138 大衆の深層
話は数日前に遡る。
あるセイノス教徒が川に仕掛けていた罠の様子を見に行った時だ。川のただなかに黒く蠢く影を見た。それが何なのかは見当すらつかなかったものの何かよからぬことが起こっているに違いないと確信した彼女は村長に相談した。
村長も清く正しい信徒らしく、そこに悪魔の策謀を感じ取り、さっそく近辺の調査を開始した。
そしてほどなく竜の一団を発見した。(ちなみにここでいう竜とは地球において恐竜だと認識されている動物だ)
聖典によると竜とはトカゲが人の姿をうらやみ、自らも人になろうとしたがこの世で最も美しく、神に祝福された人の姿にはなれなかったために人を妬み、今も人を見かければ襲わずにはいられない魔物だという。
危険な魔物が見つかったので、慌てて都に報告を行ったが時すでに遅く、村は攻め滅ぼされてしまった。わずかに生き延びた村人も隣村の人々に後を託すと楽園に旅立ってしまった。
事態を重く見た都では騎士団を編成する準備が進められていた。
「以上がおおよその経緯です。ご理解いただけましたか?」
「はい。わかりました」
ファティが次の言葉を話す前にタストが割り込むように言葉を継いだ。
「何故それを彼女に? わざわざ彼女が行かなくても都の精鋭がいるはずですよね?」
「銀髪を持つファティ様が魔物の討伐に赴けば都に住まう人々も神の御心を感じることができるでしょう」
「それは教皇猊下の御言葉ですか?」
「その通りです」
じっと、女官の顔を注視する。
(嘘はついていない、か)
タストには嘘を見抜く能力があるが、弱点は少なくない。例えば他人に言伝を頼んで直接顔をあわせなければ、それだけで簡単に無力化できる。教皇が彼の能力に気付いているわけではないだろうが、直接会わないのは真意を隠す目的があると思った方がいいかもしれない。
しかし思考を巡らせるために沈黙してしまったのが良くなかったのか、ファティが先に口を開いてしまった。
「あの……もしも私が騎士団に参加すれば、アグルさんたちの解放を早めてもらえますか?」
(ちょ!? それはすぐに言っちゃダメな奴だって!)
交渉事でやってはいけないことの一つは自分から要求を率直に述べることだが……長い間アグルたちの身を案じていたがゆえに焦りもあったのだろう。あっさりと女官が言わせたかったことを言ってしまった。
ファティの弱みを握っていることを確信したのか、女官は予定調和のように会話を進める。
「そのようなことはありません。アグル殿の疑いは戒律を遵守したか否かであり、ファティ様の行動によってアグル殿の信仰の篤さが変わるわけではありません、ですが――――」
女官は一度言葉を切り、もったいぶるかのようにタメを作った。
「騎士団に参加することは敬虔なる信徒であることの証明になるでしょう」
結局、ファティが依頼を受けるという言質をとると、女官はすぐに部屋から去っていった。
……その表情が笑っているように見えたのは気のせいではないだろう。
「あの……やっぱり今のは軽率でしたか?」
顔に出ていたのだろうか。赤点がバレた子供のようにタストの顔色を窺う。上目遣いでちらちらこちらを眺める様子を見て、気勢をすっかりそがれてしまった。
(この辺が僕の甘い所だろうな)
自覚はあるが、どうにもならない。
「もうちょっと慎重に発言したほうが良かったかな。紅葉さんも似たようなことを言ってたけど、騙されないためにはよく相手を観察して、他人の意見を吟味しないと。……嘘をつくのが上手い人ほどそういう間を与えてくれないけどね」
「ごめんなさい」
素直にしょげながら謝る。この素直さもまた不安材料だ。美徳ではあるのだが。
「言っちゃったものはしょうがないよ。僕の予想だけど君を都合のいい戦力として使うつもりだと思う。今回の件はそのテストのつもりじゃないかな」
「利用……ですか」
真意については測りかねるものの、彼女を徹底的に利用し尽くそうとしている人間がいるのは明らかだ。……その筆頭が彼の母親なのは彼にとって忸怩たる思いを抱かせていた。
