76 すみれ、五色村へ向かう
すみれはその日記を鞄に放り込むと、コーヒーを残したまま立ち上がった。もう、こんなところにじっとしていられなかった。真実を知ってしまった以上、父にその事実を伝えること、いや、それよりも自分自身で五色村へ向かうこと以外、もはや何も考えられなくなっていた。
もはや博物館の取材など、考えている余裕はなかった。あり合わせの情報で、どうにか雑誌の記事を仕上げるほかなかった。
すみれは喫茶店を飛び出すと、その足で地下鉄の駅へと走り込み、それから、上野駅へと電車で向かった。地下鉄の車内は、すみれの興奮と対照的に静かで、誰しもが人間関係を断ち切った異邦人のように俯いていた。その一種、異様な作りものめいた空間の中で、電車の細い唸り声だけは、すみれの心中にも朗々と響いていた。感覚は冴え渡る。それは、事件の真相がこれまでにないほどリアリティーをもって、眼前に迫っていたからである。
(つながった。全てがつながった……)
それから、すみれは上野駅で、新幹線に乗り換える。指定席券売機の画面を焦った調子で、連打する。何度も押し間違えた。こんな彼女は周囲に笑われるだろう。あるいは誰かに咎められるかもしれない。しかし、彼女はそんなことを一々気にしていられないほど、真実に差し迫っていた。
すみれは、上越新幹線で高崎へと向かった。こうなれば、彼女の意思を妨害するものは何もないようだった。この間にも、彼女は原稿を書こうと思ったが、今は事件のこと以外、何も考えられないのだった。だから、すみれは原稿でもノートパソコンでもなくて、高川の日記を再び取り出して、真剣になって読み込んだのである。
高川は、御巫遠山が聡子という女性を殺害したことや、その死体を二人で沼に沈めたことを日記にはっきりと書き残している。
それから、灰皿が凶器ということで、その情景が焼きつき、煙草を吸えなくなったこともだ。しかし、それが八年前の事件とどのように関係があるのだろうか。それは皆目、見当がつかないのだった。
すみれは、色々と考えながら日記を読み進める。しかし、事件の記事は、その後は曖昧に記述されるだけで、何も具体性をもって描かれていなかった。
すみれは、そのことに憤りを感じながら、窓の外を眺めた。街が芥子粒のように流れ去ってゆく。こうなると世界は小さい。すぐに、高崎に着くだろう。そうしたら、すぐに前橋へと向かい、自動車で五色村へと向かうつもりだ。
すみれは、デッキに移動すると、携帯電話を取り出して、父に電話をかけた。
『俺だ』
「私だよ。すみれ。お父さん、とんでもないことが分かったの」
『すまんが、俺も今、大変なことになったんだ。御巫遠山が殺されたんだよ』
「えっ、御巫遠山が……」
『そうなんだ。だから、また後でかける』
「ちょっとお父さん、話を聞いてよ。その御巫遠山が聡子さんって人を殺したんだよ!」
『えっ、ちょっと、待ってくれ。聡子さん?』
「そう、さっきね、高川先生の書斎で十六年前の日記を見つけたの。そしたら、そこに御巫さんが聡子さんって人を殺したって書かれているの」
『ちょっと待ってくれ。それ本当か。実物を見たい……だが、今は』
「実物なら今、私が持っているよ。そして、今、私、そっちに向かっているから……」
『本当か。さすが俺の娘だ。よく出来てる。じゃあ、うん、待っているぞ!』
「うん!」
『すみれ、ありがとう!』
根来の快活な声が響いて、そこで、電話はプツリと切れた。
……その後は静寂だったが、すみれの心の中では、興奮が止まることを知らず、濁流のように心拍音が鳴り響いていた。




