74 高川先生の書斎
この場に羽黒祐介や根来拾三が居合わせたならば、灰皿という言葉に、もっと大きな関心を示したことだろう。だけれど、すみれには、灰皿が事件に関わりがあるとは知らなかった。十六年前、御巫遠山は栃木の農村で、愛人と再会し、口論の末に灰皿を振り上げた。彼はその場に居合わせた。そして、その年から彼は煙草を吸うのを止めた。
この事実を結びつけて考えられないところに、東京にいて、取材をしているすみれと、五色村で事件の捜査に専念している根来拾三との距離感があった。
「いつ頃のことですか?」
「十六年前の、クリスマスを過ぎた頃から突然に」
すみれは、少し冷めたブレンドコーヒーを一口飲んだ。口の中に広がり、鼻から抜けてゆく、香ばしいコーヒーの香り。相当良いコーヒーだなと思った。すみれは根来拾三と違ってコーヒーの味が分かるのである。
「その秘密が何なのか、私も知りたかったけど、知らないで良かったのかもしれないわ」
「お亡くなりになったのは、八年前のことですか」
「そう……。遺書はなかったわ。だから、夫がどうして自殺したのか、今でも、分からないの」
高川夫人は、悲しみを隠したまま、淡々とした口調で呟いた。その後にやっぱり、知らないで良かったのかもしれない、という言葉が続きそうな気がした。しかし、いつまで待ってもそんな言葉は出てこなかった。
高川はなぜ自殺したのか。すみれは、そのことを色々と考えていた。でも、情報が少なすぎた。だから、このデリケートな問題にもう一歩踏み込まなければならなかった。
「どんな方でしたか……」
「正義感の強い夫だったと思いますよ。それで、何かと背負い込む癖があった。でも、自殺してしまった。ごめんなさいね。こんなことをあなたに話すべきではないわね。でも、記事にするとしたら、夫は本望だったと書いてほしいの……」
自殺したのに本望だったと? すみれはちょっと言葉に詰まって、じっと目で訴えた。
「そうね。おかしいわよね。でも、夫の死が永久に悲劇であることは堪えられないのよ。どんな人でも、時間がたったら、その人生には何らかの意味があったということになってほしいんじゃないかしら。ちょっと、そうは思いづらい状況だけど……」
「それは、私にも分かります。高川さんの人生のラストが悲劇だったなんて、そんな記事は書くつもりはありません。でも、賛美するわけにも行きませんので、そこは触れないでおきたいと思います」
「良いのよ、書いても。これは夫の人生にどういう意味があったのかという問題なのよ。それを自殺という一点で、人生全てを悲劇的な色彩に塗り替えて、捉えることが果たして良いことなのかどうかということなの。私は夫が望んでいる方にしたいだけなの」
夫人は、そう言うと、心の中ではかなり整理がついているらしく、すみれの方をじっと見ると、
「夫の人生はなかなか素敵な人生だった、そう思わない?」
すみれは、頷いた。何と答えて良いか分からないで、頷いたのだった。その躊躇も夫人は見て取った。それから、夫人はすみれを、高川先生の書斎へと案内した。
亡くなってから八年、そうは思えなかった。暖かい日差しに埃が浮いているのが見えていたが、本棚や机はピカピカに磨かれて、埃が被っていなかった。夫人が毎日、丁寧に拭いているからだろう。
「自由に見て行ってね」
夫人はそう言うと、悪いと思ったのか、奥に引っ込んでしまった。すみれは、本棚を眺めた。農村や文化史に関する書籍が並んでいる。難しくて、自分には理解できないだろう。
しかし、とりあえず、一冊手に取ってみる。その時、隣の薄い本がぼろっと床に落ちてしまった。フローリングが音を立てる。すみれは慌てて、拾い上げた。
「これは……」
それは日記だった。それも、ずいぶん汚れていた。一枚めくって、年月日を確認する。
「あっ……」
すみれは小さく声を上げた。それは十六年前の十二月の記事だった。
こんなところに紛れ込んでいたんだ。もしかしたら、何か重要なことが書いてあるかもしれない。
……すみれは後先のことを考えずに、鞄にその日記を放り込んだ。
すみれは、夫人にお礼を言ってから、また神保町を歩いていった。そして、良い塩梅に、喫茶店があったので、入店し、すぐさま日記を開いた。
……そこには真実があった。




