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穢れた月の夜に  作者: 山和平
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第二章 漆黒たる前奏曲

   0


  月よ 月よ 

  天空の牢獄に朱く輝く 大いなる穢れた月よ

  その赤錆びた輝きの洗礼は空を濡らし

  魔の慶びの咆哮は砂漠の闇の虚に響く

  血垢で染められた玉座は 賢者の魂を絶望に凍らせ

  狂気の触手は夢の奥底までも支配し 血の涙を供物に奪う

  嗚呼 月よ 虚現を腐らせる混沌 大いなる穢れた玉座の月よ 

  今宵 汝の満ち満ちたあかい闇の夜を 破滅の調べと発狂の詩で彩ろう


                ジャクリーヌ・ジョフリー 「妖月」より

                和訳 西ミナト (飯綱大学教養文学史講師)

   1


 最初に感覚が現れたのは、冷たい床に触れている右手だった。

「………んー?」

 自分の中で何が起きているのか理解できず、カリカリと床を右手が軽く引っ掻く。

 微弱な振動が指から腕、腕から肩、肩から身体の中心へと波を送る。

 コンクリートの冷たい感触を認識する事で、意識は急速に戻り始めた。

「………ここは?」

 自然に瞼が開く。

 長い二房の前髪をかき上げて眺めて見ると、そこは何かの建物の中だった。

 照明になりそうな物は何も無いけれど、ここの内装がどう言うものかははっきりと見える。

(……何かの大型倉庫、って考えるのが妥当かな)

 ちょうど失われた聖櫃アークを探すアクション映画のエンディングシーンがこんな倉庫である。

 起き上がって息を一度大きく吐いてその分だけ吸う。

 肺の中に溜まっていた澱んだものを吐き出したお蔭でか、少し気分が良くなった。そうして落ち着いてから、周囲を見回してみた。

 パレットに積まれている荷物。壁の素材。高い天井。三和土のコンクリ床。

 以上、どう見ても倉庫。これが倉庫じゃなければ、きっと超精密な撮影セットだろう。

 その中、貨物に囲まれて窪地になっていた空間に私は寝っ転がっていたらしい。

「………さあて、問題わぁ、私が何でこんな所に居るか、なんだけどー。………うんにゃ、そもそも私って………死んだんじゃなかった?」

 さっきからやけにスースーする胸元に視線を移す。

 破かれた制服から覗く剥き出しの乳房が映る。

 が、傷らしい物はどこにも無い。自分で見下ろしてもうっとりするような綺麗できめ細かい白い肌が見えるだけ。

(………はて、私の肌はこんなに綺麗で艶かしいツヤがあっただろうか?)

 まあ、それはいい。まだお肌をいちいち気にする歳じゃないし。綺麗ならむしろ問題無し。

 制服のブレザーは下のブラウスとブラもろとも無残に千切れ破れていた。ワイヤー入りだったのだけれど。

 が、布地には血などの付着物も何も無い。少なくとも記憶にある状況があったならば、制服は着れた物じゃないほど破れて私の血肉で汚れた筈だ。これじゃあただ乱暴されただけって感じもする。

「………えーと。一応、確認」

 スカートの中に手を入れてショーツを確認する。履いているし、異状があったようには思えない。確かめようとも考えたけど、そこまでする必要も無いと思ってやめた。

 私もお年頃だし身体を持て余す事だってあるけれど、今この状況で入れる気分にはならない。

 そう言えば、これ丸『二日』穿きっぱなし? ヤバくない?

 と言っても脱ぐ訳にもいかないので別の方に意識を向けた。

 前部の破損を除けばきれいなものだ。

 靴もソックスも、身に着けていた物で欠けた物は胸元のリボンを除いて何も無い。

 剥き出しの肌を触ってみても、大怪我、と言うか削られたようにはとても思えない。

 人間の身体の修復力には限界がある。ある程度以上では傷が残るし、切断面がきれいでも完全に元通りになるとは限らない。

 まして肉が抉り取られてしまっては治る為のベースすら無くなると言う事である。

 それが元通りと言うのは、もう治癒とは言わない。復元だ。

 そして、記憶が事実なら、私が負った負傷は欠損。どんな天才外科医でも命を救う事すら不可能な状態だったと思える。

「………まあ、実はとっくに死んでいて天国か地獄って線もあるか。死んだら綺麗な身体になるとか言う宗教もあった気がする。でも、この光景はどっちにも当てはまらない気がするけど」

 だって、周りに穀物袋とか積んでるし。

 どんな天国? 地獄でもいいけど。

 これはやっぱり私は生きていると考えるのがまず自然だろう。

「あとは、そうね。例えばどこかの研究所から漏れた強力な幻覚作用のあるガスか何かを吸って、変な幻覚を見て前後不覚になって、この倉庫に迷い込んだ。二日ほど倒れて、今起きた。服とかは来る途中で破けた、と言うのはどうだろ?」

 でも、服やブラは壊れたり破れたりしても不思議は無いけど、千切り取れるのはよっぽどだ。

 仮に交通事故に遭ったって、ワイヤー入りのブラジャーはそうそう千切れる筈が無い。ええ、寄せて上げていましたとも! 

 が、これも自分で言っておいて何だけど、かなり綱渡りな仮説だ。

 しかし困った事に、怪物に身体を抉り削られて死んだ筈なのにピンピンして生きている、と言うよりもずっと現実的ではある。だって人は死んだら生き返らないのだから。

 ただ、私の中の何かが、その仮説を否定している。それも、かなり強く。

「となると、ここは普通に考えると湊内よね。この街でここまで大きな倉庫が在るって言うのはそれくらいだし」

 私が扇台市から離れている可能性もあるけれど、なぜかそんな気はしない。

 もう一度、今度は床を見渡してみる。

 が、探した物は見付からなかった。何を探したかと言うと私の鞄。あれにはケータイもお財布も生徒住民IDも入っている。在れば儲け物程度の思いだったが、やはりそう上手くはいかないらしい。

「………よくわからない、《幻巣世界》って言ってたかな。あそこで落としたんだよね。こんな所に在ったら世話ないか」

 とにかく、ここに居ても始まらない。

 幸いまだ夜明けまで間はあるし、外に出ても問題は無いだろう。ここが湊内区ならば、中央区まで直通の専用幹線道路がある。それを辿れば家まで戻れる。ただ、一般車両は入れないからヒッチハイク等は期待できない。

(………ま、この格好じゃ無理だわ。問題になっちゃうよ)

 さすがに普通には見えないしファッションと押し通すのも無理がある。下手をすれば更に犯罪を誘発する可能性も、ま、無くは無い。

(こんな私でもねえ………)

 そっち方向に意識を傾けると何だかヘコむので取り敢えず出口を探す事にした。

 身体が軽い。

 ぐっすりと八時間睡眠を取ってぱっちり目が覚めたような、いや、それ以上に爽快だ。まるで重い荷物を投げ捨てたような、清々しさ。

 ここまで堂々とした倉庫なのだから出口は簡単に見付かった。 

 こう言う大きな倉庫は物をギッシリ置かない。要はフォークリフトが通る道に出ればいいだけだから。後は入口が見える方に行けばいい。私の居た場所は結構奥だったけれど出口を見付けるのに問題は無かった。

 荷物搬入用のゲートは固く閉ざされていたけれど、作業員などが使う人間用の出入り口には鍵もかかっていなかった。普通は戸締まりすると思うんだけど、ラッキーって事で。

 扉を開けて外に出ると、途端に潮の香りが鼻腔をくすぐった。

 大型の倉庫が林立していて直接見える訳ではないけれど、これは海の匂い。ここが臨海である証拠だ。幾つかの倉庫に目を向ければ、『湊内臨海倉庫』と言う文字とナンバーが並んでいる。

(やっぱり湊内で間違いは無い、か)

 湊内区は扇台都市計画の一環で作られた作業港を中心とするブロックで、街の建築資材のほとんどがここから搬入されている。

 また、現在では一般流通品もここに一度集積される事になっている。それらを保管する倉庫は一つの街を作れるほど設置され、その様子に相応しく『湊内倉庫街』と呼ばれている。

 さて、外には出た。次はどうするか。

「えーと、とにかく家に戻るのが大事よね。制服こんなだしお金無いし」

 ブレザーもブラウスも前述の通り服としての最低レベルでしか機能していない。ブラジャーに至っては着けていても何ら意味が無い状態だ。制服も思いっきり千切れているから左の胸が隠せない。

(………さすがにこのままで出歩く趣味は無いしなあ。いっその事ブラウスを脱いで胸だけ巻くのはどうか? ひょっとするとキャミっぽく見えるかも)

 馬鹿だ、馬鹿がいる。

 とは言っても胸を放り出して歩く訳にもいかない。

 ブレザーを脱いで、ブラウスに手をかける。

 ………まあ、私にも油断があった。こんな時間だしこんな場所だ。

 まさか、自分の他に誰か居るなんて考えもしなかった。

「………なんだ、起きたのか、あんた」


 ……なーんでこう、後ろから声をかけられるかなあ。


 ゆっくりと振り返って、覚えのあるその声の主を確認する。

 コンビニ袋を片手に持った白輝速飛が、そこに立っていた。

 妙にコンビニ袋が似合っていた。


   2


「ほら、さすがにそれじゃあ表歩けないだろう。こいつに着替えてくれ。あんたはともかく周りには目の毒だ」

 私は結局、彼の促すままさっき居た場所に戻った。

 ところでそれはどっちの意味だ。良くても毒。悪くても毒。便利な言葉だ。

 もちろん、私だって気にする。さっきは全然隠さなかったし、悲鳴も上げていないけど。彼氏以外に乳首見られてもショックってほどでもなかったのは自分でも意外だ。

 と言うか、人気の無い場所で二人だけと言う状況だけど、今の状態では甘い空気になんてならない。それは二人ともわかっている。

 コンビニ袋から投げ渡されたのは封も切られていない新品の白ワイシャツだった。

「………見ないでよ」

「そこの物陰でも使え」

 本当に恥ずかしさの欠片もなくそう言った。わかっているとは言え、なんか変に悔しい。

 コンテナや貨物が積まれた奥は充分に目隠しになる。

 ストリップの趣味は無い私は言われた通りそこに入り、ブラウスを脱ぎ捨てた。ついでに少し悩んで、半分無くなったブラジャーも外して丸める。下着が無いとたぶん生乳が透けるんだけど、この際気にしない。

 そうしてから渡されたシャツを羽織り………そして気が付いた。

「ちょっと! これ、男物じゃないっ!」

「当面の都合なら充分だ」

 くっ。反論できないので唇を噛んだ。そもそもこのシャツは完全にお情けで頂いた物なので本来文句などお門違いではある。

 そんな訳で迷ったけどブレザーも着直す事にした。シャツが男物でもパッと見る程度ではわからない物だし、羽織るくらいなら破れも目立たない。校則違反って訳ではないけどちょっと制服と合わせるのに抵抗がある。

 シャツのサイズはガボガボだ。胸の部分のボタンをかけるのがきっついのに腕や裾が余る余る。裾はスカートの中に入れると下からはみ出るペチコート状になるし、腕は仕方ないから袖を大きく捲り上げる事にした。

 何十年前のVシネマ武闘派女子高生なんだか。珍妙な生き物が一匹でき上がりだ。

 着替えを終えた私は彼の前に戻り、適当な貨物に腰掛けた。とにかく頭の中にある疑問をぶつけられそうな相手ができた事は幸いだと思う。

「さて、色々と訊きたい事もあるだろうが、取り敢えず質問に答えてくれ」

「は?」

 逆じゃないのか、それは。私の方が何にもわかんないんだから。

 けれど、彼が出した質問はそれに輪を掛けて奇妙な質問だった。

「あんたの名前は?」

「………はあ?」

 私が訊き返したのも不思議じゃないだろう。

「名前だよ。フルネームで」

「えっと、陽凪詩絵里」

 これは、あれか。まーた性格診断テストとかその辺りの質問か?

「今何歳だ?」

「十六。誕生日が六月だから」

「家族は?」

「両親と私の三人」

 奇妙、と言うよりも、今この場にはそぐわない質問。頭部に怪我などした時、簡単な質問で意識を確認する事はあるけれど。

「今日は何日だ?」

「五月八日でしょ。曜日は切り替わったけど、まだ夜明け前」

 ………………んん? 待て、ちょっと待て。それは、変だ。

 何故、時間と日付がわかる?

「………なるほどな。じゃあ俺からは一応最後の質問だ。あんたは、自分が一度死んだ事を覚えているか?」

 それは私がまず尋ねたかった本題だった。それをよりストレートな表現にしてはいるけど。

「………え?」

「着ていた服の通りの傷を負って死んだ事を覚えているか?」

「ちょ、ちょっと待ってよ。死んだ死んだって、私は今生きてるでしょ。何? それじゃあ今の私は何だっての?」

「その質問には後で答える。今は、その事を覚えているかどうか訊きたい」

 何かを超越した切羽詰まった雰囲気。それは真剣で真摯な態度だった。

「つまり、この制服とか、そこにあるブラウスとかが何であんな破れ方をしたか覚えているかって事? 

 ………ああ、もうっ。あのね、黒い四本腕の化け物に一撃で引き裂かれたのよ。それも、服だけじゃなくて肉や骨ごとね。これで満足? もっとも、そんな傷なんてないから変な夢か幻覚でも見たんじゃないかって思ってるんだけど」

 私の独白が終わると、彼は充分と言う感じで頷いた。

「………いや、間違い無い。俺があんたを見付けた時、あんたは死体同然だった。今言った通りの傷を負ってな。死因は差し詰め大量失血によるショック死ってところだろう。血を片付けるのに苦労した。まあ、あの状態じゃあ心臓だって無傷かどうか怪しかったな」

「………ちょい待ち」

 じゃあ、あれはすべて現実って事?

 奇妙な場所に迷い込んだのも、化け物に遭遇した事も、私が………死んだ、のも。

 いや、それでは余りにも単純な事を説明できない。

 ………つまり、何で私はここに居るんだ?

