167 チーズはどこで作る?
「はいでは授業を始めます。今回のテーマは乳製品に関わる微生物の働き。それに遺伝子の働きです」
生徒は茜、翼、瑞江。割と新人が多い。というか似たような内容なら千尋辺りはもう知ってるし。
全員でか過ぎたので青空教室だ。部屋に入らんよこいつら。相変わらずバラエティ豊かなメンツだこと。
少々思うところがあったので本日は学校で教鞭をとることにした。
「さて何か質問は? はい翼」
「微生物とは何ですか?」
いきなり根源的な質問だな。ちなみにある程度瑞江は予習済み。
「肉眼では観察できないくらい小さな生物の総称だな。正直厳密な定義はないよ」
「はあ」
翼はイマイチ乗り気じゃない。ラプトルはやや気分屋というか天才肌っぽい所があるなあ。蜘蛛も似たような所があるから肉食動物は興味のないことには食指が動かないのかな。なら動くようにしてみせよう。
「さて、ここには豚乳がある。全員飲んだことがあるな?」
瑞江と翼は首肯。
「……自分の乳を飲んだことはありません」
「あ、いやそういう意味じゃなくて豚乳そのものを飲んだことがあるかどうかってこと」
「……覚えてません」
普通は親の乳飲んでた頃の記憶なんかないか。待てよ? 茜は赤毛であるがゆえに差別されてきた。もしかして乳はそういう昔の嫌な記憶を思い出させたりするのか。
さっきからどうも歯切れが悪いみたいだし。
「なあ茜。何か嫌なことがあるのか? もしそうなら善処するぞ」
「その……あの……」
まだ言い淀んでいる。う、ちょっと無神経だった?
「その乳は、さっき搾った乳ですよね」
「あ、うん」
授業に使うからさっき茜から乳をもらった。それがどうしたのか?
「自分の乳がみんなにまじまじ見られているのはちょっと……恥ずかしい、です」
はあ。そういうもんか?
ううむ。自分のこととして考えてみよう。
自分が出した体液が授業の材料として晒されているところを想像しよう。
……。
…………。
うん! 恥ずかしい!
そんなんだからもてないんだよと言われても全く反論できませんねこれは。
「ごめん茜。オレが無神経だった。でも今回はこいつを使って授業を進めるから我慢してくれ」
「……はい」
オレたちの会話を聞いていた翼は不思議そうにこちらを見ていた。
「王はそれほど他人に謝ることに抵抗を感じていませんね」
「そうだけど、どうかしたのか」
「いえ、王とは人に謝らぬと教わりましたので」
「オレはオレが悪いと思ったら謝るよ。王であるかどうかとかは関係ない」
「我々にはない概念ですね。王とはかくあれと定められ、それを覆すには力を示すしかないと教わりました」
ふうん。魔物は役割というものに固執、いや神聖視さえしているときがある。例えば蜘蛛では語り部のように、役割と個体名を切り離せないものだと扱っていることがある。
職業と個人の人格が癒着してるというか……そのキャラクターを押し付けられるというか……個人というものに頓着しないが故かな?
「脱線したけどそろそろ軌道修正するぞ」
ガラス瓶に入った豚乳の横に白みがかった黄色の物体をおく。
「何ですかそれは。ワタクシでも見たことありませんわ」
「チーズだ。このチーズは豚乳から作ったものだ」
チーズの歴史は非常に古く、五千年以上前から作られ続けてきた。その種類は多岐にわたり、時代によっては税金として納められたこともあったとか。それほどまでに地球人類に何故愛され続けてきたのだろか。
その最大のメリットは保存性の高さだろう。物によってはかなり長期間の保存を可能とする。さらに熟成されたチーズなら牛乳が飲めない人、つまりガラクトースの分解が苦手な人でも食べられるようになり、全体的に栄養価も高まる。オレたちにとって重要なのはそこ。一応豚乳はみんな飲めるけど大量に飲むとお腹が緩くなることもある。しかしちゃんと熟成させれば肉食動物でも食べやすくなるようだ。
食べやすくなるというのは種族が混交しているこの国において極めて重要だからなあ。
ではどうやってチーズを作るのか。
と、その前にチーズをどうやって分類するべきかを考えよう。実を言うとチーズに厳密な分類方法は存在しない。チーズの生産が行われている国で様々な分類がされているので今でも世界各国のチーズ好きの頭を悩ませているだろう。ま、オタクってそういう悩みをこそ楽しむものかもしれないけどね。
それでも大体の区別をするならこの三つ。
できたチーズを加熱して成形したものがプロセスチーズ。
チーズをそのまま食べるナチュラルチーズ。そこから熟成させるかどうかで区別する。
解説はこのくらいにしてまずは食べてみよう。
「これは……風味がありますね。本当に乳から作られたのですか」
「こちらは酸っぱいですが干しリンとよく合いますわね」
翼と瑞江は目を丸くしながらチーズをうまそうに食べている。瑞江が食べているのは試しに作ったヨーグルトだ。オレも昔ヨーグルトとレーズンを混ぜて食べてたなあ。ヨーグルトとドライフルーツは鉄板だと思うんだ。茜は困惑しつつも恐る恐る口に運んでいる。
ちなみにヨーグルトは意外と簡単に作れる。乳に乳酸菌を入れる。それから発酵を促進させる。
終了。ほらね? 簡単でしょ?
