Norma
なだらかな丘陵の続くヴァリア地方にも芽吹きの季節が訪れた。雪が溶け、小川がこんこんと流れ、あちらこちらで花が咲く。
太陽が昇り、夜空は赤に黄に変わりながら青へと移ろいでゆく。朝焼けに染まった丘をノーマは駆け上がった。ハーフアップに結わえた栗色の髪と、深緑色をした丈の長いスカートが靡く。風はまだ少し冬の冷たさが残っていたが、村から走りっきりで火照った頬には、それが気持ち良かった。てっぺんまで上ると、ノーマはゆるやかな斜面を一気に駆け下りる。
斜面の下は一面の菜の花畑が広がっている。真っ黄色の花の間を掻き分けるようにして、ノーマは一目散に森を目指す。
「ノーマ!」
自分を呼ぶ声にノーマはハッとした。声から逃げるようにノーマは足を速める。駆けるノーマの後ろから、がさがさと足音は近付いてきた。
「捕まえた!」
「ワアア!」
腕を掴まれ、ノーマは振り返った。
「わ、わあー、ダンにぃ、こんなところで奇遇だね!」
「変に難しい言葉を知っているよな、おまえは……。じゃなくて。ノーマ。どこ行く気だ?」
頭一つ分背の高い少年に見下ろされ、ノーマはつい目を逸らす。こら、と両頬を摘ままれた。
「どうせ森だろ」
じっとりと空色の瞳がノーマを睨み付けた。「いたいよ、ダンにぃ」と抗議するとダンはあっさりと頬を解放してくれた。
「さすがダンにぃ、正解」
えへ、と誤魔化すように笑ったノーマに少年は深く溜息を吐いた。これだめなパターンだ、とノーマは冷や汗をかく。たいへんよろしくない。
母親たちの目をかいくぐることは容易だが、ダンの鷹のような目はすぐにノーマのことを見つけてしまう。一昨年の収穫祭でノーマが迷子になったときは頼りになったが、そのあとが良くなかった。おまえはすぐ余所見するだの、注意力散漫だの、祭り気分が台無しになるほど説教を食らった。面倒見の良い反面、やたらと説教臭いのだ、この幼馴染は。
「ひとりで森に入るのは危険だって、いつもみんな言っているだろ? おまえはひとの忠告が理解できないほど馬鹿なのか?」
始まった。唇を尖らせてノーマは言い訳する。
「だってジェナねぇ、お嫁に行っちゃうでしょ」
「だから?」
「春ブドウ、食べてほしくて……」
と、ノーマは消え入りそうな声で呟いた。ダンは呆れたとばかりにまた溜息を吐いた。そんなに溜息ばかり吐くと幸せが逃げていくよと思ったが、殴られるだろうから黙っておいた。代わりに言い訳を重ねていく。
「ジェナねぇ、春ブドウ好きでしょ。でもこの辺りにしか群生しないから、ジェナねぇがお嫁に行っちゃったら食べられなくなっちゃうから、春ブドウ、採りたくて」
「あのな」
ノーマの言葉を遮り、ダンはノーマと目を合わせるように屈んだ。アッシュベージュの髪に菜の花の影がまだらに落ちた。
「ノーマ。なんで、おれが怒っているのかわかるか」
「えっと……、ひとりで森に行こうとしたから?」
「さすがノーマ、正解」
ダンが乱暴にノーマの頭を撫でるので「髪が乱れる!」と頭を振った。
「行くぞ。昼までには帰らないと」
「えっ、でも、いいの?」
てっきり連れ戻しに来たのだと思っていた。ダンはニヤリとする。
「ひとりで森に入るのは危険だって、いつもみんな言っているだろ?」
*
北の黒い森と違い、この東の森は比較的安全な森だ。きちんと整備されているわけではないが、旅人や商人がよく通るということで小道ができているから迷うことはない。クマのような大型動物もほとんど出ない。木々もそう高さがなく、日の光が木漏れ日をつくっている。
春ブドウの群生地も、森の奥深くにあるというわけではないから、特に危険なこともない。大人というのは、いつだって神経質だとノーマは思う。十二歳とは言え、毒草や毒キノコの見分けは村の中でノーマの右に出るものはいないし、危険な野生動物と出くわしたときどうすればいいのかだって、もちろん知っている。バレたら叱られるだろうなあと考えて、ダンがいるから大丈夫かと思い直した。
ダンはノーマより四つも年上だし、弓矢の腕前も大人と引けを取らないほどの実力者だから、一人で行くよりは確かに安心だ。大方ノーマの母親から、ノーマを探してくるよう頼まれたのだろう。
「母さん、怒っていた?」
隣を歩くダンに聞く。母親の説教は、ダンの説教に負けず劣らず長い。しかも同じことばかり言うものだから、最後の方にはノーマもほとんど聞いていない。
「さあ? おまえ、窓から抜け出しただろ。おれもおまえも、まだ寝ていると思われているはずだ」
何事もないような顔で答えたダンに、ノーマは胡乱な眼差しを送る。
「……ダンにぃ」
「そろそろバレる頃かもな」
「共犯だ!」
小道を逸れ、シカかイノシシかがつけていった獣道へと足を踏み入れていく。この辺りは何度も訪れたことがあるから庭みたいなものだ。ノーマは迷いなく進んでいく。そのあとを付き従うようにダンが続いた。
茂みからひょっこりリスが顔を出す。そこのリンゴの木や花咲く楡の木に止まって囀る小鳥は、茶色い顔に灰色の体をしている。コマドリだろう。そろそろ巣作りか産卵の時期のはずだ。