 死んだと言うなら、いや、死と同等の大怪我が事実なら、私がここにこうして存在している事自体おかしいのではないか。

「私を見付けて、それでその後どうしたの?」

「後始末して、ここに運んで転がしておいた。さすがにあのままにはしておけなかった」

 死体を、見付けて、運んで、放置。どー言う思考回路だ。

「警察とか救急車とか、そう言う発想じゃないのね」

「あんたが蘇生する事はわかっていたからな。実際、俺が見付けた時は呼吸停止脈拍停止瞳孔散大その他諸々にも関わらず、失った部分の復元が始まっていた。そんなのを人目に付く場所には置けないからな。俺の目的にも反する。ここに運び込んだのは、日光が差し込まない場所で、連中の目を誤魔化せそうな所が他に思い付かなかった。距離が距離だから随分苦労した」

 白輝はBUSS微糖の缶コーヒーをすすっている。私には無しか。

 ……別に喉は渇いてない、けど。今は少し喉を潤す物が欲しい気がした。例えば………水、じゃないな。もうちょと味があるもの………まあいいか。

 軽く、深呼吸した。次に吐き出す言葉が喉につっかえないように。

「………私は、何なの?」

 今言われた事を全て真実と捉えるなら、どう少なく見積もっても私は【人間】と言うカテゴリには入らない。その魔物のような考えは、私が『生きている』と知ってから、理解してから、意識の根底に常に潜んで頭をもたげようとしていた。

 そして、目の前の白輝ならば、この問いに答えを出すと言う確信があった。

「そうだな。概念的に一番近くてわかり易いのは吸血鬼か」

 あっさりと解答した。私の重大事を何だと思っているのか。

「……ごめん。意味ワカンナイ」

「今はピンと来なくたってすぐに理解できるだろうさ。が、早く理解して貰った方が俺にも都合が良いからな」

 白輝はそう呟くと、折り畳み式の四角い鏡を私に投げて寄越した。男子も持っているようなごく普通の飾り気のない有り触れた物だ。

「それで寝癖をチェックしてみろ」

 あー寝癖。そう言えば考えもしなかった。それにあんな場所に寝ていたら顔に跡だって付いているかも知れない。

 言われた通りに鏡を開いて自分を映して、………そして、声も出なかった。

(………何、これ? え? 歪んでる?)

 まるで私の部分だけ不定形にチラチラと画が歪んで、私の背後の景色を映している。試しに別の物を映してみたけれど、それは普通だった。

 つまり、私の周囲だけが歪んで映るのだ。

「吸血鬼は鏡に映らないってやつだな。理由は色々あるんだが、説明するのは面倒臭い。少なくともキリスト教的解釈ではないけどな」

 なんだっけ。確か吸血鬼には主の加護が無いから映らないって理屈があるんだったか。

 古い吸血鬼映画にそんな話があったような。

「ちなみに写真や動画もアナログ・デジタルに関わらず駄目だ」

 スマホのアプリには意味不明のジョークアプリもあるが、こんな薄い鏡に変な機能を搭載している筈が無い。ドッキリアイテムかと思ったけど、私だけと言うのは変だ。

「あんた、この倉庫内がどう見える?」

「どう……って、別に普通に見えるけど?」

 それでも鏡に何かトリックが無いかと調べている私に、彼がそう尋ねた。

「普通、か。ここの警備員は警備用のライトで見回りするんだ、普通はな」

「………あ」

 そうだ。今まで何でそんな事に気が付かなかったのか。

 照明も明かり取りの窓も少ないこの倉庫の中が、どんなに夜目が利いたって普通こんなにはっきりと見える筈がない。

「アフリカの人間はこのくらいの闇でも見えるそうだがな。後はそこら辺にある鉄パイプでも曲げてみればいい。今のあんたなら高層ビルの建築に使う鉄筋でも蝶結びにできる」

 自分でもちょっと意外だけど、私はそう言われてやる気が起きるほど調子の良い性格ではなかったらしい。

 でも、だからと言ってショックを受けている訳でもない。普通は驚愕するべき事実をごく普通に捉えていた。

 ああ、そうなのか、って感じだ。母親が「ちょっとお買い物してくるから」と言う程度の会話レベルだろうか。

 しかし、仮に私が吸血鬼と言う存在ならば、まず第一に挙げるべき特徴がまだ出ていない。

(吸血鬼の語源点………ヴァンパイア、チスイコウモリは後からで、あ、『ヴァンプ』って男殺しとか淫乱とかそー言う意味もあるんだっけ)

 私の悩みを見透かしたのか、彼はコンビニ袋ごと残りの中身を私に投げた。

「一応、準備しておいた」

 受け取った感じでは何か液体の詰まった物だ。おそらくパックジュース。紙じゃなくてスポーツドリンクでよくある形のヤツ。

 取り出して確認。実際、それは確かにパックジュースに酷似した形状だった。

 形だけは。

「………なに、これ」

「ファンタの新発売」

「へー、『ブラッドタイプ O』って書いてあるわね………って、これ輸血パックじゃないのよっ! どっからこんな物を持って来たのよっ!」

「病院の保管庫で廃棄寸前のヤツだ。しかも一番ストックが多かったO型を持って来た。どうせ今日の夕方に廃棄になるんだから気にしなくていい」

 血液は保管できる期間が存在する。だからこそ献血車が毎日のように街頭に居て「血が足りん足りん」と言っているのだ。

 それはいい。問題はこれをどうするのか、と言う事なんだけど。

「………つまり、飲めって事?」

「あれだけの傷を復元修復したのなら、幾ら吸血鬼でも栄養補給は必要だ。空きっ腹じゃあ殺されるぞ」

 私は輸血パックをまじまじと見た。飲み易そうなのは認めよう。道具は無いけど角を千切って中身を吸えばいい。

「うーん、今はいいや。別にお腹減ってる訳じゃないし」

 てっきり現物を見たら飲みたい衝動でも湧き起こるかと思ったけど、別にそんな事は無い。

「無理をしてる訳じゃないのか?」

「ううん、マジ。空腹感みたいのが全然無い」

 別に吸血行為に嫌悪感とか忌避する気も起きてる訳じゃない。お腹一杯のときにバイキングに行っても食べたいとは思わない、その感覚だ。

「お腹減ってたら貰ってもいいかなーとは思うけど」

 私の説明に、彼は初めて悩んだような顔をした。

 が、くっくと笑いを漏らした。

「いや、ムラがあるって事なのかも知れないな。状況が状況だ。不完全な覚醒だったとしても不思議は無い、か」

 笑う所を初めて見た。いや、この男が表情らしい表情を出すのを初めて見た。

 それにしても、また意味のわからない事を言う。吸血鬼だと言ったのはそっちなのに。

 確かに吸血鬼が血を要らないと言うのは変なのか。あるいは、私は吸血鬼なってもヘンなのか。………いやあ、笑えねえ話だねえ。

「あー、変って言えば、何で私にそこまでしてくれるわけ? 一応助けられたって事になるんだろうけど、廃棄直前とは言えさすがに輸血パックをギッて来るのはマズくない?」

 危ない橋どころじゃないだろう。

 変って言えば、彼の行動の方がずっと変だ。

 吸血鬼を匿ったり輸血パックをかっぱらって来たり。その行動はまるで私を護ろうとしているかのようだ。

 ………何で? 別に特別親しかった訳でもない。そりゃあの日、ちょこっと会話はしたけれど、それ以上の間柄ではなかった筈だ。

「えっと、もしかして吸血鬼マニア、とか?」

「………あのな。まだわからないのか。やっぱりムラがあるんだな。頭の中がまだちゃんと動いていないのか」

 呆れた表情が向けられる。

「………もしかして、私は馬鹿にされてる?」

 クールでワイルドキャラかと思ってたら、実はクールで皮肉キャラだったか。

 人の顔を見て「ふう」とこれ見よがしな溜息をつくのがまたそれっぽい。眼鏡をかけてりゃ完璧だ。

「無知を馬鹿とは言わないさ。ああ、つまりな。俺も吸血鬼なのさ。分類上はな」


 そーかなるほど、今度はそう来たか。


   3


 俺も吸血鬼、なのね。ほー。

「嘘だぁ! だって普通に昼間外歩いてたじゃないっ!」

 当然の疑問が口から飛び出す。学校も、映画館も、昼間だ。

 いやいや、それどころか午後の凶悪な陽射しの中の体育だってある。グラウンドを走ったり、走り高跳びをしたりしている姿も見た事あるし。丸一日炎天下に晒される体育祭にも出ていた筈だ。割と活躍していた。

 更に。

「………ちょい待ち。去年の体育祭で、あんたの写ったリレーの写真が物凄い値段で取引されたのを知ってるんだけど。カメラには写らないんじゃなかったの?」

 写真は冷たくないからね。美人アイドルがどんな性格でもブロマイドや生写真の笑顔は裏切りませんから。酷い言葉も吐かないし。塩対応もしないし。

「その時は吸血鬼じゃなかったって言うわけ?」

「いや、俺のカテゴリはダンピール、吸血鬼と人間のハーフってヤツだ。だから人間と同じように生活できるし、カメラにも普通に写る。吸血鬼の中にはデイライト・ウォーカーと呼ばれる昼間出歩ける特殊な連中もいるが、俺の場合はそっちには該当しない」

 あーあー、確かにそんなものも聞いた事がある。

 もちろん、私の情報源なのは映画中心のフィクション作品だから実際のものとは差異があるに決まってるが。

「もちろん、人間の中で生活するには不便な事も多い。でも、俺は他の普通の連中よりも社会に溶け込む苦労は少ないな。食事も基本的には人間と同じでいい。ただ、魔力を発揮するにはやはり血液がいるんだ。それで、必要な時には失敬する事にしている。全く最近は便利な世の中になったよ。血液を溜めるなんて、普通吸血鬼の発想だろ」

 その言葉ぶりが気になったので訊いてみる。

「あー、もしかして、吸血鬼定番の年齢詐称、とか?」

「そんなに歳は取ってない。まだこの身体で五十程か」

 五十。充分に驚愕に値する、が。

「吸血鬼にしては若い方だって言いたいの?」

 吸血鬼とわかっていれば驚く理由は全然無いやね。うん。

「百年単位で生きる連中だっているんでしょ。まあ究極の怪物の一つと言われるだけはあるわ。その姿で五十とか言われたら、金と権力持ってる奴なら欲しいって思うわよ」

 そう言った時。

 何かが頭の中で引っ掛かった。いや、直感的な閃きか。

「………あ、じゃあひょっとして、アレももしかして、吸血鬼だったりして」

 脳裏に浮かんだのは、あの不細工で、汚らしい化け物。

 思い出しても胸の奥から嫌悪感が溢れる。絶対に駄目だ。あれは、私とは合わない。

 ………私は、何を言ってるのか。あんな化け物に対して、合うも合わないも無い。

 アレは破壊するべきモノ、だ?

 ………破壊? どうやって?

「アレ、とは?」

「私が出会った怪物。随分と人間の形から離れてはいたけれど」

 獣っぽい所はあるけれど、本質は近い気がした。

 ただ、あの感覚は正反対。人間の関係でも時々あるけど、「こいつは自分とは違う人間で絶対に同じ天を戴けない」ってのを初見で思う事があると思う。

 それの延長線上にある感情。経済対立、地域紛争、宗教対立とか人種間闘争とかそんな稚拙な段階を遥かに超えた究極的な位置にある気がする。

 たぶん人類は表向き、まだそんな存在に遭遇してはいないんだろう。だから、喩えるべき言葉がぱっと出てこない。

 陳腐な言葉で飾るなら、【対抗勢力】とでも言っておけばいいか。

「ああ、ノスフェラトゥか」

「知ってる事にはもう驚かないけど、そいつそう言う名前なの?」

「いや、カテゴリだな。吸血鬼の変異亜種だからあんたの発想は間違ってない。

 あいつらは本来吸血鬼が隠し持つ魔獣性を引き出した連中だ。ほとんど凶暴な魔獣で、純粋な腕力では上級吸血鬼ハイ・ヴァンパイアでも相手にならない強さを発揮する事がある。

 しかも知恵と知識も残っているから尚厄介だ。素体の能力如何では既得した魔術や呪法も普通に操るからな。ただ、思考回路のほとんどを本能に持っていかれるのが致命的な欠点だ」

「本能、って?」

「食欲だよ。吸血鬼の本能の中で一番強い。それも大概は吸血ではなく喰う方にシフトする。多くの理性ある上級吸血鬼がノスフェラトゥを嫌うのは、血液ではなく肉を食うスタイルになるかららしい。貴族様には肉を喰うのは下等だって言うプライドがあるんだそうだ」

 プライド、か。わかるような、わからないような。

「強い力を節制するのが美徳だって事さ。ノスフェラトゥは多くの場合、力に呑まれた吸血鬼の成れの果てだ。本来なら色々な方向から処分される筈なんだが、この街に現れた奴は少々特殊だった。お蔭で、あんたを含めて今日まで十人行方不明になってるが、あんたを除けば全員すでに奴の腹の中だ」

 あ、犠牲者が増えてる。

 でも、あれから二日経過しているのだから増えているのは不思議でも何でもない。第一あの結界は反則技だ。あんな技を使われたら見付からないに決まっている。

 加えて言えば、塾帰りとかは案外人通りの無い場所を一人で行動する事がある。

 つまり目撃者も出にくい。あの怪物がそこまで考えていたかは疑問だけど、つるんで行動する不良?よりも優等生の方が犠牲になり易い要素があった訳だ。皮肉って言えば皮肉。

「………あいつ、ヨッコを餌にするって言ってたな。………もう食べられたか」

 あれから三十時間以上経過している。助かっている可能性はゼロだ。


「………あ、………あはっ………あはははははは」


 突然だった。自分の奥底から乾いた笑いが込み上げてくる。さすがの速飛も私の事を訝しげに見つめている。

「あはははははははははははははははっ」

 止まらない。何がおかしいのか、それすらも忘却してしまいそうなほどに笑い続けた私は、椅子にしていた何かの穀物袋の山に大の字に身体を投げ出した。

「………友達が怪物に喰われたって考えたのになーんにも思わないなんて、価値観が変わってるって事よね。………変なのー。こんな事で人間じゃないって認識するなんて」

 その事に嫌悪感を抱いていない自分に、違和感すら覚えない。

「決して陽子の事を軽んじている訳でもないのに」

 彼女との思い出は尊い。それは間違い無い。

 楽しかったし、間違い無く友達だった。

 にも関わらず、私は彼女の死を悲しんではいない。

 なぜ悲しむのか?

