第一章 終焉の黄昏、開幕の落陽
1
「でぇ、どうだったのよ。初デェトわぁ。ちゃぁんと避妊した?」
夕飯の席で母さんが私の顔を覗き込んでとんでもない事を訊く。別に話した覚えはありませんが、どうやら娘の行動はお見通しだったらしい。
………まあ、娘があーんな気合入れた格好して出かければ勘付きもするか。そして食卓にお赤飯が炊いてあったのはそれを訊く為だったか。それに、他にも普段は並ばない割と豪勢な品々。そして、なぜか一人分多い。
「な、なんでそうなるのよ」
が、幾ら性が氾濫する現代社会とは言えストレートにも程がある。
「ふうん。いくらなんでもキスぐらいは、したんでしょ?」
と尋ねつつ、その目は全然私の報告を期待していない。ばっちり見抜かれている。
手ぇ繋いだだけでっす。
………いや、まあ、一応ですが、もしもの時の為にできる限りの準備はしました。具体的に言うと、下着、とか。もちろん卸し立てです。彼氏に見せるという観点で身に着けるショーツを選んだのは生まれて初めてでした。
「お、お母さんには関係ないじゃない」
「大有りよ。あんたみたいな根暗の変わり種を好いてくれる子なんて、これから先でも現れないかもしれないのよ。少ないチャンスに身体開いて繋ぎ止めなくてどうするの」
それが母親の台詞ですか。
しかも、「身体を張る」じゃなくて「開く」かよ。まあ私も求められたら応じる覚悟はありました。
しかし、言いたくは無いけど私のコメディ気質は母譲りである。
我が母ながら贔屓目で見てもどちらかと言えば変人に分類される。
体良く言えば放任主義の亜種。おそらく夕飯に準備された料理もお祝い半分からかい半分だろう。
しかし、世間の常識と言うXY軸に対し相似曲線を行く思考回路は、喧嘩したくとも土俵に立たせられなくて困る。
「ま、今のあんたじゃ色々と絞らなきゃならないから、本番は夏休みね」
………全くその通りでございます。娘の体重まで把握済みか、この母親は。見りゃわかるけど。
うん、でもどうせ見せるなら少しでも良いものを見せたいし? 最終的には一糸纏わぬ状態で勝負しなくてはならない訳だからして………いや、何を考えているのか、私は。
「ねえ、お父さん。お父さんからも何か言ってやって下さいな」
(母よ、この会話で父さんにどんな言葉を期待すると言うのですか)
その父さんだけど、さっきからテレビのニュースに目を向けていた。
下手に母さんの会話に口を挟むとどうなるか分からないと言う長い経験に見事に裏打ちされた賢い行動だ。
伊達に私よりも長くこの人と付き合っていない。確か、幼馴染だったと言っていたから筋金入り。
「そうだなあ。最近は物騒だし、彼氏を作った方が安心かもしれないな」
「………は?」
口を開いたと思ったら、何を言っているのか。分類普通人の父さんにしては妙な台詞だった。
「物騒………って、何かニュースで言ってた?」
テレビのチャンネルは私たちの済む扇台市のローカルニュース。
扇台市は人口二〇万程度の沿岸都市だけど、ある企業が中心に拓いた学園研究計画都市なので色々と設備が充実している。
そして、その分事件も決して少なくない。
「最近、中高生の家出が目立つんだそうだ」
「そう言えばそう言う話も聞くわねえ」
「でも、今はプチ家出って言うの? 結構多いと思うけど」
無許可の外泊とも言える。大概は友人の家に居るし、場合によっては年上の彼氏ってものも有り。
何しろここは学園都市。大学がかなり近いから大学生と付き合っている(もちろん肉体的込)と言う高等部女子も割と多い。
これはあんまり大きな声では言えないけれど、中等部の頃からその手の話はよく聞いた。確か同意の関係でも中学生相手はマズイ筈なんだけど。少女漫画じゃないんだから。
「目の届かない所で何かされるよりは娘の恋愛を認めた方が良いんじゃないかと思う」
「当たり前でしょう。詩絵里の将来が懸かっているんですから」
まだ言うか。
「そうだわ。いっそ同居して貰うのはどうかしら? 送り迎えもして貰って万全だわ」
変人がいよいよ顔を出す。
………正気で言ってるんだろうか、この人は。
「そうだなあ、部屋はどうする、母さん」
「何の為に寝室や詩絵里の部屋を防音にしたんですか。隣の部屋を開けて、直通ドアを付ければ大丈夫ですよ」
そっかー、あっはっは。防音なのはコンポの為じゃなかったのかー。
こんちくしょー!
2
「で、何処まで行った? って言うかちゃんとイケた? 腰痛くない? 股は?」
それが女子高生の朝の会話か。でも避妊に言及しないのは嫌にじょしこーせーっぽい。
「……ヨッコ。うちのおかんと同じ事言ってるよ。セクハラ」
「うえっ、おばはん臭かった?」
うん、どっちかって言うとオヤジかな。でも女子高生同士の会話って案外そんなもん。
ヨッコは腹を抱えて笑っている。
背中まであるシャンプーのCMに出そうな艶々の黒髪に、出る所はミサイル内蔵みたいに出て、締まる所はバッチリ締まっていると言う、同性でも心底羨ましいバツグンのボディ。
竹本泉のキャラのような人懐っこい表情に、高過ぎず低過ぎない身長。勉強スポーツ共に不得手無し。
何をやらせても冠詞に「お嬢様」が付きそうな美少女。クラスメイトの荒井陽子は登校した私を捕まえてケラケラ笑っている。
学園都市の中心であり、私たちの通う暁月学園は大きく初等部・中高部・大学部の三つに分かれている。
ここはその高等部二年七組の教室窓際一等地。始業十分前で生徒のほとんどが中に入っているけれど、思いのままにおしゃべりしたり予習したり漫画読んだりケータイやスマホいじったりしている。
「でも、真面目に繋ぎ止めた方がイイよ。今は駄目でも高校時代の仕込みが数年後に活きる事だってあるんだから」
「はいはい」
どこからどう見ても一級品の彼女は口を開くとセクハラオヤジと化す。性格も我が友らしく変わり者で、これが無ければ学園祭のミスコンで優勝狙える器なんだけど。
ヨッコとの付き合いは高等部に入って同じクラスになってからだけど、これだけの美少女に浮いた話を一つも聞いた事が無い。彼女の性格は知れ渡っていてチャレンジャーが現れなくなったらしい。
ちなみに、狩野剣也争奪戦も、私とは違う理由で最初から傍観に回った。
曰く「ドラマって観ていた方が面白いじゃない」だそうだ。全く正論。
「で、昨日はどこまでヤったの?」
質問のニュアンスが変わってないか?
