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穢れた月の夜に  作者: 山和平
4/6

第三章 『現実(リアル)』と言う名の幻想郷(ドラマ)

   1


「お待ちしておりました」

 成田空港のロビーに現れた長身痩躯の神父ゲオルグ・ルーベンを一人の女が出迎えた。

 女は年齢二十代後半。ブルネットのロングヘアに黒のパンツスーツに身を固め、サングラスをかけていた。

 一見するとどこにでもいるようなオフィスレディにも見えるが、女の身体は胸元からヒップ、脚部に至るまで充分な成熟を匂わせながらも引き締まったラインを描いている。

 周囲の男たちの目を思わず釘付けにしてしまう雰囲気。グラビアなどでしかお目にかかれないような、居る所には居るド級美女。

 しかしそれほどの雰囲気を発しながら誰も彼女に声をかけない。

 もちろんここは繁華街のような浮ついた雰囲気は無いのだが、それでもこれだけの人が居ながら誰も彼女に近付かない。それは、彼女が纏うオーラに気圧されていたからだった。

 そんな女性と長身の神父が並ぶと、更に人を近寄らせない一種異様な空間ができあがる。

 だが、一方で不思議な事に、多くの人間がその組み合わせに対し違和感を覚えるような事はなかった。

「ニューヨークの件は如何でしたか?」

 僅かに感嘆を押さえながら、彼女は隣を歩きながら質問した。

 昨日連絡を入れて半日も経たずにここに居るだけでも普通の人間から離れた芸当だが、ルーベンは昨日ニューヨークでの地下鉄事件に当たっていたのだ。その事件を片付けてここに来たのは間違いなかった。その仕事の早さと行動力には彼女も感嘆を覚えたのだ。

「運が悪かったと言えばそれまでだが、犠牲が表向き二十人程度なら安いものだ。《穢れた月》を奉じるコミュニティの総人数は軽く五百を超えるからな」

 それは、本来の食糧的な意味合いでは少な過ぎると暗に言っているのだ。


 食屍鬼が《穢れた月》を奉じる事はずっと以前からよく知られる事だった。

 昨日のニューヨークでの事件も食糧調達と言うよりも奉納儀式への供物調達の意味合いが強い。

 そして、この展開はニューヨークに限った話ではなかった。

 ここ数日でアジアでは東京や北京、ヨーロッパではロンドン・パリ・ローマ・ベルリン。

 世界各地の大都市の地下で、食屍鬼の仕業と思われる事故や大量失踪が発生していた。


「全十二の東方教会聖衛騎士団、団長を含む聖衛騎士百五十六名と従士約五百名がフル稼働だ。更に、我々以外の世界中の組織が戦力を費やしても尚、手に余る状況が続いている」

 東方教会は古くから対吸血鬼を中心にした機関だが、吸血鬼と似たような場所を好む食屍鬼も遥か古から討伐対象になっている。守備範囲の拡大は自然な流れだった筈だ。

 しかし吸血鬼に比べれば食屍鬼は遥かに与し易い相手だ。

 人間レベル以上の知能を持ち、超人的な身体能力に加え、魔術能力を保有する者も珍しくない吸血鬼を倒すのは現在でも非常に困難だが、食屍鬼の身体能力はせいぜい人間の一流格闘家程度であり、長寿な者を除けば魔術要素もほとんど無い。

 もっとも、食屍鬼で最も脅威な点はその群れを為す点にある。

 場合にもよるが、一度に十体以上を相手にするのも珍しくはない。しかも相手は人間並みの知能が有り、狩りの為の罠や作戦を持っている場合もある。

 今回の同時多発事件のほとんどが計画的だった。東方教会では食屍鬼は従士の実戦訓練には恰好の相手ではあるが、油断していれば逆に連中の餌になる事も普通にある。

「奴らの儀式を強襲するには絶好の機会ではありませんか?」

「いや、今回はニューヨークに私が一番近かった為指揮を取ったが、我が第十二聖衛騎士団は単独戦闘を得意とする者ばかりだからな。リヴァーバンクスに居た第六聖衛騎士団に全権委譲してきた。あちらは集団強襲が得意だからな。食屍鬼相手にはベストだ。我々は予定通りこちらに集中する」

「それにしても………まさか団長自らこちらにいらっしゃるとは」

 各聖衛騎士団における団長は確かに騎士筆頭であり、しかも立場上全員が聖衛騎士からの叩き上げでその実力は保証されている。

 だが、多くの場合は本部から指示を送るパターンだ。ニューヨークの時のように政治のトップと会談する為に動く事はあるが、戦う為だけの最前線に出るのは極めて特殊だ。

 裏を返せば、第十二聖衛騎士団にとってこの作戦の重要度が非常に高い事を示している事にもなる。

「この計画に失敗は許されん。無価値な敗北こそ罪悪だ。扇台市までの時間は?」

「およそ一時間あれば充分かと」

 二人はそのまま特別ヘリポートの方に回る。そこでは連絡を受けていたヘリが出発準備を整えていた。空港から目的地に最も早く着くための手段だった。

 何から何まで特別だがそれも当然。何しろ彼がどうやって成田まで従来の半分近い高速で到着できたのかを語れば理解も速い。

 答えは米空軍のジェット機をハワイまで使い、そこから成田までチャーター機を飛ばしたのだ。片道で世界旅行が二回はできる費用もさる事ながら、それを通すには社会的信用と強制力が必要だった。

 第十二聖衛騎士団団長ゲオルグ・ルーベンとは、そう言う人物なのだ。

 女性は自ら操縦席に乗り込み、手馴れた動作で計器を確認。その後、無線用のヘッドギアを着け、操縦管を握り発進を告げる。

「では、マスター・グリフォン。詳しい状況を聞こう」

 飛行が安定したところで、ルーベンから状況確認が来た。彼女自身がパイロットを務めるのも機密の会話を行なう為だった。そう言う意味でもヘリコプターは丁度良い移動手段であると言える。

「今朝早く、覚醒した彼女は地下排水道に逃走。事実上ロストしています。私の専属従士が追っていますが、妨害が入り一度退いたと」

「妨害?」

「正体は不明です。先日まで白輝速飛と名乗り暁月学園に所属していました。………私の不覚です。おそらくですが、従者ではないかと」

「………なるほど。退いたのは良い判断だ。将来有望な従士を犬死させるのは大きな損失だからな。戦況の冷静な判断は重要だ。良い教育をしている。………他には?」

「現在、探査部隊を複数編成し調査に入っています。また、数日前からノスフェラトゥと思われる怪物が街に潜み、住人を捕食しています。現在九名が犠牲になったと推測されます」

 本来ならば、日本の都市部で起こった事件は日本の組織機関が動くのが基本姿勢である。一応協力関係を築いている東方教会は今回できる限りの情報提供を行なったが、日本側はまだ動きを見せていなかった。

 否、動きたくとも動けないのだ。

「非公式ですが、委任状が手配されました。彼女に対応する事については好都合ですが」

「日本側が動けないのもおそらく《穢れた月》の影響だな。彼の者を奉じるのは食屍鬼だけではない。異形はもちろん、人にも居る。日本だけの話ではないが、厄介な話だ。それで、ノスフェラトゥの位置特定は?」

「アリジゴクトラップ型の幻巣世界を有しているらしく、市街地に居ると思われる以外は手懸りがありません。索敵には予言級の高度な探知能力が必要です。更に幻巣世界を破るには専門部隊が必要と考えられます」

 予言は現代でも尚、奇跡の一端である。世界中を見渡しても保有が確認されている人材は極めて少ない。また、その多くが発現に特殊条件を必要とする為、実戦にほとんど対応できないと言うデメリットがある。予知夢程度では戦闘には使えないのである。

「そうか。さすがにそれは簡単には手配できんな」

 一応東方教会内にも何人かいるが、それは全て東方教会枢機卿の直轄で、団長であるルーベンと言えども今日明日の緊急の手配は無理だろう。

「日本には数人いるそうですが、全員手が塞がっているそうです」

「仕方あるまい。この一週間、世界中どこも似たような状況だ。とにかく我々が優先するべき事は彼女の阻止だ」

「了解しました」

 ヘリコプターは高速で扇台へと一直線に飛ぶ。


   2


(馬鹿だ)

 そう冷静につっこむ無数の自分がいる。

 何が馬鹿かと言えば、今速飛の置かれている状況についてだ。

 彼の使命は彼女との合流、その後安全圏まで脱出。それ以降は後で決める。それが役割であると言うのに。

(見失った………)

 方法は幾らでもあったし状況も好都合だった。

 それなのに彼女は今彼の手元には居ない。これでは無能だと言われても反論できない。

 さっき遭遇したグリフォンの従士の方がまだマシだ。彼はクールで任務を忠実にこなしていた。

 東方教会にいるのは狂信者と復讐者だけだ。本来狂信が待つ運命は短命。

 そんな組織が千年以上も継続し実力派と名を通しているのは、彼らの持つ常識外れの精神力に他ならない。

 彼女がこの排水道に入ったのは間違い無い。突入した破壊の跡は確かにあった。

 問題はそれから随分と時間が経過している事と、合流ポイントを指定しなかった事だ。

 ついでに言うと彼女が想像を越えて優秀だったと言う事もある。

 これではどうしようもない。

「………夜までは待てない。いや、何事も無く夜になれば発見も容易だろうが………無理だな。あいつらなら見付けるだろう」

 今回の襲撃で実際にわかった事がある。

 それは、東方教会聖衛騎士団の一隊がかなりの人数を注ぎ込んで全力で彼女を狙っている事。これは彼の想像していた以上の規模だった。

「取り返しがつかない事になる前に、何とか押さえたいんだが………な」

 ………取り返しがつかない事とは?

 言うまでもない。

 今、状況は危ういバランスで成り立っている。それが崩れた時、最悪この街が吹き飛んでもおかしくはなかった。

(そうなったら、俺は何の為にこの役割に殉じたのかわからん)

 憎悪を捨てた日から数百年の長い時を、ただひたすらに業を積み重ね、慎重に慎重を重ね、時に道化と蔑まされ、時に悪魔と忌み嫌われ、そうまでして選んだ道だった。

(………ふん。あいつのように何でも仕事だと割り切れればいいんだが、まったく、長く生きると積み重ねた物を崩せなくなる。………だが、これが俺のプライドだ)

 広大な排水路の中を何の手懸りも無くうろつくのは時間の無駄だ。

 頭の中に地図を描く。この地下排水道の大体の造りは調べてあった。戦略上重要な場所になるだろうと目を付けていたのだ。

 とにかく、どの道を遡ろうと浄化施設の区域に入る。そこから先に侵入するのはリスクが高い。下手を打って騒ぎを起こせば位置を発見されてしまうだろう。

 だから、そこで一度地上に出る可能性が高い。

 彼女は状況を冷静に把握できる。ここがいつまでも安全ではない事など最初からわかっている筈だ。時間が経てば、周囲を包囲されるのは目に見えている。それを想像できないほど愚鈍ではない。

 しかし、まだ日は高い。彼女は朝日に過敏な反応をしていた。日光下に出る事はまず無い。日没まで逃げ切るには一工夫必要になるだろう。

(………探知するしかないな。たぶん、まだ地下にいる筈だ)

 ………………命を削るぞ?