 それは喪失の悲しみだが、それは表でしかない。

 究極的に言えば、それは人間同士なら「死」を共感するからだ。

 斉しく訪れる死への恐怖が湧き上がる事で、自らにいずれ訪れる死に対して悲しみを抱く。

 人間ではなくなった私は価値感の共有ができなくなったと言う事だろうか。

「そうだな。精神的なズレは確かに大きいかもな。もっとも、その様子じゃ混乱もしていないようだが」

「………他人事だと思ってさ。まあ、そうなんだけど。とんでもない話なのに驚きもしてないし、全部本当だって理解もしてる」

 これまで通りの生活に入っても生活できなくは無いだろう。でも、きっとそれは表面だけで内面の立ち位置は全く異なる筈だ。

 ちょっと妙な両親。友人たちとのお喋り。だらりとした部活の雰囲気。

 幸せだったと思うそれらは、今はもう路傍の小石程度の価値も見出せない。

 そして、そう言う状況に、当の白輝速飛はずっと前から立たされているらしい。

 なるほど人付き合いが悪い訳だ。

 どんな生き物だって、自分に合った環境で生きるのが一番だって事。例えそれが吸血鬼でもね。

「さて、それなら話も早そうだし、もう少し吸血鬼の社会情勢でも話すか。覚えておけば当面の役に立つかも知れん」

 速飛はそう言うと、長い話を語り出した。


   *


「まず、【吸血鬼】のカテゴリには大きく分けて三つの階級がある。その第一は支配者階級の【ロード】。俗にヴァンパイア・ロードと呼ばれる貴族階級だ。その多くが独立した意志を持ち、大半が不老不死。魔力に長じた者がほとんどで陽光を克服した者もいる。

 この卿になる為には、魔術に精通した上級吸血鬼か人間が呪術を用いて変異するか、卿が後継者に力を引き継ぐか、もう一つの方法の三つしかない。もっとも、上級と呼ばれる吸血鬼も基本的には卿に支配されているから高い能力を有していても独立するのは並大抵の事じゃない。まして人間が変異を成功させるのは途方もない、それこそ人生を注ぎ込むほど魔術を極めた者の中の、ほんの一握りのみ。

 第二がさっきから出てくる上級吸血鬼。もしくは【近衛フェンサー】と呼ぶ。卿に準じる実力を持つ者か、あるいは親族と言う位置付けの者達。後述の従者から魔力を身に付け実力を上げた者も含まれる。

 第三が【従者サーヴァント】。卿、もしくは近衛の手によって吸血鬼化した人間たちの総称でもある。自分の意志は持つが、『親』である吸血鬼、あるいは一党の支配者である卿の命令に絶対服従の存在。最初から魔力を持つ事は極めて稀で吸血鬼の能力と呼ばれる物もほとんど持たない。ただし身体能力は人間の数倍ある。

 この三つは基本的に生命維持に吸血を必要とする。しかし、『親』は『子』から力を徴収する事もできる。多くの卿はこの基礎理念に基づいて【一族】を構築している。世界中に数人から百人強の幅で【一族】が存在する。

 これらとは一線を隔するのが【屍者グレイブデッド】。吸血鬼の失敗作だ。

 誰もが吸血鬼になれる訳ではないのはさっき説明したな。吸血鬼化させる為のエナジードレインに耐えられない人間がいるからだ。と言うより耐えられない人間の方が圧倒的に多い。ちなみにいわゆる吸血鬼の食いカスでもある。ただ上級以上だと喰い残しを出すのはマナー違反と言うか下品とされているんで、ポンポンと増える訳じゃない。

 その性質は映画のゾンビ、つまりリビングデッドに極めて近く、辛うじて日光を忌避する本能レベルの性質はあるものの理性はまず無い。行動理念は喉の渇きを癒す為の襲撃のみ。また、肉体は比較的早い時間経過で腐敗し自然消滅する。吸血鬼が吸血鬼を増やすのは儀式的な呪術に近い為、こいつら自体に感染力は無い。だから襲われた人間がゾンビの仲間入りでネズミ算増殖、と言うようなゾンビ映画みたいな展開は無い。以上、ここまでで質問は?」


 早過ぎもせず、遅過ぎもしない説明だった。その御蔭か、それともフィクション映画を中心に情報を蓄積していたからか、私はほとんど混乱せず情報を整理できた。

 と言うよりも、何と言うか教科書に書いてある事をノートに整理した感覚に近い。あれか? 吸血鬼になると身体能力だけじゃなく脳味噌の能力も上がるのだろうか? その機能、できれば人間の頃に欲しかった。

「白輝君や、さっき言ったノスフェラトゥについては?」

「そうだな。俺たちは例外だったり亜種だったりする。

 ノスフェラトゥは卿・近衛・従者ならば誰にでも変じる可能性はある。が、上に行くほど自己統制も強くなるから卿クラスが変じる事はほぼ無い。変じる大概は従者級で原因は様々。その性質上群れを作る事は無いし仲間を増やす事も無い。何しろ奴らは髪の毛も残さず喰うからな。屍者もそうそう発生しない。

 それから、人間から変じた卿クラスに限り人間と交わる事で子を成す事が可能な場合がある。この場合ほとんどが人間になるんだが、極めて稀に俺のような双方の特性を持った混血が生まれる。これをダンピールとか【稀少混血レアブリッド】と呼んでいる。

 これがまあ、大体の分類だな」

 他に質問は?と言う顔でこちらに視線を向けたので、他の所で気になった部分を脳内ノートで高速検索する。

「えっと、さっきちらっと言った卿クラスになる、もう一つの方法って言うのは?」

「自力じゃなく完全に他力だが、吸血鬼の創造者によって作り出されるのが三番目だ」

「創造、者?」

 吸血鬼を作り出す者? これ以上何がいるのだ? 化け物の上となると悪魔とか魔王か。

「ああ、極めてその認識に近い。従者が上位の者によって造り出される様に、卿もまた上位存在によって創造される。それを【真祖しんそ】と言うんだが………。

 実は真祖は吸血鬼には分類されない。真祖と呼ばれる者たちは生命維持にも魔力行使にも吸血を必要としないからだ。

 それに、真祖と卿には吸血鬼が持つ『親』『子』と言った主従の間柄は存在しない。場合によっては協力したり敵対したりする。

 ………もっとも、真祖は皆常識外れの桁違いばかりだ。卿と従者の差ですら普通の人間が理解できる範疇を超えているんだが、真祖との差は最早数字なら天文学レベルだ。だから吸血鬼に取っては真祖と対立する事は相当の覚悟を必要とする」

 記号的な吸血鬼ですら人間視線では充分怪物だろうに、それを超えるとなると想像する事すら難しい。

 と言うよりも、それを人間レベルで解釈するなら該当するのは人間社会における概念上の最上位存在になるだろう。

 それはすなわち、

「そう。真祖は神、あるいはそれと同等の悪魔と思えばいい。もちろん神が勝って悪魔が敗れると言うような妄想レベルの簡単な話じゃない。争いは超絶レベルの話なんだが」

 さて、これで一通りと言う事だけど、実は一番気になっている事が残っていた。

「で、私はどれに該当するんでしょう?」

 こうして意識を持っている以上屍者ではない。それは良かった。さすがに自分が生ける屍になるのは嫌だ。それはあまりに悲し過ぎる。

 そして、少なくとも五月六日の夕方までは人間だった。と考えると、それ以降に私と関わった存在が鍵を握る、のだが。

 一番の容疑者は間違いなく私を殺したノスフェラトゥ。

 だが先程の話を真実とすると、ノスフェラトゥには感染意思が無いらしいので一応保留。

 そうなると次に怪しいのは今、私の目の前にいる稀少混血と言う事になるのだが。

「俺が見付けた時はすでに再生が始まっていた、と言ったと思うぞ」

 確かに言った。ここは信じる意外に考えられないので一応信じる。

 むう。

 ………となると、私が死んで速飛が見付けるまでの間に、誰かが私を吸血鬼に変えた、と言う事になる。それはさっきの話に当てはめて考えると、卿か近衛と言う事になるのだが。………そんな物が普通にうろついてるのか? この街は。

「あんたたち以外に心当たりって無い? 別の吸血鬼と交流は無いの? この街に住んでいる他の奴とか」

「生憎と俺もはみ出し者でね。名のある卿クラス程度なら名前を知っているが、どこかに居城を構えているならともかく、単独行動型や少数行動型相手じゃ、どこに誰がいるかなんていちいち把握してる訳が無い。第一、俺も隠れ住む身だしな」

 しっかし、稀少混血にノスフェラトゥだけでも充分過密状態だと思うんだけど、それに更に別口もいると言う事になると、一体この街はどーなっているんだか。

「まさかこの街で戦争でもする訳じゃないだろうけど」

 ノスフェラトウを嫌うと言う話から推測するに、ノスフェラトウを退治しに来ている、と言うのは充分考えられる。

 ただ、それはともかく死にかけた私を吸血鬼にする理由がわかんない。今もって放っておかれてるのも。

「ま、その辺りはおいおいわかるだろう」

 私と違い、速飛は本当に他人事のようだ。………いや、他に何かを知っていると言う線もあるか。

「………それからもう一つ。勢力関係も説明しておく。これを理解していないと命に関わるかもしれない」

「勢力図って、誰と誰が敵対しているって話? 私に関係あるの?」

 こっちとしては新米吸血鬼で自分の立場を理解するのに精一杯だから、正直そこまで手は回らないんだけど。命に関わるとはまた物騒な。

 いや、物騒と言えば吸血鬼と言う存在がそもそも物騒なのかも知れないが。

「一応な。………とは言え、これは説明が面倒臭い。歴史とかそう言う物にも関わってくるから、簡単に説明するぞ。まず真祖だが、さっきも言った通り超越した存在だから、さすがに何を考えているか詳しい事は俺にはわからん。《真祖十三宗主しんそじゅうさんそうしゅ》と呼ばれ、文字通り十三柱いるらしいんだが、俺は一人を除いて詳しい事は知らん。大体人型をしているかどうかもわからん。そしてその一人は俺の主人だ」

「主人?」

「人間で言うと主人と執事みたいなものだ。呪術的な縛りは無く、ちょっとした契約で働いている」

「執事、ねえ」

 そう言われるとなんだかちょっとそんな雰囲気がある。一匹狼と言うよりはただ一人に仕える騎士っぽいし。ワイルド風味だけど見た目は充分合格点だろう。

 執事喫茶で働けば正統派ではないけどナンバー2くらいにはなれる器量。

「俺の主人は、ある理由で敵対する吸血鬼を狩り殺している。そして卿の中ではそれに協力する者、中立、敵対する者に分かれている。比較的、人間から自力で吸血鬼と変異した者が敵対する傾向にある。………これに人間の勢力が関わると一気にややこしい話になるんだが」

「人間が?」

 ある意味当然で、ある意味驚きの話だった。

 なぜなら吸血鬼と戦う人間は定番だけど、吸血鬼の概念を知った今は、それが極めて無謀な事だとわかるからだ。

「ああ。人間には遥か昔から対吸血鬼に限らず、対異種戦闘機関があちこちに存在する。日本にも《幻霊院げんれいいん》を始めとする退魔拠点《七霊都しちれいと》が存在するしな。しかし中でも、吸血鬼に対して異常な殲滅願望を持つ機関が、東欧州を本拠にする《東方教会》だ」

 うーん。何かそれ、どっかで聞いた覚えがある。……どこだったか。授業? もしくは何かの映画に出てきた単語だろうか。

「元はビザンツ帝国正教会に所属し、当時最前線だった東欧州の闇を駆逐する事を目的にしたカトリック最強の異能集団。合流した今もバチカンの実働部隊《黒衣旅団ブラックローブ》を遥かに上回る連中で、堕ちた聖堂騎士テンプルナイトの処刑者としても有名な世界屈指の戦闘集団だ。そいつらは世界各国に散らばり、今この時も吸血鬼を始めとする人外種を狩り続けている。連中に取っては俺も、俺の主人も、もちろんあんたも敵だ。と言うより害獣扱いだな」

「………私も?」

「当然だ。そして悪い事に、この街に東方教会の手の者がかなりの規模で来ている。ほとんどが情報収集役の下っ端だが、少なくとも実働部隊の聖衛騎士一人が指揮を取っている筈だ。そっちに見付かっていたら即消去だっただろう。運が良かったと思え」

「げ」

 海の向こうのお話が、一気に身近な話に跳躍した。

 と言うか、まさかそんな者までこの街に来ているとは。驚きと言うよりも呆れが混じる。

 そりゃ確かに、ここまで色々集まっているなら狩人もやって来たって不思議じゃないのはわかる。

 人間だった頃は、少なくとも殺意を向けられて生活していた事は無い。

 いや、似たような物なら何度か受けたけど。それが、これからは常にそー言う事実を抱えて過ごさなくてはならない訳だ。死んで生き返ってみたら常時生き死にの世界が広がっていたって事になるのか。

 ふと考える。

 今、私が存在している事に疑問も後悔も無いけれど、人間として死ぬのと吸血鬼になって生きるのと、どっちが幸せなんだろうか。

 今はもう変質してしまったからその答えは永遠に出ないし、周囲が決めるのは価値観の押し付けに他ならない。

 虎の生き方を、鯨の生き方を、人間が価値付けるなどナンセンスにも程がある。

 ペット感覚の動物愛護なんて何の意味も無い。

「正直に言えば、ノスフェラトゥの存在は有り難い。あいつがいるお蔭で脱出できるタイミングが掴める」

「脱出?」

「ああ。キナ臭くなったからな。この街を離れる」

 ふーんと思う。大変な生き方なんだねーと呟くと、速飛は呆れた顔で自分のこめかみを押さえた。

「あんたも一緒なんだぞ」

「………え? 何で?」

「死にたいのか? 今ならドサクサに紛れて安全圏に出られる」

「じゃ、なくって。どうしてそこまでしてくれるって事。そりゃ心配してくれるのは正直有り難いけど」

 理解できなかった。

 なぜって、彼一人なら脱出なんて余裕な筈だ。何となくだけど彼の力はかなり上の方なんじゃないかと漠然と理解していた。それがなんで私みたいなお荷物を抱えるのか。それも自称一匹狼の癖に。

 で、断言しても良いけど、そこにあるのはラブ・ライク・同情を含む好意じゃない。

 女はそー言うのに敏感だぞ。敏感過ぎて麻痺する事もあるんだけどさ。好意でなければ?

