45 夜空のブルース
暗い参道には、鈴虫の鳴き声が響くのみで、その他はしんと静まり返っていた。
根来は、五色荘の居間の冷蔵庫から取ってきた瓶ビールと日本酒を手に握りしめていた。
「根来さん。それ、温泉で飲む気ですか。持ち込み大丈夫なんですか」
「こんな田舎だ。とやかく言う人はいねえよ」
こういうのが困った観光客なのである。それでも、根来は鼻歌を歌いながら、参道を歩いてゆく。
とにかく、五色温泉というおんぼろな木造建築の前にくると、根来はおばあさんに料金を払って、男湯に入っていった。
祐介はその時、思った……。
絢子と日菜は、事件の直前にこの温泉に入浴したというが、あれほどの口寄せを目撃したすぐ後に、日菜は、なぜ温泉などに入ろうと思ったのだろうか。そうしなければ、ならない理由でもあったのだろうか……。
祐介は、ふと根来を見ると、巨大な壁のように頑丈そうな、筋肉の盛り上がったその背中には、無数の傷跡が残されていた。
「根来さんも、傷だらけですね」
「また掻き壊したかな?」
そんなレベルじゃないよ、と祐介は思った。
ともかく、日菜の背中には傷跡があって、月菜にはない。入浴中に絢子は、相手の背中の傷跡を目撃しているのだから、日菜とみて間違いないのだ。
脱衣場の先に、曇りガラス戸があって、湯気のこもった浴場となっている。その向こうには、さらに曇りガラスと窓があって、その先は露天風呂という構造である。
温泉はわずかに濁っているが、姿を全て隠せるようなものではない。
気がつけば、根来は露天風呂に浸かりながら、瓶ビールと日本酒を両手に持って、ゆっくり飲んでいた。
「根来さん。美味しいですか」
「ああ、一面の星空だ。空気が澄んでいて気持ちがいいぜ」
根来は、そこの洗面台の桶でお湯をかぶってきたらしく、いつになく髪が濡れて、ダンディーな雰囲気になっていた。
「あれ、刑事さんじゃないですか……」
隣の男に話しかけられて、根来は思わず目を瞬かせると、
「あなたは尾崎蓮也さん」
なるほど、あの知的な印象の尾崎蓮也も、黒眼鏡がなければ、誰だか分からない。さっぱりした素直な顔つきである。
「あなたも温泉ですか」
「そりゃあ、そうですよ。見た通りですよ。事件があったので、気分を転換したくなりましてね。とは言っても、この村にはこの温泉とつまらない資料館しかないもので……いえ、今のは、歴史学の人間としては失言ですけどね」
「気分転換と思って来たら、刑事が入ってきたと……」
「それは……ちょっと面食らいましたね。いえ、後ろめたいことがあるわけじゃないんです。事件を忘れたかったもので。それでは、私はこの辺で……」
そう言って、湯船から先に上がった尾崎蓮也の右腕の二の腕の外側に「く」の字の火傷の跡があるのを、祐介はちらりと見た。
何か重要なものである気がしたが、火傷の跡について尋ねるのも不躾な気がしたので、それっきりになってしまった。
あの男も犯人かもしれぬのだ。というよりも、アリバイがなく、男性であるという点では、最も疑わしい人物と言えるかもしれない。
根来は、鋭く尾崎蓮也の背中を睨みつけていた。
「根来さんは、そもそも腕の骨が普通の人よりも太そうですよね」
「馬鹿いうなよ。普通だよ。ただ折れまくってるから、多少は太くなってきているのかもしれん。そんなことよりも、だ。この夜空、闇に霞んだ山の峰をよく見るんだ……」
「ええ」
「どんなことを感じた?」
根来は、ロマンに耽っている。
「……それよりも、この露天風呂にはトリックがあるかもしれません。ここから、外に出ることはできませんし、その先は崖です」
「事件のことは忘れろ。それよりも、この夜空の先には、忘れ去られたブルースがあるんだ。それは俺たちのブルースなんだ……」
「……はあ」
……何の話だよ、と祐介は苦笑いをした。