「昨日は二人で映画を観て、遅めのランチを一緒に食べましたよ」
「おお、いつの間に。グッドモーニング、いや、グーテンモルゲン」
「か、狩野くん?」
本当にいつの間にか、彼が側に来ていた。座席は私の近くだから、取り敢えず不思議ではないのだけど。
と言うか今の会話を聞かれていたら恥ずかし過ぎる悶え死ねる。
今日はもう授業に集中できっこない。
「おはよう、陽凪さん。昨日は楽しかったです」
「え、いや、うん。こちらこそ」
デート明けの気恥ずかしさって奴なのか、顔が火照ってまともに顔が見れない。手に優しく握られた感触が蘇りそう。
「映画観て、ランチして、ねえ。今時小学生でもその後睦んじゃう時代だよん?」
一方的に恥じらっている私を眺めて当然の感想を口にする我が良き友よ。
私にとってはねえ、人生初デェトをさせただけで充分であり小さな一歩でも偉大な一歩な訳です。
しかし、言われっぱなしではコメディアンとして負けなので私の口は勝手に動く。
「ふふん、小学生には無理よん」
「ほう、そのココロは?」
「映画はPG15でした」
「あっはっは! じゃ、次はワンドリンクでストロー二本かな? いややっぱりお楽しみは夏休みですか海ですか? おお海! トロピカルドリンクトウギャザー! 夕暮れの波打ち際、水着の準備イコール本番準備って事で。お泊り上等」
ウケたせいか暴走気味。………おかんもほぼ同じ事を言ってたよ。
「ま、夏服もあっと言う間だし、当分は絞るわよ。放課後スイーツタイムも無期延期」
暁月学園高等部の夏服は、ブラも透ける白ブラウスにベストのシンプルスタイル。ベーシックな組み合わせだけに本人のボディが差を付ける。
「あらら。じゃあ、あたしも付き合いますか」
少しでも寸胴にメリハリを付けたい私と違い、ヨッコは必要無いと思うけど。
でも、彼氏に見せる為のダイエットなんて縁の無いものと思っていたのが遠い昔のようだ。
キーンコーンカーンコーン
馬鹿話を打ち切るように始業チャイムが鳴った。そのチャイムが鳴り終わるジャストタイミングで、担任の八幡マリ亜先生が教室に入って来る。
立っていた生徒は急いで自分の席に着いた。彼女はそう言う態度に厳しいのだ。
「起立、礼」
三十路直前の女盛り。一部の隙も無いパンツスーツでダイナマイトなフェロモンボディを固めている。男子生徒の中では、夏になって薄着になるのを心待ちにしている者も多いほどだ。
半月型の眼鏡も一見きりりと表情を引き締める小道具だが、時折見せる気だるい表情を引き立てて艶かしい。
しかし、教育に関しては鬼が付く真面目教師でスパルタン・スタイル。鬼軍曹よろしく怒鳴る姿は百年の恋も冷めるか別の世界を垣間見るか。
男女共に怒鳴られたいビンタされたいヒールで踏まれたい鞭でしばかれたい希望者有りと言う話も聞く。
多分すっごく似合うと思う。アンダーグラウンドで行なわれたマリ亜先生に似合う服装堂々の一位はもちろん軍服。特に旧ドイツが大人気。漫研が出した軍服コスプレイラスト同人誌R18は凄い売れ行きだったとか。
「今日の朝のホームルームはこれで終わりますが、幾つか生活態度に注意事項が有ります。
連休明けで気も緩みがちですが、特に深夜間の外出は風紀上好ましく有りません。警察の方からも指導の徹底を依頼されています。皆さんはくれぐれも夜間外出を控えるように。尚、補導された場合、理由の如何に関わらず停学処分になると思って下さい」
そう言うと、八幡先生は号令もかけずに教室から出て行ってしまった。
教室がしばし静寂に包まれ、すぐに雑然と会話が始まる。
「珍しい。あの先生が号令無しで出てくなんて、明日は雪かな?」
ヨッコの言うとおり、八幡先生はそう言う儀礼事に拘るタイプだ。今日は急いでいたんだろうか。警察からの指導と言うのも物騒な話だけど。
「そう言えば、家出が多いって話、聞いてる?」
「うん、昨日のニュースで見た。でもプチ家出なんて珍しくもないでしょ?」
ところが、私の言葉にヨッコは首を横に振った。
「……家出、じゃないみたい。あたしの聞いた話だとまだ誰も戻ってないみたい」
背筋に一瞬冷ややかな感じが降りた。
それは少しだけ、異常な話だ。
大型連休は終わった。帰るタイミングとしてはこれ以上だとちょっと考えられない。もちろん事情は人それぞれだから簡単には纏められないけれど………。
「家出じゃなければ、何だって言うわけ?」
「行方不明」
ヨッコはサラリとそう呟いた。
『家出』と『行方不明』では似て大きく異なる。早計に使って良い言葉でもない。
「実はさ、あたしの妹のクラスメイトもゴールデンウィーク初日にいなくなったらしいの。それも、家出なんかしそうにない優等生。しかも次の日に友達と約束していたらしいんだ。どうも塾の帰りから行方が分からなくなったみたい。