「同族意識、ってヤツ?」

「どうかな。まあいずれわかるさ」

 またそれかい。

 触れられたくないって事なのだろうか。それとも、彼が契約したとか言う真祖から命令された仕事に関係があるのか。

「………ま、一緒に行動するのは問題じゃないけど、むしろ有り難いけど」

「それじゃあ動くのは今夜だ。さすがに起きたばかりで動くのは大変だろうし、時間も時間だ。今日の日没と同時に街を離れる」

 やれやれ。起きたばかりなのに怒涛の展開だ。もっとも生まれ変わった、と言うか生まれたばかりな訳だし、仔馬が生まれてからすぐに立ち上がる様に、生きる術を覚えなくてはならないと言う事だ。

 それにしても慌しい。もう少し様子を見てこれからの事を決めたいものだ。

 私がそんな文句を頭の中に流した時だった。歪な引っ掛かりに思考が躓いた。

 何だ? 

 私は何が大事な事を見落としている?

「………あれ? ちょっと待って。さっき言ってた東方教会って、この街にノスフェラトゥを狩りに来た、のよね?」

 その点が大事な部分だ。なぜなら、曲り形にも表で影響を及ぼしているのはあいつだけだ。それなのに、速飛の言い方では、まるでついでのような印象を受ける。

 答えは否定だった。

「いや、連中は一年近く前からこの街に来ている」

 ………馬鹿な。一年前から一体何の為に?

 私は二日前に吸血鬼になったばかり。ノスフェラトゥでも一ヶ月って事は無い筈。速飛は一年以上前からだから一応ターゲットの可能性はあるけれど、逆に彼は一年近く無事でこの街から離れてもいないのだ。

 以上の事から考えれば、東方教会は明らかに別口でこの街に来ていると言う事になる。

 その別口とは? 組織の目的から推測するならば、相手は吸血鬼、もしくはそれに準じる存在の可能性が高い。

 私、速飛、ノスフェラトゥ以外の第四者の吸血鬼。もしかすると、私を吸血鬼にした存在かも知れない。やはり、この街に居るのか。

「俺は稀少混血だからな。他の吸血鬼と比べて特定はそう簡単じゃない。連中に見付かっていない自信はある」

「じゃあ、速飛君狙いって線もあるの」

「足を捉まれた覚えは無いんだがな」

 そうか。プロの目を持ってしても発見できないって場合もあるのか。確かに速飛の特性を考えると大変そうだ。

(ああ、ややこしい)

 首を捻る私。そろそろ演算能力に支障が出てきたかもしれない。情報が少ないのがその最大の理由だけど。

 ………その時だった。

 今まで身動き一つせず喋っていただけの速飛が、かたりと静かに腰を上げた。そのまま地面に屈みながら、私にも付いて来るように手招きする。

 良くわからないけれど、ここは従うべきと直感が訴えたので素直に後に付いた。

「………どうしたの?」

 自然、小声になる。その問いに、やはり速飛も小声で、しかし苛立ちを隠さない言葉を吐いた。

「………信じられん。あの糞野郎ども、こっちを優先しやがった………」

 それまでのイメージを覆すほどの緊張した雰囲気に、気を取られた。

「………は?」

「出るぞっ!」

 陸上にロケットスタートと言う言葉があるけれど、その時の光景を喩えるならまさにそれ。

 ただし、テレビで見た世界トップクラスの物なんて比べ物にならない、人間の肉体では到達できないレベルの世界を見た。

 そして、もっと驚くべきはそれに自然について行ってる自分。

 それは普通だった。違和感全く無し。まるでずっと以前からこうだったかのよう。

 図らずも吸血鬼の身体能力を確認する事となった。

 しかし大したものだ。だって吸血鬼になって三十時間。しかも起きたのはほんの数十分前なのに。これだけ動けるとは。

 ドォンッ! と言う爆音が後ろから聴こえた。

 さっきまで私たちが居た場所に白煙が立ち昇り、貨物が散乱する。

 が、爆風が来ない所を見ると火薬の類じゃない。天井に大穴が開いているのを見れば、屋根の上から天井越しに攻撃されたか、それとも天井を打ち抜いて何かが落下して来たか。

 ………どちらにせよ、人間業からは遠く離れている。

 もし、仮にだが、手持ち火器を使用したとして、天井をぶち抜いて床に着弾するだけの性能威力を持った物となるとパッとは思い付かない。

 射角から考えてもほぼ真上からの攻撃だから、あの威力では撃った人間も無事では無い自殺行為の攻撃だ。さすがに爆撃機のバンカーバスターでは無いだろう。ピンポイント過ぎるし火力が低い。

 極めて高確率であの攻撃は現代火器とは懸け離れた別物の攻撃と断定できる。

 そしてそれは一つの事実を私に理解させる事になった。

 こっちも化け物なら向こうも人間と呼べるレベルじゃないって事か。

 吸血鬼と戦うと言うのがどう言う事か。私は古い吸血鬼映画に出てくる聖水とか聖書の文句とか、そんな物だと思っていた。

 けれど、それは大きな間違いだった。

 吸血鬼と戦うと言う事は、吸血鬼と戦えるだけの戦闘力を物理的?に得ると言う事なのだ。現代を舞台にした映画では強力な銃を使うけど、それでも差は縮まらない。

 走る速飛は腕の一薙ぎでフォークリフト用の搬入口を破壊、と言うか吹き飛ばして穴を開けてその隙間から飛び出した。

 まるで紙を引き裂いたようにばっさりと口を開けた金属の壁。他の部分に比べれば薄いんだろうけど、普通に焼き切るなら何十分もかかるだろう。ロケットランチャーとかなら一瞬かも。つまり速飛の攻撃力は単純に言って最低ロケットランチャークラスって事だ。

 私も続いて外に飛び出した。

「夜明けまでもう三十分も無い。このタイミングで仕掛けるのを狙っていたのか?」

 忌々しげに彼が呟く。

 ………夜明け? さっきから肌がちりつくのはもしかしてそれか!

 さっき表に出た時とは異なる、明らかに自分の身体に有害な反応が起きている不愉快な感覚。

 喩えるなら目の前に焚き火の炎があり、それに向かって立っている感じ。身体がこんがり焼けていく感覚だ。

 夜明け前がこんなにキツイとは思わなかった。倉庫の中に居た時よりもずっと不快指数が高い。沸騰するお湯に温度計を突っ込んだ時のように不快ゲージが一瞬で跳ね上がる。

(飛び出したはいいけど、逃げる場所は?)

 倉庫は山程ある。でも、今は隠れ家としてはほとんど役に立たないだろう。

 私の不安を察知したのか、振り返りもせず速飛が言った。

「………俺があいつを引き受ける。俺は昼間でも大丈夫だからな。その隙に、あんたはどうにかして地下に身を隠せ」

地下………?

 その言葉を理解する暇は無かった。


 不意に、私たちの周囲、空中に短剣が出現した。本当に、何の脈絡も無く。


「ええっ!」

 美麗な宝石の装飾を柄に施された両刃の直剣だった。

 博物館に展示されていそうな古美術品。その美しさに一瞬目を奪われそうになる。

 宙に浮かぶ刃の数は十を越えている。それら全ての刃が蛇の鎌首のように私たちに狙い向けられていた。宝石と刀身が放つ鈍い輝きが、何となく毒をイメージさせる。

 ドンっと私は突き飛ばされた。

 真面目な話、車に跳ね飛ばされたぐらいの衝撃が身体を襲う。吸血鬼でなければ確実に重傷だった筈。

 しかし、そのお蔭で私は短剣の包囲から弾き飛ばされた。ごろごろと地面を転がって一瞬視線を向けると、短剣はさっきまで私が居た場所に次々と突き刺さっていた。

「がッ!」と言う呻き声。肉に刃物が突き刺さる音が耳に届く。

 私はちらりと確認した後、脱出に意識を戻した。

 冗談ではなく、朝日が昇ればどうなってしまうかわからなかった。文字通り生命の危機だった。

 だから。………………後ろの方で行なわれたその会話が耳に入っても、その覚えのある声を確かめたいと言う欲求は生まれなかった。

 生存欲求で凄いんだと、後になって思った。


   4


「………驚いた。この《幻想的舞曲ダンスマカーブル》の攻撃を全部身体で受け止めて、その上で心臓を外すなんて」

 奇怪な装飾の短剣を逆手持ちで構えながら姿を見せた、黒マントに身を包んだ長身の男は呆れた口調で呟いた。

 彼が手に持っている短剣の刀身は細身の四十センチ。包丁やナイフよりもずっと長く間合いが広い。それでいて取り回し易い長さで格闘戦ではかなり厄介だ。

 もっとも、それが本当に東方教会秘蔵中の秘蔵品、吸血鬼撃滅戦用魔導神器の一柱《幻想的舞曲》ならば、格闘戦の有利不利など問題外だ。

 戦力比を喩えるなら、それ一本でアメリカ海兵隊一個大隊の瞬間火力を上回るのだから。

 吸血鬼はランクに関係無く腕力が強い。故に、対吸血鬼戦で間合いを詰めるのは、馬鹿か相応の訓練を積んで戦闘セオリーを持っているプロフェッショナルだけ。

 そして、永い年月に積み上げられた対吸血鬼教育ノウハウには年齢は関係無い。子供だろうと老人だろうとだ。相手が何であろうと油断はできないと言う事だ。

 それをよく知っている速飛はすぐに起き上がると気合を入れて身体に突き刺さっていた幻刃を砕いた。

「………やっぱりおまえか」

 立ち上がって男の顔を見る。マントの下の法衣は一見学生服にも見える黒。法衣としてはスタンダードな物だ。

 ………ただし、男が身を隠すマントは違う。

 それが《異なるモノ》だと言うのは速飛の目には明らかだった。

「こっちもね、君がそっち側だなんて思いもしなかった。全然わからなかったよ。情報収集班の責任者は自信を無くしかけてる」

「それが、なんでここにいるんだ?」

「一言で言えるほど簡単じゃなかったよ。君の意味不明の欠席から家庭調査。それでようやく怪しいと当たりが付いて、地道な聞き込みで君がこの近辺をうろついていたのを突き止めて張り込んでようやく、と言う訳。

 ついでに言えば、今この街の輸血パックに関しては緊急で色々チェックをかけてる。どう言う手段で強奪しても一時間で判明するようになっているんだ。それも平行したお蔭だね」

 言葉は軽いが口調には感情を顕にしない、典型的な戦闘教育を受けているようだ。

 確かに言うほど簡単ではない。実働員からバックアップまで、数十人単位で動員をかけている筈だ。組織と言うのはそう言うパターンでは圧倒的に強い。

「………まさか、もう九人も犠牲者を出しているヤツを放っておいて、こっちを優先するとはな」

「何事にも優先順位があるって事だね。ちょっとやそっとの事じゃ揺るがないらしいよ。仮に一ヵ月向こうを放っておいても百人の犠牲は出ない。それにノスフェラトゥの事なら、僕の上司が対策を立ててる。でも、彼女をここで逃したらどうなるかわからないと命令を受けてる。簡単な天秤さ」

 速飛は短く舌打ちを漏らした。

(………東方教会の吸血鬼に対する狂気は何も今に始まった事じゃない。だが、気に食わないのは命を損得勘定に入れない事だ)

 目的の為ならば百人だろうと千人だろうと犠牲を出す。その事に迷いも後悔もない。

 現実に、東方教会が殺した吸血鬼と直接巻き添えにした人間では圧倒的に後者が多い。

「………でもわからないな」

「何がだ」

「君みたいなのが彼女を護る理由さ。同族意識? それとも、LOVE?」

「東方教会が吸血鬼のプロファイリングをやってるとは知らなかった。何、そっちとそう理由は変わらないさ」

「………?」

「お仕事だよ。俺の上司はおっかないんだ」

 速飛は右腕を横に水平に上げ、通路を塞ぐ意志を示して構えた。

「だから、この先には進ませはしない」

 男は………否、少年は笑った。思惑通り、と言った表情だ。

「彼女の逃げたそっちはすぐに海に出る。僕は何も準備せず急襲を掛けた訳じゃない。ありとあらゆるルートに結界式の簡易トラップを仕掛けておいたよ。トラップ自体はせいぜい時間稼ぎにしかならないけれど、今はそれで充分さ。仮に空を飛ぼうと夜明けも近い。逃げられないよ」

 ハッタリではないのはすぐにわかる。速飛を避けて詩絵里を追わないのは、仕掛けたトラップに自信があるからと、当然速飛の足留めの為だ。

 こちらと戦う実力に自信があると言う訳だ。

 陽光と流れを持つ水を苦手とする大半の吸血鬼にとって、遮蔽物の無い海沿いと夜明けに挟まれる状況は最悪に近い。逃げも隠れもできないからだ。

 しかし、速飛には勝算があった。いや、希望に近い。与えた言葉はただ一つ。しかしその意味にさえ気が付けば充分の筈だ。

「どうかな。あの向こうに何があるか知っているか? 確かに彼女の向かった先にあるのは海しかない。だが、こっちだって頭は使っている。文字通り命懸けだからな。ここに身を隠した時から逃走路は確保してる」

「船でも用意しているのかな?」

 そんな目立つ物が無い事ぐらい、承知の上だろう。

「いいや。大型の地下排水路があるんだよ。都市計画の時に点検整備がやり易いように大型設計されて、この街の地下を静脈のように張り巡らされている。入口はほとんど隠れて見えないんだが、少なくとも彼女には問題無い」