多分最も簡単に作れる発酵食品だ。家でも簡単に作れるよ。牛乳にヨーグルトを突っ込んで温度管理さえしておけば数日でできるはずだ。
それに比べるとチーズの作り方はやや難しいし時間もかかる。熟成させないカッテージチーズやフレッシュチーズならそんなに時間もかからないんだけど、長期保存に向かないからあんまり意味がない。
ただ手軽に作れるから……。
「あの、王様? 少しいいですか?」
「何だ茜?」
「わたしは、何かを学ぶ資格はないはずです」
「あん? なんだぞりゃ」
「赤毛の私は何を学ぼうとも高みに昇れません」
どうも豚羊たちにとって何かを学ぶという行為は全て昇るために存在し、そもそも昇れない赤毛には学ぶ必要がない。それどころか学ぶことそのものを禁止されているらしい。
「……それは豚羊のルールだろ? もうお前はあいつらの一員じゃない」
「……それはそうですが……」
ふむ。どうやら昔の仲間が忘れられないらしい。まったくどいつもこいつも何だって自分に辛く当たってきた連中を慕うんだか。こういうのは理屈じゃない……いや違うな。これは論理だ。洗脳とはある程度定められたロジックであるように、誰かを従わせる論理は存在する。それを解くことはできないと思っていたけど……こいつの洗脳は万全じゃない気がする。
「なあ茜。お前はどうしてアメーバと戦った時オレたちを助けたんだ?」
「それは、相手を傷つけたわけではありませんので……」
「それは助けてもいい理由だろ? 何故助けたのかを聞いてるんだよ」
「……わかりません」
ふうん。なんだか悩める青少年みたいだな。ってことはオレは教師役か。あ、今教師だった。
「わかった。じゃあお前は何がしたい? どんなふうになりたい?」
「なり、たい、もの」
おっと? 何か琴線に触れたみたいだぞ?
