137 風吹きゆく
レンガ造りの街並み。いかなる人も健やかに暮らし、祈りの言葉を穏やかに口にする。吹き抜ける風は春を告げ、うららかな陽気は心に明かりを灯す。
ここは教都、チャンガン。このクワイの政治の中心地である。
その中で最も偉大なる教皇が住まう邸宅、聖白宮。冬からその屋敷の一室に住まう銀髪の少女が一人。
銀の聖女と名高いファティである。
彼女を一目見ようと都中どころか国中から人が集まっているが、ごく一部の敬虔なる信徒以外その尊顔を拝謁した者はいない。
しかしそれでもなお、献上品や寄付の数々は今日も山となるほど積み上げられていた。
彼女が現在ここに住んでいる理由は少々複雑な事情からだった。
リブスティの後夜祭をすっぽかしたことそのものは後の活躍によって帳消しになった。彼女の行動そのものについては誰も咎めなかった。
しかし、彼女以外については、騎士団の面々、特にアグルが大いに糾弾された。ティマチを守れなかったことについては教都の司教直々に告訴状が届き、アグル他数人が教都で拘禁されることになった。
トゥーハ村の村人は誰もが貴石を差し出す、つまり額の石を砕く覚悟を持っていたが、アグルだけは違った。自らの行動は全てティマチ司祭の命令で、神と救世主に誓って何ひとつとして罪を犯していないと主張した。
実際に全てがティマチの指示だったと、騎士団の誰もが証言した。さらにティマチがいかに優れた聖職者で、その行動は慈愛に満ちていたとも皆が口を揃え、ティマチとアグルも神が御定めになったかと思えるほど息が合っていたとも、誰もがそうみなしていた。
……なお、これらは誰かが虚言を重ねたわけでも、口裏を合わせていたわけでもない。騎士団の団員全ては本当にそう見えていたし、心の底からそう思っていた。
しかし、ティマチが真に神の御言葉に耳を傾けていたのなら決して魔物に殺されることなどないはずである。そう、教都側は主張していた。敬虔なる信徒、それも司祭になるほど偉大であれば魔物に殺されるはずなどないという主張はあっさり受け入れられた。
何はともあれこの場で争点になるのは何故ティマチが死んだかではなく、誰が戒律を遵守できなかったか、という方向で議論が進んでいた。こじつけも甚だしかったがアグルにとっては二律背反の難題を突き付けられていた。
もしもアグル自身や騎士団員が戒律を遵守したと主張すれば、責はティマチにあると糾弾しているも同然だ。それはルファイ家と真っ向から敵対することを意味し、ただの修道士でしかないアグルに勝ち目はない。しかしそうでなければ騎士団員、特にアグル自身に咎を押し付けられるのは目に見えていた。
だがアグルはこの窮地を弁舌で乗り切らんと試みた。
「ティマチ様が楽園に旅立ったのは悪魔を討ち滅ぼすには聖女様の御力が必要になると確信していたに違いありません。ティマチ様は自らを犠牲にして聖女様にご助力願ったのです」
要は敵があまりにも強大だったからで、誰の過失もありません、そう持論を展開した。
自己の保身ではなく、村人の命を背負って立つアグルはまさしく古の聖人が如き清廉潔白さを胸に秘めていた。そう、見えた。
だがいかに清らかなアグルと言えどもそれを詳らかにするのは容易ではない。
そこでアグルの信仰心を証明する証人としてファティを聖白宮に招くことになった。……見るものが見れば下心が見え透いた猿芝居だったが何事にも手順は必要なのだ。
白い屋敷の一室で佇む少女。この世界には存在しないが深窓の令嬢という言葉がしっくりくる光景だったが、田舎暮らしになれた当人からしてみれば狭苦しく、窮屈だと感じていた。彼女は賓客としてもてなされているため聖白宮の住人からも敬意をもって接されていたが、それがかえっていづらさを感じる要因になったのも事実だ。
だがそれも去年凄惨極まる戦闘を行った村人、特にサリやアグルを思えば苦にならなかった。もともと彼女は忍耐を得意とする人間性を保有してはいるのだが。
「おはよう林さん」
「おはようございます、藤本さん」
彼女の身の回りの世話を行うのはほとんど教皇付きの女官だが、唯一彼だけが聖女と接触する男であることを許されていた。それがどういう意味を持つかわかっていないのはファティだけだっただろう。
「不自由な生活をさせてごめんね。それとアグルさんやサリさんたちは数日中には解放されるみたいだよ」
「本当ですか!?」
ぱっと花が咲くような笑顔を弾けさせる。
「ありがとうございます藤本さん!」
「僕が何かしたわけじゃないよ。アグルさんが何か悪いことをしたわけじゃないからね。当然の結果だと思う」
「でもティマチさんが……私がもっと早く村に戻っていたらあんなことには……」
「あまり自分を責めない方がいいよ。むしろきちんと君が帰る道筋を整えられなかった僕に責任があるんだし」
「そんなつもりじゃないんです! その……自分の無力さが恨めしくて……」
流石にタストは何故彼女が遅れたのか、誰かからの、恐らくは教皇の妨害だろうと予想はついている。もちろん確証どころか原因の究明さえ許されていないことも理解している。
自分の無力さをよく理解している。だからこそ、それを変えられないかという気持ちが心の奥底にあることも。
「そこまでにしておこう。今日はこの国の政治体制について教えて欲しいんだったね」