「君を魔物との戦いに駆り出すつもりだろうね。今回だけじゃなくてこれからもずっと」
ファティの戦闘力は圧倒的だ。しかも個人であるがゆえに維持するコストも少ない。
実に都合のいい戦力だ。
「でも……それでも、それで誰かを助けられるなら――――」
「林さん」
まっすぐ目を見る。彼女の献身的な心は素晴らしい。でもそればかりじゃきっと彼女は不幸になる。
寝る間も惜しんで、必死になって働いて、それで結局自分が体を壊す。日本ではそんな知人を何人も見てきた。もちろんこの世界と日本じゃ事情が違う。何より今の彼女には絶対的な力がある。
それでも人間は傷つく。心も体も。だから、僕が守らないと。
「誰かを助けたいなら、まず自分がちゃんと助からないとだめだ。君が自分を犠牲にしてもトゥーハ村の人たちは誰も喜ばないと思うよ」
「……そうかもしれません。でも……」
諦めたような、焦っているような、力の入っていない表情を作りながら、言葉を探しているようだ。
「ゆっくりでいいよ。今何を考えているのか言葉にしてみて」
「私、怖いんだと思います」
「魔物との戦いが?」
「そうじゃなくて……私の大事な人たちが私の知らないところで傷ついていくのが、です。私が頑張ればみんな傷つかずにすむ。それは私にしかできないですから」
虐待を受けた子供は極端に自分の家族が害されることを恐れるという。例え加害者が家族であっても。愛に飢えているとも聞く。彼女もそうなのだろうか。
「確かにみんな君ほど強くはないけど、みんな無力なわけじゃないよ。もうちょっと他人に頼ることを覚えた方がいいよ。君が誰かを助ければ、きっと誰かも君を助けてくれるようになると思う」
「そっか。そう……ですよね。アグルさんも同じようなことを言ってました」
「うん、やっぱりアグルさんはいい人だね。そういう人を頼ればいいと思う。でも……できれば、まず僕に頼って欲しいかな」
ほんの少し目を白黒させた後、はにかみながら微笑んだ。
「えっと、じゃあ、まず、アグルさんたちを早く解放してもらえるようにしてくれませんか? それから戦うことになる魔物について教えてくれませんか? できるだけ、みんなに危険な目にはあって欲しくないんです」
「うん。わかった」
教都の一角で軟禁されていたアグルやサリたちと会話する機会をまず得たのはタストだった。
アグルたちは最敬礼を行い、アグルが代表としてタストにまず感謝の言葉を述べた。
「御子様。我々の嫌疑を晴らすために尽力していただき感謝いたします」
「僕ではなく賢明な判断をなさった大司教様に感謝を」
「は」
「皆さまはこれから竜との戦いに赴く騎士団に参加していただきます」
「聞いております。皆、大司教様の命により結成された騎士団に加わること、心より感激しております」
「それは重畳です。それとファティ様は息災です」
おお! 誰からも喜びのどよめきが広がる。
「それは何よりです。我ら皆、聖女様のご無事を我らの身よりも案じておりました」
(……この人たちも嘘はついていない、か)
全員を見渡したわけではないが、ほとんどの村人は彼女の無事を心から願っているように見えた。
しかし、それが彼女に対して向けられた敬意なのか、それとも銀髪の聖女に向けられた敬意なのかを判断することはできない。
彼女自身は理解できていないだろうが、その二つは根本的に違うものだ。
前者は家族や友人として向けられた感情だ。それならいい。しかし、後者であったなら、例えば彼女が銀の髪を持っていなければ彼女を一顧だにしないということになる。
もしも彼女が魔物との対話を選んだとしたら、この人たちはどう思うだろうか。それはセイノス教にとっては大罪人の所業でしかないはずだ。
トゥーハ村の住人が彼女を大切に思っていることは疑っていない。しかし、その思いがどんな種類であるかは、未だに答えが出せずにいた。