44 サックスとキセル
五色荘の居間に並べられているソファには、羽黒祐介と根来警部と胡麻博士が座っていた。
そこに、事件の衝撃を和らげるようなサックスの甘くはかない音色が、細かく揺れながら、長く響いていた。
ところどころ、息が切れたように、ぷつりぷつりと途絶えては、たちまち息を吹き返したように……天井を飛び交うような、高い音を力強く響かせたものだった。
祐介は、音楽を聴いていたわけではなかったが、沈黙すれば、虚しさのこもった静寂が、ぴたりと張り詰めるだろうと思うと、このサックスの音色は救いだった。
それでも、このサックスのかすれた低音には、どこか暗い影が潜んでいるように感じられた。その影が、この音色を単純な癒しとして受け入れることを拒んでいた。
「ジャジー松岡……」
根来は、じろりと五色荘の店主であるジャジー松岡を睨むと、
「もう少し明るい曲にしてくれねえか。どうも、暗くていけねぇ」
「これ以上ですか……、困りましたね。じゃあ、ものすごく明るいやついきますよ」
ジャジー松岡は、ぶつぶつ言いながら、一枚のレコードを取り出した。
そこで、胡麻博士がまったをする。
「いいえ、暗いやつがいいのですよ。暗いというよりも、何ですかな。教会音楽のようなものはありますか。讃美歌のようなものがこんな夜は似合うではないですか。雅楽でもいいが……ともかく、人が殺されたのだ。馬鹿みたいに明るい曲をかけちゃいけない」
その言葉に、ジャジー松岡はあきらかに面食らったようだった。それで、ゴスペル調のジャズをかけることになった。
「曲のことは、大した問題じゃありませんよ。それよりも、この後どうするつもりです」
祐介が言うと、胡麻博士が身を乗り出してきた。
「お葬式ということになりますかね。それよりも、捜査の方はどうだったのです」
「今日の捜査では、一通りのことはしたつもりです。あれから、特に目新しい事実はありません。関係者の皆さんのアリバイは調べさせて頂きましたが、目立った不審な点は認められませんでしたからね」
胡麻博士はふんと鼻を鳴らすと、
「そうでしょう。人間にはいくらアリバイがあったってかまわんのだ。犯人は幽霊ですからねぇ。いえ、月菜さんはどうだったのでしたっけ。あの人は口寄せができるから、犯人の可能性は高いと思うのですが……」
「月菜さんにはアリバイはなかったと思うが……信也さんが月菜さんの様子を四回見に行って、四回とも別室で寝ているところを目撃しているのです。その間に、現場で行くことはできますが……」
胡麻博士は、何か恐ろしいものを見たものに目を見開いて、口をぶるぶると震わせると、
「アリバイが、無いのですか……。何ということだ……」
「イコール犯人ということにはなりませんよ」
すかさず、祐介が釘を刺した。無論、本当に釘を刺したわけではない。ものの例えである。
「アリバイを持たない男は、たったひとり、尾崎蓮也だ……」
「尾崎、蓮也……。御巫遠山先生の教え子で、歴史学の助教授の彼ですな。しかし、彼には口寄せができない。どういう手段で、御巫菊江の怨念が彼に乗り移ったと説明するおつもりですかな……」
この妖怪博士、怨念のことが頭から離れないらしい。
根来がすくっと立ち上がる。
「羽黒、風呂に行こう……。ジャジー松岡、風呂に入ってきます」
「それなら、温泉に行かれるとよろしいですよ……」
「そうですか……」
他の刑事が聞き込みをしたらしいが、根来は五色温泉に行くのははじめてだ。一目、見ておきたいという気持ちが沸き起こる。
「よし、タオルを取ってくるぞ」
根来は、部屋に戻っていった。
胡麻博士は、キセルの煙草の煙をくゆらせていた。そのキセルをペン回しのように指の間でくるりと一回転させると、
「私はこんな夜は、行水で十分です。ジャジー松岡さん、桶はありますかな」
「あの、シャワーでもいいですか?」
胡麻博士は、絨毯にこぼれた煙草の欠片を熱そうに拾い集めながら、
「いいでしょう。私は、五色荘の風呂に入りますので、温泉に行きたい方はご自由に……」
とつぶやいた。