 速飛は、その言葉の意味を理解して驚きで崩れた表情を見逃さなかった。それは僅かだったが、確信には充分だった。

 喩えそこに入口らしい物が無くとも、壊せるだけの力があるのなら問題は無いのだ。

 しかし、そのルートは破壊する腕力の無い人間には見えない、盲点と言うには余りに単純な物だった。

 だが、実際ほどなくして、グァコンッ!と言う金属の破壊音が聴こえた。期待通りの音だ。

 どうやら僅か一言で正解ルートを見付けたらしい。

 ……さすが、と言うところか。

「おまえたちがあの中を追うのは、どんな訓練を積んでも無装備では無理だ」

 暗視以上の視界と高速移動と身体能力。それらを兼ね備える彼女を正攻法で追跡する事など、速飛とて難しい。

「さて、後は俺の逃げる番なんだが」

「………僕が、君をここで見逃すとでも?」

「俺はおまえとやり合う気は無いし、おまえも俺と戦う準備は無い、だろ?」

 理性か、狂気か。少年が持つ物がどちらかで決まる。

「確かに、そうだね。でも、僕の仕事は彼女の抹消。その邪魔をする君を、ここで見逃す事はできない」

 そう言うと逆手の短剣を振り被り、力を引き出す鍵言コードを素早く言い放つ。

 刀身が輝いたかと思うと、宙に先程と同じ幻影の刃が無数に浮かび上がった。

 その数、推定で三十。

「ちっ」

 地面を蹴り、倉庫の壁を蹴って上に跳ぶ。速飛の居た場所や周囲のコンクリートがザクザクと一瞬でボロボロに切り砕かれた。

「逃がすか!」

 相手も追って宙に跳ぶ。黒マントが猛禽の翼を思わせる、硬質の巨大な黒翼に変化していた。速飛と少年が朝日の射す空中で対峙する。

 マントの異質差はそれで証明された。

「それは………そうか、まさかと思ったが《鷲獅子グリフォン》の従士だったのか」

 その装備には見覚えがあった。遠い過去の話だ。

「マスター・グリフォンを知っているのかい?」

「はははっ。新米吸血鬼ならいざ知らず、東方教会の狂気の塊、《合成魔獣キマイラ》の名前を知らない筈がない。もっとも、今の代は顔も知らないがな」

 おどけた口調にカチンと来たのか、攻撃が激しくなる。耳元を幻刃がかすめ飛ぶのはさすがに背筋を寒くする。


 【合成魔獣】

 それは東方教会が保有する戦力、十二の聖衛騎士団の一部に古くから名を連ねる、自らを【魔獣】と呼ぶ選りすぐりの魔人どもだ。その力への傾倒は吸血鬼にも引けを取らない。


 中でも《鷲獅子》は古くから存在するメンバーで、その能力継承は基本的にただ一人の弟子に全てを伝える一子相伝式。この師弟は基本的に同時行動を取る。と言うより、聖衛騎士であるマスターが任務を受け、弟子が専属従士として同行する。

 厄介な話だった。

 少年が身に纏うマントは、正に《合成魔獣》専用装備として知られるグリフォンの《魔獣装キマイラスケイル》だった。

 だが、彼がグリフォン本人ではないのも確かだった。本人なら専用の魔獣装具はあと二つ存在する筈だからだ。おそらくマントは師匠から借り受けているのだろう。一つだけなのは、彼の力量がまだ師に遠く及ばない事を意味している。

「それでも魔導神器である《幻想的舞曲》と併用できる実力がある訳だ。ったく厄介極まりない」

 本来ならば一つ扱うだけでも多大な精神力を消耗するだろうに、それを二種類扱うと言うのは相応の実力を持っている事を意味している。

 そして、弟子がここに居る以上、この街に派遣されているのはグリフォン本人だ。

「それにしてもグリフォンと言えば古参の中でも屈指の上位メンバーだぞ。派遣されるのは難度S級の相手だろうに、彼女一人にまるで超一級の卿クラスの扱いだな。それなのにおまえみたいな奴に仕事を任せるとは、一体どう言う事だ?」

 単に弟子の経験値稼ぎと言うなら大掛かり過ぎた。一年近く前から来ている癖にわざわざ彼女を狙うのも不可解だ。

知っていて行動しているのか、知らずに行動しているのか。

 あるいは、上層の人間が故意に情報を隠しているのか。

 事が事だ。誤った情報で無駄に命を落とす可能性だってある。それなのに前線に赴く者に、敢えて情報を隠匿する意味は?

「………一つ訊きたい。おまえらは、第十二聖衛騎士団、か?」

「教える必要は無いと思うけど、なぜそんな事を?」

 出現する幻刃は、本数の限界こそあるらしいが術者の意思で認識可能な半径十数メートルに自在に出現する。その為、常に間合いから外れるように動かなくてはすぐに串刺しになってしまう。

 動き回れば即死する事はないだろうが、それでも肉を削る威力を持った激しい攻撃を回避し続けるのは骨が折れる。

「ざっと二百五十六年前に第十二聖衛騎士団が全滅した理由を知っているか?」

「全滅?」

「まさか、その時の生き残りがいるとは思えないが、意志を引き継いできたのなら有り得る」

 少年の表情から察するに、この事は知らないと見た。下っ端が知る必要の無い話かもしれないが。事実を知る者が上に居るならば余りに迂闊な戦術。

「無駄話はここまでにしようか」

「そうだな」

 これ以上相手から情報を引き出す事は不可能だろう。ならば後は、この場から離れるだけだ。

 速飛は空中で姿勢を変え、相手の方向に素早く反転した。そのまま急加速をかけて必殺の一撃を狙う殺気を込めた突撃をかける。

「なッ!」

 攻撃を回避しようとする相手をギリギリで掠め、そのまま下方に潜り込む。

 人間はそう簡単にいきなり三次元戦闘はできない。飛行を当然とするならまだしも、借り物の道具によるサポート下では尚更だ。

 人間の感覚器のほとんどは頭部に存在し、足元と言うのは地上における二次元戦闘、擬似二次元戦闘下においてはほぼ全く使用しない自然の死角になる。そこに潜られたら捉えるのは歴戦の戦闘機乗りでも苦戦は免れない。

 本来なら空中戦はそう言う戦いにならないように動くのが鉄則だが、この相手には明らかに隙があった。

 つまり、平地の戦闘ならばともかく空中戦での経験はそう積んでいない訳だ。

「くっ!」

 戦闘慣れしていないルーキーが咄嗟にできる事は、死角からの攻撃を受けないように距離を取り、反転し相手を視界に捕捉する、つまりテキスト通りの行動だけだ。これならば一応不利なアドバンテージを五分近くまで戻せる。

 もっとも、それは相手が攻撃をしようとしていればの話。

「しまった。こんな単純な手に………」

 速飛の目的は始めから戦闘からの離脱だった。回避行動は結局の所それを助ける形となった。

「………駄目か。経験の差かな。翻弄されただけみたいだ。それに、彼を止めるのはこっちの手勢じゃ無理か」

 基本的に少年は冷静だった。

 だから、相手が目の前から消えてしまえば、それを追うような時間の無駄な選択肢はすっぱりと頭の中から消える。


 一方。

「………さすがに完全には逃げ切れない、か」

 倉庫の物陰で気配を隠し、相手が立ち去る様子を伺っていた速飛はそう呟いていた。

 厄介なのはあの戦闘役の少年一人。それが立ち去った今なら、隙を見ての強行突破はそう難しくはない。

 しかし、戦闘役がいないからこそ監視や情報収集班は残る筈だった。連絡されては後々面倒になる。その目を誤魔化すのも避けるのも厄介な話だ。

 かと言ってここで時間を浪費する訳にもいかなかった。

 彼女は逃げた。

 しかし、相手の組織力をもってすれば遅くとも半日あれば足取りを掴む筈だ。それより早く合流し、この街から脱出しなくてはならない。

 脱出できれば追っ手はかかるだろうが逃げ切るのはそう難しくはないと踏んでいる。彼女一人では単独行動させるのはまだ不安な部分が多い。

「海から回って同じルートを追うのが一番だが、当然そこには監視が付く筈だ。そうすると、別口から入るしかない。後は、あいつがどこまで行ったか、だな」

 今や速飛と互角の運動性能を持つ彼女に追い付くのは骨だろう。

 しかも、逃がす事ができたのは良かったが落ち合う場所も決めていない。文字通り行き当たりばったりだった。

 何時の間にか、水平線には五月八日の太陽が昇っていた。

「………月が満ちるまで、今日一日か。………運命の夜明けだな」


   5


 さて、私がこの地下水道に突入してざっと二キロは進んだだろうか。さすがに入口からここまでは日光も入らない。

 そこでようやく冷静に頭を使う事を思い出していた。

 取り敢えずは、一旦ここで足を止める事にする。

 あれだけ走ったのに疲労感も無い感覚は逆に不気味だ。運動が得意じゃなかったから余計にそう思う。春の体力測定で走る中距離走は地獄だった。今なら楽勝で世界記録を塗り替えて走れるだろうけど、日光下で走る方が厳しそうだ。

「ええと、ここはどの辺りだろう」

 大排水溝。

 道路トンネル並の広さを基本にするこの空間は、おそらく都市部の排水を一手に集める排水浄化施設に繋がっている。

 そこが関所だ。理論上はどこにでも繋がっているけれど、そこを抜けなくてはならない。こうやって通路を歩く事に比べれば遥かに難しいと思う。

 それに、どこにでも繋がっているって事は相手が先回りする事も簡単だと言う事。私がここにいる事を向こうは知っている。後はケータイなり無線なり連絡用スペシャルテクニックなりを使って追っ手をかける事も難しくない筈だ。

 では、どうするのか? 私は周囲を見渡してみる。

 この狭い通路は接近戦を強いるだろうから吸血鬼に取っては有利だろう。私なら壁や対岸の通路、天井を有効活用できる。索敵が完全じゃなければ飛び道具は怖くは無い。

 水辺と言うのが難点と言えば難点。吸血鬼の本能の為か、ちょっと流れる水路には浸かりたくない。

 もっとも、この水路を人間が利用できるかと言えば疑問。

(ただ、ここだと逃げ場が無い。得策じゃない、か)

 支道は幾つもあるから、ここに入り込めばそう簡単には追う事もできない筈だ。

 どこに続いているのかはさすがに吸血鬼パワーでもわからない。でも、この中でも私は方角がわかるから、変な方向に向かう事だけは避けられそうだ。

(まるで渡り鳥だね)

 今更ながら、照明など何も無いこの空間でも私の視界は何の問題も無かった。

 あるいは超音波を吐く蝙蝠か。暗視スコープ程度の相手なら圧倒的に有利だろう。何しろ、私はこの空間を百メートル五秒程度で走って来たのだから。

 支道の方は少し狭くなるが充分通れる。念の為、足跡を消す為に対岸に跳んだり壁を三角飛びに伝ったりして誤魔化してみる。獣レベルの手だけど。

「あとは、どこに行けばいいか、なんだけど」

 速飛は街を出ると言っていた。それに従うのが今のベストだろうけど、問題は合流方法とか全然わかんない事だ。勝手に動く、と言うのも悪くはないけれど、今は少々心許ない。

「追って来る気配は無し、か」

 そう呟いた私の耳に、微かだが呼吸音が聴こえた。

「………誰か、居る?」

 動物、ではない。それにしては気配が大き過ぎる。下水に巨大鰐、と言う事もあるけれど、鰐にしては音が上過ぎる。

 私の目線とほぼ同じ高さから音を出すとなると、熊? あるいは馬。………鼠程度ならともかく、どっちも下水には住めないだろ。さすがに。

(つまり、人間型なのはほぼ間違い無いって事。下水整備の人かな?)

 それは無い。私はその可能性を即座に否定した。その場合、呼吸音以外の音が聴こえなくてはならないのだ。

 ならば、私に対する追っ手かと考えるのが自然だけど、多分それも違う。

 もし追っ手なら、極端に気配を隠そうとする筈だし、狩りに喩えるとして勢子の役割なら逆に大きく音を立てるだろう。

 だから、これは追っ手でも無い。

 音は支道の一本から聴こえて来る。ゆっくりと近付くと、反射する音が強くなってくる。

 そして、呼吸音だった物は、段々と気管から漏れる呻き声に形をはっきりとさせた。

 そして、それが複数である事も。

「集団で下水生活………って訳じゃないわよね。………でも、この感覚………」

 覚えがあるような、無いような。そんな感覚に戸惑いを覚えながら更に進むと、遂に私の目はその影を捉えた。

(人型………でも)

 少なくとも十を越える〝何か〟が二本足で立っていた。

 薄汚れてはいるけれど、服装や体型から見て、少なくとも少し前までは若い男や女だったものだという事はわかる。

 確かに、そいつらは目下の私の敵じゃなかった。

 なぜならそこに居た連中のその顔は、揃って生気が無かったのだから。足取りはふらついているようでおぼつかなく、よく見れば皮膚が腐ったように崩れている者もいる。

「………………屍者………!」

 それが、そう呼ばれる者たちなのだと、素直に理解できた。これは吸血鬼の餌になった人間の成れの果てだ。

 そっか、考えてみればここは吸血鬼にとって好都合な場所。しかも上との出入りが比較的容易なら、人間を攫うのもそう難しくない。

 ついでに言えば、屍者のこの様子では地上に上がれはしないだろう。想像以上に運動性も知能も低い。

 しかし、それはある事実をも意味している。

「………まだ形を残している屍者がこれだけ居るって事は、近くに吸血鬼がいる可能性が大きいって事よね」

 速飛の話で、屍者は崩れるのが早いと聞いた。今は朝だ。このゾンビたちを作り出した者が、私と同じ様に日光を避けてここにいる可能性がある。

 グルリ、と屍者たちが身体を向け、私の方を向いた。屍者たちの腐り落ちて無くなった目の洞が私を捉えている。一見鈍そうなのに反応できる鋭い感覚があるらしい。

 もっとも、こいつらにあるのは食欲。渇きだけ。

 私みたいなものにも反応するあたり、聴覚か触覚が鋭いのか。明らかに攻撃態勢を取って私の方に向かって来た。

「どうする? 逃げるのも一つの手だとは思うけど」

 戦うのなら素手と足しかない。

 何かこう凄い魔術とかあれば他に方法もあるかもしれないけれど、私はただの女子高生上がりの吸血鬼ですから。

 一瞬で覚悟を決めた。

 蹴る。身体をコントロールし切れれば、連中の脚を叩き折ることもできる筈。

 行動を決めるが早いか、私は大きく間合いを詰めて先頭の屍者の右横に身体を沈めた。予想通り、こちらを発見できる感覚はあっても、腐りかけた身体ではスピードには付いて行けない。

 通路の床に手を着き、後は思いっきり脚を刈る。体勢を大きく崩した屍者は、水路に向かって何もできず落下した。

「よしっ! ………って、えっ?」

 水路に落ちた屍者は、あっと言う間に身体が崩れていった。肉も、骨も、塵よりも細かく砕けていく。いずれ訪れる崩壊が、まるで一瞬で訪れたような、そんな光景だった。屍者では流水に抵抗もできないらしい。

 だが、その一瞬に眼を奪われていた隙に、残った連中が押し寄せていた。

「しまったっ! がっ!」

 何たる間抜け。手で押しのける間も無く、ほとんど押し倒される形で私の右腕が、ずる剥けの骨も見えた手で掴まれる。そのくせとんでもない力。動きを封じられたら、どんな怪力も力を発揮できない。

