第四章 そして、《穢れた月の夜》に
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………思い返す。長き流浪の始まったその時の光景を。
今を去る事二百五十六年前のあの夜に。
あの時、自分は間に合わなかった。
あの時、十二人が犠牲になり《彼女》も消えた。
あの時、自分の全てを懸けて立てた誓いは虚しく消えた。
それから運命だけに引き摺られて時と罪を重ねてきた。
(二度と………二度とその誓いを無にしたりはしない)
ただ、それのみが忌まわしい身体と力を存続させた。
………………夜が来る。
あの時と同じ夜に、同じ様な組み合わせで、より大きな犠牲を求めて。
赤々と輝く、あの《穢れた月の夜》が来る。
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建物とは人間の営みの証であり、人の居ない建物に闇を感じるのはそれが本来の形とは異なる誤った認識だと言う事に他ならない。
つまり、人間が存在してこそ建物は存在意義という命を持つのであり、人が存在しなければその意味を持たず命無きものと言える。
結局何が言いたいかと言えば、誰も居ない学校ってヤツは太陽下だろうと月光下だろうと、不気味な事に変わりはないって事。
夜の学校に怪談が生まれるのは、何も人間が闇を怖れるからだけじゃない。
人間は本能のどこかにきっと人間の居ない場所を怖れる機能が付いているんだ。
人間の居ない場所は危険だと、群れを作る本能が働いているのか。
「ふーん。貴女は吸血鬼だけどね。吸血鬼が学校の怪談にビビってどうするのよ」
「………いや、バイクに酔ったのも関係してるかも」
私たちは、グラウンドと校舎の間にある庭園地帯にいた。と言うか、私はそこに植えられている木の一本の根元でヘタッていた。
「吸血鬼がバイクに酔ってどうするの。水の上を移動する船や飛行機ならまだしも」
いや、実際気持ち悪いのです。
と言うか、ジェットコースターよりも激しいバイクの運転ってどうなのよ? 大型バイクが猛スピードでロデオの様に跳ね回った気がする。
ばいくってそらをとぶものじゃないよね?
たまに生理が重いとキツかったけど、今のこれはそれ以上だ。
吐き気はするのに喉の奥からは何にも出てこない。内臓がひっくり返ったとしてもここまでにはならないと思う。
………なに、これ?
今朝の日光で気持ちが悪くなったのとは全く異なる感覚。
原因は日光じゃない。もっと別な………生理同様内側からクる何かだ。
ただ、生理と違うのは下腹部では無い事。何て言うか、身体の中心線辺り、としか言えない。脊髄のちょっと前。それから眼の奥。ちりちりとヤスリで金属を削っている感じ。
痛くはないし視覚に影響はないけど、変に脳に響く。
「変な寄生虫とかだったらヤダな」
変な物を食べた訳じゃない。
ううん、そもそも何も食べていない。ちっとも空腹にならないし、まるで食欲と言う本能をどこかに置き忘れているみたいだ。
「私も結構物知りの方だと思うけど、吸血鬼の寄生虫ってのは聞いた事無いなあ。たぶん、まだ変質の途中だからかしらね。ほら、昆虫の変態だって命懸けでしょ。昆虫が蛹や幼虫から羽化する時って大変なのよ。蝉なんか羽化にモタモタしていたらそのまま死んじゃうし。私も継いだ時は一週間位動けなかったし。人間だって成長期には色々あるでしょ?」
………不吉な事を。まかり間違ったら私が死ぬみたいじゃないか。
私は今、醜いアヒルの子の気持ちがちょっとだけわかる。
未来に於いて自分が何に変わるのかわからない不安は、今の私の中に確実に存在する。あの話は白鳥と言う外見だけは優雅な姿になって、仲間ができてめでたしだった訳だけど。
ならば、一体私はどうなるんだろう? 私のこれからは、どうなるんだろうか。
「………駄目。………動きたくない」
本当に。命が削れていくような感じではないのが救い。
「はいはい。それじゃあ私は人間がここに残っていないか、見回って来るから。貴女はここで休んでいて」
「りょぉ~か~い」
歩き回るのもヤだ。
「あと、もしかして先に遭遇するかもしれないから、その時はよろしく」
「うぃ~っす」
「それから、最悪でもおっかない人は私が相手するから」
「あいあい」
………おっかない人?
生理用鎮痛剤を服用した時の副作用みたいに頭がぼーっとし始めた。
何とかミナトを見送って、今度こそ地面にバタン。変に作用する脳内麻薬でも溢れてるんだろうか。
何とか体勢を立て直して、転がるように木の幹を背に座り込む。いつもなら制服の汚れを気にするけれど、今はただベッタリと地面に腰を下ろした。
それでちょっぴり楽になる。人間なら腰を冷やすとか言われそうだけど、今はもう関係ありません。
ううん、無いって事はないか。一応吸血鬼でも子供産めるって速飛が言ってたし。
将来の選択肢の一つとして覚えていても損は無いかも。
「あー………」
この位置からだと、暁月学園の異様に広い陸上用の第一グラウンドが一望できる。
色々な計算と魔術的な知識等を組み合わせてミナトが細かく割り出した場所がここだった。
ここに、ノスフェラトゥは日没直前に出現する。魔術にはある程度の空間が必要らしく、ここが一番適当だと言う事だ。
計算とかしなくても、見たまんまな気もするけど、実はちょっとズレた所に野球用のグラウンドがある。ここはマウンド部分が邪魔でイマイチ向いていないらしい。野球部は助かった訳だ。これから戦闘でボコボコになったら均すのが大変だもの。
グラウンドが広いから、遮る物の無い空を眺める事ができる。
初夏の午後三時を回った空は、空の青と雲の白、そして本当に僅かな朱に彩られている。
(………朱?)
ちりちりと眼が何かに刺激される。どうやら今は色覚能力もおかしくなったらしい。空に夕焼けが入るにはまだ早い。
で、頭を軽く振ってその視線を下げると、グラウンドのど真ん中に黒い人影が見えた。
何時の間にそこに現れたのか、気配を読めなかった。
………今の体調じゃ、背後をデカいゴキブリが通っても気付けない気もするけれど。
「………来た?」
………待ち人じゃない。シルエットは普通に背の高い人間。化け物じゃない。
まだ帰宅していない生徒が迷い込んだ、と言うのは?
それも違う。着ているのは学校の制服じゃない。感じは良く似ているけれどコート状だ。
人影が、私の方に手招いた。
(………行くしかないみたいね)
どうしても片付けておかなきゃならない問題があったのを思い出した。
私は少しふらつく足取りで、ゆっくりと人影に向かった。
「………もっと驚いてくれると思ってたよ」
ああ、すっごく懐かしい声。二日ぶりに聞く声色も、調子も、何も変わらない。
………いや声だけなら半日ぶりか。
けれど、それ故にその空気は異様だった。
「こんなの嘘よ、絶対信じないーっ! ………なーんて泣き叫んで欲しかった? そう言うの、趣味だっけ?」
「はは。以前の君にも今の君にも、イメージには合わないかな」
精神構造が以前のままなら………どうだったかはわからないよ。
「今朝の事を思い出したのよ。地獄耳になっていてね。会話の始めの部分がちょっとだけ聴こえていたのよ。顔とイコールで結びついたのは今なんだけど。………似合うわ、その服。私が今まで見てきた中じゃ一番ね。板に付いてるってやつよ」
「ありがとう。君にそう言われるのは嬉しいよ」
狩野剣也はそう言って、やっぱり変わらない笑顔を見せた。
「ああ、そこで足を止めて。それ以上の間合いに入ったら、戦闘開始だ」
七メートル以上ある。幾ら私でも、一気に間合いを詰めるにはちょっと遠い。
「一つだけ、訊いていいかな?」
「いいよ。僕に答えられるなら」
「私と付き合いだしたのは、教会のお仕事?」
非常に重要な問題。
ううん、私を騙していたとか、そんな事はもうどうでも良かった。
それはそれでまあスパイ映画っぽいオチで面白かったと思っている。いや、本当に。と言うか、私に彼氏ができる事よりもずっと説得力がある気がする。
それに、僅かな時間とは言え私が幸せだったのは確かなんだし。
私ってば枯れてんな。縁側に座って女学生時代に思いを馳せるお婆ちゃんですか?
何て魅力的な老後だ。是非辿り着きたい。
んな事よりも問題なのは、一体いつから私は目を着けられていたかだ。
私は最初、吸血鬼になったから狙われたのだと思った。
でも、もし私の考えた通りならば、東方教会は私が吸血鬼になる事を数年前から予見していた事になる。そんな馬鹿な事が、あって………。
「うん。本当は機密なんだけどね。もっとも理由は僕にもわからない。僕の立場では作戦の意味までは教えて貰えなくてね」
割とあっさりと回答。
つまり、東方教会は始めっから私を滅ぼすつもりだった。
………なんでだろ?
とは言え、これ以上は彼から情報を引き出すのは無理だろう。
「見逃して………貰える筈もないかー」
一端退く、と言う選択肢だけど、それはかなり危険に満ちている。
向こうがそれを予想していない筈がないからだ。朝も私たちに逃げられた以上、今回は万全の準備をしてきたと見て間違い無い。
「うん。お仕事だからね。それに、僕は吸血鬼を狩る為に東方教会に入ったんだ」
「人間の敵だから?」
付き合っていた時には決して見えなかった、彼の裏側。それを測るには、余りにも単純な質問だった。
「僕の敵だからだよ。正直、僕は無力な神様の教えも妄想の救いも興味は無い。僕だけじゃないさ。あそこは凄い所でね。ほとんどが吸血鬼に人生を狂わされた人間なんだ。家族や親しい人を殺された連中が集まっている。それも、ただ復讐の為に。僕も、その一人なだけさ」
それは、泣きたくなるほど単純な話だった。
単純だから、それが動く事も無い。
………ミナトは?
私はまだ鈍い神経を出来る限り張り詰めて周囲の気配を探った。
まだ校舎を見回っているのか?
目的の前に障害が現れた。それに気が付いているのだろうか?