最近、タストはファティの家庭教師のように色々と教える役目を担っている。ファティは暇だからそれくらいしかやることがないのだ。クワイにおいては男性が一定の年齢に達した女性に対して勉学を教えるのは女性に対して侮蔑的な行為だと認識されているため、それを公にするのは許されないだろう。ここに住んでいる人間は薄々感づいているが、黙認されている。
数枚の図が書かれている紙と筆を取り出し、教師の気分になって解説を始めた。
「まず教皇猊下やその側近がどうやって選ばれるかだね」
「アグルさんは確か教皇様は大司教様からの信任で決まると言っていたと思います」
「間違いじゃないよ。ただ、大司教は形式上ここから別の領地に派遣されていることになっているからね。逐一連絡を取り合える距離じゃない。教皇が教都での選挙で決定してから大司教から信任の使者が送られてくるんだ。反対した大司教は歴史上ほとんどいないはずだよ。大司教にもなればこの教都に領事みたいに自分の手足になってくれる人を派遣できる権限があるし、自分の派閥みたいなものがこの都にいるから無視していいわけじゃないけど」
大司教は事実上領地の領主であるからなかなか自分の領地からは動けない。リブスティに参加するのがほとんど代理であるのはそういった事情がある。
「そっか。電話なんかこの世界にはないですもんね」
「そういうこと。逆に大司教は教皇の信任が必要だということになっているけど、こっちも事後承諾になるかな。もちろん大司教が不正を働いたり、何らかの非常事態が起こったりした場合、解任されたり権限が委譲される場合もあるけどね」
「非常事態って例えばどんなことですか?」
「二百年前の話だけど、君が倒した熊の魔物が一つの領を壊滅させかけたとか。どこまで信用できるのかはわからないけど、そういうことがあったのは記録に残っているよ」
「やっぱり、そういうことってあるんですよね……」
「君の理想は尊重するけど……本当に魔物と戦うことになったら躊躇わない方がいいと思うよ」
「……はい」
「ごめん。話が逸れちゃったね。教皇や大司教は選挙で選出される。枢機院というかつて重役についていた聖職者たちから構成されている組織が運営しているんだ。枢機院が選出した司教が候補となって、聖職者に選挙権が与えられるようなものかな。大体どこの領でも同じだけど、チャンガンでは教皇と大司教がいるんだ。だから国全体は教皇の管轄だけど、ここの大司教はチャンガンの運営をしている感じだね」
持ってきた紙を広げ図に役職名などを書き込んでいく。ちなみにこの図は自作だ。教本などは彼が勝手に持ち出せない故にいつもわざわざ作るしかなかった。
この国では専門書は貴重品だ。紙そのものはありふれてはいるものの本のレパートリーが異常に少ない。だからこそ貴重な本とどこにでもある本との落差が激しい。
「ええと、教皇が首相とか大統領……のようなものですか?」
「まあ砕けて言えばね。大臣のような役職も適宜選挙によって決定するかな」
「でもその選挙って男の人は参加できないんですよね……?」
「正確には男児は司祭以上にはなれないから立候補はできない。大司教や教皇を決める選挙そのものには修道士になれば参加できるよ」
それを平等な選挙と呼ぶには無理があるだろうが、少なくとも政治に参加する機会はある。しかも貴族……つまりは代々聖職者を排出する家系が大幅に有利なので出身や血筋が重要な要素であることは決して否定できない。
「あの……藤本さんはそれでいいんですか?」
「いいも悪いもないよ。それがこの国の政治だからね」
納得はしているが諦めきれはしない。虚しさを感じさせる表情だった。
「でもどうして政治について学ぼうと思ったんだい?」
タストもファティに教えることはやぶさかではないが、何故彼女が学ぼうと思ったのかは気になった。
「前に紅葉さんに、ちゃんと悪い人についてもっと知っておくべきだって言われたじゃないですか。だからまずこの国について知ろうかなって。この国について知っておけばきっと色んな事に惑わされないと思うんです」
「……そうだね」
肯定の返事はしたが、正直彼女にあの恐ろしい母親について理解できるとは思えない。それでも考えることは決して無駄にはならないはずだ。
「君の村の人たちとは話してみた?」
「はい。やっぱりみんないい人たちでした。みんな私の心配をしてくれていましたし……死んでしまった人たちを悼んでいました。自分がボロボロなのに他人の心配をするなんて、演技じゃできないと思います」
「そっか。うん、それならよかった」
彼としても彼女の周りにいる人間は信頼できる人間で固めておきたい。個人的にも公人としても。どちらの比重が重いかは考えないようにする。
「さあ、それじゃあ――」
だがその言葉は遮られた。
「御子様。ファティ様。よろしいでしょうか」
部屋の外から女官の声がする。
「どうぞ」
先ほどとは異なる言語で返答する。間違っても日本語を話しているところを見られるわけにはいかない。この世界には別の言語が存在しない。だから、もしも日本語で会話していればそれだけで異端扱いされかねない。
「失礼します」
するりと部屋に入ってきた女官の表情は何故か明るいと感じた。常と変わらない鉄面皮であるにも拘らず。それが余計に彼の警戒心を跳ね上げた。そしてその予感は正しかった。
「大司教様からのご依頼です。ファティ様に魔物の討伐を依頼したいとのことです」
良きにせよ、悪しきにせよ、彼女は嵐の中心の内の一つとなり、クワイを、世界を大きく動かそうとしていた。