 声にならぬ言葉が、身体の中に巣食う混沌の向こうから湧き上がる。

「それも………元より承知の上だ」

 自分に言われなくともわかっている。他ならぬ自分の事なのだから。

 右手を前に突き出し、自らの中に澱む《閉鎖混沌へいさこんとん》から6‐1‐3でコードを拾い発動をかける。

 僅かコンマ数秒。

 突き出された速飛の右手の指先が沸騰しているかの如く泡立ち始めた。それは恐ろしい速さで腕に伝播し、やがて右腕全体がボコボコと沸騰する液状の不定形物体に変質する。

 地面に垂れ落ちないのが不思議なほど、それは重力を無視して形を万化させていた。

「まったく、相変わらずキツイ術だ。コイツを喚ぶのはな。………さあ行け!」

 左手の手刀で右肩の付根から斬り外し、水面に落ちた奉仕種族に追跡をコマンドする。沸き立つ肉塊は命令を遂行する為に、水路を遡って先に進む。

 この不定形物体は自立行動するアメーバ状生物で、普段はゲル状だが簡単な感覚器を必要に応じて作り出す性質を持っている。

 また、命令次第で複数に分裂する事も可能で、最小で十センチ角あれば制御できる。ネズミ程度の移動力を持ち、幾つに分かれても情報を共有する為、偵察や物探しには極めて有効だ。

 戦闘力は皆無だが、同じ位の大きさの生物なら取り込んで消化吸収する事もできる。速飛が召喚した物は二十四時間で自壊するように設定しているので後始末も問題無い。

 なぜそれを自分の肉体をベースに召喚したかと言えば、手頃な触媒が無いのと自分の腕を使う事で制御コマンドを組み込めるからだ。

 召喚系は魔術の基本だがほとんどが実戦に不向きで、単体で戦闘力の高い速飛にとってはほぼ無意味に近い系統である。しかし、こう言う不特定領域を探索するには便利だった。

 休める場所を探して腰を下ろした。

 《閉鎖混沌》から蘇生コードを拾い、右腕の復元を始める。さすがに服までは無理だが、戦闘でボロボロになった服だから今更袖が一本無くなろうと大した違いは無い。

「………後は、運を天に任せるしかないか。こっちと向こう。天秤が傾くのはどっちか」

 時間は午前九時を回った。

 日没まで、あと七時間。


   3


(………馬鹿だ)

 私はそれを見て真っ先にそう思った。

 ミナトの部屋から連れ出されて、階段を登ってほとんど四つん這いで通る隠し通路を抜けて、………なぜか故障中の看板がかけられた女子トイレの個室の壁に出た。

 ………一体何年前のコメディだ、ここは。

 そして、そのトイレがあった店がここ。


 【アンスピーカブル・ワン】


 それがこの店の名前らしい。店の名前が『名状し難きもの(アンスピーカブル・ワン)』とはこれいかに。

「遠慮しなくていいよ。私の店だから」

 もう驚く事も無いわね。仮にうちの学校が彼女の私有地でも驚きゃしない。

 まあこんな阿呆な通路を装備しているあたり、妙に説得力がある。

 分類上は一応クラブなんだろうか。一言で言うと怪しい店。二言以上で言うと収拾が付かない。

 一階中央にダンスホールとカウンター。その周囲に仕切られた座席。ホストクラブやキャバクラでボックスと呼んでいる形だ。

 二階席は回廊になっていて、内側に面しているのは個室だ。そのどれもが一階を見下ろせる設計になっている。うわ………悪趣味ィー。

 雰囲気は完全にアウトロー風味の酒場。真ん中にお立ち台もトップレスのポールダンサーもいないのがむしろ不自然な感じすらする。原色が出鱈目に多用された内装や流れる音楽も統一感が無い。

 大体、今何時だと思ってる。

 朝の九時だよ、朝の九時。

 それなのに、ネクタイ額巻きのおっちゃんはいるわ、ニット帽のいかにもヤバげな兄ちゃんはいるわ、キャミと言い張るには布地の少な過ぎる、髪も顔も色取り取りのケバいねーちゃんはいるわ。

 中には明らかに未成年にしか見えないような少年少女も混じっている。

 そしてアルコールと言う名のガソリンは全卓標準投入。しかもビールなんて甘い物は無い。度数二桁のボトルがずらりと並ぶ。

 騒いでる奴、踊ってる奴、歌ってる奴、飲んでる奴、絡まってる奴。

 皆ハイテンションで店の中はヴァーリトゥードの混沌の渦状態。

 そう言えば、この店には給仕役を除けばホストやホステスなどの接客役がいない。各人が自由気侭にやりたい事をやっている。酒のあるテーブルから適当に持って行っているようだ。

 魔女のサバトすらもう少し秩序ってものがあるんじゃないだろうか?

 そんな訳だから、上から見られたって誰も気にしちゃいないらしい。

「………なに、この店?」

「気に入った?」

「ここって『ティッティ・ツイスター』? ………もう地の果てって感じ」

 直訳だと『おっぱい竜巻』とかそう言う意味だけど、映画か何かに出てくる吸血鬼の巣食う酒場の名前だ。

 ついでに、こんな空間だとボサ髪デカ眼鏡シケモクよれよれ白衣に骨董品の本を小脇に抱えた女と、男物のシャツに破れたブレザーを羽織る高校生女子も全然怪しく見えない。

 むしろ真面な方で生真面目優等生に見えるかも。木を隠すなら森の中、と言う言葉もあるけれど。

「あっはっは。世界の果ては正しいね。何しろここは現代のマヨヒガさ。知ってる?」

「………遠野物語、じゃなかったかな。誰も居ないのに食事の支度とか準備されていて、迷い人をもてなす幻の家の話」

 諸説あるけれど、確かそんな感じだ。

「ここは疲れた奴が集まる退廃の場所なのさ。歪んでいる世界の息継ぎの場所なんだよ。『夕暮れから夜明けまでフロム・ダスク・ティル・ドーン』どころじゃなく二十四時間営業。でも、ここに入れるのはそんな疲れた人間で、ここから出て行ける力のある人間だけ。だからここは【アンスピーカブル・ワン】なのさ」

 どんな理屈を付けても、彼女は面白がっているだけだろう。たぶん。

 だって、ここに居る人間は皆個性的だ。まるで動物園の中を覗いているみたいな気がするもの。

 二階の個室の一つに私を案内すると、ミナトは「買い物してくるから欲しい物言って」と言った。さすがに遠慮しようと思ったけど、「そんな恰好で街中は歩けないでしょう?」と続けて言われたので渋々承知。

 適当な上着と下着、それにソーイングセットを頼んだ。ソーイングセットを頼んだのは、スカートを直したいからだ。どうもさっきから腰の部分が緩くてスカスカ。今はヒップに辛うじて引っ掛かっている感じで気持ち悪いのだ。歩きにくいし。

「別に服くらい買ってあげるのに」

「私も服に拘りってあんまり無いけど、貴女に選ばせるリスクは冒したくない」

 白衣を指差してやる。

 そりゃそうか、と笑って彼女は普通に入口から店を出て行った。

 残された私は、案内された部屋には入らず、二階に上がる階段から下の世界を見ていた。

 ………変な世界だった。

 音楽も内装も客層も、どれを取っても統一されていないのに、ここには『世界』ができている。

 ここは悪だ。腐敗だ。許されざる場所だ。自称善人が目を背ける汚い物しかないゴミ箱だ。

 ミナトの言葉が思い浮かぶ。人間が本当にささくれだった神経をアルコール洗浄するにはこんなドギツイ世界でなければ駄目なのかも知れない。

 命は大事、生きるのが大事と人は言う。でも、人間が神経を病むこの世界ってなんなんだろう。神経を病みながら生き続ける事は本当に尊いのか。

「ねえ、君のその制服さあ、暁月学園のヤツだよねえ」

 後ろから、声をかけられた。振り返るとそこには二十歳までは行ってないだろって感じの若い三人の男がいた。後ろにはやはり三人と同じ位の年齢と思われる女性が一人いる。

 男はどいつもこいつも金属片で顔をメイクして、適当なタトゥーを袖口から覗かせている。わかり易い事に、男三人のランクは金属片とタトゥーで決めているらしく、私に声をかけてきたリーダーっぽいヤツは上半身真っ裸でタトゥーが半身をウネウネと踊っている。

 女は女で、化粧は濃いわ着ている服は下着同然………って言うかビスチェだわ。ついでに男Bに腰を抱かれて寄り添っている。

「………何?」

 生まれてこのかたエンカウントした事も無い人種との第一種接近に、私はちょっと驚いた。

「へえ、シルバーのメッシュだけかと思ったら、カラーコンタクト? いいじゃん」

(………はあ?)

 今、何て言った?