 それでも振りほどこうと右腕に力を込めた。だけど、向こうの力もかなり強い。更に猛犬に噛み付かれたかのような肉が引き千切られる感覚が腕に走る。


 やばいか、と思ったその瞬間だった。

 私に圧し掛かっていた屍者が粉々に吹き飛んだ。

「………え?」

 何処からか光が漏れる。照らす光ではなく、もっと寒々しい輝き。

 発生源は、私の右腕だ。

 見れば、私の右腕の肘から指先までが無くなっていた。

 いや、正確には無くなってはいない。ただ、腕ではなくなっていた。

 まるでパズルみたいに分解され分かれた無数のパーツが宙に浮いて、天球儀を思わせる軌跡で緩やかに回転し、金色の光を放っている。

 その回転は私から見て左回りと右回りが交互に指先まで積み重なっている。何となく、トンネルを掘る大型ドリルの回転を思わせる。


 ………そう。その破壊力までも、理解できる。


 私は右腕で薙ぎ払う形で、一番近い屍者を打ち払った。削岩機が岩を砕き進むように、その光はそれに触れた屍者を粉々に砕いていく。

 ………ううん、それは屍者を砕いているんじゃなかった。

 聖なる水が魔を清めるとか、光が闇を退けるとか、そんな都合の良い妄想みたいな話じゃない。もちろん、屍者を倒す為の力でもない。

 この輝きは、世界ごと相手を削っているのだ。

 恐怖と高揚が一瞬ごちゃ混ぜになる。けれど、すぐにそれを拭い捨てる。

 部品になってしまっても、それは私の腕だった。指の先までしっかりと感覚が残っている。もちろん、それらは私の意志で動かせる。感覚的には普通に殴るのと大して変わりは無い訳だ。

「おりゃあ!」

 次々と輝く腕で屍者たちを削り砕いていく。

 上半身のほとんどを失って体勢を崩した者たちは水路に転がり落ち、その身を水流の中で塵に変える。

 合計十二体で打ち止めだった。

 全て倒すと私の右手が元に戻っていた。触れてみても、ごく普通?の肉体だった。試しにもう一度どうにかしてみようかと思って意識を傾けてもうんともすんとも言わない。

 ………何だったんだろ、あれ。

 自分の事なのに、何もわからない。何か不快で嫌なモノが私の奥底に溜まり始めている、そんな気がする。

「ゾンビと下水か。何の映画かゲームなんだか」

 通路には幾つか肉片が残っていた。それを足で水路に蹴り落としながら呟く。

 暗くて汚い場所とゾンビは良く似合う。

 墓場しかり、廃墟しかり、謎の洋館しかり。下水道も二十世紀のゾンビ名所ポイントだ。もっとも、生ける屍としてのゾンビが誕生したのは二十世紀の事なのですが。

「ふうん、じゃあ私は途中で現れる中ボスってところかな」

「えっ?」

 広い密閉空間内に響く自分以外の声。エコーが掛かって、この世の物とは思えない波紋を広げる。

「誰っ!」

 人がいる気配なんてさっきまで全然感じなかった。

「それはこちらの台詞だね。こんな場所に一人でうろついて、屍者を簡単に蹴散らす戦闘力。君は一体何者なのかな?」

 影から。文字通り、壁の陰影から姿を現したのは、白衣を着た女性だった。

 人一人が隠れるなんて不可能な場所から、彼女は突然現れた。人が身を隠すなんてできない空間から。

 いかにも着たきりの皺だらけの白衣。短く刈り込まれた黒いボサボサの髪。高めの身長。

 どこからか拾ってきたんじゃ、と思うよれたシケモクを咥えている。

 漫画に出てきそうな妙にでかいレンズの眼鏡。左手に抱えられた、かなり古めかしい書物。

 一見すると何かの研究者にも見えるけれど、間違えてはいけない。

 彼女は隠れる場所も無かった所からいきなり姿を現した。少なくともさっきの戦闘を見ていたのも明らかだ。一切気配も感じさせずそんな芸当をするモノが単純に研究者なんてオチの筈がない。

 何よりも、気だるそうな表情とは裏腹に、レンズの奥に光る瞳は、人間が持ち得ない闇色に輝いている。彼女が【異形】である事を証明する証と言っても良かった。

「わ、私は新米吸血鬼の陽凪詩絵里と言います! あの、失礼ですけど、貴女も吸血鬼、ですよね?」

 私は思わず最敬礼して挨拶していた。

 吸血鬼になっても私は日本人。挨拶と言えば頭を下げる。直感的に、目の前の相手がそうだと感じていた。

 私のそんな行動が面白かったのか、彼女はカカカと笑った。下水道には似つかわしくない陽気な笑い声だった。

「や、これはご丁寧に。確かに私も吸血鬼だけどね。いやー、ここに一族以外の他の吸血鬼が訪ねて来るなんて初めてだよ。悪かったねー、あんな物放置しててさ」

 思わぬ友好的な返答に、ちょっと拍子抜けしてしまった。

 そんな私に、彼女はにっこりと微笑んだ。漫画みたいな眼鏡にボサボサの髪だからピンと来なかったけど、実はかなりの美貌だ。

 人間離れした整った顔立ち。それが少女のような微笑を見せたのだから、同性で吸血鬼である私ですら魅了されてしまいそうだった。

 もっとも、再び見開かれた魔を宿す両眼を見ると、そんな気持ちは吹っ飛んでしまったけど。

「まー、こんな所で立ち話も何だし、ついて来て」

 そう言うと、彼女はくるりと私に背を向けた。私を誘っているらしい。

 高位の吸血鬼ってイメージだとやっぱり、高笑いしながら人間を馬鹿にしたりする高慢な感じなんだけど、どう転がっても彼女からそんな雰囲気は感じなかった。

 本道から外れて支道を何回かくねくねと曲がると、やがてフェンスで仕切られた一帯が現れた。

 水路は特別製の鉄格子で塞がれている。フェンスは壁から壁。上は天井まで張られている。つまり、行き止まりだ。

 それにフェンスと言ってもペラペラなやつじゃない。野球場のバックネットに使われるような頑丈な物だ。破るのはかなり手間になるだろう。

 ただ、一箇所だけ扉がある。それも頑丈そうな金属製の扉。

「ここから先は排水浄化施設のブロックなのよ。ここは私専用の入口だから鍵は掛かっていないの」

「えっと、ここで働いているんですか?」

「うんにゃ、私のプライベートルームがあるのだよ。そこにね」

 確かに、指差された入口から数メートルとない壁に、ごく普通の木製の扉が嵌められていた。

 別に洋館などにありそうな重厚な物ではなく、一般家庭に使われている様なカジュアルなデザイン。

 はっきり言ってコンクリート・ラビリンスの地下空間には全くそぐわない。むしろ異様である。

 こんな所に、プライベートルーム?

 現代の吸血鬼が地下に住む、と言うのはそれなりに小説やら映像作品やらに目を通せば幾らでも出て来るだろうけど。ポップ過ぎるのが逆に不気味。

「元は何かの倉庫か電源室ですか?」

「いいや。この街を造る時、秘密で造ったんだよ。以来愛用してる」

「造った、って、内緒で造れるんですか?」

 吸血鬼が土建でもやったのだろうか、などと想像してみる。

 ちなみに答えはもっともスマートでストレートだった。

「私はこの街の出資者の一人でね。多少の無理は言えたのよ。

 ………あー、まだ名前も名乗ってなかった。私の名前は西ミナト。一応、卿クラスの吸血鬼だよ。私の所は結構古い家系でね。故にコネクションとか、多少の財産みたいなものもある」

 で、招かれた部屋は、更に吸血鬼のイメージを崩す物ばかりが並んでいた。

 少し広めのワンルームに、まずは本。とにかく本。部屋のあちこちに積まれたり崩れていたりしている。床にあるだけでも推定二百冊かもっと多い。

 様々な種類があるが基本的に雑誌。女性週刊誌があるかと思えば男性向けグラビア誌がその上に半分重なっていて、『京都に行こう』という旅行雑誌の横には釣りマガジン。少年週刊誌と嫁姑専門の女性向漫画月刊誌が仲良く並んでいる。

開いたまま置かれているBLコミック誌がキスしているのはライトノベルの老舗雑誌。

 床よりも雑誌の占有面積が大きいあたりここの住人は片付けると言う事を知らないみたいだ。私なんか、お母さんはスチャラカなのに掃除には厳しいので散らかす事はなかった。

 家具はベッドソファとウッドのテーブル。それに椅子が二脚。

 薄型の大型液晶テレビ。飲み物しか入らないような小さな冷蔵庫。たぶん入っているのはワインと輸血パック。なんとなくそんな感じがする。家電は他には無い。

 照明が無いのが吸血鬼らしいけど、これで下着が干してあったりすればまるで一人暮らし彼氏無しの喪女の部屋みたいだ。

 まあ、一人暮らしで彼氏無いと言うのは当たっている自信がある。

 唯一個性的なのは、趣味なのか白い壁に掛けられているカラフルなエレキギターの数々。

 その壁には赤ペンキでデカデカと『Rock’n Roll』と大書されている。壁紙も無い空間のそれが唯一の内装。

 ………どー言う部屋だ、これ?

 ううん、そもそも吸血鬼らしいところがほとんど無い。せめて棺桶とか、置いていないのか。それが駄目なら天蓋付きゴス風ベッドくらい。

「んー、寝るのはもっぱらそのソファ。いや本当は片付け専門の従者が居たんだけど、最近出てってね。まあ椅子はあるから適当に座ってね」

 ええ、確かにテーブルとセットと思われるウッドチェアが二脚あるけれど、ね。

 こっちも例によって雑誌に侵略されている。例外なのは片方のみ。これは彼女が常時使用していたからだろう。

 取り敢えず、積まれていた少女漫画月刊誌と『月刊日本の城』と読者参加型のふりをしたレディコミとバイク雑誌とフィギュア系模型雑誌を床に移動させた。

 それからやっと椅子に座る。

「しっかしねえ。来訪者も珍しいけど、それが男物のシャツを着た高校生の格好で、しかも吸血鬼だって言うんだから驚きだわ。幾つ? まだ若いって事はわかるけど」

 彼女も始めから空いていた椅子に腰掛けた。テーブルの上の本を大雑把に床に払い落として、それからテーブルの上に持っていた百科事典のような鍵付きの古い本を置いてその上に左手を乗せた。

 一瞬だけ見えた本のタイトル。《混沌皇こんとんおうの幻視》とラテン語で書いてあった。

(って、ラテン語? なんで………読めたの? ………えっ?)

 ゾクッとする感覚。

 その本には自分の頭皮から爪先まで、存在する感覚器全てに訴えてくる何かがある。

 それは、むしろ目の前に居る卿クラス吸血鬼よりも数段危険な臭いがする。

 その本にどんな事が書いてあるかはわからないけれど、人間が持てば決して意のままにならぬ濁流のような力に飲み込まれて必ず破滅を呼び込むだろう。漂う禍々しい力が見えるみたいだ。

 吐き気がしそうだった。吸血鬼って何を吐くのかはやってみないとわかんないけど。

 ………………そして、奇妙な事にそれはどこかとても懐かしい気分にさせる。

(………やだ。なにか………変、なんだけど)

 頭がどうにかしてしまいそうだ。

 視線を本から外し、澱んだ何かを搾り出す様に息を吐く。

 そうしてから、改めてテーブルを挟んで向こうに座るミナトの顔を見た。数秒も経っていないのに随分時間を喰った気がした。

 外見は二十代後半と言ったところ。もっとも吸血鬼の年齢を外見から読み取るのは不可能だって事は速飛の時に理解してる。

「歳、ですか。ええと、十六です。吸血鬼になったのは、二日前の五月六日夕方」

 私の答えに、ミナトは純粋に驚きを宿した目を見開いた。

「………ちょっと待って。それ、冗談でしょ?」

 生憎と、冗談を言えるほど私に余裕は無い。

「本当、ですけど」

「………悪いけれど、その事をもう少し詳しく教えて貰えるかな?」

 ミナトはテーブルの上に無造作に置いてあったラッキーストライクの箱から一本取り出して、ポケットのジッポーで火を着けた。


 以前、つまり人間であった頃、私はその煙が余り好きではなかった。

 吐き出す煙すら鬱陶しいのに、鼻腔から入るだけでご飯が不味くなるそれは人類が手に入れた最悪の調味料だ。

 いや、そんな表現をするのは他の調味料に失礼だとすら思う。分類上は立派な毒ガスだし、発癌性を持つなら放射能漏れと同じだ。

 モク中がいたるところにいるのにコンビニで売られている不可解さ。大麻をコンビニに置いてあるのと同じ事になんで誰も疑問に思わないのか。

 まあ禁止して暴力団やマフィアに密売されるよりはマシなのかもしれないけど。

「ん? ああ、人の話を聞くのに断りなく煙草ふかすなんてマナーに反するけど、私はどうにもこの煙草ってやつが気に入っていてね。特に、考え事をする時はピッタリ嵌るんだ」

 そんな名探偵があちこちに居た。

「吸血鬼には副流煙ってあんまり関係無いし、この程度の毒ガスなら身体の周りで自動分解されるから。へ? 原理? 吸血鬼特有の身体機能調整に関係していて………ゴメン、話が逸れたわね」

 そう。彼女が言った通り、今の私は煙がほとんど気にならない。

 体質の変化、と言う言葉で割り切るのは何だか問題な気がするけど。

 さて、訊かれた事には正直に答えるつもりだけど、私自身が知っている事だってそう多くはない。何しろ、ほんの数時間前に目覚めて吸血鬼になった事を知ったばかりだ。

 できるなら私の方が情報を集めたいくらいだった。それでも、一応話せるだけの事を一通り伝えた。ミナトも、今度は話に口を挟まず煙草の煙を燻らせながら聞いていた。

「………やれやれ。あの馬鹿の犠牲者で、しかも吸血鬼として生き返った、か。色々と疑問は多いけど、それならここに来たのも縁か運命かな」

 少し困った様な表情を見せた彼女は、そう言って半分くらい灰になった煙草を携帯灰皿に押し込んだ。

「あの、何かご存知なんですか?」

「ま、ね。でも順番に話しましょうか。まず私が驚いたのは、貴女が吸血鬼になって僅かに二日だと言う事。それが本当なら、立派なレコードね。もちろんLPじゃなくて」

「………?」

「………ゴホン。少なくとも貴女がCD以降の世代なのはわかったわ」

 ああ、そう言うネタか。でもレコードだって年齢を問わず熱狂的なアナログオーディオファンがいる。

「吸血鬼になるって、もしかして時間がかかるんですか?」

「段階にも手法にもよるけれど、かなりね。喩えとして適当かはわからないけれど、青虫はいきなり蝶にはならないでしょう? 変態の為に蛹と言う状態を挟む訳。

 屍者なら二、三日。それ以上なら二週間以上。卿は一ヶ月や二ヶ月はザラよ。更に、人間からでも吸血鬼からでも、準備にその何倍も時間を必要とする。

 私の時は合計で半年ってところだったかな。アニメの魔女っ娘みたいにゼロコンマでぱっと変身できる訳じゃないし、簡単にホイホイ増殖するものでもないの」

「例外無く、ですか?」

「私の記憶では無いなあ。それなのに、貴女は僅か二日でこちらの世界に入ってきた。………ううん、違うわね。貴女の言う事が事実なら、貴女は人間として死んでから推定一時間弱で吸血鬼化した。それも、独立型として」