いつだって森に入るのはわくわくする。雪の深い冬の間や雨の日は植物図鑑を眺めて過ごすノーマは、いつかあちこちを旅して自分で図鑑をつくるのが夢だった。多種多様な動植物が生息する東の森は、ノーマにとっては生きた図鑑だ。けれどいくら植物にあかるいとは言っても、旅人たちにねだって聞かせてもらう話や彼らの持ってくる本の知識に比べれば、ノーマの世界は狭すぎる。いつか村を出て、自分で植物図鑑をつくるのがノーマの夢だ。その前にまずは、ひとりで森に出ても大丈夫なようにならないといけないのだけれど。
「着いたよ、ダンにぃ」
春ブドウは、冬の寒さを耐え抜くことで秋のブドウよりも格段に甘くなる。森の動物たちの好物でもあるから、あまり遅い時期に訪れるとほとんど食べられてしまっているが、食べごろを迎えたばかりの春ブドウはまだまだ十分に残っている。
「早く採って帰るぞ。どれがいいんだ」
「ええっとねえ、粒が大きくて、きれいな黄緑色のやつが甘くておいしいの」
甘そうなものを探し、ダンに採ってもらう。受け取ったずっしりと掌に重い春ブドウを一粒、皮ごと食べた。酸味の薄い、みずみずしい甘さが口内に広がる。ついでにダンの口にも放り込んでやった。
二人でつまみ食いしつつも、手提げの籠はすぐにブドウでいっぱいになった。ジェナに食べさせる分と、残りはジャムか果実酒にすれば長持ちするし、そうしてジェナに持って行ってもらうのだ。
「これだけ採れれば十分だよね」
ほくほくとした笑顔でノーマは籠を抱え直した。
「ジェナねぇ、喜んでくれるかなあ」
「まあ、まずは怒られるだろうな。春ブドウなんて森にしかないんだし」
「そうだよねえ……。ま、いいや。ブドウに免じて許してくれるのを期待しよう」
「おまえ、ときどき難しい言葉使うよな」
太陽は先ほどよりも随分と高いところまで昇ってしまっていた。木々の切れ目から青空が覗いている。
さすがに母親たちも二人がいないことにそろそろ気付いているはずだ。叱られる前にジェナにブドウを届けてしまおうと、二人はジェナの家を目指した。村はとっくに起き出していて、顔見知りのパン屋が「お前ら、お袋さんに心配されていたぞ」と眉を顰めた。
「朝飯に呼びに行ったらベッドにいないってよ」
「うっ」
「あとで見かけたらジェナ姉のとこにいるって言っておいてくれよ」
ダンの言葉に仕方ねえなと苦笑しつつ、パン屋の親父は「持って行きな」とパンを分けてくれた。ブドウの籠にどうにかパンも突っ込んで、
「ありがとう、おじさん」
と礼を言う。
「全く、あのお転婆のジェナが嫁入りとはなあ」
しみじみと頷く親父に別れ、ジェナの家へと急ぐ。連なる風車の向こう側、こぢんまりとした小さな家のドアを叩けば「はあい」とジェナの声が返ってきた。
「あら、おはよう。ダン、ノーマ」
「おはよう、ジェナねぇ。……なんか元気ない?」
扉を開いた淑やかな女性にノーマは首を傾げた。
「なんだか顔が青白い気がするけど」
「そう? 光の加減のせいじゃないかしら。それよりも」
ジェナは、声を落とした。
「先ほどおばさまたちがお見えになったわ」
口元に柔らかな微笑を湛えながら、目は射貫くように二人を見る。思わずノーマは「うっ」と呻いて目を逸らした。
「一体どこに行っていたのかしら」
凍てつくような視線と冷ややかな声は、雷よりも恐ろしい。ダンが無言でノーマを小突いた。
「あ、ええと! こ、これをね! ジェナねぇに、食べてほしくて!」
籠いっぱいの春ブドウ(とパン)を差し出すと、ジェナは目を丸くした。「これ、どうしたの」とノーマを見る。
「春ブドウって、今この辺りでしか食べられないでしょ、ジェナねぇがお嫁に行っちゃったら食べられなくなるけど、ジェナねぇこれ好きだから、行く前に食べてほしくて」
「結婚おめでとう、ジェナ姉」
籠を押し付けるように渡し、二人はジェナの顔色を窺った。きょとんとしていたジェナは、籠の中の春ブドウと二人を見比べ、破顔する。
「ありがとう、驚いた……。とっても嬉しいわ」
それぞれほっとして顔を見合わせる。安堵の笑みを零す二人に「けれどね」とジェナは続けた。
「勝手に森に行ったのは感心しないわね」
やっぱり、と二人は首を引っ込める。
「ひとりじゃないから大丈夫だってダンにぃが」
「おまえ……」
往生際の悪いノーマにダンは絶句するしかない。
「いいからお入りなさいな。うちの母がおばさまたちを宥めているから、お説教してもらうといいわ。それから、採ってきてくれた春ブドウを皆でいただきましょう」
ジェナは二人の背を押し家の中に招き入れる。
二人の母親はそれぞれの子どもたちを抱きしめると、待っていたとばかりに説教を始める。ノーマが必死に言い訳を連ねる傍ら、ダンはそっぽを向いてぶすくれている。
ジェナは紅茶を用意しながら、どう助け舟を出そうかと思案する。少しだけ生まれていたマリッジ・ブルーは消えていた。