 私は有害物質を頭にかける気にはなれなくて染髪なんてした事が無いし、自分の意志で目に目薬とプールの洗浄水以外の物を入れた事も無い。

「でさ、オレたちそっちの部屋でこれからパーティなんだけど、一緒にヤんない?」

 文化の異なる不可解な言語に頭を悩ませているのを思案中と勘違いしたのか、上半身タトゥーが馴れ馴れしく肩に手をかけてきた。

 動物と同じなんだ、と思う。自分を飾り付けて異性にアピールし、同性を威嚇する。さっき動物園と喩えたのはあながち筋違いでもなさそうだ。

 って言うか、これってナンパ? まさか私がナンパされるなんてねえ。

 一度死んでいるとは言え、人生通算で初めてである。とは言ってもそんな誘いに乗るつもりも理由も無い。

「人を待ってるの。それとも、興味無いって言えばいい?」

 私はその手を払ってみたが、少し力を入れているらしく簡単には外れないようだ。

「冗談言うなよ。ここで誘ってるんだろ? いいから来いよ」

 ………そう見えるのかな。

 制服にはダメージ。男物のダブついたシャツ。まともな恰好ではないとは言え、私なんかに声をかけるほどこいつらは見境が無いのか。アルコールが入っていて牝なら誰でもいいのか。って、そう言えば忘れていた。

 今ノーブラだった。

 ブレザーは前が吹っ飛んでいるからシャツに生乳が透けていて着けていないのはよく見るとわかる。つまりセックスアピールと言えなくもない。

 そー言えば、実はさっきから胸に当たる部分がきつくてボタン外そうか、なんて考えていたのだ。

 とにかく私はこいつらに付き合う気は全然無い。少し力を入れて、肩を掴んでいた手を引き剥がした。

 「ふがッ」と言う言葉にならない声を上げた相手を軽く突き放す。転びはしないけど、たたらを踏んだ。色々とあしらう言葉を考えたけど、アルコール投入済みの人間を納得させれるものを検索するのは不可能だった。

 だから、私の口から出たのは、恐ろしく単純で極めて短い次の一語だった。

「失せろ」

 それが相手の酒が回った思考回路のアタックスイッチを押すのにどれほど効果的なのか。私はそれを目の当たりにした。アルコール効果が相乗してか、顔に血が上るのがわかり易い。文字通り真っ赤。

 元より、このタイプの人間は面子を潰されるのを嫌う。ちっぽけなプライドを勃起させるのに精一杯のくせに。オンナの前でそれをやられた日にはキレて当然。

「な、なんだとこらあっ!」

 女相手に拳骨作りやがった。迷ヒ無シ右ストレート。アルコールでリミッターが外れているっぽい。

 ………喰らってやるのも一興かな。私の顔面と相手の拳骨、どっちがどうなるのか試してみるのも悪くない。

 でも、その拳は私に放たれる前に止まった。振り上げられた上半身タトゥーの腕は、後ろに来ていた黒服の男ががっちりと握っていた。

「この店では、他のお客様への暴力だけは禁じられております」

 そろそろ四十前かと思う男だった。タキシードはこの店の雑多な雰囲気には似合わないけれど、盛り上がった筋肉はターミネーターを思い起こさせる。何よりも威圧効果はバッチリだし、拳には拳ダコもあった。

 黒服の気迫に威圧されて熱が冷めたのか、舌打ちした男たちは、こっちに背を向けると聞き取りにくいスラングをぶちまけながら奥の個室に入って行った。

「有難うございます。助かりました」

「いいえ。助かったのは彼の方でしょう。それに死体清掃と言うのはなかなか大変でして。特に肉片が飛び散りますと一手間で、営業に差し支えてしまいますので」

 ………なるほど。この黒服さんは私が何なのか知っているらしい。

 そう言う真似ができると分かっているわけだ。

「私、この店のセカンドチーフでございます。西オーナーよりご注文の案内を命じられました。どうぞ、中にお入り下さい」

 改めて、用意された部屋に案内された。中で大人しくして欲しいと言う無言の訴えに、私は思わず笑いを漏らしてしまった。

 部屋は特にどうと言う事もない物だ。階下が見下ろせる事を除けば、カラオケボックスに毛の生えた程度。ただ、二、三人が上に乗ってぎしぎし運動しても大丈夫そうなソファーがあるくらい。

「ご注文はございますか?」

 カクテルメニューを差し出されたので、退屈凌ぎに中を眺めてみる。

「………『ゴールデン・ミード』『ファントムバレット』………? 『ニトロプラス』『アローン・イン・ザ・ダーク』………?」

 色々と並ぶがどれも聞き覚えの無い物ばかり。私はカクテルに詳しくは無いけれど、どうやらこれはこの店のオリジナルばかりらしい。

 ただどれもヤバげで背徳的な響きを感じさせる。

「ノンアルコールってどれ?」

「幾つかご用意しておりますが、陽凪様は何の問題も無いのでは」

「………無いね。おばけにゃ学校も納税義務も無いだろうし」

 第一、この店の流儀的に年齢を気にする必要は無いだろうし。

「でも、いいや。喉も渇いてないし、おなかも空いていないから」

「………畏まりました。ご注文が有りましたら、インターホンをお使いください」

 黒服が一礼して部屋を出て行った。彼の額に僅かだけど冷や汗が浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。

 ………たぶん、知っているから恐怖する、と言う事。

 くっくっと喉の奥に笑い声が孕む。

 あの黒服はミナトに弄られた事があるのかもしれない。上半身タトゥーを無理矢理止めたのも、そう言う経験があったからなのかも。何しろ、目覚めたばかりのド新人でも、排水溝の入口を蹴り砕く事が出来るんだから。

 私はソファーに身体を投げ出して、そのまま目を閉じた。外の酷い喧騒もここには届かない。何もする事は無いけれど、それが今は有り難い。


 闇。

 漂う。

 自分が闇の中で浮かんでいるのか、沈んでいるのか、それとも泳いでいるのか。区別できないし区別する意味も無い。上も下も無いのに、自分は深い世界に下りている実感だけが感覚を支配する。

 その先に、把握し辛い、虚無で形作られた奇妙な図形の姿が現れた。

 枠は太くも細くもあり、直線と曲線が捩れ交わり歪んでいる。


 そこでパッと目が開いた。

(………《門》?)

 漠然と、そんな思いが巡る。枠は何となくだが何かの仕切りにも見えたし、何よりその先に〝何か〟が居るような気がしたからだ。

 薄目を開けた時に見える光と闇の狭間が世界中に存在する曼荼羅系様式の原型であると聞いた事がある。

 でも、今私が見たのはもっとはっきりとした、しかし全く現実感が無く捉えどころの無い奇妙な図形だ。図形と呼んで良い物かどうかすら判断しかねる。

 もう一度見てみようと思って目を閉じたけれど、今度は何も見えなかった。

 普通なら疲れているとでも思うんだろうけど、生憎と今の私には疲れもダルさも無い。


 ………それとも、見えなくなったのは彼女が戻って来たからか?


「やっほー、おとなしくしていたかな?」

 ミナト帰還。

 ………って、早っ! ここに来る時、この場所が中心街から少し離れているって聞いていたけど、服を買うと言う手間隙を考えるとかなり早い。最寄の量販店に行き脊髄反射で選んで買って来たとしても、かなりのハイスピード。

 左手に本。右手に買い物用のトートバッグ。小脇にお惣菜の紙袋。

 何て言うのか、さらに一回り怪しげな姿に………お惣菜?

「はい、これ買って来たヤツね」

 トートバッグごと投げ渡された。

「……そっちの紙袋は?」

「え? ああ、こっちは私のキスフライ。近くに良いお惣菜のお店があるのよ」

 ………いや、なぜにキスフライ?

「えっへへへ、いやあ私、このキスフライってやつに目が無くってね」

 嬉々として袋から揚げたてなのかまだ熱々のフライを取り出している。まあ美味しそうではあるけれど。そう言えば似たような台詞をさっきも聞いた気が………。

 ………でも、吸血鬼の貴族がキスフライって………ああ、よれよれの白衣姿と手掴みで食べる姿が妙に良く似合ってる………。

 ま、それは今どうでもいい事だから、私もバッグをひっくり返して中身を確認する事にした。まず出て来たのは………………。

「ええっ? 制服?」

 新品の暁月学園高等部女子の制服。さすがにびっくりした。

「サイズは今着てるやつと同じだと思うけど?」

 日本制服文化万歳、と言う事か。市内でなら扱っている場所も多い。

 ………ただ、一つ気になる事がある。正規の店舗で制服を購入する際は生徒の学生IDか家族の市民IDが必要な筈だ。

 ………この怪しい白衣女がどうやってこれを買ったのかは想像しない事にした。考えてもあんまり精神衛生上良くない気がするし。中古でなければ問題は無い。

 で、次に出て来たのは、リクエスト通り下着。

 ………なんだけれど。

 ………いや、確かに女性下着と言うカテゴリ、と言う事に関しては全く間違っていない。だけど、用途と言う観点に於いては明らかにズレている。

「いやー、やっぱり吸血鬼は下着に拘らないと」

「どう言う理屈よ」

「や、例えばよ? 今にも胸に杭を打たれる正にその時にババシャツだったり洗濯し過ぎた棒ブラだったりしたら末代までの恥よ? って言うか色々申し訳ないじゃないの」

(誰にだ?)

 私は自分の手に握り締めたそれを広げて確認してみる。

 ……何だか手が震えてますよ。

 上も下も、黒い、レースの、スケスケ。ちなみに下は紐レースで実際の布地は両手の親指と人差し指で作る三角よりも小さくて、バックはT。

 上の方は一見すると普通に見えるけれど、実際のカップはほんの下乳を押さえる程度の部分だけ。あとはレースで隠しているだけだ。そのくせ材質は素晴らしい手触りのシルク。絶対に安くない。

 靴下は入っていなくて代わりに入っていたのは………ここまで来ると予想も付くけど、ガーターベルトと専用のタイツ。どう考えてもギャグ。私は今から女子校生ランパブに出勤するとでも言うのか。

 大体、このチョイスには重大な問題がある。

「黒買ってどうすんのよ! 透けるでしょうがっ!」

 今私が着ているシャツでは確実に。高校の制服を着て黒ブラが透けるのは………さすがにちょっとマズイかも。

 って言うか女子校生AV女優か。見せブラとか透けブラってのもあるし着けてる娘もいるけど、今はそう言う気分ではないのですが。

 何より私のキャラじゃない。

「吸血鬼がそんな事気にしてどうするの。裸に黒マント着けて歩き回るよりはよっぽどマシだと思うけど。二十一世紀の吸血鬼はセクシーランジェリーで勝負よ。もう私だってこんな服装だけど下着だけは毎日凄いヤツ着けてるんだから」

 髪ボサの白衣女が握り拳振り回して力説しても説得力皆無。あと裸マントは恥ずかしいので勘弁してください。

 こんな物を流通させる店と言うのは限られている。普通の女性下着売場には無い。どちらかと言えば下着と言うより決戦装備。男性ご用達のお店か、ランジェリー専門店と考えるのが自然。

 あ、一応デート準備の時にそう言うお店をチェックしました。

 わざわざ専門店に行ったのだろうか? 学生服売ってるような店には絶対無いと思うし。

 ………こんな事なら偽ブランドのジャージとか言えば良かった。

 ちなみにソーイングセットには金髪プレイガールのM字開脚グラビアがプリントしてあった。トップレスだったのが救い。って言うか、どこの世界にこんなソーイングセットがあるのか。

 中身は普通だけど。一から十までセクハラじみている。

「着替えないのー?」

 ミナトは相変わらず紙袋からキスフライを出して齧っている。ほのかにワインビネガーの匂いがするからフィッシュ&チップススタイル。私のストリップをオカズにキスフライを喰うのか。

「くっ………言われなくとも!」

 でも、考えてみれば別に恥ずかしがる理由はどこにも無いし、悶えている時間も惜しい。

 取り敢えず今着ている服を全部脱いで、それから下着を着けてみる事にする。正直こんな下着なんて初めてなんだけど、何となく大人の階段を登る気分。………阿呆だ。

 ………でも、アクシデントはそんな私にも平気で襲い掛かってくる。

「………こ、これはッ!」

「ん? どうしたの?」

 ショーツはセーフだった。が、ブラを合わせた時点で、それは判明した。

「サイズが合わない………って言うか、絶対カップから溢れる」

 サイズだけは伝えたし、このデザインなら多少幅があっても入る筈なのに。ダメでした。ホワイ?

