58 紐
何かがおかしい……。私は妙な気配を感じて、立ち上がった。ところが、あたりを見まわしても、人の姿はなかった。
ここは自宅だ。それも、私の部屋なのだ。
父の善次は昨日から取り乱してしまって、自室に引きこもっていた。
私は、ただひとりで自分の部屋に閉じこもっていた。気持ちが落ち着かなくて、ファッション雑誌をぺらぺらとめくり、その後で、セザンヌの図録もめくったが、今日が、殺人事件の起こった翌日だということを忘れることができなかった。それで、私はソファに深々と座り直して、煙草を一本吸った。それだけだった。
日菜ちゃんを殺したのが誰なのか、そのことを考えていた。けれども、私に推理できることはひどく少なかった。
……考えても無駄なんだ。
私は熱り立った気持ちで立ちあがると、自室を出て、木の階段を降りていった。
そして、私は台所へとやってきた。冷蔵庫を開けて、牛乳パックを取り出す。それをコップに注いで、飲み干した。
味がしなかった。何も味覚を失ったわけではない。気分の問題だった。
私は、この気持ちを一新する為に、部屋で絵を描こうと思った。
私は再び、階段を登ってゆく。そこにあるドアの先が私の部屋だ。
私はドアを開けた。中へ入る。本棚とソファが見えた。何の変哲もない光景。……その時だった。
私の首に何か紐のようなものが巻きついたのだ。私は、思わず首に手をかけた。
何だこれは……?
私は、紐を引き離そうとした。しかし、力強く首が締め上げられた。すぐに私は目眩を起こした。
……すぐに、私は気付いた。
誰かが私を殺そうとしているんだ!
私は、背後に誰かが立っていることに気づき、振り払おうともがいた。でも、首を締め上げる腕力が、抵抗の全てを無駄にしていた。
たった一本、紐の内側に私の指が挟まっていた。それで、必死に紐を首から引き離そうとした。
「ううう……!」
私は、もがき続けた。こんなところで殺されたくない。だけど、紐は私の首を締めつけ、私は目眩と吐き気に襲われて、気が動転した。
私は、背後からソファに押しつけられた。セザンヌの図録がテーブルから落ちて音を立てた。そして、その拍子に、私の手の指は紐から抜けた。
紐を遮るものはもうない。紐は、さらに、私の首をきつく締め上げてゆく。何度も何度も力が加えられて、その度に、私は苦しみの絶頂を迎え、絶望した。
……殺されるんだ。
そう思った。殺されたくなかった。まだ生きたかった。でも、私は絶望した。
……目の前に死があった。
こんなところで、私の人生は終わってしまうの?
……そんなの嫌だ。
死にたくないと思ったその時、目の前がだんだんと暗くなって……。