「そうだ。高みに昇れないなら何か別のことを試してもいいんじゃないか?」
「……」
沈黙。迷う、というより自分の中の心を探っているような気配だ。
「私は、強くなりたい」
「ほう。そりゃ面白い。お前が求めるのはどんな強さだ?」
「迷わなくてもいい強さ、でしょうか」
ははあ。こいつあれだな、バツが悪いんだ。
前回の戦いでちょっとしか戦わなかったから自分も何かしたいんだ。でも不殺教の教義ではとにかく殺すことに繋がる行為、例えば戦いを嫌悪している。
自分の感情と不殺教の教育の板挟みにあっているわけだ。くくくっくっく。やっぱりちゃんと洗脳できてないじゃないかあ。
僧侶も存外甘いようで。徹底的に教義を守らせるようにさせ損ねるとは。これなら付け入るすきもあるというもの。
「それならまずは知識を身につけてみればどうだ? 正しい知識は正しい判断の助けになるぞ?」
「ですが私は……」
「なら僧侶たちが学んだことのないものを学ぶのはどうだ? それなら教義に違反しないんじゃないのか? 高みに昇るために学ぶんじゃなくオレたちの学問を学べばルール違反じゃないだろ?」
「……」
「その無言は肯定だと受け取るぞ?」
ちょっと意地悪なことを言うと、今まで無言だった瑞江が茜に話しかけた。
「あなたが率先して学べばあなたについてくる子らもいるでしょう。あなたのためではなくあなたの仲間にとって良いことだと思ってはいかがです?」
「私が……あの子たちの為に……?」
瑞江の言葉はオレからはちょっと思いつきづらいアプローチだ。……海老より他人の気持ちがわからないオレって一体……
「オレの好きな言葉を一つ教えるよ。知識は荷物にならない。基本的に知識ってのはあっても役に立つかどうかはわからないけど負担になることは少ないよ」
それはこの世界に来てから特に実感している。
「……そうですね。私も一緒に学んでよいですか?」
「歓迎しよう。盛大にね。それにしても瑞江。お前意外に優しい所もあるじゃないか」
「寧々さんから仲間は大切にするべきだと教わりましたわ」
そういやこいつの教育係途中から寧々にしてたんだっけ。寧々も意外に優秀だな。やっぱり産まれてからすぐに他種族と交流させてたやつらは付き合いがいいな。でも……
「それにしてはオレに当たりがきつい気がするんだが」
「あなたは仲間ではなく上司ですわ。命令は聞きますがワタクシの庇護下にあるわけではありませんの」
ええー。そういう理由? 守ってやるのは自分と同格以下の連中だけかよ。
ノブリスオブリージュみたいなもんか。海老が貴族の責務を語るか。その定義だとオレも弱い側に入るような気もするけど……ふーんだ。いいもんねー。オレを守ってくれる奴他にもいるもんねー。
「王? 茜はこのまま勉学に励むということでよろしいのですね?」
「あ、そっか。お前は茜と会話できないんだったな。まあ大体その認識でいい」
ラプトルはテレパシーで他種族の魔物と会話する能力が高くない。茜の言葉だけは全く聞き取れなかったようだ。いやまあ女王種が異常に会話相手が多すぎるだけなんだけどさ。オレと瑞江の会話から大体の内容は察したらしい。
「今更だけどお前たちは豚羊を食べたいとは思わないのか?」
今の状況はごちそうが目の前をうろうろしているようなもんだと思うんだが。
「まさか。そんなことをすれば王は私を罰するでしょう? それに豚乳やこのチーズは生きている豚羊でなければ作れないのでしょう? 我らは殺したくて殺しているわけではありません。殺さぬ方が良いのであれば無理に戦いを挑むことはありません」
なかなかにオレ好みの論理的思考だ。言い換えれば殺す必要さえあれば殺すと受け取ることができることも含めてな。
「さ、それじゃあ話を戻すぞ。まずチーズの作り方だ。カッテージチーズを作るぞ。これはさっき食べたチーズとは違うけど根本的な考え方は一緒だから参考にはなるだろう」
さあそれでは皆様、お料理の時間だ。青空の下で楽しくクッキング。
まず牛乳を加熱して殺菌する。焦がさないように注意する。
「はい斉唱。焦がさないように注意」
「「「焦がさないように注意」」」
基本的にかまどは火力調節が難しい。炭を使うと楽だけどあんまり贅沢はできない。
それでも以前よりは火をつけるのは楽になった。ちょっと便利な道具を思い出したのでそれを試しに作ってみたところ意外にも好評だったからだ。
その道具の名前は圧縮発火器。ファイヤーピストンって言った方がいいかな?
先端に空気の逃げ場がない注射器みたいな道具だ。
これに乾燥した草とか燃えやすい物を詰めてピストンを押すと内部の圧力が急激に増して温度が上昇し、発火する。
もっと手軽に火をつけられるマッチが普及するまではそれなりに重宝された道具だけど、世に広まった期間がたった数百年くらいなのでわりとマイナーな発火用品だ。
蟻の魔法ならすぐに作れるからもうちょっと早めに作っておいた方がよかったくらいだ。
オレたちは森林に暮らしているから火の取り扱いには慎重にならないといけないけどね。
加熱した牛乳をちょっと冷ましてからリンゴ酢を入れる。別にお酢じゃなくても酸性の液体なら何でもいい。レモン汁とかの方が風味は出るけど今はない。渋リンでもいけるかもしれないけど今は確実にできそうなリンゴ酢を使う。
そして十年後……じゃなくて十分後。
牛乳にぽつぽつと玉の塊ができた。この凝固物をカードと言い、チーズの前段階みたいなものだ。んー、もうちょっとたくさんできるかと思ったけどまあこんなもんか。料理が完全に上手くいった試しなんかないし。
あ、でも水分除くと意外に量があるかな?