「そうよね。Cって頼まれたから買ったけど、どー見ても今の貴女の胸、Eにかかってるんじゃない? もー駄目じゃないのよー、年頃の女の子が自分のサイズ把握してないなんて♪」

 言われなくたって、そのくらい私だってやっていた。

 ………でも、確かに。今までなんやかんやがあって余り確かめなかったけど、剥き出しにした物を見下ろして掌で確認してみれば、間違い無くそれは私の知るボリュームじゃない。

「………育った? こんな………だって最後に計ったのは………ばかな」

 そう。それはデート前に勝負下着を選んだ時でした。その時は、ギリギリBに近いCだった。

 いや、そもそも二日前までは下着は普通に着けてたから、この二日で育った事になる。どっかの巨乳タレントが「ある日突然育った」とかバラエティ番組で言っていたのを聞いた事があるけれど、まさか我が身に起きようとは。

 とすると………もしやスカートのウェストに余裕ができたのもひょっとして、実は腰が締まったから?

 うわっ、もしかして憧れのくびれ? そう言えばヒップも心なしか………。

「これって………喜ぶべきなのかな………」

 嬉しくない訳じゃない。しかし私の家系は父方も母方も豊かな胸の血筋じゃない。つまり、今このスタイルは吸血鬼化が何かのスイッチになった可能性が高い。

 ………吸血鬼になった代わりにスタイルが良くなりました………って、あんまり意味が無い気もするけど。

「あら、美少女吸血鬼の方が絶対にウケがいいって。マーカラ・カルンスタインの時代から、女吸血鬼はセクシー美女って決まってるんだから」

 さすが吸血鬼文学講師。

 マーカラ・カルンスタインって言うのは『吸血鬼ドラキュラ』よりも前に発表された吸血鬼文学作品の女妖魔で、現代に連なる女吸血鬼の原型的なキャラクターとも言える。

 マーカラは女吸血鬼のレズビアン性を備えているのが特徴だ。ちなみに作中に出てくる彼女の偽名である『カミラ』あるいは『カーミラ』の方が有名だと思う。

「詳しいわね。私が大学で教えてるのもそんな感じだけど」

 はっはっは。B級映画マニアは伊達じゃない。さーて問題に戻ろうか。

「まー、黒パンにトップレスも萌えるんじゃない?」

「萌えるって何がよ! って言うかパンツ見せるの前提っ?」

「エロカッコイイってそんな感じじゃないの? ちなみに最初に萌えを発見したのはルイス・キャロルと言う伝説がある。カメラ好きの彼は幼女に妖精や天使の衣装を着せて写真を撮っていた。あと裸。当時は宗教的常識の範囲だし、研究では性欲に関しては全否定されてる。

 が、暗喩文学の時代だけに本当はどうなのかわからない。当時の大学教師と言う本人の職業柄、本人の嗜好や男女交際などが記された資料は徹底的に処分されてるし」

 へえ~昔の大学教師ってそう言う立場だったんだ………じゃない。また誤魔化すな。

 でも、口惜しいけど、他に方法は無い。黒ブラは諦めてスカートの腰を詰めて服を着直した。………実はちょっとブラで谷間を作ってみたかった事は否定しない。

 シャツは相変わらず男物。……漫画に出てくる八〇年代学園バトルヒロインって感じだと思う。

「………ちょっと不安」

「大丈夫。吸血鬼はノーブラでも型崩れしないし垂れないから♪ 揺れるけど」

 ………わあ便利。ま、ブレザー着てればノーブラとは思われまい。

 ………ああ、見下ろせば球状に押し上げている胸元がすっごい新鮮。ニセ乳を着けて女装する紳士の中には、巨乳っぷりが視界に新鮮でハマっちゃう人もいるらしい。

 ………私は女だけどね。女の身でそう言う認識をしてしまうのはちょっと敗北感と優越感がせめぎ合う。

「さあて、着替えも終わったし、キスフライも無くなった、後は情報待ちね」

 空になった紙袋をぽいとゴミ箱にスリーポイント。………そしてハズレ。

 紙屑は箱の横に当たって床に落ちた。吸血鬼も丸めた紙屑の空力計算は苦手か。

 時に、こいつはキスフライ何枚食べた? 尾鰭も残ってないから紙袋とキスフライのサイズから計算するしかないけど、最低でも五枚は確実とみた。人間だったら胸焼けするんじゃない? 吸血鬼凄いね。

「情報って、何の?」

 ミナトはちっちと油の付いた指を振る。

「ここに着たのはお着替えの為だけじゃないのよ。この店は情報も集める場所なの。今、従業員に出来るだけ情報集めているから。そして、今日の夕方にはあの馬鹿を潰す。手伝って貰うわよ」

「ちょ、ちょっと、ド新人の私と戦えと?」

「あら、屍者を消滅させた技があるじゃない。戦えるんでしょ?」

 そうか、あれも見られてたんだ。

「いや、あれは………正直自分でも何が起こったかわかんないんだけど」

「だいじょぶじょぶ。まあ管理責任者は私なんで、そのバックアップでいいからさ」

 正直、私を戦闘力として勘定するのは間違っていると思う。吸血鬼から見ても化け物っぽいアレと相対するなんてかなり面倒だし、おまけに東方教会に追われる身でもある。

 ………でも、ミナトにはたまたま出会っただけなのに色々借りを作っちゃったし。義理分だけでもは返さなきゃ女が廃る。

「わかった。でもできるだけね。危なくなったら逃げるけど」

「ん、それでイイヨ」

 私たちの契約があっさりと成立した所で、黒服が書類の束………じゃなくて、箱を持って来た。箱のサイズは十キロ入りのミカン箱とほぼ同じ。

 つまり、洒落にならない量の資料が詰まっている事が確定。

 ………ハメたな。こんにゃろ。手伝いってのはこの事か。

 それにしてもこのご時世、なんでデータ化しないのか。

「オッケー。ご苦労さん」

「何か、お飲み物はお持ちしますか?」

「何か飲みたいものある?」

 私は首を横に振った。

「んっと、私は極濃ビール。度数二十のやつワンケース。それから夕方まで私のアレ、整備しておいて」

 一礼して黒服が出て行った。

「さあて、ここからが勝負よ。悪いけどこの書類から関係ありそうな部分を探して頂戴。………ったく、吸血鬼でも書類に目を通す便利技って無いのよね。書類整理能力を持った使い魔作っても並列では使いにくいし」

「………人手に勝る物無しって感じ?」

「そう言う事」

 ………吸血鬼なっても資料整理だよ。

 何だか最近書類整理ばかりしている。

「ネットで調べられたりできないの?」

「やれるもんならやってみい?」

「………ごめん。言ってみただけ」

 あやふやな物を検索するのにネットは向いていないのだ。


   4


 五月八日。

 昨日まで半ば他人事だった状況は、一夜明けてみれば自分たちのすぐ隣に存在していた。

 暁月学園高等部二年七組の教室。

行方不明者二名。欠席一名。

 固まっていた三人の座席は、今はぽっかりと何も無い空白を作っている。その空白が、事実から目を反らそうとする自己防衛本能を許さない。

 クラス委員の井之浜有紀は授業に参加している限り視界に入るその空間のおぞましさに身を震わせている。

 意識は向かないが、今はたぶん物理の藤井の授業だと思う。普通ならこの「身体はイヤミでできている」教師に当てられても困らない程度に集中しているが、今日はダメだ。

 絶対に無理だ。

 藤井イヤミにしても、普通なら座席の空白にイヤミを言うのが日課だ。イヤミ藤井は欠席の座席を見るとすぐにブチブチと、「高校生の本分は勉強だ。それもわからない奴は落ちこぼれろ」などと自分のつまらなくて覚えにくい授業は棚に上げて、必ずイヤミを言う。

 その藤井ですら今日は終始無言だった。その事に触れようともしない。

 ド近眼でもそこに誰もいない事はわかるのに。

 それどころか、今日はほとんど黒板がお友達らしい。

 残念ながら、有紀にはその気持ちが良くわかる。

 『陽凪詩絵里が、行方不明になった』

 昨日の朝の時点では欠席だった。

 しかし、昨日昼過ぎに彼女の両親が暁月学園に来て、導火線に火が着いた。

 「様子を見よう」と言う学校側に対し、二人は鞄が拾われた事を告げた。その中に携帯や財布、学生IDまで入ったままだったと言う。

 それは彼女が事件に巻き込まれた証拠も同然の物だ。

 そして、以前から燻っていた火薬庫が爆発する。

 一人が行方不明と公表した事で次々と「様子を見ていた」家族がそれに続いた。

 気が付けば十人近い人間が、短期間で行方不明となっている事実が浮き彫りにされた。

 もう一人のクラスメイト、荒井陽子もその一人だった。

 地獄の釜の蓋が開いた。

 今朝から学校は騒然としていた。担任の教員は皆授業よりも事態の対応と収拾に追われている。

 もっとも、もう誰も纏める事などできない大事件だ。

 警察が校内に出入りし、有紀も鞄を拾った事を証言した。一昨日、仕事を詩絵里に押し付けて居残らせた数学の笹岡は急病で早退した。

 その中で、不思議とこのクラスの八幡先生は落ち着いているのだが。

 平穏で退屈な世界の幻想は崩れ、今は誰もが自分たちがドス黒い暗闇の最前線にいる恐怖に身を蝕まれている。その事を僅かな間でも忘れようとしても、視界に入る空白が認めたくない現実に自分を引き戻すのだ。

「………ねえ、聞いた?」

 授業が終わり、藤井は礼も取らずに出て行った。

 その後、前の座席の橋守素子はしもり もとこが小声で訊いてきた。

「何を?」

 今や情報も噂も都市伝説もごった煮になって学校中を渦巻いている。だから、聞いていない話なんて予想も付かない。

「四組の白輝くんも昨日から学校来てないって」

 学年二大美形がどちらも休んでいる。それも異常事態だろう。普通なら。

 白輝速飛は風貌から授業とかサボりそうな雰囲気だが、実際の授業態度はごく普通だそうで学校を理由無く休む事は無いと聞く。

「……狩野くんが休むのは、少しわかるけどね」

 彼は昨日の一校時で早退した。今日は朝から来ていない。

 彼女がどうなってしまったのか、わからないまま学校に普通に出てこれるだろうか。

 不思議な取り合わせだったが、あの二人は本当に仲が良かった。それが突然目の前から居なくなったら、どうして平常でいられるだろう。

(少し………羨ましいな)

 有紀は争奪戦に参加してはいないが、そう思う部分もある。


   ガラガラガラッ!