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ルーベンは高等部校舎付近で、上空から周囲を見下ろしていた。やがて、その視界に接近する少年と少女の姿を確認する。
「正面から行くか。若さ故の自信家なのか、最良と判断したか。だが捉えたのならば、一気に勝負を付ける」
「そうはいかないっすよ、ダンナ~」
後ろからかけられたのんびりとした声に、身動きを止めた。
声には緊張感が全く含まれていない。しかし、この状況下では逆に空気を緩やかに張り詰めさせた。
「やはり貴様が関わっていたか。ウェスト家当主ヴァージニア・ウェスト」
皺だらけの白衣を羽織り、ボサボサの髪に丸眼鏡をかけ、何百年前の物かわからない古文書を抱えた女が、何時の間にかルーベンの背後十メートル程度の場所に現れていた。
「日本じゃ西ミナトで通ってるけどね。こっちだってまさかと思ったわよ。《業火王》ゲオルグ・ルーベンが、こんな東アジアの果ての田舎街に現れるなんてさ」
「ウェスト家は介入すると判断して良いのだな?」
振り返る。どう見ても実用性の低い大型レンズの奥に、異形の瞳が輝いている。
軽い言葉とは裏腹に、その瞳は獲物を前にした魔獣のそれだ。
「ご・冗・談・を。私はただ、この街に仁義を通さず潜り込んだ鼠を狩り出しているだけ。ま、さすがに貴方は手強いから足留め位しかできないけど」
「私をここに足留めしても、聖衛騎士が任務を全うする」
「グリフォンが来てるんでしょ。《合成魔獣》の。………さすがに学園の新任教師の欄までは確認してなかったし、おかげでそれ見付けた時は自分の目を疑ったわよ。人畜無害の羊の中に一匹だけ人喰い虎が居るようなものよ、あれ。………ま、そっちは間に合ったみたいだから向こうに任せたけど?」
「………間に合った、だと?」
ミナトは場にそぐわぬ陽気な笑い声を上げた。
「運命って奴はさあ、組み伏せて思い通りにしようと思うほど、手痛いしっぺ返しを繰り出すのよ。女と同じさ」
もっとも、彼女の瞳は全く笑っていない。
*
逃走経路を詰め、且つ挟撃の位置を取る。それが彼女の選んだポイントだった。
そして、その作戦は早々と有効性を失った。
「………大した忠犬ぶりだわ。ここに迷わず来れるなんて」
修道衣を纏う八幡マリ亜はそう呟いた。眼鏡はかけられていない。この場には姿を偽る必要のある相手はいないし、戦闘には向いていないから外している。
その瞳が、油断無く相手を見据える。
可能性を考えに入れていない訳ではなかった。しかし、状況は彼女たちにとって確実に悪い方向に転がっていく。
自分とほぼ同じ考えでほぼ同時にこの場所に現れた相手がいて、それは間違いなく実力的に彼女が押さえなければならない『敵』だった。それは向こうも同じだが、時間制限があるため彼女の方が分は悪い。
「お節介が居てな。俺の召喚した偵察用の駒を逆に送り返して情報を逆流させてきた。厄介な奴が絡んできたが、お蔭でギリギリ間に合ったみたいだな」
この件に堂々と干渉してくる存在など、そうはいない。
「ウェストね。でも、まだ間に合ったと決め付けるのは早いわ。彼女の所には行かせない」
懐から細身の銀剣を引き抜く。戦闘開始の初動に合わせて、衣服が彼女の肉体を包む黒鎧へと変化した。
その姿は一見フルプレートにも強化外骨格もにも見えるが、実際は全てのパーツが肉体の動きを妨げぬように自律稼動し、且つ物理・魔力ダメージ両方を中和軽減する能力を秘めた魔法具・《魔獣装》である。
性能は人間が扱える物の中ではランクS+。
もっとも、これを身に着けれるのは想像を絶する厳しい訓練を積んだ適格者のみ。普通の人間ではその力に中てられて立つ事もできないだろう。弟子の剣也は、現時点では一つをコントロールするのがやっとだった。
「《鷲獅子ノ黒鎧》か。いや、それだけじゃない。全て揃っているのか。あんたが、当代のグリフォンだったって訳だな。やれやれ。同じ学校に居て気が付かないとは、俺も随分衰えたもんだ」
マントは以前従士が使った通り猛禽の黒翼に。
フードは鷲の意匠を施したフルフェイスに変わる。手には鷲の鉤爪を潜ませるガントレット。足は獣爪の足甲。
その姿は正に上半身に鷲、下半身に獅子を持つ合成魔獣《鷲獅子》。
膨大な力を秘めるが相応の力を持つ適応者でなければ逆にその身を蝕まれる、黒き合成魔獣の装備品こそ、マスターと呼ばれる存在の最低条件だった。
そして、それは覚悟の現れでもある。
今の彼女の姿は、典型的な悪魔の姿に酷似している。《合成魔獣》の名の通り、彼女は聖職に名を連ねる者でありながら、相手を屠る為に己を魔獣に変える。
「行くぞ!」
フルプレートを纏っているとは思えないスピードの爆発的なダッシュ。それをギリギリで避ける速飛。戦闘は始まった。
*
「………どうやら援護は来ないみたいだ。………お互いにね」
剣也はそう言うと、やれやれと軽く首を振った。
確かに、結構離れた場所で何かがぶつかる音がする。
………間違い無く戦闘音だ。
誰と誰? ミナトが戦ってる?
「最悪でも、おっかない人は私が相手するから」………ミナトはそう言っていた。
さっきは頭もボーっとしていたから意味がわからなかったけれど、つまりミナトは東方教会と遭遇する事を予想していたらしい。そして、そうなれば当然戦闘になる事も。
「僕の他に、僕のマスターと団長がここに来ている。君を滅ぼす為にね。でも、動いていないって事はそれぞれ相応の相手が居るって事になるね。たぶん、彼も来てるんだ」
「………彼?」
「白輝くんだよ。今朝は逃げられちゃったからね。もっとも、僕の力じゃ倒せなかったけど。でも、どうしてここに来れたんだろう? もしかして待ち合わせかな?」
いや、それはない。けれど嬉しい展開には違いない。
「もうすぐここに、今街を騒がせているノスフェラトゥが現れるわ。そいつを倒すまで停戦って訳にはいかない?」
もう一度だけ、休戦の提案を出す。これで駄目なら私には手が無い。
「ゴメン、無理。残念だけど、君がノスフェラトゥと手を組まない保証が無いよ。奴に襲われて、君だけがこうして吸血鬼になっている事を考えるとね」
やはり駄目。
って言うか、客観的に見ればそうなるのか!
東方教会なら冷静な判断を出すかとも思ったけど、考えてみれば組織の意志を末端までが把握している事はまず無い。
「さあ、そろそろ開演だ。僕は君を滅ぼす。君は………どうする?」
「ちっちっち。こう言う時は伝統的な発想法で行くのヨ。答えは一つよ。それは………」
私は全身をバネにして、くるりと後ろに大きくバク宙で跳んだ。
「逃げるに決まってんでしょっ!」
「させないよ!」
短剣を振りかざした剣也の短呪文と共に、私の周囲に無数の幻刃が出現した。
ぞっとするほど冷たい刃の煌きが視界全体に映る。
「この広い空間で、魔導神器《幻想的舞曲》から逃れる事はできない」
その数、空中の私の周囲に偏りなく三十本オーバー。人一人が避けられる隙間は一切無し。
………こう言う時は、身体を霧に変える、とか?
念じてみたけど無理だった。
………やっぱり駄目か。仕方が無いから空を蹴り空中で急旋回をかけて、腕を盾にして一点から突破する。
「うぐっ! いでででででっ!!!」
肉が切り裂かれ、硬質の刃金が突き刺さる。骨も砕けるかと思う威力。その痛みたるや本当に洒落にならない。
でも、こんな物が全身に突き刺さってハリネズミになるよりはずっとマシだと思おう。
幻刃を砕くと、血はすぐに止まり傷痕も塞がる。
さすが吸血鬼、と言うべきなんだろうか。ただ、痛みと芯に残るダメージはどうしようもない。対吸血鬼用の武器って言うのは伊達じゃないって事だ。
「とんでもない回避の仕方をするね。でも、逃がしはしない」
「人間だった時にもうちょっと別のシチュエーションで言われてみたかったわよ」
口調をわざと軽くする。空元気ってやつだ。状況は全然楽観できないから、せめて精神的に強く保たないとマズイ。
少しでも動きを留めると私の逃げ道を塞ぐ形で次々と幻刃が私を囲い出す。
これ、さっき突っ込んだ感じ、何かに当たれば実体化するらしく、防ぎ方はそれなりにあるっぽい。要は盾になる物があればそこそこ防げるって事だ。ただし消耗は激しいだろうけど。
が、遮蔽物どころか石一つ落ちてないグラウンドではどうしようもない。
だから腕や足を盾にして突破しなくちゃならないけれど、これで与えられたダメージの回復は普通よりずっと遅いらしく、ただでさえ具合が良くないのにダメージが積み重なっていく。
あと、折角の制服はザクザク切り裂かれリサイクル不可のボロボロだ。ああ、新品だったのに勿体無い。ガーターベルトもストッキングが切り裂かれてほぼ用を成さない。
ある程度間合いを取れば攻撃は届かない筈だけど、向こうの機動力も並じゃないし幻刃で足留めされるのでそう上手くはいかない。
………けれど、攻撃を重ねて受ける度に、私の中で奇妙な違和感が生まれていた。
それは例の出所不明の湧き上がる知識からだ。
んー、何か思い出しそう。
命の危険な状況なのに、頭のその部分だけ落ち着いている。
……何かが違うのだ。
私が何故か知っているらしい『物』とは、何となく感じが異なる。
私は尚も避けたり排除したりしながら、頭の片隅でその理由を検索し続けた。
何て言うか、こう………微妙に違うというか。喩えるならガンダムとジム、もしくはS型とF型、ストライクとダガー。
「あ、そう言う事か」
何度目かの強行突破の瞬間、不意にその意味が湧き上がった。
「………あのさ、それってレプリカだよね?」
私はぼそりと、しかし確信を持ってそう言った。
「………何を急に?」
「………うん、やっぱりそうだ。レプリカの方だよ、それ。
だってさ、吸血鬼撃滅戦用魔導神器の一柱《幻想的舞曲》のオリジナルは『攻撃対象の存在を削る』武器だもの。相手が吸血鬼だろうとアレは普通には防げない筈なのよ。
貴方のそれは、攻撃力はあるけれど、物理ダメージに過ぎない訳だから」
私の説明に、彼の攻撃の手が止まった。
「詳しいね。白輝くんか、誰かから聞いたのかい?」
「あー、いや、実の所私自身もさっぱりなんだけど、何でか知ってるのよね。例えばそうね、他の魔導神器の事も一通り知ってる。
ランク上位から、闇に属するもの全てを打ち砕く《闇を狩る闇》。
魔を喰らう赤石《聖母の血涙》。
暗黒の真典《創世記》。
その三つには他の物に見られるレプリカが存在しないし、また扱える人間も極めて少ない。
それから、オリジナルの《乾坤の血族》を筆頭とする七つの《天軍の剣》。
レプリカが最も多い処刑の斧《Op13》。
無尽の聖水《水没都市》。
アレキサンドリア遺跡から出土したオーパーツ、《双子の銀時計》。
そして貴方の持つ短剣のオリジナルは舞幻刀《幻想的舞曲》。
ただ、レプリカとは呼んでるけれど、そのどれもが発掘された物。図抜けた性能を持つ一点をオリジナルと呼んでいるだけ」
指を折ってその数を数える。うん、これでいい筈。
それを聞いていた剣也が、誰に問う訳でもなく、ただ呟いた。
「君は………何者なんだろうね?」
そんなの、私だって知りたいよ。
「僕はまだ十年もこの世界で生きていないけれど、何体も吸血鬼を見てきた。場合によっては、今の君と同じく吸血鬼に変わってまだ日の浅い者とも戦った。
………最上位の卿クラスになるには力を委譲されるか、魔術による変質しかない。委譲ならば知識などを引き継ぐ事もある。魔術による変質では過程で知識を得る事はあるけれど基本的に突然莫大な知識が発生する事はない。
………君は確かに数日前までは普通の人間だった。けれど、吸血鬼となった途端、君は驚くようなスピードで力を増し、知識を得、存在する最上位の卿たちと肩を並べる程に成長を遂げている。
それは、単なる例外的な何かなのか、………それとも君は」
………それとも?
