75 日記
[十二月二十四日]
今日はクリスマスイブだ。栃木県のこの村は既に白い雪に包まれている。農村の文化史の研究者にとって、一番の敵は雪かもしれなかった。僕は、御巫さんとこの村に調査に訪れている。昨日からだ。昨日は、疲れてしまって日記を書くことができなかった。この調査の後、僕は、大晦日から正月にかけて、また別の村の習俗を調査しに出かけなければならない。家族団欒の時間もない。好きで始めた研究だけど、こうなると腹の立つことばかりだ。
御巫さんは、古文書、古記録と格闘している。箱詰めにして持って帰ることだろう。相変わらず、蚯蚓ののたくったような文字で、おそらくこれは村人の癖だろう。勝手な崩し方、読めない字、塗りつぶしてあったり、兎にも角にも、ひどい古文書、古記録が山のように出てくる。虫も出てくるし、この研究にどんなロマンがあるのだろうかと思ってしまう。
その点、御巫さんは真の研究者だ。目を輝かせて、古文書を手に取る。権兵衛の文字に苦戦しながらも、しっかりと読んでゆく。権兵衛というのは、この古文書を書いた人物の名前だ。権兵衛の適当な文字。僕は、権兵衛を恨んでいる。
風光明媚な村だ。水車が回る。川が流れている。田んぼが広がる。文学者ではないから、表現のしようもないが、どこにでもある田舎というわけではない。日本の原風景というなら、遠野に近いかもしれない。僕は、この村が気に入った。しかし、雪が降れば、なかなか帰ることもできない。日本の田舎はまだまだ不便だ。
いや、神田の神保町に住んでいる自分だから、こんなことを思うのかもしれない。日本の大半は未だに田舎のままだ。むしろ、この世界こそ普通と言わねばならない。御巫さんも、五色村の出身だから田舎育ちだ。
[十二月二十五日]
今日、見たことについて、どうすべきか僕には分からない。本音を吐けるのは、この日記の中だけだ。しかし、この日記が誰かに見られると思うと、でも、僕は書いておいた方が良いと思う。
一言で言うならば、最悪の事態が起きた。御巫さんは、全てを失ったように沈黙を守っている。僕に何か言おうとしない。ただ、運命に委ねる覚悟だ。
御巫さんと昔、付き合っていた聡子さんという女性が現れた。御巫さんは、驚きを隠せなかった。場所は、水車裏だった。二人は口論になった。御巫さんと聡子さんは東京で知り合ったらしい。二人は密会し、親密な関係を持っていた。御巫さんに対して、聡子はその頃すごく若かったらしい。その関係はずっと続いていた。話を伺うと聡子さんがいかに手酷く、御巫さんに振られたか、よく分かった。二人の間には、子供がいた。子供が背負わされた運命は、ひどく無残なものだった。僕たちは家に案内されて、そこで、御巫さんは聡子さんと口論になった。
御巫さんは、灰皿を振り上げた。聡子さんの脳天は弾けた。二人の運命もそれで終わりだった。御巫さんと僕は、聡子さんを背負って、その場を離れた。死体は沼に沈めた。この沼は、死体が浮き上がることのない底なし沼だった。僕はこの沼の伝承を調べるのが嫌になった。
そこであったことと言ったら、それだけだ。
[十二月二十六日]
僕は、煙草を吸えなくなった。書くことはない。誰かに喋るべきか。死体を沼に沈めた僕が、今更、善人ぶることもできない。煙草を吸おうとすると思い出す。あの灰皿のことを。