 教室に週番が繰り上がったクラスメイトが飛び込んできた。

「おい、今日は午前で授業終わりだってさ!」

 教室中がざわり、と揺れた。

 当然だろう。今の状態では一日授業ができるとも思えない。今になって通達が来たのは学校側も色々と対応や対処に追われて手が回らないからだろう。

「寄り道は極力避けて、できれば複数で行動しろ。警察にはなるべく協力しろだって。清掃とホームルームも省略するからとにかく早く帰れだってさ。クラブ活動も当面禁止になるみたいだぞ」

 普通なら喜びの声も上がっただろうが、さすがにそこまで不謹慎な奴はいなかった。

   *

 降って湧いた半休。

 否。もしかするとこのまま休校になるのかもしれない。

 通常ならカラオケとか、買い食いとか、寄り道計画が立てられるだろうけど、今の状況はそれを許さない。

 誰もが心の中に、「次に犠牲になるのは自分かも知れない」と言う爆弾のような想いを腹の底に巣喰わせている。

 故に突然空いてしまった時間も、高校生的に有効に活用する事はできない。ただ足早に家に帰り、部屋に閉じ篭もるくらいだろう。

 有紀には特にその想いが強い。詩絵里の鞄を拾ったと言う事が、他の人間よりも身近に恐怖を覚える材料になっていた。

 有紀の家は住宅団地ではなく、中心街の外れの公営団地アパートにある。

 別名旧市街地と呼ばれるこの辺りはちょっと前まではゴーストタウン状態だったのだが、ストリート型ファッションテナントが入ってからは若者を中心に人が集まるようになり、一種のテーマパーク状態へと変化した区画だ。

 廃墟っぽい雰囲気が逆に受けると言う、実も蓋も無い人気で持ち直すなど、誰も想像していなかっただろう。

 しかし、人が集まりだすと同時に、雰囲気も悪くなった所がある。

 裏通りには誰と無く家出人とか不良が溜まる場所がある。そう言う場所で流通する物は大概ヤバイ物だし、どこかに違法な闇酒場や盗品マーケットがあると言う都市伝説まである位だ。

 治安が悪い訳では無いけれど、ここがどこか混沌とした場所になってしまっている事は間違い無い。

 有紀は両親に引っ越したいと言う希望を何度か挙げているものの、公団の家賃の安さがその願いを阻んでいる。一昔前の箱型住宅とは違い、この公営団地も都市開発の延長で建てられたから多くの面で充実している。

 ここを離れるのは大学進学まで無理だろう。その大学にしても、暁月学園でそのままエスカレーター進学する方が確実で充実して安上がりなので、親の説得も一苦労だった。

 有紀にとってはこの街に深い思い入れは無い。それでもバスを降りて目にした光景は、唖然とさせられる物だった。

 開店休業状態のカジュアルテナント。

 客のいないオープンテラス。

 人通りが極端に少なく車もほとんど通らないストリート。

 そこに広がっていたのは数年振りにゴーストタウンとなった我が街だった。

 事件の露出によって恐怖が野火の様に広がって『正体不明の何か』を怖れる人々は家や建物に閉じ篭もってしまった、その結果だった。

「………なんてこと」

 排ガスも無い筈なのに空気が悪い気分。初夏五月の晴朗な空気はどこにも無い。

 ………………まるで、目に見えぬ何かが澱のように降り積もっているかと思う程、周囲が重い感じがする。


   ドッドッドッドッドッドッ!


 そんな空気を震わせて、不安になるほど静かな道に、突如爆音が響いた。

「っ?」

 音の方向に目を向けると、道の向こうから特徴的なハンドルスタイルを持つバイクが走ってくる。男子の話を小耳に挟んだ程度の知識だが、そのバイクがハーレーと言うのは有紀も知っていた。

 目の前を結構なスピードを出して通り過ぎていく。

 そのバイクに乗っていた人物は白衣をはためかせていた。ノーヘルで。

 バイクのノーヘル運転は道交法でかなりヤバイと従姉から聞いた覚えがある。族の類なら着けないかもしれないけれど、その手の人間には見えない。はためく白衣が何となく特攻服っぽいが。

 問題なのは、その後ろにもう一人乗り込んでいた事だ。

 そいつもノーヘルだった。

 あろう事か暁月学園の高等部の制服を着た女子だった。

 そして………一瞬だけど、その横顔は見た事がある顔だった。

(陽凪………さん?)

 目を疑う。

 学校はもちろん、今では街中でも行方不明扱い、あるいは死亡説すら流れている当の本人が目の前を高速で通り過ぎたのだから無理もない。それに、有紀は通常生活中では外すが授業では眼鏡を掛ける。自分の視力(この場合は動体視力だが)に自信がある訳ではない。

 しかし、目を疑う理由はそれだけではない。

 今目の前を通った少女は、有紀が知る彼女とは大きく異なる点があった。

 まず髪。記憶にある限り黒だった筈の髪は三分の一くらいが銀髪に変わっていた。それだけなら染めたと言う事も考えられるけれど、日光に鈍く美しく輝くその髪は脱色や染髪ではとてもあそこまで綺麗には創れない気がする。

 そしてもう一つはその瞳。一瞬だけ見えた異色の輝きを放つ緑の瞳。

 外国人が持つ碧眼とは違う、もっと原色に近いような濃い翠。それは有紀が今まで生きてきて、初めて見たと思うような歪な色合い。

 一瞬で通り過ぎて行ったバイクを思わず振り返り、後姿を見送っていた。女子高生特有の短いスカートも翻っている。その中身も、ばっちりと見えた。

(ぶふっ!)

 レースのひらめく黒のストリングスとガーターベルト。

 漫画とかだと中学生くらいの女の子が普通に黒を身に着けてるけれど、有紀は未だ学校で黒のランジェリーを着けた生徒を見かけた事は無かった。見せブラとかでカラフルな物を着けているのなら普通にいるけれど、黒パンはさすがに彼女の周囲では生息していない。まあ着替えする事がわかっていて堂々と着けてくる類の人間が居ないだけなのかもしれない。

 視界からバイクが消えると、途端に今見た物が現実味を帯びなくなった。

 単純に考えれば、髪を染めてカラーコンタクトを入れてアダルトな下着を着けて、バイクの後ろにノーヘルで乗っていただけ。

 有り得ない話じゃない。普通に高校生していた生徒が、突然そっち方面にデビューするなんてありがちな話。

(………でも、上手く言えないけれど、違う気がする)

 外見だけではない。纏う雰囲気が全く別人のような気がする。

 有紀と詩絵里は決して親しい間柄ではない。会話らしい会話をした事も無いかも知れない。

 ………だから、断言はできない。

 言えるのは、今見た人物は有紀が持っていた陽凪詩絵里の人物像と懸け離れていると言う事だけ。


 ………彼女が、井之浜有紀がもしも普通のクラスメイトだったなら、この事はそのまま家に帰って一晩悩む程度だっただろう。

 しかし彼女は競争率ほぼ皆無のクラス委員に最初から立候補するほどに責任感がある。またスタンダードに生真面目な性格だった。

 だから、ほとんど本能に直結したその部分が、彼女に携帯のボタンを押させ、登録してあるクラス連絡網を呼び出す余裕を与えた。

 呼び出すのは担任の八幡マリ亜の番号。何かあった時は担任、と言う条件反射みたいなものである。何回かのコールで繋がった。

「………あ、お忙しい所失礼します。八幡先生……ですよね? ……はい井之浜です。実は今………」


 もう一度だけ断わっておこう。

 井之浜有紀はごく普通の人間であり、性質は極めて善良である。できれば扇台市外の大学の文学部に進学を希望し、将来は出版社に勤めたいと考えている。

 故に、その電話が事態を大きく動かすなど理解できる筈もなかったし、これから一生を終えるまでそれに気付く事も無いだろう。

 彼女は極めて幸運だったのかも知れない。

 人外魔境の一歩手前まで近付きながら、半ば偶然にせよ回避する事ができたのだから。


   5


『NY ストライクフリーダム事故収束へ 生存者は絶望的』

『ロンドン集団蒸発事件』

『インド南部で毛派ゲリラによる虐殺 住民が消滅する村』

『中東でISが更なる過激処刑。惨殺現場で何が?』

『首都圏でホームレス大激減 原因に中国マフィア関与の疑い』

『農村部での悲劇 高校生含む三十人集団殺人 宮城県伊須馬郡谷地村』

『昏睡症候群頻発 昼下がりの悲劇』

『ミステリ作家に事件? 一斉に入院』

『都内で巡査部長が高校生に発砲 錯乱者増加傾向』

『十代少女連続失踪 高二少女の残された鞄に本人の血液が大量付着』


(煙い)

 ミナトのくわえ煙草がさっきからふかされっ放し。

 気にはならないけど、視覚的に鬱陶しい。色彩感覚がおかしくなりそうだ。以前の私ならキレている。

 そんな紫煙棚引く個室のテーブルの上には、これでもかと言うほどに衝撃的な事件の新聞記事が並んでいる。

 あろう事か、これがすべて今日の新聞。まるで現在進行形で世界大戦でもやっているかのような事件の山、山、山。

 って言うか、最後のは私のだ。

「記事読む限りじゃ死んでるわよね、これ。………お葬式は何時だろ?」

「ダメよ、市井を混乱させたら」

 ………今更「生きてました、てへ♪」とか言って現れるのは無理か。

「どうせ人間には戻れないんだから、死んだ事にしておいた方が便利よ。それにしてもこれ、裏から誰か手を回したわね。世論捜査と警察への介入。………東方教会の連中の出入りが多くなっているみたいだし、十中八九やつらの仕業だろうけど」

 別の資料の束を読みながら、ミナトが呟いた。

「………なんで東方教会が?」

「アフターケアのつもりなんじゃない。行方不明より死亡の方が遺族への負担は軽いでしょうし」

「………軽いの?」

 『死亡』と『行方不明』なら普通後者の方がマシっぽい。

「それは遺族側の精神的な問題。私が言ってるのは法的な問題。行方不明だと死亡が確定するまで七年かかるの。保険金だってそれまでは入らない。場合によってはかけ続ける必要すらあるの」