でも、それって家出の可能性は低いと思うのよ。持ってるお金だって怪しいだろうし、誰がかけてもケータイに出ない」
その説明を聞くと、もう一つの可能性が出てくる。できれば回避したい事件性が。
「じゃあ、もしかして『誘拐』って可能性もあるんじゃ」
「うん。でも、それも肯定できない事情があるみたいなんだ」
「事情?」
よくぞ訊いてくれましたとばかりにヨッコは立て板に水に話を続けた。
「似たような話があと四件あるみたいなの。年齢やタイプ。居なくなったと推測される時間帯。共通点が多いらしいわ。それって、誘拐の線はほぼ無いと思うのよ。例え北の将軍様でもここまでお馬鹿な拉致計画は立てないだろうし。偶然違うグループが犯行を行なったとも考えにくい。目下謎だらけって感じ」
「扇台に集中してるって事かな?」
「らしいわね。案外全員でつるんで東京にでも行っただけかもしれないけど」
見知った同士ではなくともシンクロニシティで引かれ合う場合もある。そんな子供向けのミステリが何かの文庫にあった。
考えとしては、そう言う可能性もある。でも、その子たちはまだ帰って来ていない。
「表立った関係は無い。いなくなったのは夜。しかも日付はバラバラで目撃者らしいものも無しと来たらその線も薄い。もっととんでもない話に巻き込まれたのかもね」
優等生ほど衝動的になった時、何をしでかすかわからないとは言い古された説だけど、陽子の話は確かに奇妙に過ぎる。
………わかっている情報を組み合わせると、何か想像外の形ができそうだ。
「って言うか、何でそんなに詳しいの? はっ、まさか!」
「あっはっは。あたしが犯人でした、って、な訳ないでしょ。近所のおばはまネットワークの力よ。もっとも、おばはまたちの間じゃ『拉致られた』『テロの人質』『性犯罪者』『ヤクザ』辺りが中心で盛り上がってる」
盛り上がんな。無責任にもほどがある。
と言うか昼ワイドまんまだ。多分、テレビの向こうは別世界と本気で信じている。自分の隣に殺人鬼が居てもおかしくない時節なのに。
「四人もいるって事は、やっぱり何かあるんじゃないかな」
「そうね。この街って新しいでしょ。だから都市伝説みたいなものに敏感だって事はあるんだろうけど」
新しい街であるが故に、その幾つかは独特の特異性を放っている。
例えば、街に張り巡らされている大型の廃水処理下水には秘密の研究所があるとか、港湾部の湊内区にある巨大倉庫街の一部で奇形の実験動物が集められているとか。
幽霊系よりも実験とか研究とかに関わる話が特に多いのは研究都市の性格柄だろう。つくば学園都市の『胴の長い猫』とかそう言う系列だ。
「……四人じゃない。七人らしいよ」
後ろから声をかけられて驚いた。いつの間にか、剣也が私の後ろに立っていたのだ。
「七人って、どう言う事?」
「高等部からも三人出たらしいよ。登校途中で耳に挟んだんだ」
「それで合わせて七人。この数日で七人もいなくなってるって事?」
「そう。同じ年頃で同じ時間帯と言うのも一緒」
「おお、いよいよ狩野くんも情報通だねえ」
「つまり、夜間外出の自粛ってのはその関係なんだ」
暁月学園でそう言う話が出ていればそうなるだろう。
「警察絡みとなればそう考えるのが自然だね」
私はあまり夜間外出をする方じゃない。けれど今この街に不気味な話が起こっている事は間違いない。それに背筋を震わせないほど鈍感じゃない。
「ちょっと嫌な話よね」
「ま、あんたは彼氏にガードして貰いなさい。隙あらばキャーで」
「……考えとく」
「僕はオッケーですよ」
ストレートにそう言われると喜んでいいのか恥ずかしがるべきか困る。でも、そう言えばおかんもちょっと似た提案をしていました。
「………ところで、話は変わるんだけど」
ヨッコが時計を見ながらつぶやいた。
「ん、何?」
「あたしの記憶に間違いが無ければ、本日の週番って、詩絵里じゃなかった?」
「あ……ああっ!」
突然妄想から引き戻された私は、ある意味最大の恐怖を覚えた。連休ボケもここまで来ると泣きたくなる。
「一時限目はプリント魔の笹岡でしょ。マズくね?」
マズイ。非常にマズイ。
数学の笹岡はプリント課題と百枚綴り大学ノートを愛する、全学年共通で嫌われ者の教師だ。課題提出はこのバケモノノートでないと絶対に認めない。こいつの需要のせいで購買には時代遅れの百枚綴り大学ノートが一コーナーを占領してどっさりと積まれている。毎回山の様な課題を準備し、それを週番が取りに行かないとネチネチネチネチ粘着質にうるさいのでも有名で、二重三重の嫌われ者だ。
「陽凪軍曹、ただ今から週番任務に従事するであります」
「武運長久を祈る」