「………独立型?」

 そのタイプは説明されていない。

「他者から制約を受けない卿クラスの事よ。これはもう間違い無いわね。貴女みたいに自由行動できるってなると、従者はもちろん近衛でもない。第一、一族に連なる者には必ず支配する主人の気配があるのよ。でも、貴女にはそれがない。

 ………と言うことはよ? 一般的な方法では貴女みたいなのは生まれない訳なのよ」

 でも、私はこうしてここに居るんですけれど。

 現実は圧倒的な証拠だ。私の表情から複雑な思いを読み取ったのか、ミナトはにっと微笑んだ。

「つまり消去法よ。貴女は例外が有り得る最後の方法で吸血鬼になった」

 私も速飛の言葉を思い出していた。

 最後の方法。自分の意志では行なえない唯一つの例外。

 ………嫌な……否、さっきから私の中に湧く妙な感じが膨らむ。

「………真祖、ですか?」

「なんだ、知ってたの。そう、普通に考えるとそんな離れ業が出来るのは吸血鬼の創造主たる真祖を置いて他には無い。ただね、これにも問題があるのよ」

「それ、何なんですか?」

「真祖たちが新しく吸血鬼を造ったって話、ここ千年くらい全然無いのよ」

「ぶっ!」

 その意味を理解できない程、私も真バカじゃない。

「真祖十三宗主の話は聞いてる? 十三柱の真祖は、確かにこの地球上の何処かに存在していると思っていい。でも、彼らは創世期を除けばほとんど吸血鬼を造らない。特にこの千年は私が知る限りではゼロ。

 それなのに、なぜ今、わざわざ貴女を吸血鬼に変えたのか。ううん、そもそもこの街に本当に私が感付かなかった真祖が居たのか、疑問が残るのよ」

 私が吸血鬼に変質するまでの時間は約一時間。もしも真祖が私を造ったとすると、ほとんど狙ったタイミングのレベルだ。

「卿の端くれの私が言うのも何だけど、真祖って化け物よ。知っているかもしれないけれど神話の神とか悪魔、世界を創った壊したの非常識レベルだからね。個体差もあるけれど、基本的に連中に不可能な事は無いの。だから行動を説明できる筈もないし考えを読むなんて無駄なんだけど」

 乾いた笑いをはははと漏らす。

 私に取っては笑い事じゃない。

 自分が立っている足場が、正体不明の何かになってしまったような感覚。これは多分、不安と言うヤツだ。

 吸血鬼にも不安感ってあるんだなーと別の方で思う。逃避だ。

「もう一つ、あんまり考えたくない可能性もあるわ」

「もう一つ?」

 でも、速飛の挙げたものには無い。

「貴女も吸血鬼になったのなら、知っておいた方がいいか。《月之使徒ムーンアポストル》どもの事をね」

「《月之使徒》って………」

 その反芻は、今までの確認を主とする言葉とは違っていた。思わずそうしてしまう不吉さがその単語には含まれていた。

 なんだろう?

 酷く胸を締め付ける。初めて聞いた言葉なのに、なぜかずっと以前から知っている。記憶には無くとも、何かが覚えている。

 湧き上がる不安が増殖して何か大きな形を作ろうとしている。

 私はそれ以上の事を訊こうとして口を開いた。

 でも、そこから声が出ない。

 喉が詰まって、緊張で言葉を忘れたかのように、言うべき事が出て来ない。その言葉が私の意識を掻き乱す。


 ………いや、その言葉の先にある何か、何か、何か、何か、何か、何か、何か、何か、何か何か何か何か何か何か何か何か何か何かっ!!! 


 未だ得体の知れない『何か』こそが私の中に起こりつつある変質の原因。精神を掻き乱す塊。薄汚れた言霊。

 ミナトは知っている。

 私は知らない筈なのに、今にも喉の奥から叫び出しそうなその存在を!!

 そんな私を見て、ミナトは淡々と言葉を続けた。

「……そう。《月之使徒》はすべての吸血鬼の敵。そして、奴らは吸血鬼の裏切り者。赤い夜の天空を支配する、あの《穢れた月》に惑わされ、力と引き換えに心を奪われた愚かな者たちのこと」

 かつて無いほど心が騒ぐ。


   6


『ニューヨーク市の地下鉄に新車両【ストライクフリーダム】が導入されて僅か三日。乗客乗員合わせて約二十名が犠牲となるこの事故を、誰が想像したでしょうか。

 地下道内で車両の一つが横転し出火。関係各線は現在停止しています。事故における負傷者は今も尚不明でニューヨーク市・特別救助隊マンハッタン・イーグルが突入を計画している様子ですが、地下道内調査が出火の為思うように進まず、現在も足踏みのままです。

 今回の事故は地下鉄を狙ったテロとの見方も有りホワイトハウスも調査を始めると言う情報も入っています。ネット上では便乗と思われる犯行声明がイスラム過激派組織を始め二十以上確認されていますが、その中には新車両導入に対する『ストライク・ノワール・スキャンダル』に関連したジャパンバッシング・グループの名前も上がっています。今回の事故において、二期目も終盤を迎えたブレイザー市長の動向が注目され………………』


   *


「もういい! 消してくれ!」

 憤りと悲痛が混じった声が市長執務室に響く。

 世界最大の都市ニューヨーク。その政治の頂点に立つブレイザーの身体は、大学アメフトリーグで屈強のオフェンスラインとして活躍した事を自慢しているとは思えないほど小さく縮こまってしまっている。

 彼にとって【ストライクフリーダム】は第一期からの事業であり、三期目を不動の物とする総仕上げでもあった。『ストライク・ノワール・スキャンダル』と呼ばれた事件もあったが、今では模型をバットで破壊して喜ぶような一部のアングラにしか流れていない。

 難問は全て彼得意の馬力で乗り越え、つい三日前に絶頂の思いでテープカットしたばかり。

 ………それがこんな事になろうとは。

 彼の意気消沈した姿は、とても市民の前に出せた物ではなかった。

「………無論、真相は表に流れていない。この〝事件〟はテロでも車両が欠陥品だからでもない。地下に潜む、あの〝猿〟どもの仕業だ」

 市長はテレビを消させた後、机の正面に立つ男に力無く頭を垂れた。

 市長室に居るのは三人。執務机に市長。その横に第一秘書。そして机の前に立つ神父。

 そう、神父である。合同葬儀の準備にしては早過ぎるが、もちろんそうではない。

 身長百九十五センチ。二メートルを越える市長に負けぬ長身だが、身体つきは細く引き締まっている。撫で付けた鈍い金色の短髪に、やはり細い印象を受ける顔には長方形レンズの眼鏡が掛けられていて、学者風の風貌を引き立てている。

 年齢は推定三十代後半から四十。実際のところ、威圧を与える身長でなければ学識豊かな神学者のイメージを与えるだろう。

 だが、彼の放つ威圧感は尋常ではなかった。

 それは歴戦、それも一つや二つでは無く、両手に余るほどの数の死線を潜り抜けた強者が持つ風格だ。

 プライドの高いマフィアですら、彼の前では皆無条件で許しを乞う羊になるだろう。

 彼の存在感は周囲に恐ろしいまでの緊張を与えていた。第一秘書などさっきからしきりにここから逃げ出したい素振りを見せていた。

 それは自分よりも遥かに巨大な力を持つ生き物と同じ場所に放り込まれた絶対的弱者が見せる、極めて自然な反応である。

 怯えの視線の先に居る神父は、眼鏡のブリッジの位置を右手の中指で直すと、市長の言葉に続けた。

食屍鬼グールですな。まあ猿と言うよりは犬ですが。

 ニューヨークでは少なくとも四つの食屍鬼のコミュニティが確認されていましたな。【ゾディアック・ブラザーズ】【ジャック・カンパニー】【タイスン・ファミリー】。………はて、もう一つは………」

「………【クライグ・ユニオン】だ」

 この街の市長になった者が真っ先に目を通す機密資料の中に、それは記されている。悪夢としか言いようの無いその事実に吐き気を催すのが市長の最初の仕事だった。

 嗚呼全く。

 『ニューヨークの地下には人間の死体を喰うおぞましい食屍鬼が最低でも五百体存在する』など、悪夢以外の何物でもない。

「特別区域警邏隊による充分な警戒もしていた。特にこの数年で数は激減させたのだ」

 彼が推奨する『ストライクフリーダム計画』の実行の為に、極秘予算を組んで食屍鬼掃討作戦を行う事、年に数回。すでに百体近い食屍鬼を抹殺したと報告も受けていた。

 だが。力無く訴える市長に対し、神父はそれを鼻で笑った。

「実に無知なアメリカ的考えですな。まあ、今回は運が悪かったのですよ。数を減らした事は何の関わりもありません。彼らはこの時期に獲物を欲し、そこに【ストライクフリーダム】があった。ただそれだけの事です。あなたの政策によるミスは何一つありません」

 嘲りも非難も無かった。神父は本当に市長に責任が無いと言っていた。

「状況は理解しました。今から潜ります」

 そう言うと神父は、話はここまでとばかりにドアの方に身体を向けた。だが、事件への不安が晴れない市長は思わず声を掛け呼び止めていた。

「ルーベン団長。我々にできる事はあるかね?」

「事故の適当な言い訳と、合同葬儀を早く手配する事でしょう」

 それは、生存者がいない事を断言した物だった。死者が出るのは覚悟していたが、それでも全滅は最悪の出目である。

「………生存者の可能性は、無い、と?」

 尚も縋り付く市長に、ルーベンと呼ばれた神父はトドメを刺した。

「市長。貴方は先程食屍鬼を〝猿〟と言いましたな。しかし、その実態は九十九パーセント人間ですよ。無知な創造論者や人類霊長主義者には到底受け入れられないと思いますがね。

 あれは猿でもなければ原始人でもない。彼らは人間が狩猟をして獲物を食べ易いように料理するのと同じ理屈で人間を襲い、殺し、備蓄する。いわばヒトを狩るヒトです。

 現代に適応した知性を持ち、狡猾に、確実に、行動する。今回の事件が奴らの狩猟計画によって行なわれた以上、事件から二時間以上も経過した現時点での生存者は間違いなくゼロです。狩られた全ての人間は、奴らが準備している次の宴の為に殺されて吊るされているでしょう。奴らは新鮮な肉を好みませんからね」

 第一秘書の顔がどんどん青ざめる。

「ここからは私たちの仕事です。それでは」

 ドアが閉められた後、第一秘書はトイレに駆け込む余裕も無く胃袋をひっくり返すような勢いで床に胃の中身をぶちまけた。


   *


「マンハッタン・イーグルはすでにカモフラージュに回っています」

 外で控えていた団長付きの従士が現在の状況を説明した。

 世界でも最高レベルの装備と実力を持つ都市災害レスキュー部隊であるマンハッタン・イーグルとは言え、この事件に対しては門外漢。しかもこれが言ってみれば人為的な事件である以上、迂闊な突入は確実に二次被害を出す。

 しかしここまで大きな事件になっている以上、レスキューが事故現場に入らなければ不自然である。

 よってカモフラージュが必要だった。その配置を交渉するのが市長との密会見の目的だった。

「特別区域警邏隊は?」

「第一ライン上で警戒態勢のまま待機中です」

「ギリギリまで下がらせろ。足手纏いだ」

 彼らは事件現場から離れた場所にある地下世界の入口に立った。

「では、自分はここの警備に当たります。団長。お気を付けて」

 従士が敬礼で見送る。

 ここから先は彼ですら足手纏いになる。

 いや、彼の名誉の為に言っておくが、正式な聖衛騎士ではないにせよ、第十二聖衛騎士団の従士たる彼ならば、食屍鬼の十体やそこらに手間取る事は無いだろう。

 彼だけではない。騎士団団員として認められる十二人の聖衛騎士、人類の敵である吸血鬼と互角以上に戦う彼らですら、団長ゲオルグ・ルーベンと同行はしない。なぜか?