彼はその後の言葉を飲み込んで吐き出さなかった。
けれど、私にも大体予想は付いた。………なぜなら、以前と全く変わらないようだった彼の表情に、今は僅かだけど明らかな恐怖が映っていたのだから。
多分、彼はこう言葉を続けたかったのだろう。
「僕の知らない、何か異なる存在なのか」と。
僅かな静寂が流れた。
しかし、その一瞬を狙っていたかのように、異変は始まった。
*
互いに一歩も譲らぬ激戦が繰り広げられていた。
正確には、マリ亜の苛烈な高速斬撃を速飛が辛うじて捌いているので、一見すると一方的な状況に見える。
………だが、それは誤りだ。
本来ならば、彼女の高速攻撃を防ぐ事すら難しいのに、速飛は紙一重で外し続けている。
いや、問題はそこではない。彼女の持つ銀の十字剣は本来防御や捌きを許さない魔性の武器である筈だった。速飛はそれをほぼ無効化しているのである。
「《合成魔獣》の名の由来は知っているか?」
「私にする質問か?」
全くその通りだ。マスターと呼ばれる本人に投げかける問いでは無い。
だが、白輝は続ける。
「本来一つ極める事すら困難な戦術をその身に複数所有する規格外から生まれた名だ。怪物の名を自ら名乗る覚悟も含めて例外無く強い。
だから、あんたが《合成魔獣》と知ってからは、ある程度覚悟してきた。
が、よりにもよって《天軍の剣》だと? 非常識にも程がある!」
《天軍の剣》と呼ばれる十字架状魔導神器は、オリジナルとされる《乾坤の一族》の他に七本のレプリカが存在する。
それらはすべて大きさや形状が異なっている。
ある物は大剣。ある物は十字槍。バトルアックス状の物もある。
そして、それぞれにナンバーが振られている。
マリ亜が持つ銀の十字剣はその内の一本。七大天使に準えて、破壊を司る地の熾天使ウリエルの名が与えられていた。
《合成魔獣》にして《天軍の剣》使い。
法皇庁管理の数あるカトリック系退魔集団でもこの二つを重複する人物は、現状では彼女のみであり、千年を超える歴史を持つ東方教会史上でも両手で数えられるほど極めて稀な存在だった。
「随分と詳しいのね! だが、ならばそれを凌ぐ貴様は一体何だっ! この化け物め! こっちこそ気が付かないと思ったの。一体幾つの魔術をその身に宿しているっ!」
十字剣を振るう彼女の戦闘力は、中程度の卿クラスなら一方的に撃滅できる破格のレベルだ。それは攻撃力のみを示すなら卿クラスを凌ぐと言う事である。
だが、それを速飛は様々な術法を組み合わせてマリ亜の攻撃を外している。
おそらくその数二十以上の犠牲呪法で防御壁を構築して、必殺の一撃が物理・魔術のどちらの面からも届かないようにしている。
それはすでに人智を超えた業だ。
世界中探しても彼ほどのレベルの魔術師は、魔術四大名門や地球上に存在する魔術の最高研究機関はおろか、ありとあらゆる組織をひっくり返しても存在しない。
否。存在し得ない。
吸血鬼となった者たちを含めたとしても、おそらく歴史上五人といないだろう。
だが、それほどの力を持ちながら、速飛の行動は不自然だった。
彼は強大な魔術で攻撃を逸らしながら回避に専念して、隙を見て中心地に向かおうとする。
それを遮りつつ、マリ亜が必殺の一撃を放つ。そして回避。
洗練された攻防の応酬は熟練者のダンスにも通じる。そう、まるでワルツのような交錯が続く。
彼の力量からすれば、防御に特化した者だとは思えなかった。
つまり、意図的に攻撃を封印している。
「………貴様、何故攻撃を仕掛けない?」
「あんた程の相手を確実に止めるには殺すより良い方法が無い。その鎧たちが笑えないほど頑丈なのは知っているからな。それに、俺は人間を殺す手を持たん」
「奇妙な話を。どう言う事だ?」
「………どうもこうもない。俺はあの主に膝を着いた時からそう自分に誓った」
「世迷言を。ふざけているのか」
だが、速飛はあくまでも攻撃を避け、捌くのみに終始している。
余裕がある訳ではない。捌くと言う形を取っているのは、彼の力を持ってしても即興で《天軍の剣》の力をキャンセルする魔術を扱えないからだ。
つまり、彼も余裕の無いギリギリの位置に居るのである。
「………わからないか。そうだろうな。だが、俺にとってアレとの出会いは自分を道化に落とす事も厭わない物だった。
………昔話をしようか。あんたも《合成魔獣》に名を連ねる者なら、七つの名跡の他に削られた末席があった事を知っている筈だ」
「それが、どうしたと言うんだ?」
マリ亜は内心で驚いていた。
それは数百年前に起きた《合成魔獣》最大のスキャンダル。
その話を知る者は、今はもう名を連ねる七人だけ。恥晒しとも裏切りとも伝えられる八つ目の名。
自分たちですら実際に何があったかも残されていないのに、外の者がその忌名を知る事など有り得ない。
しかし、速飛は確かにその名を口にした。
「削られた末席の名は《NU‐E》。唯一代でその名を立て、腐らせた裏切り者。
………それが俺だ。俺の魔術基本は《合成魔獣》の物。複数の魔術式を自分の身体に組み込んでいる」
それは、速飛の言葉を裏付ける事実だった。
「ならばっ! 貴様は東方教会に属する者でありながら、忌むべき者に膝を着いたと言うのかぁっ!」
激昂。それはマリ亜の価値観への冒涜と言ってもいい話だった。
だが、彼はそれを受け流した。
「生憎、俺は元々稀少混血だ。この島国に異形として生まれ、千年前にこの国を追われ、俺をこの世に生み出した吸血鬼を憎む事だけが生きる意味だった。
東欧まで流れて当時東ローマ帝国下だった東方教会に入った。
俺だけが例外じゃない。東方教会は昔から吸血鬼を始めとする仇敵を滅ぼす為なら手段を選ばない。俺やあんたが良い例だ。あんたが使うその《天軍の剣》と名付けられたそれだって、元を辿れば聖典には一切関係の無い、遥か太古の遺物に過ぎん物だからな」
「貴様ァっ!」
力が篭り、僅かに剣筋が乱れた。
本来ならば殺意など戦闘中に出す物ではない。度を越した殺意は盲目を呼ぶ。
そんなモノは相手を滅ぼしてから好きなだけ吐き出せばいい。
にも関わらず、充分過ぎる精神修行を受けた彼女は、あと一歩で危うい領域に入る所だった。
それを引き止めたのは、皮肉にも視界に飛び込んだ全天を侵す異変だった。
*
「馬鹿な………。幾らなんでも早過ぎる。まだ陽は充分に高いではないか!」
「あははははっ。そんな理屈が通じる相手じゃない事くらい承知の上でしょう?」
ルーベンとミナトが………否、この場所に居る全員が空を見上げる。
今にも垂れ落ちてきそうな赤い触手が天の端々までも侵食しようと蠢き拡散している。
それは生き物の血管のように鮮やかで、ゆったりと律動を刻んで空を這いながら不確かな放物線を描いている。
「なんと言う………強大な………」
べったりと赤く赫く塗り変えられつつある全天。
その中心には、背を丸めた緋く巨大な胎児の形にも見える何かが浮かんでいて、その瞳の部分に当たる場所には、身体の比率的に不釣合いな程大きな楕円状の黒い虚が開き揺らいでいる。
それは片目の瞳にも受け取れるが、そこには眼球らしい物はもちろん、他に形と言えそうな物は星の瞬き一つ見当らない、ただただ底知れぬ暗い穴であるのみだ。
遠近感が狂う程に、呆れる程に、安易な形容すら困難な、紅く朱く輝く巨大な存在。
そして悪夢の中に居るような赤く塗り潰された世界の中では、自分が今地面の上に立っているかどうかすら不確かな感覚に支配される。
ありとあらゆる感覚が狂わされているような錯覚が常に精神を揺さぶる。
世界の存在すら歪ませる顕現。
あれが………、《穢れた月》………。
そう。あれが《穢れた月》。
この世界に巣食う最終悪夢。
人類の敵。全てのイノチの敵。
そして、あらゆるものを支配するモノ。
…………全天に、《穢れた月》が満ちる。
*
戦いを忘れる程に、それは圧倒的な、恐ろしく圧倒的な光景だった。
天空の全てを侵し、支配せんとするその様相は、狂った悪夢としか言い方がなかった。
「嘘だ………。こんなに巨大なのは見た事がない………」
「《穢れた月》………。何よ、これは………」
思わず胸を抑える。
私の中で狂ったように何かが音を立てて回っている感じがする。
………アレを………《穢れた月》の姿を見てから、〝心臓とは違う何か〟が、私の中で動いている。
………妊娠して子供が暴れる感じとは違うだろうしなぁ………。
………はて、そう言えば、起きてから………私の心臓って動いていただろうか?
「こんなに早く姿を現す事も、過去に例は無い筈なのに」
彼の声が何だか遠い。
今日が特別って事?
何も、わざわざ今日なんて………。
いや、全てが揃うのか。今日、ここで。
私の脳髄に、別の情報が這い上がる。それは内側から湧いて出る物じゃない。
………何? この感じ………この感じは………確か………覚えが。
空間が捩れていく感じ。これは月の力じゃない。現実で感じた事がある。背骨に走るこの感覚を覚えている。
そう、あの時も私の身体がそれに反応した………。
情報が繋がった。
「ここから離れてっ!」
「なっ!」
けれど、私の言葉よりも早く、地面がいきなり波打つように滑稽な程歪んだ。
歪んだ波は柱になり壁になり、私たちを、周囲を、何もかも包み込む。
………あいつが来たのだ。
あの時、私を殺した、あの怪物が。
3
「………ここは?」
彼の声にも、流石に戸惑いの色が出ている。
それも当然。ここはもう異世界。
奴の腹の中だ。
「ノスフェラトゥの幻巣世界。名前は《迷宮宴卓》、だったかな」
私たちは、そびえ立つ腐ったコンクリートの高い壁に囲まれた、広い部屋の真ん中に転がっていた。
広さは前に迷い込んでアレと出会った時とほとんど同じ。通路口が二つ、こちらと向こうにあるのも同じ。
拓けていた景色が壁でいきなり遮られるとかなり途惑うけれど、ガラリと風景が変化した中で、ただ唯一あの空の色だけは変わっていない。
《穢れた月》が染めた、胎動するあの空の色と雰囲気はそっくりそのままだ。
………いや、ここは以前からそうだった。
「忘れろって言ったって、きっと死ぬまで無理。………私はこの中で、ううん、この世界で殺された。こんな悪趣味な世界でね。
たぶん、乙女の死に様としてはワーストランキングに入ると思うわ。少女向けホラー漫画雑誌にネタを提供したいくらいよ」
もっとも、私以外の子は食べられちゃったわけだから、こっちの方が酷いかも。十人くらい犠牲になってる訳だから纏めて審査員特別賞くらい貰えるかもしれないけど。
起き上がり、周囲を確認する。本当に全てがあの時とそっくりな気がする。
狭っ苦しい閉鎖された迷宮。
何かに追跡されるタイプの悪夢に紛れ込んだかのような、どこにも逃げ場の無い世界。
………そう。今ならわかる。
これはアイツの『世界』で、ここは罠兼餌箱。アイツが鶏の羽を毟る屠殺場で、晩飯を喰うディナーテーブル。
ここは唯、その為だけの世界だ。
「幻巣世界か。………厄介な話だね」
彼もその存在を知っているらしい。流石本職と言うべきか。
「で? 東方教会での対処マニュアルは?」
「幻巣世界の使い手なんてそうそう転がってないよ。千差万別だしマニュアル化できるほど情報が無いと思う。ただ、強いて上げればこのタイプは本体が中に居るから、それを叩くしかないらしいね。………もっとも、本体が出て来るかどうかは別問題だけど」
あ、その辺はたぶん対丈夫。
「出てくるわよ。だって、それがここのルールだもん。ここでは絶対に逃げ出せないかわりに、私たちにダメージを与える方法は直接攻撃だけ。だから後は、私たちがアイツに勝てるかどうか」
前は非力な女子高生が二人。
でも今回は一応専門家一人と、それなりに戦闘力のある吸血鬼が一人。
向こうの戦闘力は確かに高い。腕力も運動能力も侮れない。それでも、勝てる可能性は有ると思う。
「ただし、私たちが協力できればと言う条件付」
「無理だね」
否定された。譲れない生き方に関わるから仕方が無いとは言え、もうちょっと融通と言う物を考えるべきではないか。こんなに頑固だったのね、この人。
「せめてここから出るまで、ってのはダメ? 歴史上に於いても二局面作戦が成功した事は無いのよ」
ヒットラーも、日本帝国も、アメリカも、ドクター・ヘルも。似たような失敗は幾らでもあるのだ。
「そっか、それじゃあ向こうを優先順位一位にするよ」
「オッケー、それで充分」
たぶん、彼だって状況は理解している。ここを出るのに私に攻撃している暇なんて無いって事に。だから落とし所を用意する、
「代わりに私が知ってる情報を出すわ」
「借りは作りたくない、って言ってる場合でもないか」
「そう言う事よ。相手の身長は約二メートル半。前屈姿勢だったし腕が四本あったから、もっと大きいかも知れない。全身が甲虫みたいな黒い殻っぽい肌で、頭は肉食の爬虫類みたいな形をしてる。瞳はあの空と同じ色でべったりしてる。図体からは考えられない程高い運動能力もある。
………でも、今日の体験からすると吸血鬼の普通レベルなのかも。攻撃はたぶん、直接攻撃のみだと思う。ただ、私はその一撃で骨まで削り取られた」
「腕を?」
「胸よ。防御なんてできなかったの。もっとも、ちゃんと観察する前に意識が沈んだから胸骨とかの折れた先が見えただけで、ひょっとしたら肺や心臓も吹き飛ばされていたかもしれないけどね」
殴られた、と言うよりも削られた、と言った方がいい一撃だった。
衝撃が余りにも強過ぎたせいか、傷の痛みとかは感じなかったんだけど。余り酷い大怪我って脳が痛覚を切るとかなんとかで、そんなものらしいし。
「その位なら何とかなりそうだけど………どうやらその情報はあんまり役に立たないみたいだね」
「なんで?」
「うん。アレは、少なくとも君が見た形じゃないだろ?」
私の立ち位置からでは通路の奥は見えなかった。彼はその通路の奥に視線を釘付けにしていた。
次の瞬間、部屋に………いや、この閉ざされた世界に振動が走った。
しかもこの揺れは地震ではなく、何かが移動する感触。
つまり、洒落にならない質量の物体が文字通りこの世界を揺らしながらこちらに向かってくる。
「………もう何を見ても驚かないもんね。馬鹿みたいに図体をデカくしたのかしら?」
やがて、暗い通路の向こうから、巨大な質量を持つソレが這い上がってきた。
まず、腕。そして、腕。更に、腕。
そのどれもが私の知る物よりも確実に三回りは大きい。
それらが隙間を引き裂くように壁を押し広げ、通路を捩じ曲げている。コンクリート壁は気味が悪いくらいに飴細工みたいに歪んで、奥で蠢く巨獣の為の通路を開いている。
「………なに、それ?」
できた隙間に更に捩じ込む衝撃と共に、本体が広い空間に姿を現した。
黒い身体は変わっていない。いや、より甲虫っぽくなった気がする。
………しかし、記憶と一致する部分はその程度だった。
以前の四本腕の巨体は猿っぽい姿勢だったけれど、まだ人間型の名残を残していた。
けれど、今そこに現れた黒い巨塊は、すでに生物の形すら失っていた。
腕にしか見えない触手、それが全部で二十本以上。
女王蟻を思わせる巨大な黒い円柱状の身体に、実に適当に生えている。対と言う概念があるようには見えないから、ひょっとすると奇数本かもしれない。
そして、腕とは対照的に脚は無い。移動を含めた脚の役割は、何もかもその腕で行なっている。
上部に一際膨らんだ場所に貼り付いている頭部の造形がそのままなのが、この異形の物体が仮にも生物である事を印象付けると言う妙なアクセントになっている。
「《穢れた月》の力で、こんな姿になったのか?」
………こんなに変わり果てて、コイツ、一体何がやりたかったんだろ。
飾り物としか思えない、身体に比べて小さな頭部の赤い瞳が、ぬるりと彼を睨んだ。
「………ガ………ぎ………ぃげニエェ……ハ……ギぃ…ザマ……が………か?」
獣が言葉を無理に吐き出そうとするみたいな無理のある擦れた声。柱みたいな腕の一本が、彼の前にズドンと突き刺さった。
「………生贄?」
食べるんじゃないのか。
「……ッツキばァ………ヂガ…ら…ある………ニッニンゲンヲおぉ……にえにィィ……モトムぅ……ワレがァ………こノ場ショ…に……ヨンだアァあ」
苦しそうだけど、そこに感情らしい物は込められていない。まるで自分の意思がそこに無いような棒読みだ。
「………って、ちょっと待って。さっきから私を無視しているんじゃないッ!」
ノスフェラトゥだったモノ………いや、今も確かにそうなんだろうけど、こいつはさっきから私の方には身体も向けていない。
まるで私が存在していない、見えていない態度だ。
私の言葉に反応したソレは、ようやくこっちに瞳を向けた。
「………ギザま…は………ナン…ば………」
「何って、随分じゃない。殺した人間の顔なんて覚えていないって訳ね。ったく、二日前の夕方に、この中であんたに殺された女よ。………まあ今も吸血鬼になって生きてはいるんだけど」
言って通じるかどうかわからない。
「……ワレは…ギザマぅお………バねいテバ……ナィゾぉ………ぬァゼ…コゴに居るゥ」
知るか! そっちが適当に呑み込んだんじゃないか。
………って、あれ? 何か引っ掛かるような。
………そう言えば、前にも似たような事をこいつは言っていなかっただろうか?