席を立って二人に敬礼を送る。彼は「頑張ってね」と送ってくれた。
うむ。切羽詰まっているけど、これはこれで幸せってヤツかな。
3
そして、そー言う日に限って週番の仕事は多い。いや、連休明けだから仕方ないと言えば仕方ないんだけど。
ゴールデンウィークが明けて二週間弱で最初の中間考査が待っている。
だから連休用にごっそりと課題を出した馬鹿もいる。国民の祝日を何だと思っているのか。これは国家に対する内乱罪にも該当する行為ではないか。許せん。断じて許せん。
具体的に言うと、数学の笹岡。生徒指導学年主事も担当する奴の座右の銘は「恋愛を覚える前に定理を覚えろ」「オギノ式より二次方程式」「生徒は熱い内に叩き込め」。
学校内でもダントツに人気が無いのには相応の理由があるのだ。おまけに貧相な顔とガリガリな身体でルックス面でもランキング外。
同じ教育魔でも八幡先生はそのボディと性格で人気があるから理不尽であると考えるのと同時に、人類はやはり外見だと思う。
でも、そんな笹岡にはどこの邪神様が起こした奇跡か新婚の嫁さんがいる。しかも美人の恋愛結婚。嫁さんがいるから定時に帰る。
更に間の悪い事に、本日午後三時頃結構強い地震がありまして、積まれていた課題が崩れ落ちると言う悼ましい二次災害が発生した。
学年中から集められた誇張無しに山のような連休課題(あまりにも多過ぎて職員室に置けないので小会議室に運ばされた。小会議室は半ば笹岡のプリント配布作業専用室にされている)の整理はどうなるかと言うと、たまたま遅れてクラスの課題を集めて持って行った哀れな生贄、もとい週番に命じられた。
………つまり、私。………おい。
「あーもうっ! 何で私だけでこんなのやらなきゃ駄目なんだろ。どー考えたって笹岡がやる事じゃない」
遅れたのにだって理由がある。
だってプリント集まんなかったんだもん。「頼む待ってくれ」と言う人間が多くて。全員提出時の半分にも満たない山を持っていくのも気が引けたから待ったのが仇になった。
つーか皆課題やれよ。私だって初デートを憂い無く迎える為に頑張ったんだよ。それで嫌味を言われるのは私だけなんだから世の中不公平だ。
そして笹岡は「俺は忙しいんだ」と横暴に言い放ってどこかに消えた。思い出すと何もかもムカッ腹が立つ。
「………やるか」
絶望に唸ってしまいそうな程に荒れ果てたこの部屋を見てやる気など出る筈も無く、出るのはダークサイドに堕ちた溜息だけ。
「いっそ全部焼却炉に突っ込んで全員に評点を入れるというのはどうだろう? どう考えてもこれは笹岡の失敗なんだから」
地震は仕方あるまい。だけど二次災害の責任はやはり人間にある。
「責任を正しく取る大人が日本にいなくなっているのではないか!」
いない観衆に向かって演説する私。
拳を振り上げ、気分は某Z公国軍総帥閣下。
で、
「全くご苦労だな」
飛び上がりそうになるほど驚いた。器用にも腕を振り上げたまま首だけで後ろを向くと、閉めていた筈の小会議室の入口に誰かが来ていた。
「白輝………くん?」
なんと、そこに居たのは二年四組の美形担当。白輝速飛その人だった。
「ほら、これが四組の分だ。よろしくな」
どさりと長机の上に紙束を積み上げる。どうやら彼も週番か何かで提出物を持って来たらしい。………私よりも遅れて。
「って、何出て行こうとしてんのよっ!」
「俺の仕事はここにそれを運ぶだけだ。他には何も言われてない。それとも、俺に何か用があるのか?」
「あのね。こー言う状況で女の子が困ってるって言うのに無視して行くっての?」
別にフェミニストになれとは言ってない。しかしこの状況を見捨てるような態度に腹が立った。
一方、私が顔を口にして怒鳴った事に出て行くタイミングを外されたか、足を止めてこちらを見ていた。そして、思わぬ台詞を吐いた。
「………あんたとつるんでいる男は?」
「へ?」
少し驚いた。私と狩野くんは確かに学年の有名人かも知れないけど、そんな事を目の前の彼が指摘するとは思わなかったのだ。
「別に、四六時中一緒に居る訳じゃないわよ。今日は用事があるからって先に帰ったの」
「妙だな。あいつが優先すべき事は他に無い筈なんだが。地震が気になったか」
地震? 今日の地震がなぜ気になるのか。
この街は新しい。耐震設計が基準を満たしていない物件など無い筈。まあ家具を備え付けるのは人それぞれだし、なんらかの趣味によっては振動が気になる事もあるかも知れない。
入口近くの壁に気だるそうに寄りかかった彼を見て、私は奇妙な感覚に襲われた。
(白輝くんって、結構喋るんじゃない)
噂では無口でクールと聞いていたし、そんな雰囲気を纏っている。時々見かけても会話しているシーンは思い浮かばない。
しかし、言っている言葉は変だ。もしかして電波系だったのか。それで普段は無口だとか。