 私が吸血鬼になった以上、滅ぼす事を前提とする東方教会の目から見れば、私の両親は絶対に出て来ない娘を七年は待つ事になるかもしれない。

 つまり、七年を無為に費やすよりは、か。

 精神的には仕切り直すのは早い方が良い。殺人鬼が遺族に仕送りって感じだろうか。滅ぼす相手側としては結構充実のアフターケアかも。

「もちろん、遺族には精神的な問題は残るだろうけど、それはそれよね」

「ちょっと意外かな。催眠術か何かでギュワワーンって記憶操作するんじゃないんだ」

「面倒だからねえ。街一個全体に催眠術って言うか記憶の書き換えってのはできなくはないけれど大変だし。でも、ちょっと前まではそんな事も全然気に掛けてなかったけどね。いやいや、二次大戦の時は凄かったわよ?」

「は? 二次、大戦?」

「戦争に紛れて吸血鬼処分してたもんなー。フランスで村一個分皆殺しとか普通だったし、アジアではさー日本軍の格好して動いてたしさー。あの時代だから入国監査なんて無いし、もうやりたい放題よ。ベルリン崩壊に紛れてナチの後始末もやってたなー」

 本当に懐かしそうにミナトが話している。基本的に余り楽しくない思い出っぽいけれど、それも懐かしめるほど長く生きているって事なんだろうか。

「って、思い出話してる暇は無いか。歳は取りたくないわよねえ。吸血鬼の台詞じゃないけど。

 ………いや、さっきも言ったけどさ、こう見えても世界の卿クラスの中じゃ下から数えた方が早いんだってば、本当に。

 私の前の代なんか、『この間の戦争では』の『戦争』って百年戦争の事よ。知ってる? 英仏百年戦争。そこへ行くと、私は二次大戦だもの。やー、それにしてもホワイト・アングロサクソンって歴史で見ると詐欺と戦争と虐殺しかやってないわよね。リアルタイムで見ていた身としては………いや、今の話は忘れて下さい。本当。忘れて」

 たぶん、一番若いのは私なんだろうなー。

「それにしても、連中が一年も前から居たってどう言う事よ。私も間抜けなんだけど。話、ちゃんと通すように脅し入れといたんだけど。魔女狩りとかキリシタン狩りとか赤狩りとか、人間ってやっぱそー言うのに弱いんだもんナー。義理とか人情なんかよりもずっと簡単に動かせるんだもん。………ええと、これが出入記録か」

 脅しを入れるような吸血鬼に義理も人情もへったくれも無いと思うけど。

「………うわあっ、な、な、なんじゃあこりゃあ! ひのふの……って、百人近く居るってば! どっこから給料出してんのよ? ったく、第一日本の住宅事情ってヤツはねえ」

 煙草が切れたので、今度は積み上げられたビールを空けていく。資料片手にビールを飲む姿は、どこからどう見ても九〇年代に流行った昔懐かしいオヤジギャルだ。

「………なーにこれ? 大半が今年の三月に増強されてやんの。………今年の春って何かあったかしら? んー、番組改編?」

 そのオヤジギャルが変な声を出した。

 春かあ。私的にはクラス替えかな。………さすがにそれは関係無いけど。

「………ん? ねえ、貴女のクラスって、何組?」

 妙な事を訊く。なんで私のクラスを尋ねるんだろ。

「二年七組………だけど? 何かあった?」

「うんにゃ。………さすがにこれは私の思い違いだと思いたい。………おかしーなー、アルコール回ったかなー。………そっちはどう?」

 私がミナトに頼まれ回された仕事は、扇台市のノスフェラトゥが関わった行方不明事件………殺人事件の被害マップ作りだった。

 主に最近の新聞や資料から被害に関係するデータを拾い集めて整理するんだけど、これが厄介な仕事だった。

 何しろ私と陽子の件を除けば失踪した場所が確認された訳じゃないから、失踪前の行動などの情報を並べて推測から読んでいくしかない。

 それでも二時間程で何とか整理を終えていた。意外にしっかりとした物ができたのは我ながら驚きだ。才能と言うよりは黒服さんたちの情報収集力が凄い。

「………はあん、やっぱりか」

 テーブルに広げたそれを見たミナトは不敵に笑った。

「やっぱり? これに何か意味があるの?」

 私の言葉が聞こえていないみたいに、彼女は一方的に言葉を続けた。

「……やるじゃん。元下僕の分際で、誰にこんな物吹き込まれた? 意識的なのか、無意識的なのかはさておいて、魔術的な位置取りで動いてるわね。いい? こんな風につ・な・げ・る・と………どうだ!」

 マップに穿たれた点をミナトが繋ぎ合わせる。するとそこには、確かに精錬された図形が浮かび上がった。それは幾何学的な美しさを備えながら、同時に呪術的で猥雑な荘厳さも持ち合わせている。

「………これは………【アラビア五角星】!」

 私は思わず、その図形の名前を叫んでいた。地図上では模様を囲む五角形が不気味なほど整然と扇台市を囲っている。

「おや、良く知ってるわね。これ、結構マイナー………って言うかヤバイ類に入るんだけど。………まさか、最近のおまじないブックとかケータイ占いとかに出てたりする? うわあ、世も末よねえ」

「………ううん、そう言うのってあんまり読んだ事無いけど」

 朝の占いや雑誌の適当な占い程度しか見ないし当てにもしない人生でした。おまじないに夢中になったり、呪いを掛けたい相手もいなかった。

 ………うわー、そう言えば恋のおまじないとかもやった事ありませんよ、私。

 お気楽ぶっとび母上の影響が強かったと責任転嫁するにしても。なんかこう、私の人生って………アレな感じがしてきた。

 変なショックを受けている私を、ミナトはじっと見つめている。

「ちなみにこのアラビア五角星が持つ意味は?」

 そんなもん、わかる訳ねえっす。

 真面目な顔で訊いてきた。さっきまでのジョーク混じりの時とは全く異なる表情だった。眼鏡の奥の瞳が、初めて会った時のように闇色が増す。

 だーかーらー、そんな風に見つめられてもわからない物はわか………ら……な。

 わからない。本当に?

 名前がどうして出てきたのか。意味、そう………意味、は、

「そう、意味は………【窮極の智慧と智識の門】」

 そう、それだ。それがこの奇怪な図形の持つ意味。

「だーい正解。魔術の基本は知識の蒐集と実践。故に魔術的なシンボルでもある訳。………いやいやいや、お姉さんビックリだヨ。これを知ってるなんて大したものだわ」

 ミナトの顔からは険が消えた。でも、私の中の混乱は消えない。

 だって………そんなの知らない。………いや、知ってる? 違う、知る筈が無いんだ。

 じゃ、なくって。私の今までの人生に於いて一度たりとも触れた事の無い知識が私の頭の中に普通に存在している。

 ……違う。知識とは得た物だ。意味不明の場所から湧いてくる物は知識とも知恵とも呼ばない。

 ………そう。さっきもそうだ。

 私は【アラビア五角星】なんて言葉は知らなかった。なのに、それは自然に口をついた。

 …………それって、吸血鬼になったから?

 スタイルが変化する。知らない知識が湧き上がる。変質していく。

 ………それは、本当に私なんだろうか。

 今更ながら、鏡が見れない事が頭にくる。私は自分を自分だと思っていても、今はもう全く別のものであるかもしれない。

 ………いや、吸血鬼と言う存在に変わった時点で、私はすでに別の何かなのだろうけど。意識だけは陽凪詩絵里だった。そう思い込んでいた。

 ………おかしいな。吸血鬼になった事は別に悩みもしていないのに。

 吸血鬼になった自分が自分でなくなる事に恐怖を抱く? それはただ既に変化した身である事とこれから変質する事への恐怖なのか。

 それは多分、私の中で巣食っていた不安と考えていたモノが具現化した存在だった。

「………それでさ。これで、アイツは何をするつもり何だろう?」

 不安な話題を変える為に、私は口調を軽くしてマップ上の図形を指差した。

「んー、シンプルで行くなら、まあパワーアップってのが妥当かしらね。あいつは《穢れた月》から力を得ている筈だから、そのパイプを拡大するとか」

「………いやいや、あれ以上の力を得て何をするつもりなんだろ?」

「さあ? 強くなる事に理由は要らないし、後は下克上ってヤツかもね。私たちみたいなイバリ散らしている卿クラスをとっちめるんじゃない?」

 いや、私はそんな事ないし、威張った事無いし、第一吸血鬼になったばかりだし。

「月の意志か、あの馬鹿の意志か。どっちにせよ向こう側にとって私たちが邪魔なのは間違いないわね。でも、こっちもこれであの馬鹿の行動が予想できる。後は追うだけよ」

「じゃあ次にアイツが現れる場所がわかるの?」

「うん。たぶん今日が最後だから、アラビア五角星の中心部に来ると見て間違い無いでしょう。魔術的な行動を取るのに中心は避けては通れない場所だからネ」

 ミナトの白く細い指が地図に描かれた図形の中心を指差す。

「………うっそ」

「向こうも儀式に、ある程度広い場所が欲しかったって事か。ここが最終ステージよ」

 微笑む彼女の赤いマニキュアの先には暁月学園のキャンバスがあった。


 ………確かに、あの巨体と戦うにはある程度広さが欲しい。あの怪物の幻巣世界みたいな場所は圧倒的に不利だ。

 だが、それはここに誰も居なければの話。下手をすれば夜十時くらいまで人が残るマンモス学園から人間を完全に追い出すのは並大抵の問題じゃない。

「これを見る限りじゃ動くのは夕方以降。これはほぼ間違い無し。時間帯が決まってるなら、それまでに誰も居なくなれば問題は無いでしょ?」

「だからどうやって? まさかスピーカー持って避難勧告でも出す?」

 校庭に立って校舎に向かい、「本日夕方からキャンバス一帯は危険害獣駆除の為立入禁止になりまーす」とかなんとか。私は顔を出せないから、やるならミナトだ。

「あっはっは。さすがにそれはイタイかな。ま、その辺は仕方ないからちょっと圧力かけて貰いましょうか。えーと、スマホはどこだったかな」

 一通り笑い転げた後、ミナトはスマホを取り出してどこかを呼び出した。

「どーも、西です。おや会議中ですか、ええ、そっちは大変ですねー。裏取引も色々手を伸ばしているようで。

 いやいや、実はですね、私にそっちから入って来てない情報があったんですよ。ええ、私がここに住んでるのはそっちもご存知の筈でしたね。鞄、三つほど出したと思いますが。一年も気付かない私も何ですけどね」

 どこの誰と話してるんだろう?

 電話では伝わらないと思うけど、ミナトは口調は軽いのだが顔は笑ってない。

 もっとも、ミナトの表情って一見感情豊かだけど実はそれほどアテにはならない事はこの短い間で良くわかっている。

「へえ、ほお、なるほどね。………うっせえ黙れっ!」

 うおっ!