………そう、確か「餌にならない」って言われた。
「ワれハぁ……シビト…は……喰ラわヌゥう……シビトハぁ…ニエにバぁ……ナラヌゥ」
「………死人?」
なんだそれ。さすがに「精神的に」とか「社会的に」とか、いくさ人のように「死んだ気になって」とか、そう言う意味合いじゃないだろう。
「ココばァ……ワれガ望む者ぉ…ドみガあァ……入れルゥゥう幻巣世界いィアぃアア………ダゼェ……キザマがア……コゴにィイるうゥ」
訳がわかんない。コイツは一体何を言っている?
まるで………あの時ここに迷い込んで来た私は勝手に入って来たかのような言い草で、しかもその時の私は死人? 死んだ人間?
何か、とてつもない勘違いをしている。
私はコイツに殺された後、どうにかして吸血鬼になったんだと思っていた。
普通の生活をしていて、阿呆みたいな重傷を負って、それで生き返ったのだからそこがターニングポイントなのだと、思っていた。
この状況を普通だとは言い張らないけれど、それでもそう考えるのが自然だ。
………でも? ひょっとして、私は大きな勘違いをしているんじゃないか?
考えられない事。
馬鹿馬鹿しい、取り上げるにも値しない妄想。
厨二病とか呼ばれる類。
笑って黒歴史にしてしまうような。
だけれど、もしかして。
私がその前から変化していた、と言う可能性は?
「そんな馬鹿な!」
………有り得ない。
そんな事、有り得る筈が無い。
だって、私は普通の人間だった。普通の食生活をしていたし、好き嫌いも特に無かった。日光は紫外線対策くらいはしていたけれど灰になりそうになった事なんて無い。プールも海水浴も普通に経験している。
怪我だってするし、傷が五分で治るなんて事は無かった。
自分は普通の人間だった。
それは胸を張って言える。
………けれど?
思わず、側にいた彼の顔を見た。
一年前からこの街に来ていた東方教会の人間。私を狙って?来たと思われる行動を見せた古参の組織。
不自然な話な筈だった。
しかし、それは「私がいずれ吸血鬼になるから」と言う未来予知的な理由からではなく、「私がすでに吸血鬼だから」だとすれば? そこには一切の不自然な要素は無い。
無いけれど、それで私自身が納得できるかと言えば別問題だ。
「それじゃあ………私は………私は一体、なんだって言うの?」
頭の中がハンドミキサーで掻き回されたみたいにグチャグチャになった。
………けれど、その混沌の中から、私の疑問への答えが自分の意思で湧き上がろうしている、そんな気配がする。
*
「あっはっは。驚いた。あいつもやってくれるよ! これじゃあこっちからは手が出せないね。乱戦にでもなれば、まだ可能性はあったけれど、やっぱり運命に嫌われたね」
自分と言う存在すら侵され失いそうな赤い世界の中、眼下では突然出現した幻巣世界が空間を大きく歪ませて二人を呑み込んだ。歪みは出現時に比べればずっと小さくなったが、まだ視認できるくらいのサイズで残っている。
少し向こうでの戦闘音も途絶えた。勝負が着いたのではなく、この異変に手を止めたのだろう。気配は確実に二つ残っている。
ミナトは、それら全てを見て、何がツボに嵌ったのか腹部を抱えて身体を「く」の字に折り曲げて笑っていた。
「………くっ。貴様の思惑通りとでも言うのか」
「だーかーらー、人聞きの悪い事言わないでヨ。今回私は一切無関係なんだからサ。一番乗り遅れたのが私なんだから充分驚かされたわよ。
まさか、『彼女』がこの街に現れるなんて思いもしてなかったし。あんたたちが動いてくれてようやくわかったって言うか、あの馬鹿が暴れたお蔭と言うか。三者三様の思惑が絡まったらこんなオチになったって話なだけよ。
……運命か、それとも《穢れた月》か、〝彼女〟か、他の誰かか。どこの誰が引いた線かは知らないけれどね」
「………世迷言を。信じられると思うか? 私がその《混沌皇の幻視》の真の意味を知らぬとでも思っているのか?」
………笑い声が止まった。
「ウェスト一族に伝えられ、当主のみが所持閲覧を許された稀本。現世において唯一冊しか存在せず、唯一編の断章の写本すら無い、伝説の魔導書」
起き上がったミナトは、「だから?」と言う表情を浮かべている。
「それも当然。写本など存在する筈が無い。………いや、存在できないと言うのが正しい」
彼女の口元に、薄い笑いが浮かび上がった。そして、言葉が紡がれる。
そこから流れる声は、ミナトの物でありながら、すでに全く異なる宇宙の空気が含まれていた。
声が、奇妙な音色を爪弾いている。
言葉。聖典に謳われる神が世界を創造した力。まるでその力を連想させる何か《異なる者》の気配が膨れ上がる。
『………なぜなら、この本には人が本の中に期待するような中味が無いから。全三百六十八ページ七十二章で構成されてはいるものの、その中味も章題も一切の記載が無く白紙があるのみ。仮に他者がこれを見ても、それを理解する事も読み写す事も不可能』
ルーベンの台詞に言葉を続けたその言葉が、手に持っていた《本》を開いた。
封印が掛けられていた筈の古文書は、何時の間にか自らを戒める封印を消滅させ、そよぐ風も無いのに自らの意思でページを捲り躍らせる。
『そう。〝この本〟の本質は知識ではない。存在こそ本質。かつて秘術を尽くしてこの本を綴った人物を通して、《本》はこの世界に現れた。
………それは、君たちが《真祖》、あるいは一部でも真実を突き止めた者は《外世界種》と呼ぶものに名を連ねている』
赤い空を背景に、ミナトの黒髪が冷たい輝きを散らせるシャンパンゴールドに変質する。
開かれた瞳は、大洋を思わせる蒼き光を零す、硬質の〝四つ〟のアクアマリンに変容していた。
彼女は眼鏡を外し、演技じみた深々と仰々しい礼をルーベンに送った。
『ハジメマシテ。と挨拶しておきましょう。ボクが真祖十三宗主の一柱、《混沌皇の幻視》です。生憎と『彼女』と違って君たちが持つような名前を持ち合わせていないので、勘弁して下さいね』
「ウェスト一族に寄生する《外世界種》。《四ツ目の青水晶》。……やはり、真実だったか」
ルーベンはサングラスの位置を直した。驚きや焦りと言った感情はすでに無い。
『ミナトの名誉の為にも予め断わっておくけれど、ボクも無関係ですよ。ただ、こうして久し振りに表に出たのは『彼女』を出迎える為だけどね』
「………何?」
『時が来たのさ。君たちが………いや、ゲオルグ・ルーベンが、如何なる犠牲を払っても阻止しようとしていたものが、現実化してしまうその時がやってきたんだよ。
さすがに万が一の事を考えると、ボクでも身を守らないとどうなるかわからないからね』
純粋な音色を思わせる異次元の声色が不吉な言霊を綴る。
*
「………あの二人の気配が………強力な幻巣世界の展開と同時に………消えた?」
「呑まれたんだ。あの幻巣世界は内側から獲物を引き擦り込むタイプだからな」
世界の異変。そして直後に発生した出来事に、二人の戦闘は再開のタイミングを完全に失っていた。
「くっ………二対一では………だが、外から干渉する方法は………」
幻巣世界は分類として一纏めにする事はできるが、それぞれが千差万別の個性的な性質を持つ為、それを解析するのも解除するのも、あるいは部分的に干渉する事にすら特殊な専門能力を要求される。
今回のノスフェラトゥが持つタイプは、正に最も厄介なタイプのものだった。これが、東方教会の持つ理論上の仮説である。
「………万が一の事がある。俺が抉じ開ける。それまで手を出すな」
その困難な術の実行を、事も無げに速飛は言った。
………確かに、底知れぬ彼の力なら可能かもしれない。
………だが、マリ亜には譲れぬ部分がある。
「貴様を信じろ、と言うのか? 月の使徒の下僕風情を」
だが、その言葉に速飛は奇妙な表情を向けた。
「さっきからどうも妙な気はしていたんだが。俺が月の使徒の下僕? 俺の主人を何だと思っている。この世界の如何なる存在よりも《穢れた月》に敵対する存在だぞ」
「何だと?」
その回答は、彼女の中のある部分に亀裂を与えた。
「我が主の通り名は真祖アストラギア。あんた程の上位者がその名を聞いた事が無いのか?」
「………真祖アストラギア? ………馬鹿な。そんな事が………」
「とにかく、今はそんな事を言っている場合じゃない。このままでは狩野は間違い無く死ぬぞ。何とかあの世界から引き摺り出さないと手遅れになる」
二人は走っていた。幻巣世界が発生した場所へ向かって、どちらも攻撃を仕掛けずに。
「………一つだけ答えろ。なぜお前は剣也の心配をするんだ?」
「さっきも言ったが、俺は人間を殺さないし無駄死にも許せない。………俺は、アレに関わって無駄に死ぬ人間が出ないようにする為に、アストラギアの従者になった」
マリ亜には、速飛の言葉の意味がわからなかった。
字面が示す内容はわかる。だが、その生き方は理解の範疇を超えていた。
真実が掴めない。
いや、真実など本来ならばどうでも良いのだ。正しい事など此の世界には何も無い。必要なのは自分を立たせる信念に他ならない。
しかし今、マリ亜はその信念の部分が暗闇に囚われ始めていた。
まるで生まれつき目の見えぬ者が初めて己の盲目を認識したように、自分の位置を失い始めていた。
「………仕方無い話なんだろうな。だがたぶん、すぐにわかる。《アストラギア》と言う存在が、一体どう言うものなのか」
グラウンドは戦闘の痕で荒れていた。
その中心に、僅かだが眼で確認できるほどの歪みが見て取れる。速飛は、それに対して術式を展開させた。
「………可能なのか?」
彼女には、もう速飛を妨害する気は無かった。
「難しいができる筈だ。妙に複雑で捩れている気配だが、後は時間との勝負……がっ」
速飛は急に咳き込み、片膝を地面に落とした。
素人目から見てもわかる、命を削る酷い咳だった。更に、その口元からドス黒い血塊がこぼれる。
「吐血? お前は稀少混血。病などには無縁じゃないのか?」
マリ亜の攻撃が当たっていればわからなくもないが、生憎と直撃はゼロだった。
「………どうやら随分手が掛かるようだ。これを部分的にでも解除するには重い。さすがに負担を掛けないと言う訳にはいかなくてな。これも背負った業だ。大した問題じゃないが、間に合わない訳にもいかない」
「………貴様、その身体に一体幾つの魔術式を取り込んだ?」
直感。その恐るべき考えが彼女を貫いていた。