………うわっ、自分で考えておいて何だけど怖っ。
「今、街で起きてる事態に気付いているか?」
「事態……って、家出多発ってヤツ? 行方もわからないって話だけど」
その言葉を聞いた彼は、ふんっと息を吐いた。
「家出に行方不明、か。確かにそう見えるんだろうな。あんたも早く帰った方がいい。つまらない事に巻き込まれて命を落とすのは馬鹿らしい」
……引っ掛かる言い方だった。
それじゃあまるで、「行方不明の子たちがもう死んでる」みたいな感じじゃないか。
嫌な空気が流れた。思わず話題を変えようと思って、適当な話題の引き出しを開ける。
「ねえ、昨日映画館に行かなかった? ロボットアニメのヤツ」
そんなモンしか出てこなかった。考えてみれば私と白輝速飛の接点なんて何処にも無い。
中等部から同じ学年にいるんだから何かあってもいいものだけど、実際は会話するのもこれが初めてだった。
「それが?」
「いや、何となく。見かけたから。それだけ」
話題は切り替わったが作戦はほぼ失敗。考えて見れば「イメージに合わない」なんて大きなお世話だろう。
「あの映画を選んだのは偶然だ。………案外面白かったのは否定しないが」
「あ、私もちょーっと面白いかなって思った。デートで観る映画じゃないなーとは思ったけどね」
「あんたは自分のデートを話題にするのか」
指摘されて、自分の馬鹿さ加減に思い至った。バカップル病もここまで来たか。マジで重度の脳障害を起こしそうで心配だ。
「いや、あはは。別に当て付けとかノロケとかそんなつもりは無くって」
笑って誤魔化すしかあるまい。
彼はそんな私を一瞥して、床に落ちているプリントを拾い始めた。
なんだかんだ言って、手伝ってくれる気になったらしい。
私も急いで拾い始めた。まず拾い、そして混ざったプリントをクラス毎に整理しなくてはならない。考えただけでゲンナリするけどやらないと終わらない。
「………顔色が悪いな」
私のそんな精神状況を見抜いたのか、彼がそう言った。別に私を見ている訳ではない。それでよく顔色が悪いなんて指摘できるものだ。
「別に体調が悪い訳じゃないし、まあこの状況には少し嫌気が差しているのは間違いないけれど」
「最近食べられなくなった食べ物はあるか?」
「………別に無いけど」
会話がまた妙な方向に転がり出した。やっぱりコイツ電波さんなんじゃ、と頭の中に浮かび上がる。
「周囲に居る人間に溝とか壁を感じる事は?」
今正にそんな感じです。着いて行けないって意味で。
「特に、無いけど?」
「最近、夕焼けを見てどう思った?」
(………はあ?)
夕焼け。夕焼けって、あの夕焼けか。夕焼け小焼けの赤トンボ。
子供の頃ならいざ知らず、今時夕焼けを見て感想を述べるってのも。詩人とか歌人とか文芸系ならともかく、私はコメディ気質である。
「最近見た夕焼けの雲が食紅使用のワタアメに見えた、とか」
「………普通の夕焼けしか見ていないって事か」
何それ。普通じゃない夕焼けって、何?
なんだこりゃ。心理テストか?
確か就職試験なんかで使われる、一見無関係な質問を連続で出して答から心理を探るテストがあると聞いた事がある。
「見ていないならいい。ほら、こっちは終わったぞ」
「早っ!」
振り返ると、確かに紙束を集め終えていた。名前の通り行動が速いのか。
「じゃあな。気を付けて帰るんだな」
揃えた紙束を適当に長机に置くと、今度は振り返らずさっさと出て行った。
普段の私なら、廊下に出て怒鳴ったかも知れない。けれど、私は彼との奇妙な問答に思考回路を奪われていた。
(夕焼けって、何でそんな事を訊くんだろう?)
訳がわからない。クールと言うより理解し難い奴と言う印象。それでも理性的で電波系とも違う気がする。彼の纏う雰囲気と言うか存在感はそんな物じゃない。
だから、より奇妙な空気を増すのだ。
「………さっさとやるか」
気を紛らわせたい。
仕事量は確実に減った。私は手を動かして、プリント整理を再開した。
……気のせいか、集中力が上がったような気もする。
4
クラブ活動も返上して理不尽な作業を終わらせたのは五時半頃だった。
手伝いが欲しかったのは確かだけど、冷静になって考えると人気の無い場所で彼氏以外の美形と二人きりで作業するのはマズかったかもしれない。
自意識過剰なだけかもしれないけど、どーもその手の経験値がゼロに等しい私はどこかで大ポカしそうで困る。
校舎を出て空を見て、不意に白輝の言葉を思い出した。
まだ日没には少し間があるとは言え、何かが不安を掻き立てる。空は五月晴れで夕焼けはきっと綺麗に出るだろう。
その光景には何の不安も無い。
(それなのに、魂を握り潰されるような不安感はなんなのよ?)
