169 二重らせんの天使
「しかし王よ。何故微生物にはレンネットなどを作ることができるのですか?」
おっと嬉しい質問。ようやくオレの言いたいことに近づいてきた。
「レンネットに限らず生物にはある物質を生産できるんだ。それが酵素だ」
「酵素……何ですのそれは?」
「すっげえ簡単に言うと生物が生産する触媒の総称。触媒っていうのは自身は反応せずに他の物質の化学反応を促進させる物質のこと」
流石にいきなり飛び出した専門用語に戸惑ってはいる。それでも理解しようと努力しているあたり興味は持ってくれてるのかな。
「でももう物凄く小さな物が様々な影響を与えるってことは理解できるよな?」
「それは、そうですけど……どうやって作っているんですか?」
その辺りは踏み込んでいくと本が一冊どころか百冊ぐらい書けるし何よりオレ自身が完璧に理解できているわけじゃないからなあ。
「ものすごーく簡単に言うと遺伝子っていう酵素の設計図……さっきのフレッシュチーズを作る時の手順みたいなものを示す構造が微生物に限らずありとあらゆる生命体の中にあるんだよ」
三人は自分や他人の体を胡乱そうにじろじろと眺めている。なんとなく鏡の前に立った犬のような滑稽さを感じて心の中で笑ってしまうが言わぬが花だろう。
一酵素一遺伝子説などが唱えられるほど酵素と遺伝子には密接な関りがある。ある意味この酵素を単独で作る能力を持つことこそが生命体の条件だといえなくもない。この世界の生命体が地球とは異なる法則であるという可能性もなくはないけどそれはごくわずかなはずだ。実際問題としてこれだけ発酵食品やらなんやらが作れて遺伝子なんてものは存在しませんなんてありえないだろう。
「んで、最終的にその酵素を大量かつ複雑に組み合わせることで生物が形作られている。遺伝子は生命の設計図ってことだな。……わかる?」
「何とか……」
おおう、ぎりついて来てくれてるみたいだ
「例外はあるけどこの遺伝子によって生物の肉体の基本的な部分は決定する。どんな顔になったりとか、どんな毛の色になったりだ」
もっとも猫の毛の色みたいに遺伝子が同じでも全く違う模様になったりもすることもあるけど、今この時点では蛇足にしかならない。
「なら……私の毛が赤いのは……そういう理由……?」
「そういうこと。ついでに言うとこの遺伝子は親から子へ引き継がれるものだ。多分だけどお前の先祖に赤毛の個体がいたんだろう。それがお前の代で発現したのかもしれない」
「その遺伝子を変える方法はありますか?」
縋るようなか細い声で語り掛けてくる。そんなに赤い毛が嫌かね。
「ないわけじゃないけど安全に変化させる方法は存在しないな」
「そんな……」
「遺伝子は基本的に生まれた時から死ぬまで変わらない。しかしそれは先祖代々受け継いできたものだ。それこそ僧侶自身に赤毛の遺伝子が組み込まれているかもしれない。それを悪し様に言うことは自分自身や種族に対する侮辱だと思うんだがね」
「侮辱? 僧侶様が?」
オレの言葉が意外だったのか目を丸くしている。
「ああ。オレはそう感じるよ。毛が赤い? それがどうした。自分自身の努力によって変更しえない事象で蔑まれることは理に沿わない。少なくともオレはそうだ」
「そっか、そうなんだ。ふふ、うふふふふふ」
おっとお? なんだか危険な笑みを浮かべてるぞ?
笑顔に似つかわしくない黒いオーラが浮かんでいるような気がする。
なんとなーく思ってたけど豚羊は腹黒いんじゃね? あの僧侶とかは絶対腹黒どころか暗黒だぞ。あの穏やかそーな語り口をしながら容赦なく茜を差し出すあたりがさ。
「王、少しよろしいですか?」
「何だ?」
「遺伝子は体を作り一生変わらぬとお聞きしましたがそれでは我らの鍛錬は無意味でしょうか」
「いや、それは違うよ。遺伝子はあくまでも体質であって結果を示さない。先天的に足の遅い速いはあるけど努力によってそれは変動しうる。それに遺伝子は生まれつき変わらないけどどんな遺伝子が発現するかはまた別だ」
「発現とはその酵素が作られるかどうかということでしょうか」
「ま、そういうこと。遺伝子はあくまでレシピであって作られた結果じゃない。ちなみにこれは簡単な実験で説明可能だ」
「それは一体?」
「例えばある細菌がいるとする。その細菌Aはとても吸収しやすい……まあ美味しい物を食べるための酵素Aと美味しくない物を食べるための酵素Bを作る遺伝子A、Bをそれぞれ持っているとする。何故遺伝子A,Bを持っていると思う? 何故美味い物を食べる遺伝子Aだけ持っていてはいけないと思う?」
「それは、美味しい物がなくなった場合遺伝子Aだけではたち行かなくなるのではないからでしょうか」
「はい正解だ。普段は遺伝子Aだけを発現させているけどおいしい物がなくなると遺伝子Bを発現させて美味しくない物でも食べられるようにするんだ」
遺伝子はそこにあるだけで効果を発揮するお守りじゃない。きちんと読み込まないと作用しない。あるかどうかが大事なのではなくちゃんと働くかどうかが重要だ。
フィクションだと偶に遺伝子が全てを決定するなんて言うキャラがいるけどそれって遺伝学の基礎さえ学んでいないってことなんだよな。そんなのが許されるのがフィクションだけだ。
ちゃんと理屈で考えれば髪だの目の色だのそんなことで差別するのはバカバカしいことがよくわかると思うんだが……ま、そういうのは人それぞれだ。ケチをつけてもしょうがない。
「あなた、まさか茜さんを励ますためにこんな話をしましたの?」
「まあな。だってあいつがいつまでもうじうじしたままじゃきっちり働かせられないだろう?」
「……見直したかと思いましたがやはり茜さんのためではありませんのね」
「オレのためは茜のため。茜のためはオレのため。どっちも得をしているだろう?」
どことなく見下すような目つきでオレを見た後プイっと目をそらした。回りくどい方法だけど悪くはなかったかな。
「ふむ、それにしても……」
「ん、なんだ翼?」
「王は茜がお好みですか?」
ギラリと目の奥が光る。かぷかぷカップリングしたいとその目に書いてある。
「お前そればっかりかよ……」
いい加減にしてほしい。お見合いを勧める母ちゃんか。こいつらを恋愛対象としては見れねえよ。
ちなみに結婚に関するルールは許可制にした。
一夫一妻、一夫多妻、多夫一妻などの結婚方法をあらかじめ決めてから結婚を認めるというルールだ。
ややこしいかもしれないけどそれくらいしか思いつかなかった。
……戸籍の整理とかも始めてるけどこれのおかげで記載事項が結構増えてしまった。書類仕事めんどい。かといってこれをさぼるともめごとが絶対に増える。……はあ。
まあそんなこんなで色々乳製品を作ったんだけど足りなくなるものがある。塩だ。もう手持ちの塩はほとんどなくなった。なので次は塩を採りに行こう。目指すべきは海だ!
うれしいことに多分邪魔は入らないだろう。何しろヒトモドキと銀髪は西方に向かって進軍中だからだ。カッコウ偵察万歳!
鬼のいぬまに何とやらだ。今の戦力なら海にたどり着くことも難しくないはず。