55 腕時計と鬼根来
根来の容疑者へのはったりは、いつだって、あまり効果的な手段ではない。威圧感を振りまきながら現れて、思わせぶりなことを言って、去ってゆくだけである。
ところがこの時は運が良かった。根来が尾崎蓮也説を引っさげて、直接対決に向かおうという、まさにこのタイミングで、殺害現場である三途の川を調べていた捜査員のひとりから連絡が入った。
その捜査員が三途の川の底から発見したものは、腕時計であった。
「腕時計だと……。おい、羽黒。殺害現場から腕時計が見つかったそうだ」
「腕時計ですか、なんでまた……」
「尾崎蓮也は歴史学者だ。文化財を扱う時には、腕時計を外して素手になり、息がかからないように口にハンカチを当てるもんだ。殺人の時だって、やつなら腕時計を外すさ……」
この理屈は少し変てこな気がしたが、単純に考えれば、これから絞殺をしようとしている犯人が、死体に余計な傷跡を残すのを嫌がって、金属性の腕時計を事前に外したという程度の話だと思われた。それが、被害者との格闘の中で、川に落ちたのだろう。
根来は、五色荘を飛び出して、腕時計を確認しに向かった。
この腕時計を見て、根来は昨日の昼に、口寄せの間で、尾崎蓮也が身につけていた腕時計であることをひと目で確認した。
こうなると、根来は興奮してしまって、その様子は猛然と立ち向かう大型犬か、さもなくば態度のでかい小型犬のようであった。
根来は、この最大の武器を手に入れて、尾崎蓮也犯人説をついに確信に至らしめた。そして、この腕時計を受け取ると、これを尾崎蓮也の鼻の先に突きつけてやろうという異様な高揚感に、踊りださんばかりであった。
こうなると、根来の目つきは鋭く、口は一文字に引き締められて、彼はまさに鬼のようであり、虎のようであり、庭先の猫のようでもあった。
この日の二時。祐介は再び根来からメールで連絡を受けた。
「コレヨリ、オザキト、チョクセツタイケツス、ハグロタイチョウモ、ニジハンニ、オザキテイニシュウゴウサレタシ」
祐介は読むのに苦労しながら、
(なんだこの電報みたいな文章は……。嫌だなぁ、このついていけないノリ……)
と冷や汗をかいた。
祐介は推理のために、五色荘に自主的に缶詰めになっていたが、荷物を整えて、尾崎蓮也の自宅に徒歩で向かった。
見れば、田んぼの中にぽつりと建っている尾崎蓮也の自宅の前には、すでに覆面パトカーが停まっていて、根来と粉河、取り立てて特徴のない警官が立っていた。
「メール見たか」
根来は、ふっと笑うと祐介にそう言った。
「ええ。でも、容疑者に手の内をばらしていいんですか?」
「手の内って何のことだ」
「腕時計のことですよ」
根来は再びふっと笑うと、いつになく張りのある芝居かがった声で、
「何言ってやがる。手に入れた武器を、すぐに使わないでいつ使うんだ。待っていたってしょうがねえだろ」
そう言って、さも愉快そうに笑う。見る人が見たら、邪悪な印象を受けるだろう。なんだか、前途が不安になる感じだった。
「まあ、見ていろ」
「根来さん……」
粉河が心配そうに声をかける。
「あんまり容疑者を刺激しないでくださいよ」
「わかってる。要するにこの腕時計が尾崎蓮也のものか、本人に確認するだけなんだ。安心しろ……」
根来の顔には深い影が差していて、その暗ったい中で、二つの目が玉眼のように輝いていた。
根来は、インターホンを押す。その指は興奮に震えていた。
「どなたですか?」
「俺です。根来です。ちょっとお話があって、お伺いした次第です。このドアを開けて頂けますかな?」
根来の声は、いつもよりも低めのバリトンで、ゆったりとした話し方ではあったが、相変わらず、声量は大きかった。
尾崎蓮也が不審げにドアを開けると、根来が無言で、押し売りのようにのそのそと玄関に立ち入ってきた。
「なんでしょう……」
「これに見覚えがありますかな?」
根来は、さっと腕時計を差し出す。尾崎蓮也の顔がぱっと明るくなったように見えた。
「これは私の腕時計です。ど、どこにあったのですか?」
「殺害現場の川の中だっ!」
根来は、空間を引き裂くような、凄まじい怒号を張り上げた。尾崎蓮也は、弾かれたように二、三歩引き退った……。