あるいはさっきの彼の奇妙な存在感が『何か』を私の中に生み出したのかも知れない。
「おりゃあ!」
「どわあっ!」
いきなり後ろから肩を叩かれた。考えていた事が事なので、心臓が破裂するかと思った。
「あっはっは。空を見上げてたそがれておるねえ、我が友よ。ちょいと色っぽかったり。そんなに一人で帰るのが寂しいのかな?」
正体は良く知る友だった。
「小学生みたいな事しないでよ、ヨッコ。びっくりするじゃない。昨今の国際事情を鑑みるに、この英和辞典内蔵の鞄で撲殺されても文句は言えないんだからね」
「撲殺されちゃあ文句は言えないわなー。死んじゃうもん」
ケラケラ笑う彼女に、私もすっかり毒気を抜かれた。さっきまでの不安も、さっぱりと無くなっている。
「でも、何でまだ学校にいるの? 何かやってた?」
陽子は複数の愛好会を掛け持ちしている。『笑点愛好会』『てれびまんがぬりえの会』『広島風お好み焼き美食倶楽部』『なごやめし友の会』などなど、その数は十を数える。
時々視聴覚準備室で『笑点』のビデオを回すので映研とも交流があるが、実はこれらの愛好会は発起人も彼女で会員も彼女しかいない。ほとんどアンダーグラウンドな秘密結社だ。姿を替え手段を替えて信者を獲得する悪質宗教の行動に酷似している、とは彼女の談。
「実は彼氏に先に帰られた友を慰めようと思ってね。倦怠期?」
「別にそんなんじゃないってば。彼にだって都合があるんだもん」
「甘い! 甘過ぎる! それでジャミールに続く細く長い道の如き恋愛街道を突っ走れるのか我が友よ! ここで熱中しないでどうすんの」
喩えはともかく言ってる事は正しい気もする。私だってできればもっとバカップルりたい。なんなら愚カップルでも可。覚悟完了済みである。
「最近地震が多いのって、やっぱり詩絵里のせいかもね」
歩きながら冗談混じりでヨッコが呟く。私が美形彼氏を手に入れたのは天候不順どころか天変地異級の異変と言う訳か。
無念ながら私には否定できない。全く同感だから。
「でも確かに最近地震が多いよね。今年に入って何回あった?」
震災の記憶はまだ残っている。
またそれが近い内に起こるのではないかと思うほど多い。よく地震は頻発した方がエネルギーを溜め込まなくて良いと言うけど、地震大国日本ではそんな理屈は気休めに過ぎないと思う。
本物の天変地異ってやつは、人間のこねくり回した理屈なんてあっさりと越える物だと思うのだ。
人類は何処まで行っても、矮小な物に過ぎないと思う。
「やっぱり彼氏は地震で部屋が気になって早く帰ったのかな? 案外フィギュアとか飾られてたりして。アキバ系って彼女と過ごす時間よりも趣味を大事にするらしいわよ」
「アキバ系じゃないでしょ。………多分」
何しろまだお宅訪問もしていないから断言はできない。
我が家に呼ぶのなら母が喜びそうだけど。絶対宿泊準備とかするよ、あの人は。あるいは料理だけ作って自分たちは外泊とか。
「………ああ、彼氏と言えばさ、ちょーっと妙な話なんだけど。高等部で行方不明になった三人の話、彼氏以外から聞いた?」
「ううん。聞いてないけど………あれ、それって………」
言われて私も気が付いた。その話、校内では聞いていない。
「そうなのよ。普通話題になるでしょ。それでちょっと気になったから調べてみたんだけど、これが驚き。居ないのは『病欠』なんだって」
「なーんだ。それじゃあ早とちりか。病欠じゃあね」
何だかちょっと可笑しい。彼の些細なミスも彼の魅力に映る。
「わかんないわよ? 家出を隠したいから『病欠』って言ってるのかもしれない。それよりも問題なのは彼氏の方よ。確か七人だって、はっきり言ったわよね?」
「うん。四人と三人で七人って事よね」
私たちの会話に入ってきた時、確かにそう言った。
「小耳に挟んだって言うけど、それでどうして断言できるの? もっと多いかもしれないのに。あの言い方じゃ、きっかり七人だって聞こえる。それに、小耳に挟むくらいなら学校中に噂が流れてもおかしくないと思わない? でも実際は病欠扱いで本当の事を確かめる術は今朝の時点では無かった筈なのに」
陽子の発言に、私の目は丸くなった。
「彼氏、もしかしてこの話の事、調べてるんじゃないかな? だって調べてでもいなけりゃそんな結論には辿り着かないでしょ」
何にでも首を突っ込む高校生名探偵漫画でもないのに、高校生が調査? そんな事あるんだろうか。
………不意に、とてつもなく嫌な感じが私の中で膨れ上がる。
彼女である私に秘密で何かやっている事に対する不満とか嫉妬感とか、そんな精神的な物じゃない。
もっと物理的に近い変化と言うか、具合が悪い気がするけど原因がわからない感じ。
なんだ、これ。肉体に程度の低い不快感が蔓延する。
「………彼氏、面白いじゃない」
「え?」
「あたしも、そー言う面白い彼氏が欲しーなーっ♪ 都市の謎に挑む高校生! つまんない日々も楽しくなりそうよねー」
くすくす笑う陽子が、ふっと溜息をついた。
その一瞬だけ、私は陽子の顔から表情が消えたのを見逃さなかった。普段の彼女らしさが一滴も無い、不安定な表情。
けれど、それはすぐに消えて、いつもの快活な笑顔が耐えない陽子の顔に戻った。
「どうしたの?」
「う、ううん。何でも無い。何でも、無いよ」
表情の裏側の事なんて、訊ける筈がない。本人だって自覚してないかもしれないし、自覚していても私が指摘するのは筋違いだと思った。
私の家は学校から徒歩二十分と言ったところ。
陽子は駅前からバスを使うらしい。学園前にもバス停はあるけれど、どうせ駅前経由だから時間に追われでもしない限り使わないらしい。駅前まで乗る生徒で混むから、だそうだ。
「嫌な感じよね」
陽子が空を見上げてそうこぼした。おそらく彼女が意識して喋った言葉じゃない。
「……ええっ?」
「あ、ううん。違うのよ。詩絵里の話じゃなくて。この空がさ、凄く嫌な感じなのよ」
「空?」
いつの間にか夕焼けが始まっていた。赤く染まり始めた空を、陽子に倣って暫し眺めてみる。
空の変化と言うのは意外と早い。赤い染みは焔が枯野を焦がすように、急速に空に広がっていく。
が、しかし、それが普段と何か違うのかと言うと私には全然わからない。
でも、天変地異の前触れには空とかに普段と違う現象が起きると言う話もあるけど。
「何が、って言う訳じゃないんだけれど。ただこの夕焼けが気持ち悪い気がする。………うーん、なんでだろ」
また、夕焼け。今度は私の身近な人物の口から出た言葉だ。
一体、どう言う事なんだろう? 何かが、夕焼けに関わる何かが、あると言う事なんだろうか。
「別に、普通の夕焼けだと思うけど」
「………むうん、夕焼けって、こんな色だったかなあ」
色?
