいたから、誰にも期待されていなかったのに。

 たしか数学だったか……よく覚えていないけれど難問にぶつかった。それ自体はよくあることで、その問題を飛ばせばいいだけだ。しかし自分はその問題を解こうとやっきになってしまった。どれだけ時間をかけても問題は解けずパニックに陥った自分は……逃げ出した。比喩ではない。試験会場から逃げ出した。全ての試験が終わっていなかったのに。

 どこをどう歩いたのか全くわからなかったがいつのまにか学校に辿り着き、教師に事情を聴かれていた。あの時の教師の顔は忘れられない。言葉だけは優しかったが目は失望を隠せてはいなかった。後で聞いた話だと反面教師として語り継がれるようになったらしい。

 それからの受験は散々だった。試験会場に入るたびに集中できず、何とか滑り止めの大学に受かることができた。それからも試験のたびに身がすくみ、運転手になれたのは奇跡的だとさえ思っている。

 これが前世での人生。落伍者とまではいかないかもしれないけど飛びぬけることはできない、何かの特別になり損ねたどこにでもいる凡人。

 だからこそ、この試験でそれを払拭する。

 会場の受験者に目の敵にされている自分を想像する。試験官に白い目で見られている自分を想像する。親の七光りでここまで来たと噂される自分を想像する。


 それがどうした。


 彼女はもっと強大な敵と戦っている。命の危機にさらされている。それを思えば試験などどうということもない。

 いつも彼女は誰かを想っている。そんな姿に憧れた。あんな風に、あるいはあの人と一緒にいたいと思った。ただの消去法なんかじゃない。

 そう、誰かのためなら頑張れる。前世の自分にはなかった感情だ。




 歓声が離れると狭い駕籠の中はより静けさを感じる。しかし去年に比べるとファティはいづらさを感じない。同行者と心が通じ合っているからだろう。

「サリ、今から行くスーサンはどんなところなの?」

「クワイの最も西にある領よ。そのさらに西には不毛の大地が広がっていて熊のような強大な魔物が眠っていると聖典に書かれているわ。そしてその眠っている魔物に悪魔が憑りついて時折クワイに穢れを振りまくのよ」

 悪魔。

 心のどこかで本当にそんな存在がいるとは思っていなかった。しかし去年戦った蟻からは確かにこの世の全てを殺しつくさずにはいられないと、それほどの悪意を感じた。あんなものがこの世界にはまだまだいるのだろうか?

「ねえ、他にはどんな悪魔がいるの?」

「そうね。海岸、特にラオの西の海岸にいる魔物に憑りつく悪魔かしら。この世で最も醜悪で神を永遠に恨み続けるといわれている悪魔よ。あれには決して近づいてはならないとされるわ」

 二人の話声に不敬ながらも耳をそばだてる駕籠の運び手は疲れることを知らなかった。

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うちの猫は液体です 新作です。時間があれば読んでみてください。
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