50 上野駅
……東京の上野駅は、相変わらず人間の体臭がしそうなほど混雑していた。
駅前では、無機質なビルが青空を隠して、知らない人々の群れが、訳もなく――いや、おそらくはこちらには知りようもない事情で――足早に歩いているのだ。このところ外国人も増えてきて、ここは本当に日本だろうか、と疑うほどになってきていた。しかし、日本とは何か、そもそもそれが分からなかった。
そんなことを、すみれはふと思った。しかし、すみれは東京のことが嫌いなわけでもなかったし、すみれ自身、この無味乾燥とした人間の群れの虚しさを噛み締めざるを得ないような、苦い思い出があるわけでもなかった。ただ、乾いた街並みを見て、そう思っただけのことだった。
根来すみれは、根来拾三の一人娘である。『サスペンス百景』という雑誌の記事を書いているルポライターである。
そのすみれが、上野駅に降り立ったのは、雑誌の取材のためであった。
この『サスペンス百景』という雑誌は、旅情サスペンスの風味を効かせた旅行雑誌である。だから、基本的には地方の観光地の取材を繰り返す。ある一面ではひどく贅沢な仕事であり、またある一面では、切実な意義を見出せない退屈な仕事であった。
ところで地方の人間にとっては、東京が観光地となる。だから今回は、東京をテーマにした観光ネタを探そうということなのだ。
すみれは、予定していた博物館での取材を終えた。それから、駅前の喫茶店に入ると、ブレンドコーヒーを注文して、さて、どんな文章に仕上げようかと悩んでいた。
それにしても、父の根来拾三は、また事件に巻き込まれたらしい。
(また無茶をしなければいいけど……)
とすみれは、呆れと心配が入り混じったことを思いながら、コーヒーを一口飲んだ。
しかし、父は刑事なのだ、だから心配ばかりかけられていても仕方がないのだ。
そういえば、父は五色村の御巫家で起きた事件に巻き込まれたそうだ。元はと言えば、探偵の羽黒祐介に助言をするために、五色村に泊まり込んでいたということだった。
事件の起こった御巫家の当主、御巫遠山は某大学の教授だったそうだ。
それが、娘の菊江が死んでしまうと、一気に気の抜けたビールのようになってしまった。つまらない例えだが、皮肉っぽくて、なかなか核心を突いていると、すみれは自分で思っていた。
ところで、そんな御巫家の事情をすみれが何故知っているのか。それは、すみれが八年前に、事件と格闘している父から直接、話を聞いていたからであった。
父、根来拾三は刑事のくせに、娘に事件のことをやたらと喋る癖があったのだった。
すみれが東京にいること、そして、まったくの偶然の重なりが、五色村殺人事件の真相を暴いていくことになるとは、この時、誰も思わなかっただろう。
すみれは、ひとつのことが引っかかっていた。
今回、博物館の取材をしている時に、歴史学者の高川俊二という人物の話がふいに話題になった。取材に応じていた恰幅の良い学芸員は、少しうつむくと、
「高川先生はね……、この道の研究者としてはかなり著名でしたけど、八年前に亡くなられてしまったんです……」
「何があったのですか?」
「分かりません。ただ、突然、自殺してしまったんです……」
「自殺……」
「先生が今でもご健在だったら、この展示も大きく様変わりしていたことでしょう……」
学芸員は、そう言うと、ふと思い出したように、
「そういえば、その頃なんです。御巫遠山先生が娘さんが亡くなられたショックで、第一線から引かれたのは……」
「えっ、同時期なのですか?」
「ええ、同時期でした。でも、おふたりをつなげて考える人はあまりいないでしょうね」
「どうして、ですか?」
「高川先生と御巫先生が親しかったという印象はありませんからね。ただ、私どもからすれば、同じ時期に二人の偉人を失ったような思いがしました……」
すみれは、なんだか不謹慎にも、このことに興味を持った。
ふたりの学者が、同時期に研究の第一線から退いている。これは偶然だろうか。そして、このことは父、根来拾三も結びつけては考えていないだろう。それが余計に、すみれの心を惹きつけていた。
すみれは、さほど論理的な考え方をする人間ではない。しかし、想像力のある人間なので、多少、飛躍した推理をこねまわすのが好きなのだった。もしも、彼女が常識的で順序立てた論理の信者であったら、こんなふたりの人物をいちいち結びつけて考えることはなかっただろう。
……しかし、すみれは、なんとなく、ふたりの人物の不幸を結びつけて考えはじめていたのだ。




