物語と小説
何故、小説には原作者がいないのか? と不思議に思ったことがあります。漫画や映画には居ますよね、原作者。
原作者とは、物語を作る人です。アイデアを出す人とも言い換えられます。それをもとに、漫画家や映画監督が作品を生み出します。
これを、小説に置き換えてみます。
小説が生まれるプロセスは、
アイデア
↓
プロット、設定
↓
執筆
です。プロットと設定の製作順序が逆だったり、私みたくキャラ案から物語が生まれる場合もあるでしょうが、このエッセイの本筋には影響しないので置いておきます。
このなかに原作者を置くとしたらどこでしょう。私は、
アイデア
↓
プロット、設定
の部分だと考えます。
漫画を絵による表現、映画を映像による表現だととらえるならば、小説は文字による表現です。物語を文字にする、それが小説家の仕事だと言えるでしょう。
……と、ここまでは、他のストーリーを持つ芸術作品と比べた時の話です。現実に小説家と呼ばれる人に原作者が付いているという話は聞きません。最初のアイデアや専門的な知識などを補完するために外部の力を借りることはあると思いますが、作品を創造する過程に組み込まれることはないのです。
それは何故なのか。
その理由は、文学作品が一番始めに現れた物語の表現法方だからです。
古くは神話から……なんて話もできるとは思いますが、今回は文化が大きく変わった明治時代を見てみます。
この頃、物語を持つ芸術と言えば、文学のみでした(劇などもありますが、性質が大きく異なるので除外します)。映画が日本に持ち込まれたのは1890年代、独自性を持ち始めたのは更に後。明治元年は1863年なので、かなり遅れているのが分かります。
一方で文学は、神話の時代から存在しました。歴史や物語の伝承媒体は文字、もっと言えば文学だったのです。
さて、モノを創る人がクリエイターと特別な名で呼ばれる通り、日本人は新しいアイデアを出すことが苦手です。最近、そのための思考方法についての本をよく書店で見かけます。
アイデア出しは、執筆に当て嵌めれば原作者の担う部分。この部分が苦手だということは、小説を書きたいと思っても書く段階に入れない、ということです。
アイデアがない。けど書きたい。ならどうするのか。
答えは簡単です。既にある雛型を使えばいい。
つまりテンプレートですね。
これが意識的なのか無意識的なのかを区別する意味はありません。盗作にならない範疇であれば、何の問題もないでしょう。もっと言えば、模倣は成長する手段としては最強です(発表するのは問題アリですが)。
何が言いたいかというと、私はテンプレートを用いること自体は構わないと考えている、ということです。ていうか私も含めて、テンプレート使わないと書けない人が多い。
なのでどんどん使えばいいと思います。作品が多く作られるのは良いことです。
では何が問題なのかというと。
テンプレートを用いるとは、アイデア出しを諦めて物語の文字表現に特化する、ということです。それなのに、前書き、あとがき、あらすじなどでこんな一文をよく見ます。
『文章力はありません』
……ちょっと違うんじゃないでしょうか。
たとえテンプレートを使ったとしても、一捻り加えることで独自性を出すことはできます。イチジキ流行った韓国ドラマのように、捻りを解きほぐすことで独自性が作られることもあるでしょう。
ですが。
それすらもせず、『文章力はありません』はないでしょう。文句を言われないための保険ならばともかく、主観的になってしまいますがこういった小説はほとんどが100話続いても成長がありません。
更に言えば、テンプレートを批判する人も文章に目を向けることがほとんどないのではないでしょうか(個人の印象になってしまいますが……)。
このサイト全体で、文章が軽視されているように感じます。
同じ設定、同じプロットであっても、書き方一つで大きく変わると思います。