87 動機
……私は父の顔を知らずに育った。知りたいとも思わなかった。母を捨てた父などには、もとより何の愛情も求めようもなかった。父は産まれた時から裏切りを象徴していた。
母さえも十六年前に突然、私を置いてどこかへと旅立ってしまった。私は母を心配した。しかし、どこか心の底で、父が母を裏切ったように、母も自分を裏切ったのではないかという疑いが頭をもたげてくるのであった。
私はいつの間にか母を恨むようになった。行方不明になってしまった母。私はずっと、捨てられたものと半ば断定的に思っていた。
その頃、私は東京の大学に進学することとなり、祖母との短い暮らしを終えた。祖母と分かれることで、さらに愛情と縁を切り、さらに自分は生きる価値のない、ガラクタになったのだと無性に悲しくなる日を重ねていった。
私は大学で御巫遠山と出会った。東京の大学に入学し、御巫遠山のゼミナールに入ったのだ。私はこの御巫遠山ほどの愛情深い人物に出会ったことがなかった。彼の言うこと一つ一つには、深い愛情がこめられていて、私はその言葉こそが真実だと思った。
そうして遠山は、私のことを我が子同然に可愛がってくれたものだった。それは、私の心の中にぽっかり空いた穴を埋めてくれているような気がした。そのため、私はこの御巫遠山のことを本気で慕った……。
しかし、しばらく過ごしているうちに、私は御巫遠山の愛情が、どこか白々しく感じられてきて、ひどく悲しくなることがあった。そんな時は、父がいない自分の心の片隅に積もっている寂しさが、そんな根も葉もない疑いを引き起こしているのだと、自分を笑って、慰めたものだった。
ところが、そんな私に、人生の全てを破壊するような真実が降りかかってきたのだ。
あれは八年前のことだった。私は研究の用で、高川先生の自宅に訪れていた。そして、先生が部屋を出た隙に、机の上に積まれた日記の一つをこっそりと読んだのだった。私は、歴史学の権威である高川先生の考えていることを知りたかったのだ。ところが、その日記には、信じられないことが書かれていた……。
それは、御巫遠山が栃木県の村で聡子という女性を殺し、高川先生と二人で死体を沼に沈めたという記事だった。私にはこの意味が分かった。聡子というのは私の母親だ。そして、遠山は私の父だったのだ。私はあまりのショックにものが言えなくなった。悔しさで涙が溢れた。
その日記の日付けは、母聡子が失踪した日であり、私が住んでいた村には確かに底なし沼があったのだ。私が慕っていた遠山は、実は忌まわしき裏切り者の父親であり、母を殺した殺人者だったのだ。それでありながら、彼は私に愛情などを語って近づいてきたのだ。平気で、善を語り、人格者ぶっていたのだ。彼の愛情と思っていたものが全てが虚構に過ぎず、私はそれに踊らされていたのだ。なんという無様な自分だろう。なんという憐れな母親だろう。そして、遠山はなんという大悪人なのだろう!
私は、御巫遠山を精神的に追いつめ、その虚構を打ち砕き、醜い本性を暴こうと思った。そして、それは母の無念の死に報いることだと思ったのだ。
すぐに、私は高川、御巫遠山を破滅に陥れる計画を立てた。
それは、こういう計画だった。高川は自殺に見せかけて殺してしまう。もっとも罪深い御巫遠山は殺さずに生かしておき、代わりに、彼が溺愛している娘の菊江を殺してしまうのだった。そうすれば、遠山は死ぬよりももっと苦しい思いをすることだろうと思った。
これは全て計画通りに進んだ。御巫菊江を殺した私は、遠山がどのように変わり果ててゆくか見ていた。遠山は全てを喪失したように無気力になり、学会から引退した。私は、この裏切り者の父が堕落し、崩壊してゆく様を、この目でずっと見ていたかった……。
そして、今月になって、菊江の娘の月菜が口寄せをするという話を聞いた。私は口寄せなど信じていないが、ひとつだけ危惧していることがあった。それは、何かの拍子に、日菜の記憶が戻ることだった。犯罪の露見の恐怖から逃れるためには、いずれ、日菜の息の根を完全に止めてしまうほかないと思っていた。しかし、それには長い間躊躇していた。
しかし、ついにその時は訪れたのだ。私は、巫女の口寄せの内容を聞いて、ついに日菜の記憶が復活したことを悟ったのだ。その瞬間、私は日菜を殺さなくてはいけないと思った……。
それからというもの、人の命が何の価値もないもののようだった。私は、あまりにも人を殺しすぎたのだ。殺してゆくうちに感覚が麻痺してきて、何もかもがどうでもよくなった。絢子も呆気なく死んでゆき、そこに生じる悲しみは見えなくなっていった。私はどうしようもない未来へと突き進んだ。それでも、殺人を行っている中で、どうしようもなく辛い時には、母の笑顔を思い出した。そして、私は母がこの復讐を喜んでくれていると信じていた……。
そして、御巫遠山を絞め殺し、その後頭部に灰皿を打ち付けた時、復讐が完全に終了したことを知った。その灰皿を、母に届ける。復讐が無事に完結したことを教えてやりたかった。母は喜んでくれるはずだった……。
今も、私は母のことを考えている。しかし、私は恐ろしく不安だ。
……母は、本当にこの復讐を喜んでくれているのか?
今や、私は母の笑顔を思い出せなくなった。あんなに必死にやってきたのに、この世の汚いものを掃除したつもりだったのに、私の脳裏には、母の笑顔はもはや浮かばなくなった。どこかに遠いところに消えてしまった。
そうして私は、ただ一人で、自分がやってきたことと向き合っている。
今でも、見えない虚構と裏切りが私の心を苦しめている。
……母は、もう私の心を支えてくれてはいないみたいだ。それは母が私を裏切ったのか。私が母を裏切ったのか。いくら叫んでも、わからなかった。