「こっちに情報出さなかったのは喧嘩売ったって事でいいわね? は? 暴力? なにケツの穴の小さい事言ってんの。まあ二度と浮き上がれない事になるだろうけど」

 ………政治家か、官公庁のどこか、だろうか。

 『鞄』は古い政治用語で現金の単位だ。現金は他にも『弾』とか『実弾』とか『ピーナッツ』と言う。俗に選挙三種の神器『地盤』『看板(有名度・もしくは有名議員の後押し)』『鞄』と韻を踏む。

 ちなみに最近だと鞄一個は一億円勘定。三つで三億円。

 九十九パーセントの日本人が一生手にする事のできない現金がポイポイ飛び交う政治の光景は絶対何か間違ってる。

 あるいは扇台の中心企業と言う線もある。この街の市長なんて飾り物だ。この街に金を出している企業は市長よりも偉い。って言うか市長は要らないとも言われる。

「………なんだ、もう頭下げるの? もうちょっとツッパる根性見せないとマジでもう浮き上がれなくなるんじゃない? 政治家がナメられたらお終いだよ」

 陥落したらしい。どうやら相手は政治家のようだ。

「条件? うん、じゃあそっちから圧力かけて暁月学園を今日の午後から明日の朝まで空にして。そ、人は誰も入れないように。

 こっちの事件は知ってるでしょ? それ利用すれば難しくないって。元凶潰してやるって言ってんのよ。どうせあちこちで人手取られて回せないんでしょ? そう、んじゃよろしくゥ。そろそろ総裁選でしょ。頑張りなさいよ」

 はっはっは。総裁選と来たか。………聞かなかった事にしよう。

 私、政治に興味無い十代の少女だし吸血鬼だし。もう一生参政権無いしね。

「おっし、お話は通ったヨ。後二時間くらいでできるってさ。そうしたらお外行こうか。私の愛車に乗っけてあげるから」

「愛車って………いや、私日光ダメなんですけど」

 今から二時間後じゃまだ午後の陽射したっぷりバリバリ降り注ぐ時間帯。そこに出るなんて自殺行為だ。その愛車とやらには日光遮断機能でも搭載しているのだろうか。

 ………うっ。朝の悪寒が肌に蘇りそう。思い出すだけで鳥肌が立つ。

 と言うかですね。ホントに外出たらとても鳥肌では済まないと思うんですが。

「だいじょぶ。何とかなるから」

 何とかする、じゃなくて何とかなる? 他人事だと思って簡単に言う。

 ………灰になったらどうしてくれるんだろう。


   6


  BBBBBBBBBB


 静寂が支配した部屋で、突然バイブレーションがスーツのポケットを震わせる。

「………失礼します」

 リビングの窓からベランダの向こうの景色を眺めているルーベンの背に断わりを入れて、彼女は隣接する寝室でスマートフォンを取り出した。

「………む?」

 待っていた電話ではない事に、彼女は僅かな落胆と苛立ちを覚えた。今は探査班からの連絡待ちで待機中なのだ。

 普段の彼女なら待つ事も仕事の内と割り切れるが、直接の上司であり且つ聖衛騎士団の重鎮であるルーベンが一緒に居るとさすがに緊張する。

 と言っても電話に八つ当たりする訳にもいかない。こう言う時は電話と言う物は有り難い。今の自分がどんな姿だろうと精神状況だろうと、声に注意を払えば教師としてのイメージが向こうには見える。

「はい、八幡です。井之浜さん、何かあったの?」

 あったに決まっていた。井之浜有紀が電話をかけてくると言う事がすでに異常事態であり、事実電話の向こうの声は少し上擦っていた。珍しく早口な彼女の声が耳に届く。

「………なんですって?」

 本業柄、感情をコントロールする術に長けた彼女が、思わず息を呑んでいた。

 それは、確かに驚くべき連絡だった。本来なら探査班から入って然るべき情報が、予想もしていなかた所から転がり込んで来たのだ。

 しかし、彼女は流石だった。すぐに冷静さを取り戻し、当り障りのない落ち着かせる言葉を並べ、有紀に口外無用同然の約束をさせる。しっかりと押さえておけば、真っ先に教師に連絡する真面目な彼女が噂を撒き散らす事はまず無い。

「どこからの電話だった」

 リビングに戻ると、ルーベンが一ミリも変わらない後姿のままそう尋ねてきた。

「クラスの少女からでした。しかしそれが………帰宅途中で彼女を目撃した、と」

 八幡マリ亜は、そう答えた。

 ルーベンも彼女と同じ事を思ったらしい。彼にしては珍しい溜息の混じった言葉を続けた。

「………やれやれ。我々が死力を尽くして捜しているものを、こうも簡単に無関係な人間が見付けるとはな。時として偶然は最良を超える。もっとも、これは君がきちんと教師をしているからこそ寄せられた情報だとも言えるな。何事も真面目に取り組むものだよ」

「褒められたと受け取っておきます」

「皮肉ではない。君は実に優秀だ。私などではそうはいくまいよ」

 ルーベンとて神父を演じれば右に出る者はいないだろうにと、彼女は心の中で呟く。

 時と場所によっては教会こそ情報を集める絶好のポイントになる。残念ながらキリストの信仰が薄いこの国では効果は期待できないが、キリスト教徒が多い隣の韓国などではそれなりに有効だ。

「それで、有益な情報だったのかね?」

 目撃だけでは使い難い。それ以上の物かどうかで価値が決まる。彼女はルーベンに聞き出した目撃情報を詳しく伝えた。

「………なるほどな。相手は我々の想像を遥かに超えていたらしいな」

「人員のほとんどを排水路探索に回していましたが、彼女は我々の予想を超えた移動をしていた事になります。………申し訳ありません。陽光への拒絶態度を見たと言う従士の報告を鵜呑みにした結果です」

 連絡を受けた時点で、彼女は可能な限りの探査班を組織して地下に潜らせていた。如何に広いとは言っても迷わせる事を目的とする迷宮ではない。相手の移動できる範囲が限られていれば探索で足取りを追う事は容易いだろうと踏んでいた。

 ところが、ルーベンを迎え戻って来て午後一時を回っても情報が入って来ない。遭遇はおろか手懸りもまるで無い。

 時間だけが経過し、後手を認めて方針変更もやむなしと判断する直前だった。皮肉にも井之浜有紀の連絡によってそれは完全に後押しされる事になる。

「………ただ、なぜ………バイク、なのでしょうか? しかも二人乗りで後ろに居たと」

「従者が運転していた可能性は?」

 もちろん彼女も真っ先にその可能性を考えて、有紀に確認を取っている。

「………百パーセントの断言はできませんが、おそらくは別人だと思われます。それがなんでも、白衣を着ていた女性だったらしいのですが………。ちなみに二人ともヘルメットを被っていなかったそうです。逃走手段にバイクを選ぶのはまだわかりますが、顔を隠さないと言うのは理解できません」

 それに陽光下を行動できるならば、他に幾らでも移動方法はある。

 確かに扇台市は道路整備も都市計画できっちり行なわれているから、百歩譲っても逃走にバイクを使うのは有効な手段だと言えるだろう。

 しかし、それでも顔を隠さない理由は無い。実際、偶然とは言え井之浜有紀に顔を見られなければ、こちらに情報が入るのはもっと遅れていただろう。

(これではまるで、発見されるのが目的のような………)

「向かった方角は?」

 ルーベンは振り返り、本来探査班から入る情報を整理する為に広げられていた地図に目を下ろす。マリ亜は得た情報を地図上に示した。

「都市中心部。………すなわち、方向だけで言えば、暁月学園かと」

 これも疑問の一部である。逃走だとすれば、明らかに方向が正反対だからだ。もちろんバイクの機動力を活かした逃走計画のカモフラージュと見れなくもない、が。

「学園、か………」

 ルーベンの表情がかなり厳しく変化した。

「何か、学園で変わった事は?」

「はい。本日の事ですが、午後一時以降全生徒全教職員が敷地内に入る事を禁止しています。生徒はともかく、教職員まで含むとなると、極めて異例です。

 日本では年末年始は仕事をしない傾向にありますが、その場合でも学園内が完全に空になる事は有り得ません。第一、生徒はともかく、今回の失踪多発事件への対応問題の姿勢を見せる時に職員が帰宅では周囲が納得しません。

 ………もっとも、私はそのおかげで半休届けを出さずに済みましたが。この他は特にありませんが、やはり関係あるのでしょうか」

 事件と直接関係無い学園側の動きに閃くものがあったのか、ルーベンは舌打ちを漏らした。それも彼には特に珍しい動作だった。

「………あるな。そこまでの大事を引き起こせる存在は限られている。私がこの計画を可能な限り秘密裏に進めるように命じたのは覚えているだろう」

「はい」

 本来ならば前線で活動する彼女が潜入捜査をやっているのもその命令に起因する。最強戦力を隠密に使わなければならない危険な任務なのだ。

「詳しい説明をしなかったが、それはこの街に敵に回したくない厄介な者が居るからだ」

「敵に回したくない、ですか?」

 更に驚かされる言葉だった。東方教会において如何なる怖れも知らず、最右翼と言っても過言ではない、第十二聖衛騎士団団長ゲオルグ・ルーベンの言葉とはとても思えなかった。

「正直に言えば、この街が決戦の舞台となる事を恨んだものだ。運命の悪戯にしては悪意に満ちているとしか言えん。

 奴は普通なら中立だが、この件に関しては確実に敵対する事がわかっていた。強硬手段を取らず、君たちを密かに送り込んだのはギリギリの案だったのだ。君たちは結果として私が考えていたよりも遥かに上手く状況を運んでくれた。

 ………だが、土壇場で気付かれたようだ。奴ならばこの街の、いいやこの国の行政に手を回す事も容易いだろう」

「………今からでも交渉は可能ですか?」

「無理だ。そもそも交渉でどうにかできるのなら最初からやっている。

 相手はマサチューセッツに本拠地を持つ北米北東部最大最古のヴァンパイアロード・ファミリー、【ウェスト一族ファミリー】の現当主だ。我々とは初めから会談の余地が無かった」

「なんですって?」

 東方教会において一目置かれるマスター・グリフォン程の人物を驚愕させるほど、その事実は破壊力を備えていた。


 【ウェスト一族】

 彼らは数世紀も以前から世界最大規模の吸血鬼一族と知られている。構成する近衛・従者は合わせて二百人を数え、吸血鬼には珍しく集団戦闘訓練までされている。吸血鬼と戦う事を生業にした者たちにとっては最大級の強敵であると考えていい。