夕焼けの色なんて、今まで気にした事も無いけれど。どうなんだろう。見直してみても、やっぱり私には何が違うのかわからない。
「………おっと、ぼけーっとしてたらもうこんな場所だった」
私たちは駅前へと続く交差点に来ていた。
「じゃああたしはここから駅前に行きますゆえ、これにて御免。まった明日ね」
「うん、また明日」
挨拶を交わして、陽子は足を駅前の方向に向けた。
私も自宅の方向に振り返ってから、少し考えてもう一度空を見上げてみた。白輝速飛の言葉を思い出す。
(普通の夕焼けしか見ていない。つまり、普通じゃない夕焼けがあるって事よね)
陽子が見ていた夕焼けはどんな感じだったのか。色を気にしていたみたいだけど。
私は思わず駅前の方に目を向けた。それは、何と言うか偶然と言うか、とにかく説明できない行動だった。
見なきゃ良かった、とも思う。
(………………あれ?)
私は、しばし自分の目を疑った。時間にしておそらく一分もない筈だった。
それなのに、見通し良好の大通りのどこを見ても、陽子の姿は確認できなかった。
(………なに、それ)
駅前のバスプールまで開けた光景の中に、それらしき姿は無い。
「どっかのお店にでも入ったのかな? おトイレ借りま~す、とか言って」
充分有り得る解説。
だけど、ざわざわと虫が這いまわるような感じで湧き起こるおぞましい胸騒ぎは次第に大きく激しくなる。
それは違う、と私の中の何か。もしかすると第六感とかそんな感じの物が蠢いている。
足はいつの間にか陽子がさっきまで歩いていたと思われる歩道に向かっていた。
「………車とか、見当たらなかったよね」
仮に連れ去られたと言う展開でも、車の可能性は無いと思う。もちろん乗るバス自体来ていないから駆け込んだと言う線も無し。
(そうなると、やっぱりお店だと思うんだけど)
街の性質上駅前には学生向けの店舗も幾つかある。
しかし、そのどれにも彼女が居る形跡は見当たらない。トイレ借りてる真っ最中ならわかんないけど。
取り越し苦労に決まってる。事件なんてそうそう起きるもんじゃないんだから。
それでも、一軒ずつ確かめて歩く。
確かめなくちゃ、と何かが囁いて囃し立てる。
………四軒目までハズレ。陽子らしい少女は目撃されていない。
ケータイで陽子を呼び出してみる。
案の定というか。
………出ない。
そして、私はその前にやって来た。
「……………イッ!」
身体中の皮膚を粗い刷毛で一気に逆撫でされたようなザラリとした感触に加えて、背筋がミシミシと有り得ない異様な擬音を脳髄に流し込んで震えた。
それは、一見すると何でも無い、三階建ての建物と建物の間にできた幅三十センチ程度の隙間の前。
どう考えても女子高生が入り込める空間には見えない。更に、光が差し込みにくいので結構暗いけれど、先が行き止まりなのも見てわかる。
だから、ここには何も無いのだ。
足を止める理由も必要も無い。
それなのに、私の足はまるで目的の場所がここである事を訴えるかのように、ピタリとそこから動かない。
足だけじゃない。身体もそう言っている感じがする。理解していないのは私の頭だけ………ううん、魂だけなのかも知れない。
(………何で? どう見てもここに入れるのって猫くらいでしょ?)
小学生の低学年(バストが無い事前提)程度でも横歩きを強いられる幅しかない。
でも私は、目の前にあるその隙間にそっと手を差し込んだ。自分の身体を信じて………と言うより、それしかできなかったと言うべきか。
(げ)
当然だけど、そこに掴むべきものは何も無い。
何も無い筈なのに、私の手は明らかに異質な物体の感触を捉えていた。指先に、手に、腕に、奇妙な粘性の感触が身体中に波紋の様に広がっていく。
RPGのスライムに呑み込まれるってのは、きっとこんな感じなんだと頭の片隅で思う。
うわっ! 意外にベトつきませんが、包まれるのがすっごくヤな感じ!
「何が起きてっ………」
抵抗も空しく、身体がその異質な粘着感に包まれた。
そして、世界が切り替わった。
5
目を疑う。今日はこんなのばっかりだ。
けれど、今私の目の前に広がる光景は、それらすべての非常識を覆すほど奇怪なデザインだった。自分の目が腐っているのではないかと本気で疑った程だ。
確か、隙間はどう贔屓目に測っても三十センチ程度だった筈。
それが、今私が立っている場所は私の両手を広げた長さとほぼ同じだから一尋。三倍以上になっている。
「なによ………これ」
見上げてみれば、本来なら三階建ての建物の間だった筈なのに、今の両壁の高さは確実に十階建て以上。
こちら側を向く壁には窓はおろかエアコン室外機、雨樋、パイプはもちろん針金一本のまともな手掛かりになるような装飾すら無い。右も左もすべて切り立つようなコンクリートの絶壁だ。
その間に覗く遥か彼方の空は、べったりと油絵具を単色で塗り付けたみたいな感触の、気味が悪いほど赤錆びた空。
未だかつてこんな空見た事は無い。
ううん、そもそもあれは空と呼んでいいモノなのだろうか?
それにこのコンクリートの壁ときたら、一体作ってどのくらいのものなのか。
無数のひび割れに染みだらけの雨水の痕跡。補修の跡は無く、今にも腐って崩れ落ちそうな気配。
まるで廃墟の一部だ。
(………嘘。だってこの辺り、まだ整備されて五年も経ってないでしょ?)