おそらく、速飛はかなり膨大なエネルギーを結界解除に使っている。強力な幻巣世界に干渉するには無限に等しい解析能力が要求される。人間で扱うには、ほとんど能力を特化させなければならない。
まして、短時間で行なう為の高速化も必須となれば、それに費やされるエネルギーは想像を絶する。
それは、彼の持つ底知れぬ力の一端である。
万能に近い性能を発揮する速飛だが、万能とは多くの無駄を背負い続ける事である。
人間よりも遥かに強靭な肉体を持つ稀少混血の肉体すら蝕む負担。それは力を持つ者だからこそ想像ができる。
「六百五十だ」
「ろっ………六百、だと?」
吐き出された回答は桁が違っていた。もっとも遥か彼方ではあるが、ある意味予想の延長ではある。
「《閉鎖混沌》と言う手法だ。《合成魔獣》の複数秘術を極めると、そこに到達する。これで得られる力は無限に近いが、肉体に掛かる負担は比例どころではなく乗々で増加する。一応サポートの術式を組んではいるが、それでも俺は本体の寿命が近衛クラスと比べても遥かに少ない。もって七十年と言ったところだ」
「………七十………」
それは先進国の人間の平均寿命とそう変わらない数字だ。ほぼ無限の寿命である卿クラスから見れば底辺並だろう。
もっとも人間のように死ぬ訳ではなく、どうにかしてその力と意志を引き継いでいるからこそ今もこうして存在しているのだろうが。
「これが終わったら、早急に後継ぎに引き継がないとな」
「意志と力。その二つを引き継ぐ方法は一つしかない。新しい肉体を手に入れるだけだ。やはり貴様も外道と言う訳か」
「大抵は新鮮な死体を使うさ。吸血鬼が死体を利用するのは古くからの習いだろう? 吸血鬼を敵視する連中は良い顔しないけどな」
西洋文化の侵食もあるだろうが、それは多くの宗教で同じだ。死体を魔物に与えないようにするお呪いや埋葬方法は世界各地に様々なものが存在する。
「………ん? 何だ、いきなりスムーズに………」
「どうした?」
「………どうやら部分的に開けたらしい。後は、何とか最悪でも狩野の方を引き出せれば」
その台詞が終わらないうちに、周囲の空間が突然歪み出した。
目にしか見えない揺れは大きく激しくうねり、歪曲が始まる。そこに穴が穿たれたように開き、その先にはやはり赤い世界が目に映った。
「………ちっ! やはり安定させるのは無理か………むっ!」
瞬間、歪みは一気に拡大して、中から人影を二つ吐き出した。
「………………何ィ?」
弾き出され地面に転がった二人。
それはもちろん、陽凪詩絵里と狩野剣也だった。
………いや、二人だったモノ、と言うべきだろうか。
転がっているその二人は、僅かな時間で変わり果てた姿になっていた。
剣也の方は四肢が関節の構造と場所を無視してあらゆる方向に折れ曲がっていて、手足がまだ付いている方が驚きとも言える血塗れのズタボロだった。腹部も胸部も部分部分が不自然に潰れてしまっている。
死体。すでにそう呼ぶべきものに成り果てていた。
………その隣に倒れた詩絵里の方は比べれば綺麗なものだった。
ただ、胸に剣也の《幻想的舞曲》が根元まで突き刺さっているだけで。
「………これは………」
剣也の屍は地面の上で徐々に人間の体液溜まりを作っていた。まだこれだけの中身があったのかと思うほどだ。
詩絵里は………突き刺さった部分から水が砂地に吸い込まれていくようなスピードで、身体が灰に変わって風を待たず粉々に砕け散っていった。
それは、一人の少女が迎えた終焉である。
………今度こそ間違い無く、陽凪詩絵里はこの世から消滅した。
*
人間は肉体を守る為に、ある程度以上の行動に脳が自動的にストッパーをかけるようになっている。結局の所、人間のフルパワーに人間の肉体は耐えられないからである。
また、障害物の中で腕をぶんぶんと振り回せばどうなるか、普通の人間なら理解できるだろう。理解はできなくとも一度やれば学習する。腕を壁にぶつける痛みと共に。
では? 吸血鬼と呼ばれる存在ではどうなのだろうか?
肉体が有り、痛覚も有る。痛覚は非常に大事だ。痛みが無くなる事は生存に於いて決してプラスではない。
しかし、吸血鬼はその再生力と強靭な肉体で、ある程度はリミッターを無視して活動できる。無意識で制御できる範囲が広いと言うか、少なくともパワーが有り余って物を壊してしまう事はない。
実は、先程から巨大ノスフェラトゥは二十本以上の腕を滅茶苦茶に振り回して攻撃を仕掛けてくるのだが、腕や拳を幾ら壁や地面に叩き付けても攻撃を躊躇う気配が全く無い。床や壁は砕けるが、同時に叩きつけた肉体も砕けている、のだが。
「痛みを忘れているのか、それとも存在しないのか。あれを動物の物差しで測る事自体間違っている気もするけれど、少なくとも《幻想的舞曲》の攻撃はほとんど効果が無いみたいだ。………防御すらしていないし、傷もあっと言う間に塞がる」
「遠距離攻撃で効果的なダメージは期待できません、か」
吸血鬼に効果があるとは言っても純粋に相手の大きさが問題。勇者の必殺剣が毎ターン一〇〇〇のダメージを与えても、毎ターン一〇五〇回復されたら意味は無いって事だ。
現在の敵の体格は推定で大型バス程度。
それに対して《幻想的舞曲》の幻刃は最大で四十本。突き刺す事はできても文字通り皮一枚っぽい。
大はちょっとした高層ビルの基礎に使うパイル並、小は人間のレスラー程度の大小複数の腕を含めると、該当する大きさの乗り物は簡単には思い付かない。貨物船とか、それくらいかな。
「おそらく、だけど。あれだけ肥大化してもこの幻巣世界を維持できる精神がある以上、核がある筈なんだ。いわゆる、白木の杭を打ち込む吸血鬼の心臓さ。それさえ潰せればね」
「うーん、私が近寄っても腕が邪魔でなんとも」
悩んでいる暇も無くなって、頭は変にグチャグチャのままだけど、私も何度か接近戦を挑んだ。
が、はっきり言って攻撃力はともかく手数が違い過ぎる。
何本か叩き折ったけれど、向こうは腕と言っても形だけで関節なんか問題ではないみたいだし、自爆して自分を傷付ける事も問題にしていない。
狭い空間でビル解体の鉄球が複数個休み無く振り回されていると思えばいい。近寄る事すら困難な状況だった。潰してもすぐにニョキニョキと生えてくるし。
思い出すのは、地下水路で屍者たちを薙ぎ払ったアレだ。
………アレが、使えたら何とかなるかも知れないんだけど肝心の右手はウンともスンとも言わない。当てにならない以上、私は肉体言語で戦うのみ。
しかも、事態は確実に悪い方向に進んでいる。
「………ええと、気のせいかな? 段々と部屋が狭くなってる感じがするんだけど」
「気のせいじゃない。あいつの身体がどんどん部屋を狭めているんだ」
一体どれほどの大きさなのか、巨体が部屋を占める割合をまだガンガンと上げている。このままだと回避するスペースも無くなる。
「………後ろは、ワナだよねえ………」
私たちの後ろには通路が開いている。奇妙な事に、こっちからは攻撃が来ない。
「前に来た時は無限ループしていたっぽいのよ。鞄落として、ぐるっと走ったら鞄が落ちている所に戻って来てね」
無限ループ、あるいは自分の都合の良いように組替えられるのかもしれない。幻巣世界ならそれも有りだろう。
「あんな出鱈目な巨体なら挟み撃ちの可能性はあるって事か。でも攻撃パターンを見る限り、頭を使う事は忘れている気もするけど」
「………うん、私が突っ切ってみる。無限ループなら後ろが取れるかもしれないし。こっちはもうちょっとはもつでしょう?」
「君を信じる事ができればね」
「このまま押し込まれたら最悪どうしようも無いわよ。貴方の能力じゃ狭い場所で襲われたらパワーで押し負けるし、回避スペースが無ければ不利でしょう?」
「………む」
「その点、私なら多少ぶん殴られても致命傷にはならないし、狭い場所ならむしろ相手の手数が減って都合がいいわ」
「……クールだね」
人間離れしているのは今更。それに、そんな事は今考える事じゃない。
って言うか、もう考えるだけ無駄無駄無駄無駄。
「ま、普通の女子高生ならとっくの昔に死んでるわね」
実際、普通の女子高生はとっくの昔に死にましたが。
私の言葉に、彼は少し考えてから言葉を返した。
「僕が言いたいのは、まるで別人みたいだって事。人間だった頃の君は、少なくとも一般人とほとんど変わらない人間だった。でも今の君は、以前の君を感じさせながらも、吸血鬼になった事を差し引いても歴戦を潜り抜けた強者みたいな感じだ。………外見も、かなり変わったけれどね」
外見、か。
「そりゃ、色々とありましたから。変わりもするわよ。男子三日会わざれば、って言うでしょ。まして女は環境変化に強いのよ」
「目を覚ましてどのくらい経過している? 長くても二日。戦闘経験だって二度有るかどうかって所じゃないか」
………実戦。私の最初の実戦は今朝の屍者。まともに殺意ある攻撃を受けたのはついさっきである。
本能って事にしておこう。本能。吸血鬼の本能。絶対にそう。なんなら後でミナトに確認してもいい。
「………私を滅ぼすんでしょう? 簡単にやられないようにね」
返事は聞かなかった。今の私には必要無いし彼も答えなかった。
通路に飛び込んで、そのまま幅二メートル弱の路地を全速力で走る。
直線、直線、曲がり角無しの直線。曲がっている事も無く、左右に一度の狂いも無い一直線。上下の起伏もゼロ。
………それなのに、前に通路以外の物が見えない。先も不明。
「あっ」
大体一分程走ったところで、私は神経を逆撫でされるような感覚を覚えて脚を止めた。
距離で言えばざっと一キロ以上は走った。
しかし、振り返るとやはり通路。前も後ろも通路以外の物が何も見えない。どっちから来てどっちに向かうのかも視覚ではさっぱりだ。
「………分断された? いや、これは違う」
私を隔離するようなそんな芸当ができるなら最初からやっているだろう。
幻巣世界は一見何でも有りで事実その通りなのだが、幾つか重要な鉄則がある。
基本的には精神攻撃の具現化である事。精神系なので大概の事はできる代わりに、他の物に変更するような事はそう簡単ではない。
術式構築するのに普通は膨大な魔力か時間を必要とするのだが、それは極めて強固で不変な精神を持っていなくては不可能だ。
このノスフェラトゥの場合はおそらく後者。《穢れた月》が関わっているのは明白だろう。
ただ、本体があんな感じでは不安定な代物である事は間違い無い。多分、本人でも最低限のコントロールしかできなかった筈。元々暴走に近いみたいだから、それでも充分驚愕に値する。
では、今の状況は?