 ただし、ウェスト一族は早い段階から人間を襲う食生活を否定し、可能な限り人間の犠牲を出さない一族経営を行なっている。ここ百年で実は東方教会を除くほとんどの対魔組織と手打ちを結んでいて、可能な限り人類との共栄方針を取っている。

 近年は献血管理事業を展開し、食糧確保と赤十字活動を両立させると言う吸血鬼世界の中でも異端の一族である。その性質上、一族の中には医者や医療関係者、研究者が多く、第三世界や紛争地帯の医療支援活動で活躍している者も珍しくはない。人類同士が殺しあう場所で、吸血鬼によって命が救われていると言う状態が発生しているのだ。

 如何に東方教会がヒステリーと憎悪と人類霊長主義に燃えようとも、迂闊には手を出せない相手。

 それが【ウェスト一族】なのである。


「そうなると、この行動は我々へのアピールか。罠と言う事は無いだろうが。………単に眼中に無いと言う可能性も否定はできないな」

「今日、学園で何かを行なうと言う事でしょうか」

「何かしようにも準備時間があるとは思えんが。………準備期間、か。待て、ノスフェラトゥの事件発生ポイントは把握しているかね?」

「一通りは」

「この地図に記してみてくれ。最低限でいい」

 彼女は言われるままに把握しているだけの地点にポイントを打った。

「………なるほど」

 印を打っているうちに、彼女にもそれが見えた。

「印だけではわからないな、これは。学園をキーとして頭の中に入れておいてこそ見えてくる訳だ。単純だが、学園は見事に中心だな。ノスフェラトゥが月の使徒だとすれば、明らかに魔術的な動きだ」

「………では、彼女が学園に向かうのは?」

「関係していると見て間違いは無いだろう。………どちらにせよ都合は悪くない。どうやらここが決戦の地となるようだ。

 マスター・グリフォン。一切の探索活動を中止。以降命令があるまで二種待機だ。それから戦闘可能な君の専属従士に連絡。午後三時に学園内に突入。敵種排除を行なう」

 一通りの指示を出すと、ルーベンは再び窓から外に目を向けた。そうして、一言静かに呟いた。

「厳しい戦いになるぞ」


   7


「バッカじゃない?」

「いいっしょ? これが私の《ライドウインド》だよ~ん」

 時間が来た私たちは、店内からまた秘密通路を使って上昇。目的は準備された移動の為の足に乗り込むため。そして、どこかにあるガレージに到着した。

 全く、この女は普通に出入り口を使うって言う発想は無いのか。そうツッコんだら「この方が面白いじゃない」と笑って返された。

 で、今私たちの目の前にあるのはバイクだった。ミナトはシートに頬擦りして黒光りするボディを指でなぞったりしている。

 ハーレーだった。シートは後ろに誰かを乗せれる二ケツ上等仕様。

 レザーバリバリのハードゲイかグラビアのビキニギャルが乗ればそれなりに絵になるけれど、白衣の女ではギャグにしか見えない。

「私ってバイクってヤツに目が無いの。特にこう言うハードなヤツ。スポーツ系はあんまり燃えないのよー」

 煙草やキスフライの時も似たような事を言ってたぞ、この女は。

 いや、問題はそんな事じゃない。

「バイク………は、ちょっとまずいんじゃ」

「なんでー? バイク嫌い? 爆音とかダメ?」

 そう言う一般家庭的な問題じゃありません。

「いや! これ、もろに直射日光浴びますけど? 直撃っす、これ!」

 覆いすら無い。提案しているミナトは平気らしい。

 そう言えばさっき買い物にも出ていたし。誰かに頼んだかとも思ったけど、あのセクハラな品揃えは絶対に本人の仕業だと思う。と言うか第三者が関わっているとか思いたくない。

 吸血鬼には長く生きる事で日光を克服できる者もいるらしい。ミナトは若いと言うけれど、やっぱり相当齢を重ねていると見た。

 でも、私は吸血鬼になったばかりなんだってば。

「んー、その辺はたぶん大丈夫だと思うけど? 貴女はもう日光は苦手じゃないでしょ?」

 ………なんて無責任な発言だ。

「では問題。ここは地下何メートルでしょう?」

「………は?」

 また妙な事を訊く。

 って、そんなものわかる訳ないじゃない………いや、方向感覚の応用かな?

 ………でも、どうも感覚的には、ほとんど地下じゃない気もするんだけど。

「正解は………んーと五十センチくらいかな。つまりほぼ地上なんだけど、気分悪い?」

「え、あ、ううん。でも、日光入ってないし、建物の中だし」

「私たちみたいなのが日光に弱い場合、昼間でもわかるくらい億劫な筈なんだけど」

 体調も悪くない。気分も大丈夫。身体も普通に動く。

「たぶん、貴女は凄い速さで高レベルの卿クラスに変質しているのよ。今に海水浴だってできちゃうんじゃないカナ?」

 あ、うん。これって、そう言う事なんだ。へー。

 でもちょっと待った。

 血も吸わず、日光にも焼かれず、水も苦手としない。人間なら普通の事だけど………それって、吸血鬼と言うんだろうか。

「あれ? ちょっと待って。その本も、持っていくの?」

 白衣のデカポケットに例の本を突っ込むミナト。でも、幾らなんでもそれは………。

「あー、これねー。うちの家宝で代々当主が持たなきゃならない事になってるの。四六時中ね。それこそ何処に行こうが何をしようが。トイレでもベッドでもナニの最中でも」

 ………その本を側に置くと、何をしても何らかの儀式みたいになりそうだ。

 随分変わったしきたりもあるものだ。世界は広い。まして吸血鬼の習俗を含めれば当然更に広くなるだろうし。

「ふうん。ところで、その【混沌皇の幻視】って、一体何の本なの?」

 私の何気ない問いに、ミナトの顔に驚きが映った。

「………うっそ、読めるの? このタイトル」

「え? ………あ、うん。何となく」

 ………マズったかも。何となくで古代ラテン語が読める訳がない。

 アラビア五角星の時と同じ。いや、こっちの方が先だった。有る筈の無い知識が私の中に有る。もういい加減、驚くのも飽きてきた。

「これはね、魔導書よ」

「魔導書って、魔術とか書いてあるの?」

「半分はね。魔導書って言うのは魔術の方法や異界の知識が記された、言ってみれば人間を魔に導く外法の書よ。

 これは………そう。大昔、まだ中国にもエジプトにもティグリス・ユーフラテスにも文明が無かった頃。窮極の知識を得る為に、自分の精神を《全ての事象に通じる宇宙の中心の混沌》に飛ばした魔術師がいたの。

 しかし、彼は精神がズタズタになって帰還した。この本には彼がそこで得た知識の全てを引き出す術が記されている。混沌で観た物を記すから、【混沌皇の幻視】と呼ばれている」

「………へえ………」

 凄いのかどうかはピンと来ないけれど、スケールが大きい事だけはわかった。

「でも、私にはさっぱりなんだけどねー」

 あらららら?

「まず読めない。そもそも中身が文章じゃない。一種のパズル。それを解くのに何をどうするのかがわからない。それでも世界中の物好きがこれ、欲しがってるのよねえ」

 そう言う人って世の中に結構いるものだ。役に立つ立たないは次の話でとにかく蒐集する、マニアとかコレクターとか。

「ちなみに、一番高値を付けているのが東方教会…………と言うか、あんまりおっきな声では言えないけれど、カトリック総本山のバチカン。その額、何と一千万」

「うわ………でも、何でバチカンが魔導書なんか」

 いつか古書のオークションを見た時は、百万円とかする古い漫画の初版なんかはあった。しかし一千万と言うのは桁違いだ。

 もうこうなると国宝級の貴重な本とか、そう言うレベルの話なんじゃないだろうか。

「言っておくけど、ユーロだから」

「………へ? ユーロ?」

 ちょっと待った! 一ユーロ約一〇〇円として、一千万ユーロは日本円で………、

「じゅ、十億ッ………?」

 次元が違う。これはトップクラスの芸術品並の値段だ。

「賞金首なのよ。そう考えると、不思議じゃないのよね。フセインとかビンラディンとかにかけられた賞金だって十億円くらいだったでしょ。それに魔導書の類って、昔っからカトリックの目の敵にされててね。これ、バチカンの焚書リストに何百年も前から上位に定位置を確保中。昔はこれ狙いのハンターとか泥棒とか多かったらしいわ。それに、これには写本とか存在しないから余計にオリジナルの価値が高いのよ」

 確かに、幾ら古くて珍しい本でも一冊十億円は高い気がする。つまり、美術的な価値、歴史的な価値。そう言ったプラスアルファが必要なんだと思う。

 例えばただの辞書もナポレオン愛用品だったならかなりの値段が付くだろう。

 でも、気のせいかな? 私にはこの本の価値とか存在はそんなものじゃない気がする。

「はいはい、それじゃあ後ろに乗って。暁月学園に行くわよ」

 ミナトが何かの合図を送ると、ガレージのシャッターが自動で開いた。

 ………全く、ギミックの多い秘密基地だわ。趣味が出ている。

 そして、シャッターが開いた先は、私も知っている階層式大型駐車場だった。

「わわっ」

 通路の先から午後の低い陽射しが差し込んでくる。

「わ………あ?」

………けれど、私の身体には何も起こらない。

 人間の頃、普通に外を出歩いていたのとなんら変わりないのだ。

 朝の出来事が、まるで夢だったのではとすら思える。

「ほーらね。大丈夫でしょ。ま、私たちが出っ張る以上楽勝ですよ」

 エンジンキーが回される。エンジンの起こす機械の動悸が空気を震わせる。結構うるさい。

「ヘルメットは?」

 バイクはヘルメット着用が必須の筈。けれど、このバイク置き場にはそれらしい物が見当らず、ミナトもマイメットらしい物を取り出しもしない。

「いらない、いらない。仮に事故ってもバイクが壊れるだけだから。むしろ視界が狭くなるから着けない方がよっぽど安全」

 …………その理屈は、わからなくもない。

 うん。でもね。問題はそこじゃないんだ。

「私たちは良くても、警察とか!」

「だいじょぶ。白衣着た女が乗ってるハーレーは治外法権で通ってるから」

 どうやらこの女はさっきのクラブ経営もそうだけど、この街で好き放題やってるらしい。

 覚悟を決めて、後ろに座ってミナトに腕を回した。

「二ケツって、した事ある?」

 今更訊くな。

 大体誰とやれと言うんだ。

「無い。でも映画とかで見たから知識はある」

「オッケー、それなら上等。じゃあ行きますか。いざ、戦場へ!」

 猛獣のような唸りを上げて、私たちを乗せたバイクが街に飛び出した。

 日没まで、あと三時間半。


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