「これを網とか布巾でろ過して余分な水分を取り除く。これでカッテージチーズの完成。で、この水分がホエーだ」
ヨーグルトとかを保存しておくと出てくる水と同じだ。これはこれで栄養があるから隠し味として使われたりもするらしいな。
「んじゃ試食するか」
待ってましたといわんばかりにチーズに突撃する。
「柔らかくて爽やかな味ですね。液体が固まるだけでなく味まで変わるとは……面白い」
「私はこのホエー? というものが気に入りましたわ」
うむ。お酢入れてるから結構つんとするかと思ってたけど十分食べれるな。ちなみにホエーは甘くないクリームを液体にした感じ? いわゆるクリーミーな味わい
「これでわかったと思うけど豚乳をきちんと加工すれば固めることができる。そういう目には見えない作用があることは全員実感できたな?」
全員首肯。自分の舌で感じた味は裏切れまい。
「さっき作った固めのチーズも基本的な考え方は一緒。豚乳を加熱殺菌。固めてからカードとホエーに分ける。熟成させる場合は型に入れてから塩を加える。後は寝かせて熟成させる。ただ一般的なチーズでは固めるためにはレンネットっていう物質を入れる。お前らはこのレンネットていう物質は誰が作っていると思う?」
まあ実はレンネット以外にも乳酸菌とかをミルクに入れることが多いけど今それを言うと面倒なことになるのでまだ言わない。
「話の流れから察するに、微生物が作っているのでは?」
ちゃんと微生物の話を覚えていてくれたらしい。
「はい翼正解。レンネットはカビからとれる。……一応カビも微生物でその集合体のようなものだよ」
もともとチーズ作りに使われるレンネットは子牛の第四胃、名前はギアラだっけ、から採取していたらしいけどその方法だと必然的に大量の子牛を屠殺する必要がある。
どうやら豚羊の内臓にもある程度レンネットが含まれているようだったけどいちいち殺していたら効率が悪すぎる。そこでオレは先達の学者たちに学びレンネットを生産できる微生物を探した。
それこそがカビだ。リゾムコールだっけな。あのカビからだぞ。あの害悪極まりないカビから実に素晴らしい物質が産まれるんだ。これほど素晴らしいこともないだろう。やるじゃんカビ(注 このセリフを覚えておいてください)。
もちろん生易しい道のりではなかった。
レンネットを見つけるためにカビを大量に採取し、単離して培養し物質を抽出する。
フィールドワークを行っていたカッコウと働き蟻、実験を行っていた寧々率いる技術班。みんな実にいい働きをしてくれた。この探索のおかげで今までなかった乳酸菌もゲットできたしいいことづくめだ。
とはいえたった数万菌株を調べただけで目当てのカビを手に入れたオレの幸運をほめてやりたい。オレは幸運に関してだけはカンストどころか上限突破している自信があるぞ。
「というわけで実際に微生物を培養していた現場を見てみようか。ついて来てくれ」
海老、恐竜、豚羊の順で列を作る。もちろん念のための警護兵はいるけどね。流石にオレだけでこいつらと会話する度胸はない。
「王、培養とは何ですか?」
「特定の微生物だけを増やす行為かな」
「つまり優れたものだけを生かすということですか?」
「ま、そう受け取れなくもないか。はい到着」
ついたのは二つのいくつもの小屋に隣接した長屋の前。そのうちの二つの小屋に視線を向ける。
右側は実験器具や実験試料に加えて暖炉や水を沸かすための鍋が積まれている。アルコールなども瓶に保存されている。
左側は鍋や暖炉などが明らかに小型化しており、その代わりに注射器具などがある。
「さて。右側が最初に作った微生物の実験部屋。左が改良した部屋。どうやって微生物を培養していたか。何故こうなったのか。お前たちにはわかるか?」