捩れた空間に道を繋げようとする意志みたいなものを感じる。ここに二つの意志が存在すると言うか、なんと言うか。幻巣世界に限ってそれはまず有り得ない筈なんだけど。
ピンときた。
って事は、外部から干渉している奴がいる?
そうだ。今世界内で二重干渉が起こっている。
一つはもちろんノスフェラトゥ。
もう一つは………ミナトか、それとも速飛? あるいは別の誰かか。
とにかくその干渉で別空間が発生し、何と言うタイミングの悪さか、私はそこに迷い込んでしまったらしい。
………でも、それならやり方はある。
頭が答えを弾き出すより早く、私は腕を壁に突っ込んでいた。
指先のイメージは光ファイバーでも光通信でもいい。要は必要な情報をそこから引っ張り出すイメージ。
そうだ。私にはできる。この結界内のルールを無視して二度も中に入ったのだから。
空間を開き、それを目的の場所に強制的に繋げる。それは、ん、リモコンでチャンネルを切り替えるくらいの認識に近い、かな。
空間を繋いで開く。
「よぉしっ! ビンゴぉ!」
飛び出したのはノスフェラトゥの真後ろ。明らかに目立つ、かつての面影を唯一残す頭部が残っている部分。
私の急な出現に対して、防御反応は出ない。私は迷わず光を放つ拳でグーを作り、振り下ろす形で右の光拳を叩き込んだ。
グシャッ!
………映研のメンバーで行った去年の海水浴で敢行した西瓜割りを思い出しちゃったよう。
西瓜をバットで叩き割ると、ちょーうどこんな感じになるのだ。
結構硬い皮と肉体を削り割り、縦に真っ二つにする程の一撃。
「GuuuuUUUUUuuuGyyuaaaaAAAAAッ!」
毒々しい赤い肉を外気に晒し、汁体液を周囲に撒き散らし、激痛による反射のように巨大な肉塊が激しくのたうち回っている。
…………手応え、有り!
暴れるノスフェラトゥの背中?を蹴って、私は彼が死守していた場所に舞い降りた。
「……お見事。ここまでとは」
「案外、すんなりいったね。これでここから出られ………げっ!」
目を疑った。激しく暴れていたノスフェラトゥの巨体の周囲が、ドロドロに溶け始めていたのだ。
「………幻巣世界が解除されている………訳じゃないな」
違う。
なぜって、巨体も一緒に溶けているからだ。それでいて体積が減っている風には見えない。むしろ………どんどん増えている?
「まさか……結界と同化……いや、取り込んでる? 嘘っ! だってそんな事したら………」
愕然とする。
いや、そうだ。なんでこんな単純な事に気が回らなかったのか。
そもそも、この幻巣世界内で姿を大きく変容させ意識も削っていたのは何故か?
間違い無く私たちがここに来る以前からコイツは結界と一体化を始めていた。
そして、私の一撃が最後の意識を吹き飛ばしたとしたら?
現在進行形で自分の世界を自身に取り込み肥大化を続ける。
そして、それが意味する事は………。
「逃げなっ………」
私が叫ぶよりも遥かに早く、彼の側の壁が巨大な不定形の鈍器に変化した。
もう腕と言う具体的な形すらない、ただの歪な塊。
幻巣世界内全てが、壁も地面もアイツの攻撃に変わるっ!
意識が消えるよりも早く出された攻撃コマンドが実行されたのだ。
ズグアンッ!
……………目の前で、砕けたり潰れたりする複合音がした。
彼の身体が、変な格好で空中に跳ね飛んだ。
………クラッシュダミーに物凄いスピードで車が突っ込むとあんな感じに飛ぶ。CG以前のカーアクション映画でよく使われたシーンが幾つも頭をよぎる。
(受け止めないとっ!)
壁にぶち当たれば衝撃で確実にバラバラになる。
しかも、今やこの空間は意識が無いとは言えアイツの攻撃衝動のままに変化する。追い打ちはもちろん、壁が凶器に変化しないとは断言できない。
思うよりも早く、足は地面を蹴っていた。
空中で更にUFO並の急角度空中制動をかけて、彼の身体を空中キャッチする。
………あ………。駄目だこりゃ。
抱いた腕の感触で、わかってしまった。
さっきの一撃は彼の身体にかなりの損壊を与えた。これはもう、ギリギリ助かるかどうかの絶対ライン上を大きく通り過ぎてしまっている。
「………ご……あ………ぅ……う」
意識が有る? 凄い。
………でも、眼光は虚ろで多分、目は見えていない。
「きゅ………け………つ……き………」
………何だって?
「くた………ばれ………」
彼の右手には短剣が握られたまま。
それが、最短ルートで私の身体の中心に刺し込まれた。更に力が込められ、彼の刃が私の身体を穿ち貫く。
「………なっ……がふっ」
血が一筋、私の身体を穿った刀身を伝い流れる。
酷い戦争で精神を研ぎ澄ませた者は、安全な場所に居ても忍び寄られたりした場合、反射で側に居た人間を攻撃してしまう事が有ると言う。
彼の場合も同じで、おそらく死ぬ方がマシな厳しい対吸血鬼戦闘の訓練を受け、反射でも戦えるようになった。
そして意識が吹き飛んだ時、一番単純に一番近い吸血鬼に一撃を叩き込んだ。
………そう、ただ、それだけの事。
*
………熱い。
アツイ。アツイアツイアツイアツイアツイアツイイイイイイイイイイイッ!
洒落にならないほど熱い。
世界が燃え果てるかと錯覚するような熱に、身体の中心から焼き尽くされていく。
だが、それも一瞬。
視界は白い輝きに染まって、意識が遠くに吹き飛んでしまいそう。
落ちているのか、それとも天に昇っているのかわからない。
手足はおろか、身体のどこにも感覚らしいものが無かった。
今はそんなものが有ると言う事すら理解できない。
………私は………何になるんだろう?
安らぎにも似た浮遊感に包まれながら、ふとそんな事を考える。
何処からか、それに答えるような言葉が聴こえた。
白い闇に浮かぶ、奇妙な幾何学の《門》が開き、全てを押し流していく。
………ああ、福音と言うものはきっとこんな感じなのだろうと、意識が消え果る寸前にそう思った。
4
「あれは………なんだ?」
結界から抜け出たと思われる二人のうち、陽凪詩絵里が消滅した、その直後だった。
空間を喰い破り溢れるように姿を現した、不定形でしかし無数の触腕らしき造形を幾つも生やした巨大な黒い塊に、さすがのルーベンも言葉を失っていた。
彼の長い経験にも記憶にも読み込んで来た東方教会の記録にも該当する物は存在しない。
それは世に許されざる悪夢の顕現だった。
だが、もう一体の傍観者にはすぐに事態が理解できたらしい。
『なるほどねえ。あれは自分の幻巣世界を取り込んで逆転したんだ。あれは結界と同じ性質を持った存在になった。もう普通の方法では倒す事はもちろん、傷を負わせる事も不可能だね。ある意味、窮極生物だよ』
「馬鹿なっ! そんな事をすれば自我を保つ事もできん筈だ。自我を失えば魔力供給ができず、術を維持する事も不可能な筈!」
究極の魔術と言っても差し支えない幻巣世界の展開と維持には相応の魔力を必要とするのだ。彼はその事をよく知っている。
『そう。幻巣世界の創造に失敗したり展開維持中に魔力が尽きたりすれば結界は消滅する。それを維持するには強靭な精神が要るって事も正しいよ。
まして自分に結界を取り込み逆転させれば意識はもちろん自我すら失われかねない。随って魔力供給もできない。魔力が無ければ維持できない。
正しいね。全て正しい。実際この逆転現象は君の言う通り無意味だ。………普通ならねえ』
《ミナトであり彼女ではないもの》は、そう言うと赤い脈動する天を指差した。
『でも、今宵は千夜に一度訪れる、全天を覆い侵す《穢れた月の夜》。
歪められた星の瞬きによって偽りの死を与えられた《穢れた月》が僅かにまどろみに戻る夜。
月に心を奪われた使徒たちがその祝福の中で一夜限りの力を漲らせる夜。
………わかるかな? 今のアレには《穢れた月》の力が無尽蔵に注ぎ込まれているんだ。
それだけじゃない。自我の無いアレは本能とすら呼べない膨張でどんどん拡大する。制限時間はあるけれど、一晩あれば充分この世界を崩壊させられる』
ルーベンは動かなかった。
眼下に展開する、世界を呑みこまんとする黒い巨塊に恐怖したのではない。彼は、もっと別な問題に背筋を震わせた。
『おや、動かないのかい。ゲオルグ・ルーベン?』
彼には眼下の怪物を屠る術が有る。
今ここでそれを行なわないのは何故か?