 【答え】巻き込まれて無駄死にするのが嫌だから。


 地下開発が今も尚続く超大都市ニューヨーク。

 しかし、その地下世界の支配者は未だ人間ではない。それを捕食する食屍鬼こそ、この闇世界の支配者である。

 どれほどの灯明を用いたとしても、人が地下で彼の者たちに敵う道理は無い。

 ニューヨークで発生する行方不明ミッシングのうち、大半は犯罪による犠牲者だが、確実に一割以上は食屍鬼による犠牲であると言われている。

 そんな世界を案内も無しにルーベンは走る。

 この地下世界を人類の手に取り戻す為に、専門の教育とデルタ・フォースに匹敵する戦闘訓練を受けたニューヨーク特別区域警邏隊の智勇に優れた者たちですら怖れる地下の闇。彼らは食屍鬼が常に暗闇に潜み獲物を襲う事を、基礎座学と訓練演習で嫌と言うほど叩き込まれているからだ。

 それに、地下鉄の空間と言えばそう広くはないと思うかも知れないが、これに食屍鬼の手が加わり、人類が把握している数倍以上の空間が広がっているのである。

 超古代遺跡が存在するとも、また、誰が施したかはわからないが魔術的な技術により異世界と繋がっているとも言われている。

 文字通り地下に広がる別世界なのだ。

 やがて、彼の視界に地下で燃え盛る炎が映った。

 事故現場………いや、事件現場だ。

 人為的に放たれた炎の奥に、レールを外れ壁にぶつかって横転している車両が見えた。最新技術とデザインの結晶も、こんな有様では粗大ゴミと大差はない。

 そして、見る限りでは車両の中には人が居なかった。死体すら見当たらない。

 更にルーベンが周囲を索敵すると、明らかに複数の気配がキャッチできた。

 息を殺して身を隠しているようだが、数が多いと隠しようもないものだ。

 奴らは犠牲者の周りに更に罠を張っているのだ。これは戦争や動物密猟でよく使われる手段である。残虐である、と言う点を除けば優れた方法だ。人間からも変化する食屍鬼。戦術に優れた知識を持つ者がいてもおかしくはない。

 連中は、ここにレスキューなり特殊部隊なりが入ってきたらそれを襲う魂胆なのである。タフガイの集団であるレスキューと言えども、十数体の食屍鬼に襲われたら生きては帰れない。

 しかも、今度は彼らが持つ道具を連中に与えてしまう事にも繋がる。

「………さて、問答をしている暇もする気も無い。日本での大仕事が控えているからな」

 気配が動いている。ただ一人ここに来た男を警戒しているのか。

 そして、一瞬それが止まった。襲い掛かる準備ができたのだ。

 背後から、横から、正面から、計六体の食屍鬼がルーベンに向かって飛びかかる。

 人の成れの果てと言うが、その顔は犬のようで身体は一見して猿。しかし極端に発達した脚や体毛の無い腐ったような色合いの、ゴムのような肌は、東洋日本の中世絵巻で語られる餓鬼に近い。

 元は人とは思えないおぞましい姿。

 しかし、ルーベンはその表情を崩さない。術式はすでに彼の中で完成している。

「ふん。火遊びが好きな貴様らに、地獄の火炎と言う物を見せてやろう」

 ルーベンの周辺の雰囲気が一変する。

「焼き滅べ」

 展開する術式と共に、僅か一瞬でルーベンの周囲がその色を火炎のオレンジに塗り替えた。

 その炎は、半径百メートルに潜んでいたすべての食屍鬼を、悲鳴の暇も与えず焼き払い骨まで蒸発させる。

 それは、敵も味方も関係無く、しかも生きた者だけを焼き滅ぼす彼固有の極大魔術であった。

 これこそが団員たちが彼と行動を共にしない最大の理由である。

「………ふむ。終わったな」

 一分に満たない時間で全てが終わった。彼は携帯無線から指示を送る。

 討伐数は一瞬で二十強。

 コミュニティの壊滅までは不可能だが、多大な犠牲を出した事で食屍鬼もここから手を退くだろう。

「………間も無く月が満ちる。食屍鬼どもが活発なのもそのせいか」

 僅かに焦りを含む彼のその呟きを聞いた者は、誰もいない。


   7


 何て事だろう。その言葉がこれほどにも私に衝撃を与えるなんて想像もしていなかった。

 《穢れた月》!!

 私の存在すら揺るがせるほどの衝撃が頭を襲う。

 ………ああ、わかる。

 それだ。その名前だ。

 おぞましい名に宿る禍々しい言霊が、私の中に渦巻き始めている不安の答えだ。

 見た事も聞いた事も無い筈のその言霊が私を縛る。

 本能に関わっているのか、それとも別の何かが理由なのか、それはわからないけれど、この渦巻くものは尋常じゃない。

「《穢れた月》ならば、人を生き返らせる事も吸血鬼に変える事も不可能ではない筈。実際こっちは過去幾つも例があるし」

「じゃ、じゃあ、………私はもしかして、そっちの方の?」

 搾り出すように声を出した。恐怖ではなく、別の何かが喉を嗄らしている。

 そんな私を見てビビっていると思ったのか、彼女は笑って答えた。

「あははは。うん、それは無い。百パーセント無い」

「へ?」

「もしそうなら、私が貴女を生かしておく訳が無いじゃない。出会った瞬間に潰すわよ」


   メキッ


 嫌な音を立てて、彼女が右手で丸めて玩んでいたゲーム雑誌の一部が一瞬で細い棒っ切れに変わった。

 ………あー、どうやら握り潰したらしい。とんでもない握力。

 そう言えば初めてミナトが吸血鬼らしい所を見た。さすがにこれはどんな怪力自慢人間でも無理だろう。

 ………あんな攻撃を受けて再生ってできるのかな?

 ミナトは存在意義を失った雑誌をぽいっとそこら辺に投げ捨てた。それが何かに当たってカーンと硬質な音がした。………絶対雑誌の音じゃない。ゴミに出せるんだろうか。

「《穢れた月》の力で黄泉還れば奴の手先、月之使徒。連中は《穢れた月》の為に動く。仮に新米でもこんな所でふらふらしてないよ」

「そ、そうなの?」

「言わば奴隷だからね。それに、奴らは皆その忠誠の証として、赤い絵具を溶かし込んだみたいな、濁り輝く瞳を持っている。貴女の瞳は少し緑のかかった黒ね。こればかりは誤魔化せないからね」

(そっか。………ん? 私の瞳って………そんな色だったかしら?)

 一応女子高生の端くれであったから毎日鏡は見ていたし、彼氏ができてからは特に念入りにチェックするようになったけど。

 だからと言って、自分の目の色なんてそうそう見ている物でもない。

 人間なんてそこに美意識かコンプレックスでもない限り自分の部位が強く記憶に残る事は無いもんだ。あたしなんて自分の寸胴っぷりしか覚えがありません。鏡に映らなくなった今となっては自分で確認する事もできないけど。

 あ………吸血鬼が貴族趣味になるのって、もしかして鏡が使えないから身の回りの世話をする係が必要になるからなんじゃ? なんてね。

「吸血鬼の中には変身を得意とする者もいるけれど、瞳だけは変えられないの」

 吸血鬼の物語でよく聞く蝙蝠や狼に変身するのはスタンダードなのだろうか。私が変身するなら何がいいだろう?

 ………ふと頭の中に浮かんだのは豆柴。弱そう。

「むう、さすがにそれは………ん?」

 記憶に引っ掛かった。そんな瞳をどこかで見た気がする。

 ええと………あれは。

 記憶を深く手繰るまでもなかった。つい最近の事だ。具体的に言うと二日前の夕方。

「あっ! あの怪物の瞳!」

「………怪物? それは、今街で暴れている馬鹿の事?」

「うん。速飛はノスフェラトゥって言ってたけど。あいつの瞳、確かにそんな色だった。生き物みたいな色じゃないのに妙に生々しくて」

 はっきりと思い出した。壊れた街の幻巣世界。奇怪な色の空。

 そしてそこに居た四本腕の怪物の赤くべったりとした瞳。

 ………不思議な事に、私を殺した怪物への恐怖、みたいな感情は湧き起こらない。

 普通なら死にかけた時の事ってトラウマになってもおかしくはないと思うんだけど。いや、私は実際に一度死んでるらしいけど。

 私の言葉を聞いたミナトは、うんうんと頷いていた。

「………そう。まあそうだろうとは思ってたけど。支配の呪縛をぶった切る方法なんてそうは無いし。つまり、そいつがここを出てった私の元従者なんだよね」

「………ええ?」

「高校生ならもしかして飯綱大学って知ってる? 千葉県にある医薬学系私立大学なんだけど。私、そこで一般教養の文学史講義を持ってるの。だから週の半分くらいはここを留守にしているんだけど、そいつはその留守を任せていた奴なのよね」

「あの………吸血鬼が、大学の講師、ですか?」

 色々疑問はあったけど、取り敢えずそっちの方が単純に驚きだった。

 吸血鬼の職業なんてあんまり想像が付かないからだ。

 多くの吸血鬼は財産こそあれど基本的に無職だろうし、あるいは能力を活かして夜間工事現場とかで働いている人もいるかもしれない。

 自身の体験を活かしてライトノベルを書く吸血鬼もいるかもしれない。

 いや、でも、長生きして知識を蓄えた人ならば教鞭を取っても不思議は無いのかも。………昼間、外に出られれば。

「ちなみに専門は『吸血鬼文学史』」

 それはギャグか? ギャグなのか?

「ま、飯綱が特殊って部分もあるんだけれどね。どっちかと言えば〝闇側〟に近いんだな、あそこは。所属していると私も便利だし。私以外でも変な講師居るし」

「吸血鬼、ですか?」

「うんにゃ。アメリカ東海岸にある総合大学からの客員講師。姉妹大学提携を結んでいる縁で来てるんだけどさ。専門は『古代宗教史・地方土着信仰』。もろに人文系で、そんなもん医薬学大学で誰が受けるんだか。人の事は言えないけど怪し過ぎ」

 正直大学進学なんてピンと来ない。

 なぜなら暁月はそのまま大学に上がり易いシステムだからだ。校外受験を希望している者ならともかく、エスカレーター希望者は三年から考えても充分に間に合う。

「んで、私の留守中に何があったのか、あの馬鹿は月之使徒に変質して上で暴れてるって訳。

 ……ったく、夏期集中講義の募集を冗談でかけたらアリシアの糞馬鹿の陰謀で定員の三倍集まって、講義室の手配やら何やらで天手古舞いだって言うのに急いで戻ってきたの。

 人間が何人犠牲になろうと基本的には私には関係無いけど、自分の元従者が元凶となれば話は別。私も一応はお貴族様だから責任は取らなきゃならないのよ。………バレる前にさ。東方教会なんか入ってきたら喧嘩になっちゃう」

「………あの、来てますよ、東方教会」

 あ、そう言えば誰が襲って来たかは伝えていなかった。

「………マジ?」

 吸血鬼でも顔色は悪くなるものらしい。

「速飛がそう言ってたし、私がここに来たのも彼らが襲撃をかけてきたからだし。速飛の話だと、一年位前から来ていたらしいんですけれど」

「聞ぃーてねぇーぞ。ん? でも私がここに住んでるのは半ば公認だし、私狙いって訳じゃないのか。あの馬鹿が変質したのはせいぜい十日位前だろうし、なんでそんな時期から?」

「私もそこまではわからないです」

 そもそも速飛からの又聞きだから、情報の信用性も実は保証できない。

「そう言えば、さっきから速飛君とやらがよく出てくるけど、何者?」

「白輝速飛って言って、私を拾った稀少混血です。えっと、私は二年位前から知ってたんですけど。外見は高校生だけど、もう五十年は生きてるらしいです」

 説明しながら、ふと当然の疑問が浮かんだ。

(あれ? そう言えば、あいつは何でこの街に居るんだろ?)

 真祖に命令されたとか言っていたけど、その内容までは聞いてない。

「………稀少混血ぉ? うーん、そんな奴いたかなあ。文字通りレアだから有名どころは大抵名前が知れている筈なんだけど」

「レアなんですか?」

「行方知れずも含めて、今現在世界中で十人いないと思うよ?」

「た、確かにそれは少ないですね」

 真祖は十三。卿クラスはもっと多いだろう。それに比べると確かに少ない。

「漢字はどう書くの?」

「白く輝いて速く飛ぶ」

「またけったいな。中二病疾患者がRPGで衝動的に付けた名前みたい。……ああ、偽名、か。ふむ」

 偽名? そんな可能性、考えてもみなかった。

 だって、普通の学校生活で偽名使って授業受けているなんて誰が考える?

 代返とは訳が違う。

 ………でも、吸血鬼で長生きしているなら有り得るのか。色々と生活にも支障が出るだろうから一箇所に長く居れないんだろうし。

「単純に考えると和訳。直訳英語でホワイトシャイン? おいおい、何処の必殺技だ。ドイツ語なら………ヴァイス………ヴァイス? あ、【白光】かっ!」

 『白い光』。

 膨大な記憶から何か探り当てられたらしい。しかもそれはミナトにとっても爆弾のような破壊力を秘めていたらしい。

 それが証拠に、東方教会の名前を出しても揺るがなかった彼女のマイペースが大きく崩れてしまっている。

「………ちょ、ちょっと待って。何それ、有り得ない。ただの偶然? 【白光】がなんでこんな街に、それもかなり前から? どう言う事?」

「あの、それ、なんなんです?」

 何もミナトの挙動不審が気にかかっただけじゃない。

 さっきから起きている陽凪詩絵里の物ではない、自分の中の深い深いとてつもなく深い場所に漂う何かの記録にノイズが走ったのだ。

「あ、うん。たぶん、そいつ地球上で一番有名な稀少混血。とある真祖に仕える、月之使徒を狩り潰す最大の狩人の名前」

 吐き出された事実は、速飛の言葉をほぼ沿っていた。確かに彼は「真祖と契約している」と言っていた。つまり、ミナトの符合は正解と言う事になる。

 それを伝えると、ミナトは天を仰いだ。

「うわっちゃあ! それが本当なら、そして何年も前からここに居るのなら、この街に確実に真祖が存在している。

 【白光】は唯一の例外を除いて必ずその真祖の側に居る稀少混血なのよ。………貴女を吸血鬼にしたのは、きっとその真祖だわ」

 話の展開に、ギリギリだけど着いて行く。つまり、それはつまり。

「貴女を拾ったのは、そいつだけじゃなかったのよ。横に真祖が居たのか、先に真祖が居た。理由はわからないけれど、死にかけている貴女を吸血鬼に変えた。そう言う事なんだわ」

 納得、まではいかないけれど、一応の説明が付いた。

「………あの、その真祖って、名前があるんですか?」

 何となく口から出た疑問。それは自分の出自をはっきりさせたいと言う自然の欲求だった。

 ………と思う。

 それに、そこまで存在が知られているのなら、真祖が超越的な存在と言えども名前くらいはあるだろうと思ったからだ。

 が、その質問にミナトは眉をひそめた。

「うーん、真祖ってさ、いっぱい名前………って言うか俗称があるのよね」

「………たくさん、あるんですか?」

「そらもう。元々神や悪魔の原型アーキタイプみたいなものだから神話の主神級にはほとんど当てはまるし」

「全部が、そうなんですか?」

「………全部が全部って訳じゃないけどね。ただ、そいつは特に人類史と関わりが深いから残っている名前も多いのよ。人間的な区分けが必要な連中でもないし、そもそも真祖って人型だけじゃないし。

 だからこれから言うのは通り名よ。もちろん、貴女を変質させた真祖が【白光】の契約した存在と仮定した場合の話だけど、オッケー?」

 私は首を縦に振って答えた。


「それは『門の守護者であり門そのもの』

 『深淵の先に在りし虚空根源の代行者』

 『異界色に輝く緑柱石アメイジング・エメラルド

 『月の使徒の死の神為る真祖』

 他にもまだ幾つも通り名があるわ。これらはそこそこヤバイ魔導書なんかにも出てくる比較的メジャーな名前。

 でも、もう一つ。一番有名なヤツがある。

 それは有史の記録に於いて最初に確認された時に名付けられた名前。由来が地名なのか人名なのかはもうわからない。

 でも、〝彼女〟を知る多くの者たちは、彼女を今でも《真祖アストラギア》と呼ぶわ」


 …………………………目眩が、した。



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