69 十六年前の出来事
風呂上がりの根来は、浴衣姿であった。団扇を扇ぎながら、胡麻博士の部屋に戻ってきた。部屋には、祐介と粉河も座っていた。
胡麻博士は先ほどの格闘のせいで、絆創膏だらけになっていたが、しごく落ち着いていた。
「驚きましたよ。突然、高川先生のことをお聞きしてこられたので……」
「私は、あなたが飛びかかってきたのに驚きましたがね」
根来は、やれやれという感じで団扇を扇いだ。
「そう言いますが、こうしてぶつからんと芽生えない友情もあるでしょう。一方的かもしれませんが、私は根来さんと分かり合えた気がしますよ」
胡麻博士は、何故かしみじみとしていた。根来は困惑したような表情を浮かべて、
「それでどうして、飛びかかってきたのですか?」
と尋ねた。
「高川先生に口止めされていたことがあるからですよ。あとは警察の抑圧に対抗しようという興奮が、私の闘争心を駆り立てたのです。私はね。高川先生が亡くなられる直前に、新宿で会ってるんです。高川先生は、ウイスキーを飲みながらね。私にこう言った。「昔、御巫さんと栃木の農村にちょっと調査に行ったんだ」とね。「ところが、そこで私は大変なものに遭遇してしまったんだ」と言うので「えっ、何に遭遇したんですか? UFO? UMA?」と私は聞き返しました。「君ね、そんな馬鹿馬鹿しいものじゃないよ」と言われました。……いえね、あの当時、私は本気で、未確認飛行物体と日本民俗というテーマで研究をしていましたので、馬鹿馬鹿しいと言われたのは心外でしたが……」
根来は焦ったくなって、身を乗り出すと、
「それで、つまり何に遭遇したのですか?」
「なんでも、御巫さんはそこで、昔付き合っていた女性と出くわしたとか言うのですね。それで二人は揉め事になったということでした」
胡麻博士は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「女性と揉め事に? 高川さんもその場に居合わせたのですか?」
「まあ、そういうお話でしたな。その後に、大変なものに遭遇してしまったと。どういうことを言っているのか、はっきりと知りませんが、高川先生があまりにも真剣に語るので、思わず聞き入ってしまいました。その日、御巫さんは、その農村で、昔お付き合いしていた女性と出くわした。それはつまり、愛人というものですな。そこで、二人は激しい口論に発展し、御巫さんはついに灰皿を振り上げたというのです。その後、女性がどうなったのか、高川さんははっきり語ってくれませんでした。このことは誰にも言わないでくれ、と私に言いましたよ」
根来は、はっとして祐介の方を見ると、
「御巫遠山が、暴行事件を起こしたということか?」
「高川さんが仰っていたことが本当なら、そのようですね」
と祐介も頷いた。
「それは何年前のことか、高川さんは話していましたか?」
「確か、八年も前の話だということでした」
「八年前に八年前と言っていたということは、十六年前。なるほど、しかし、どうですかね。それが今回の事件と関係あると思いますか」
胡麻博士は、唸り声を上げながら、キセルを吸う。
「残念ながら無関係だと思いますな。まあ、高川さんも口外するなということですし、あのしょぼくれてしまった御巫さんを見ると、過去のことをとやかく言うべきでないと思いましたから、こうして隠してきたのです。これが、高川さんの自殺と関係あるのかも分かりません。しかし、想像でものを語ることが許されるのなら、私はね、もしかしたらその女性は、灰皿を打ち付けられて亡くなってしまった。つまり、御巫さんは殺人をしてしまったのではないかとも思うわけです。そして、御巫菊江は、その女性の魂を口寄せして、父に懺悔させようとしていたのではないか、なんてことを色々と想像してしまうのですな……」
……胡麻博士の吐いた煙は、悲しげに夜の蛍光灯の明かりを曇らせていた。