彼の直感が、経験が、認識が、魔力が、今はその時ではないと訴える。それこそが彼の身を震わせる意味だった。
答えは一つ。
「あの暴走した月の使徒を敵対者である貴様が野放しにする筈がない。にも関わらずここで傍観の姿勢を崩さないのは、貴様が動く理由が無いからだろう」
その解答に異なる世界の音色が笑う。
『ええ、その通り。あれはボクの役目じゃありませんから』
*
「何を呆けているっ! そいつを拾って、早く距離を取れっ!」
言われて、ようやく現実に戻りそれを実行した。
普段の彼女なら幾らでもクールであり続けられる。
しかし、その彼女のレベルをもってしても予想もできない展開とその展開スピードに、一瞬だが思考回路が麻痺してしまっていた。
「これは、一体どうなってるっ!」
剣也の身体を抱えて宙に飛び上がる。
眼下に広がる、黒いのたうつ腐敗の海はさっきまで彼女が居た場所もあっさりと覆い尽くしていた。
「コイツは逆転現象で自分の幻巣世界を取り込んで《穢れた月》の力で暴走した。この肉塊は結界とほぼ同質だ。普通の攻撃では通用しない………が、問題はそこじゃない!」
同じく空中に逃れた速飛が叫んだ。彼の表情に焦りが浮かぶ。
「放って置けとでも言うのか! この怪物が問題でなければなんだ! まさか、これ以上の何かが有ると言うのかっ?」
しかし、速飛はその問いには答えない。
焦りを隠そうともせず、更に叫ぶ。
「ああ………、もう時間が無いっ………離れろ! ここから離れろ! できる限りだっ!」
「何が…………何だ、アレは?」
それを、彼女の視線は捉えてしまった。
空中に陣取った二人よりも、僅かに高い位置に、光が集まっていた。
赫に支配された世界に、唯一輝く異質な光の集合球。
渦巻きながら光の粒子は形を作り出していく。
球から円柱へ、そして人型へとその形を粘土細工のようにはっきりと現世に現していく。
「再構築が始まったんだ」
「再構築、だと?」
………思い当たるのは唯一つ。
だが、それは否定したい事実だった。なぜならそれは、たった今、目の前で消滅したものなのだから。
しかし、人の形に完全に固定されたその姿は、つい一分前に灰になった筈の少女の形をしていた。
「………陽凪………詩絵里?」
違う。断じて違う。
確かに、それは灰になる前と同じ服装をしていた。
顔の造形も閉じられた瞳を除けばほぼ同じ。
僅かに残っていた黒髪が全て銀髪に変化したのもまだ許容範囲だろう。
だが、露出した肌に覗く一見タトゥー風のラインは、一体なんなのだ。
身体の内側や関節に縫い目の様に幾つも走りシャンパンゴールドの輝きを産むそれは、実は〝絵〟ではない。〝分割線〟だ。
………アレは、人間に全く関係の無い部品で組み上げられた、人の形をしたモノ。
近代美術が産んだ人体モチーフのグロテスク美術が秘める美の可能性、その延長線の果てにたぶん〝それ〟がある。
だが、人間の表情を失ったそれは、人の形を模した異形。
動脈の拍動の様に静かに金の輝きを瞬き零すラインが、微塵の星も無い赤い夜空に後光を描いている。
閉じられた双瞳が開き、一際異質に輝く《異界色の緑柱石》が現在に蘇る。
「………真祖………アストラギア」
速飛は己が主人の名を、恐怖と畏敬を潜ませた声で呟く。
「………あれが………真祖」
マリ亜ですら、そう呼ばれているものを初めて見た。
膨大な知識では理解していたつもりだった。
しかし今、想像を遥かに超える存在が目の前の中空に聖母像の如く佇む光景を見て、自分のその認識が………いや、多くの闇世界に属する人間たちが持つ共通認識が到底甘い物である事を思い知っていた。
吸血鬼は、ギリギリ生き物だ。
しかし、コレは違う。コレは全く別のモノだ。
圧倒的な力を内包させるそれそのものが一個の宇宙ではないかと思わせる。
人型をしている事がむしろおかしいと思えるほどだ。
【神】
あるいは、人類史に刻み込まれたそれらは、彼女の姿を見た人々の作り上げた哀しい妄想だったのかもしれない。
在る者は希望を。在る者は絶望を。
しかしそのどちらも彼の者の本質とは大きく懸け離れている。
「ああ、《穢れた月》を滅ぼす事を目的として、幾度となく人類史に刻まれた真祖。あれが俺の主人、真祖アストラギアだ」
マリ亜の中に得体の知れない真っ黒な色を持つ感情が湧き上がる。
それは彼女のような人種が絶対に感じてはいけない感情だった。
………………その正体は絶対的な〝恐怖〟。
怖れは戦う者にとっては妨げにしかならない。
それを感じないように精神防御を施している筈の彼女の身体が、恐怖と言う枷で動きを失った。
背筋が凍えるとか、恐れとか、そんな生易しい気分ではない。あの瞳で二秒見つめられたら発狂してしまうかもしれない。
多くの吸血鬼と戦い、世界最強の軍隊よりも遥かに死線をくぐり抜けて来た彼女ですら、そう思う。
………いいや。
アレを目の前にしてはもうそんな物はステイタスにはならない。全くレベルが異なる、と言うか次元が違う。無理に喩えるなら、自分は蟻で向こうは太陽。
辛うじて生きている本能はさっきから逃避コマンドを連打している。それでも、身体は動かない。
途方もない未知と、そして呆れるほど強大な存在への潜在的な恐怖が防御を無視して精神を蝕んでくる。
緑柱石の双眸がゆっくりと流れるように視線を眼下に移す。
蠢く黒い巨塊を目に留めたそれは、右手を軽く振って指先から無数のシャンパンゴールドの飛沫を飛び散らせた。
飛沫は宙に舞い散り、ささやかな輝きをちらつかせながら、地面の上で目的も無く蠢く黒い塊を包むように細かな光を零す。
だが、次の瞬間。
宙に舞う全ての飛沫が円錐状の巨大な馬上槍を思わせる円錐状の光塊に姿を変え、下に居た黒い巨塊に次々と突き刺さった。
「な…………ッ!」
驚愕が彼女を支配する。
光の槍は矢継ぎ早に全方位から打ち込まれ、生半可な方法ではダメージも与えられないと言われた黒い巨塊が、肉体を貫く槍によって完全に動きを封じられていた。
絶叫も無く、暴れるような行動もないが、確実にその存在にダメージは積み重ねられている。
光の槍は、まるでイレイサーをかけるようにノスフェラトゥだったモノを無慈悲に削っていく。
やがて、貫いた無数の槍はそれを封じ込めるような光の球体状に変化し、アストラギアが振り下ろしていた右手を軽く握る儀式的な動作と共にそこに居たモノは光に呑みこまれ、ゼロに変わった。
「………馬鹿な」
息をする事すら忘れるほどの光景。時間にすれば三十秒もなかったかもしれない。
しかし、人間と言う矮小な存在から見たそれは、天地創造にも匹敵する圧倒的な力だった。
彼女が息を吐くよりも早く、対処不可能と思われた黒い巨塊は完全に世界から消滅した。
*
………言葉が出ない。
何をどうやったのか。世界に干渉する呪文も魔力の発動も何も無い。
それは全く異なる力の発現と言う事実。
つまり最早彼女が理解可能な存在ではないと言う事。
全てが終わった場所は、呆気無いほど閑散としていた。戦いの跡すら捜すのは困難なほど普通のグラウンドが広がるだけだ。
………いや、あれは戦いなどではなかった。一方的な凌虐ですらない。喩えるなら恒星に飲み込まれた宇宙塵のようなもの。
余りにも彼我差が大き過ぎて、理解する事ができない。
「………相変わらず、圧倒的な事だ」
「………団長?」
何時の間にか、控えていた筈のゲオルグ・ルーベンがグラウンドの中心部近く、黒い巨塊が消滅した場所からそう遠くない位置に姿を現していた。
「………ゲオルグ・ルーベン………。やはり、生き延びていたのか。いや、アストラギアを討ち倒そうなどと考える奴など、貴様くらいだものな」
速飛がルーベンを睨んでそう言った。
「………団長を、知っているのか?」
「顔を見るのは二百五十六年ぶりか。………ほとんど変わりないな。当たり前か」
「………二百五十六年、だと?」
あってはならない時間に、二の句が継げない。
「ああ、こいつは二百五十六年前、第十二聖衛騎士団を率いてアストラギア討伐と言う暴走を引き起こした。だが、喩え千人注ぎ込もうと不可能を可能にする事はできない。故に、どう言う戦術を使ったと思う?」
(………無理だ。どんな戦術を実行しようと、不可能を可能にする兵法など無い)
一兵で千騎を攻略する兵法など無い。
想像すらできない圧倒的な戦力差の前では兵法など役に立たない事は一目瞭然だ。
「部下十二人を全て殉教自爆させたのさ。正確には、十二人がそれぞれを連鎖誘爆させるように組まれた、一種の結界式術法だがな。もちろん失敗した。その後、自身を吸血鬼に変えたと言う事か。落ちる所まで落ちたな」
「そんな馬鹿なっ! そんな事が許される訳が」
驚きと怒りが向けられたのは、部下を殺した事にではない。そんなのは日常茶飯事だ。
彼女の憤りは、自分たちの存在意義を揺るがせる行為に対してだった。
「驚くに値する話じゃない。東方教会は目的の為に手段は選ばない。化け物を組織に組み込み、異端の魔術だろうと出自不明の技術だろうと使える物は使う。自身を滅ぼすべき対象に変える事すら必要となれば実行する。ゲオルグ・ルーベンはその狂気の典型に過ぎない」
ルーベンから否定する言葉は出ない。
本来ならば最大級の侮蔑であろう話にも、眉一つ動かさない。
それは肯定と言う意味であると理解した彼女に、怒りと言う炎が湧き起こった。
「私は………私たちは彼女が《月の使徒》だと聞かされていたっ! 人に仇為す存在であると。だが、事実は違う。彼女は《真祖》だった。しかも、貴方はそれを承知の上で私たちに指示を出した」
周到な仕掛けを用意してきた。
自分が教師として赴任したのも、専属従士に彼氏を演じさせたのも、全て指示通りだった。
確かに時間をかけ過ぎると言う思いはあったが、命令であると割り切っていた。
結果として、彼女は不完全な覚醒を経る事になる。
「我々は所詮異端者だ。信仰など一片も無くただ己の信念に殉じるだけだ。だが、それ故に侵してはならない一線がある! 過ちならまだいい。しかし、わかっていて敵ならざる者と戦えと言うのは彼らの魂への冒涜だ!」
東方教会は吸血鬼を処分する為にその何十倍の人間を纏めて殺す事もある。その非人道的行為は軍隊の比ではない。
しかし、だからこそ人間としての最後の誇りを持って命を賭ける。ルーベンの行為は、それらの魂を汚すように彼女は思えた。
「何も問題は無い。人間の世界には真祖も不要なのだよ。特に、アストラギアは間接的に人類に害を与える存在だ。
真実とは人間に残酷にできている。知る者は妄想に逃げるか、狂気に身を委ねるか、生を捨てるしかない」
穏やかにルーベンは言葉を紡ぐ。
それは、まるで教会に集まる民に施す説教だった。全く揺るぎの無い信仰に支えられ、正しさと言う幻想を孕む言葉。
だが、彼のそれはもっと鋭く、歪さを含んでいる。
「残酷な、真実?」
「書に曰く『この世界は唯一なる主の手によって創造された。主はあらゆるものを創り、最後に最初の人間を造った』。喜ぶべき事に、これは間違い無く真実だ。
しかし憂える事に、世界と我々を創造した神とは我々が妄想する博愛と寛容に満ちた存在でもなければ、異教徒を殲滅し新たなる千年王国を築く存在でもない。
………見るがいい。あれこそが、我々を創造した《神》なのだ!」
ルーベンは右腕を天に伸ばし、その中心を指差した。
《穢れた月》
天空の玉座に佇み、赤く侵し腐敗を広げ支配する異形の王。
「………なっ………」
「信じられない事を責めはしない。理解したくない気持ちもわかる。多くの者は幸運にも真実に触れる事すらなく幸せな惰眠の中で一生を終える。
また、偶然辿り着いた者も、その多くはそれぞれが信じる妄想の名の元に否定する。真実を受け止めるよりも、妄想の楽園を信じる方がずっと容易く幸福だからだ。自身が創造主に愛される存在だと思い込む事が救いだからだ。
だが、真実は小賢しいまやかしで変質する事はない。冷ややかに、ただ冷ややかに存在する。そこには一切の慈愛も救済も存在しない。そして、神は死んだと嘯く事も許されないし、自立する事も、戦う事もできない」
その否定は、人間が持つ何もかもを否定するに等しい。
「なぜか? 否定する事で裁きを受ける訳ではない。ただ、我々人類も、動物も、草木地水に到るまで、《穢れた月》の仮死の眠りによって生み出された幻巣世界の住人に過ぎないからだ。さあ、この意味がわかるかね?」
否定する一言も出せない話だった。
世界を丸ごと想像する。
仮にそれが真実だとするならば、戦う事はもちろん、どこにも逃げる道は無い、と言う事だ。
ゲームのキャラクターはゲームの外には出られないのだから。
「エデンから追われたアダムとイヴはそれでも新しい場所で生きる事ができた。しかし、幻巣世界内の虚ろな住人である我々は、あの《穢れた月》の眠りによって存在する。
故に、我々が存在し続ける為には《穢れた月》が眠り続けなければならない。復活を企む月の使徒は確かに人類の敵だ。しかし、《穢れた月》を滅ぼさんとする真祖もまた人類の存在を揺るがす敵なのだ。滑稽な事に、我々は目覚めさせようとする月の使徒と戦い、また《穢れた月》を滅びから守らなくてはならない。
………信じる事もできないかもしれない。信じたいとも思わないだろう。だが、これが紛う事無き真実なのだ」
淡々と語るルーベンに感情は無かった。達観と言う雰囲気さえ滲んでいる。
「おまえは狂っている」と言うのは容易いだろうし、気も楽だ。
だが、マリ亜の横にいる速飛もルーベンの言葉に否定を入れない。彼女よりも真実に近い筈の速飛がそう言う態度なのは、否定する理由も必要も無いからだろう。
残酷な真実。
想定外の事実の奔流で処理能力が落ちていた頭が、ようやく理解に到った。
人間は自分たちの存在を守る為に、自分たちに害を与えるだけの存在を存続させ続けなければならないのだ。
歪で無秩序な混沌こそ世界の真実の姿。
………いや、残酷と言う言葉は最早当て嵌まらない。
余りに次元の違い過ぎるそこには意志の疎通など起こらない。意志の疎通が無い間柄に残酷と言う概念は適当ではないのだ。
運命と言う不確かな物に『残酷』と言う言葉を当てるのは、人間の驕りと傲慢に過ぎない。
「離れるぞ。俺たちにできる事は………もう何も無い」
速飛がそう呟いた。
「………くっ」
理性も何もかも投げ出して暴れでもすれば気も休まるかもしれない。
だが、彼女に残る理性がそれを押し留める。何より腕の中に抱える少年の存在を投げ出さない為にも、ここが退く最後のタイミングだった。
それに、ルーベンがここに来たと言う事は、彼が戦う事を意味している。その巻添えになる事だけは避けなくてはならなかった。
ルーベン自身も、すでにマリ亜に視線を向けてはいなかった。
彼が表情を崩さずに睨むのは、空中に漂ったままのアストラギアだ。
彼は空中に飛び上がると、宙を踏みアストラギアと相対する。
「運命か戯事か。あの夜と同じ《穢れた月の夜》か。………貴様を滅ぼす事はできん。しかし、今一度眠りに着かせる事は不可能では無い。二百年の月日で練り上げた、我が力を受けるがいい」
ルーベンがコードによって、自身の切り札であるその術式を展開させた。
爆発に似た魔力の噴出。一気に世界を塗り変える。
そして彼を中心に、半径百メートル。グラウンドのほとんどが炎に包まれた。
「うおっ! 何だと? これは、《幻巣世界》か?」
ギリギリで効果範囲を逃れた速飛の額にも冷や汗が伝う。
熱を感じたからではない。彼の本能に近い魔力感知が、目の前で展開されている秘術の危険性を察知したのだ。
「………ああ。これが第十二聖衛騎士団団長《業火王》ゲオルグ・ルーベンの幻巣世界。《火龍山水》だ。この炎の世界は敵味方に関係無く精神に対して数万度の炎を認識させる。命のみを焼く、正に業火だ」
天も、地面も、草木も、全てが炎に包まれている。
………否。炎で形作られているのだ。
石と砂と僅かな樹木で世界を表現する庭園を作る枯れ山水のように、炎の樹、火の粉の吹雪、焔の川、熱の風、ここでは全てを炎で作り上げる。
「霊的な精神防御耐性を持たない者では一瞬で灼き尽くされる。訓練を積んだ者でも、立っているだけで徐々に焼かれ完全に防ぎ続ける事はできない。私やお前でも、もって十数分と言ったところだ。巻き込まれて無事な者など、世界中捜しても皆無の筈」
「………考えたな」
「何?」
「万が一、彼女に明確なダメージを与える方法が有るとすれば、莫大な霊圧をかけるしかない。エネルギーを集中させる訳だ。前は実力のある部下を誘爆させてその場を造った。
今度はそれを自分の幻巣世界で実行するつもりだ。炎のイメージは純粋にエネルギーとして捉え易い。単純な話だが効果はある」
(………執念だ)
ただ一つの目的の為だけに、自分自身を最も唾棄する存在に変え、二百年以上の年月を費やした人間の、執念の炎が渦巻いている。
「本来なら人間とは意志を繋げるものだ。子に、弟子に、技と思想を伝えていく。だが、あいつが選んだ道は生き延びる為と魔力を得る道。それで吸血鬼になる事を選んだ訳か。人間としては狂っているが、合理的な話だ」
そう。
真実を知り尚立ち向かう者は狂うしかないのだ。
本人がそう言っていたではないか。
*
『……ふうん、対真祖用に練り上げられた幻巣世界か。大した物だねえ』
もう一体の傍観者が、眼下に展開する炎一色の庭園を愛でている。地獄絵図と言ってもいい皆炎の世界には、ただ二人だけが立っている。
《ミナトであり彼女ではないもの》はその光景を面白そうに笑いながら眺めていた。
実際、威力は凄まじいの一言に尽きる。
アストラギアの身体に、渦巻く炎が意志を持って襲い掛かり、絡み付いて発火する。その火はすぐに消えるが、四肢のいずれかにまた炎が取り付いて燃え上がる。
炎しかない世界、全てが焔で作られた世界。
《穢れた月の夜》の赤い世界の中で、静かに燃え盛る小さな世界。 それは健闘という言葉では評価が足りないほどの戦いだった。
ルーベンの右手が高々と上げられる。そうすると、焔の池が渦を巻き上げて爆発的な紅炎を吐き出し、それは空中に舞う火の粉を呑み込み、一匹の火龍を現出させた。
放たれた火龍はアストラギアの周囲をまるで球を作る様に渦巻き回転し、更に圧力を上昇させる。
『あれは切り札ってところかな。………でも、彼女が相手じゃあ壊されちゃうんだろうね』
火龍の顎がアストラギアの右手を焼き砕いた。
しかし、その腕はすぐに光の粒子が集まって元通りに再生してしまう。彼女も右腕が砕けた事に気付いてもいない。
『さあて、善戦もここまでかな』
《ミナトであり彼女ではないもの》は自らの周囲に一息で防御結界を張った。
呪文も下準備も無く作られたそれは強度だけではなく動作からも、心得のある者が見れば度肝を抜かれるだろう行為である。
その中で、眼下の戦いの終局を想像する。
『絶望の中で尚その教えを魂に抱くならば幸運に思うがいい。
彼女は真祖にして神祖。
遥か昔、古代の民が見た神の幻影こそ彼女。
あるいは彼女を見て妄想の絶対者の存在を人間は認識した。
故に君は今、正しく最後の審判の前にいるんだよ』
冷たく透き通る嘲笑が、虚空に流れ消えていく。
*
小さな焔の世界に二つの人影が並ぶ。
ゲオルグ・ルーベンの視線は、始まりから今までアストラギアから外れていない。
僅かな瞬きが生死を分ける相手だと言う事もあるが、理由はそれだけではない。
二百五十六年前に一度相対した時から、彼の瞳は常に彼女の存在を見てきた。
幾度かの生死の狭間を渡る激戦をくぐり抜けながらも、彼女を打ち滅ぼす事を片時も忘れる事無く、彼は存在し続けた。
幻巣世界の習得も厳しいが、それを展開し維持するのも決して楽ではない。強力であればあるほど消耗は激しく、時間の経過と共に維持は困難になっていく。
この秘術が最高級の物でありながら人間の中でほとんど使われない最大の理由である。人間の肉体では行使する為の容量が圧倒的に足りないのだ。
一方のアストラギアは僅かたりとも動いてはいなかった。
先程黒い巨塊を消滅させた力も発動しない。尚も自らの周囲を回る火龍に手足を砕かれても意に介さない。
実際、本当にダメージを与えているか、全くわからない。
戦場に於いては常だが、彼ほどの者であっても人智を超えた戦いに不安が無い筈がない。
「………なぜ、動かない。あれだけの芸当をしておきながら未だ覚醒していない訳ではないだろうに」
それは別に答えを期待したものではなかった。状況から出てしまった独り言である。
それなのに、驚くべき事にその問い掛けに彼女が反応した。
「月の使徒ではない貴方が戦う理由はなんですか」
一瞬冷や汗をかく。他愛ない筈の言葉だけで精神が揺すられる。
「………先程言ったつもりだが。まさか貴様の耳に届かない筈があるまい」
「その役割も終焉に近付いています」
抑揚の無い美しい音色が、悪夢的な真実の旋律を紡ぐ。
意味は理解できた。
だが、受け入れる事は困難な事実。
それは彼にとって最大級の悪夢だった。
彼が費やしてきた覚悟と時間と犠牲のほとんどが水泡に帰す答えである。言ってみれば存在の否定に等しい。
「それを………それを信じろと言うのか! この身命を賭したものは、全て道化だったと受け入れろと」
「それは貴方が決める事。真実を知る事が正しいとは限りません。しかし、貴方は真実を得る事を選んだ。自らを優位と定める為に。全てを肯定させる免罪符にする為に。だから、貴方は真実を受け入れる義務がある」
己に都合の良い事だけを正しいとするのは人間の常。
しかしそれは所詮人間のちっぽけな理屈に過ぎず、運命はいずれそのツケを払わせる。
「………所詮、我々は道化か。だが、元よりここまで汚した以上惜しい命でもない。本懐と定めた以上は結果を出す」
戦う意味は既に無い。
それでも、ルーベンは退かなかった。退く意味すらも奪われたのだから。そこに居るのはただ老醜を晒した道化だった。
「そうですか。ならば、私も貴方に真実を贈りましょう。私と言う《外世界種》の事を」
《火龍山水》が展開してから初めて彼女が動きを見せた。
「なにっ?」
その行為は、さすがのルーベンすら唖然とさせるに充分だった。
アストラギアの両手の指が付根まで自らの胸元の正中線に差し込まれ、まるで観音開きの扉を開くように、胸の肉を軋ませてその身体を割り開いた。
「…………なっ!」
世界の真実を知り、魔術の奥義を極めたと言われ、二百八十年以上を生き続けた吸血鬼が、おそらく彼の生涯でも一度たりとも表した事の無い恐怖の表情で固まった。
その視線は、十センチほど割り開かれたアストラギアの身体にできた隙間、淡い金色に輝く肉の門の彼方。その更に深淵を凝視して動かない。
「なんだっ! 馬鹿な、それは一体なんだっ!」
その叫びには、ただひたすらに未知なるものへの恐怖だけが彩色されていた。
「私の幻巣世界《虚空回廊》。
深淵の底より彼方なる虚空に繋がる場所。
ただし、これは私の本体を封じ込める為だけのもの。私の本体はその更に奥にある《無限転輪》。
ただ、残念ながらそれ自体を貴方に見せる事はできません《無限転輪》が放つ無尽光を外界に漏らさない為に、《虚空回廊》と、この世界に準じる仮初めの外装で覆っているのです。
そして、この身体を割るのは、かつて月の使徒の祭壇となった高き塔を砕いた時以来となります」
惑う衆生に差し伸べられた観世音の両腕のように、アストラギアの腕は開かれる。
僅かに背が弓形に反り、奥に有る〝何か〟が外れ、その力が世界に漏れ弾ける。
光、光、光、光、光、光、光、光、光光、光光光光、光光光光光光光光、光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光光
「うおおおおああああああああああああああああアアアアアアっ!!」
恐怖に身動きどころか持ちうる有りとあらゆるモノを奪われたゲオルグ・ルーベンは、アストラギアの身体から噴出した天をも切り裂かんとする無限の光で形作られた大剣に包まれて、小さな世界ごと文字通り全てを塵すら残らないほどに吹き飛ばされた。
光の剣は赫く蠢く天空のキャンバスに、一筋の黄金の斬撃跡を描き消えていく。
後には何も残らない。
傍観者たちの視線の先には、全てが始まる前と何ら変わらない光景が広がる。
まるで夢だったのではないかと思えるほどに、一切の痕跡がそこにはない。
その中心に居るアストラギアだけが、この悪夢を現実と認識させる唯一の存在だった。
*
「………あれが、アストラギアだ」
一部始終を見届けた速飛が、そう呟きを漏らした。
隣に居たマリ亜に話すと言うよりは、まるで彼自身に再認識させる言い方だった。
「真祖とは………あれほどまでの存在なのか」
「超越した存在。圧倒的な破壊力。アレを形容する言葉は多く、しかしそのどれもが表現に足るとは言い難い。
………人間が、吸血鬼が、化け物が束になってもアレをどうにかするなど不可能だ。俺も東方教会に居た時、戦いを仕掛けてくたばりかけた事がある。アレは、人間が関わるには無謀な存在なんだ」
「………二百五十六年前は上手くいったんじゃないのか?」
疑問。二百年以上の入念な準備を経て挑んだルーベンが一瞬で滅ぼされたのはどう言う事なのか。
「根本的な勘違いって事だ。いや、思い込みか。
アストラギアの活動時間は不定期で、休息期間がある。
正確に言えば、アレは『自分』を、時間を越えた世界に転送する真祖だ。前回はヨーロッパの田舎貴族のメイドで、今回は日本の地方都市の女子高生だった。
ルーベンの勘違いは、たまたまその終了間際に攻撃が重なったからだ。あの時注ぎ込まれた騎士は全員犬死だった。
いや、結果だけはルーベンが望んだものを引いた訳だから使命を全うしたとは言えるんだろうが………」
所詮自己満足に過ぎず、その事がルーベンの人生を狂わせた。
「………あの時も俺はそんな馬鹿な死を出したくはなかった。アストラギアに関わらせたくはなかった。その為に、俺は何もかも捨てたんだがな」
ルーベンが二百五十六年を注ぎ込んだ理念は、基本計算の時点で間違っていた。
結果としては、彼もまた真祖と言う超越体に人生を振り回された、矮小な存在だった。
天空には地上でもがき苦しむ人間たちを見下ろす《穢れた月》が、静かに、だが確実に蠢いている。
五月八日の《穢れた月の夜》の狂宴は、世界と人間に多くの爪痕を刻み付け、幕を下ろした。
世界は驚くほど呆気なく、狂乱の夜を忘却の彼方へと押しやり、平穏の蜜に心身を浸す。
しかし、一部の者たちは気付いている。その平穏が最終幕に向けてのただの幕間に過ぎない事を。
次に幕が上がった時が、最後の舞台になる事を。
そして、それは誰の想像も裏切るほど早く訪れる事を。