コンクリートは作り方にもよるけど基本的には環境の変化に強い頑丈な素材。
それがここまでなるには局地的に強酸性の雨でも降らなきゃならない筈だ。
そう、確か環境汚染された未来が舞台のSF映画で、酸性雨に晒されたコンクリート壁がこう言う表現だった。
「ヨッコぉ………いるぅ?」
いるぅ………いるぅ………いるぅ………。
声が響く。反響が私の声を妙な品質に変化させている。
明らかに異常な状況に感覚が麻痺してしまったのか、ためらう事もなく私は一歩、また一歩と奥に歩を進めた。
………そう、奥があるのだ。と言っても、すぐ目の前に曲がり角があって、取り敢えずそこまで行かなければ先はわからない。薄暗いけれど先が見えない事はなかった。
そして、その曲がり角に辿り着く、まさにその直前だった。
何かが、大きな何かが私の目の前に勢いよく転がってきた。
最初、それが何なのかわからなかった。長い髪はバサバサに乱れに乱れていて顔がわからない。衣服は薄汚れて所々裂かれてはいるけれど、紛れもなく暁月学園の制服。露出した肌の部分に痛々しい無数の擦り傷が赤く浮かんでいた。
「………ヨッコ?」
僅かな時間で確信が持てないほど変わり果てた友人の姿に、何とか掠れる声を絞り出した。それは、壁を支えにして起き上がると私の顔を見た。
その瞳はかつて見た事もない様な血走った目だった。私の本能が、それを造り出したのは恐怖だと訴える。
「……し、詩絵里? で………出口は! どこから入って来たのっ!」
「え、えっと、後ろからっ」
焦燥に取り付かれた陽子が私の腕を強く掴んだ。彼女の必死の気迫が痛みと共に伝わって来る。
「はっ、早く、逃げないとっ!」
腕を掴まれたまま、私が来た方向に走り出す。
「あっ、鞄っ」
「そんなのいいからっ!」
左手に持っていた鞄を落としてしまった。お気に入りのストラップが着いてたんだけど。
走る。とにかく走る。真っ直ぐな通路を走る。
………だけど。
そう長い距離を歩いた筈は無かった。それなのに、いつまでたっても元の場所に戻らない。
そして、この場合の『元の場所』とは駅前の事で。
……決してぐるりと回って元の場所、と言う意味じゃない。断じて。
………そうあってはならない、筈なのに。
数秒後、覚えの無い開けた空間に飛び出した。
……ううん。覚えが無いのは私だけ、らしい。陽子は「あ、あ………」と声にならない呟きをこぼして膝を落としてしまった。
部屋の大きさは約十メートル四方。学校の教室を二つ並べたほどの広さだ。
通路同様場か高いコンクリート壁が四方を囲っている。天井は一応抜けているけど開放感なんて無くて、閉塞した空気が実際の間取りよりも狭く感じさせる。
遥か遠い場所にある空には今にも垂れ落ちてきそうな赤錆びた色。
私たちが出てきた通路の丁度向かいにはやはり通路の入口があって、その床には鞄が一つ転がっていた。
……何と言うか、見覚えのある鞄。具体的に言うと、さっき私が落としたヤツに良く似ている。ぶら下げた殺戮人形のストラップなんか特に。
「戻って、来た? え? だって、真っ直ぐ走ったのに、何で……」
「ココカラハ出ラレハシナイト言ッタダロウ」
私でも陽子でもない、獣の唸り声で声を作ったみたいな、第三者の声が空間に反響する。
のそり、とそいつが向こうの通路の陰から姿を現した。
(な………なによ、あれ?)
一番近いものを挙げろと言われたら、制限時間ギリギリまで悩んだ後、大型類人猿のシルエットに近いかも、と答えるかも知れない。
一番近いのはゴリラ。特徴的な前屈姿勢で特に前脚とも言える腕は異様に太く、私の胴周りくらいはある。
しかし、それはあくまでもシルエットだけで、他はまるで類似の動物は挙げられない。
そいつの肌は甲虫のような黒い硬質感で光沢があり、赤い血管のような物が脈打っている。体毛は視認できる範囲では全く無い。
見れば見るほど、これに地上の動物との類似点を見出す事自体が無駄だと思えてくる。
一つは頭部。この生物の頭部はどう見ても肉食獣の物だ。しかも哺乳類ではなく爬虫類のそれに近い。無数の牙が目立つ大顎。鱗状の顔皮。
その両瞳は奇妙に紅くどろりとしてべったりとしていた。
……何となく、似た感じのものを知っている。
(………そうか、ここの空の色だ)
そして、もう一つの相違点。そいつには腕が四本あった。
ナンセンスだ。
問わずとも体長二メートルオーバーで手足が計六本ある生物など、地球上には存在しないのだから。
……では? 存在しない筈の生き物を何と喩えれば良い?
「………バケモノ」
それ以外、適当な言葉は無い。
……気が付いた。脚が奇怪なほど震えている。今にもボロボロと崩れ落ちてしまいそうだ。
それでも立っていられるのは、隣の陽子がもう精も根も尽き果てたようにぐったりとしているからだろう。ここで私も落ちたら、どうなるかわからない。
………ううん、予想はできる。けれど、最悪の予想はしたくない。
だが、怪物もまたこちらを窺っている。じりじりと間合いを測っているようにも見える。
どう見ても獰猛且つ肉食だと思うけど。
「オマエハ………ナンダ?」
「………え?」
化け物に何者呼ばわりされるとは思いもしなかった。
「我ガ幻巣ノ世界《迷宮狂宴卓》ニ入ル事ガデキルノハ、我ガ呼ビ込ンダ者ノミノ筈。我ハオマエヲ呼ンデハイナイ」
呼んでないって言われても、私は今ここにこうして立っている。文句を言われても筋違いだっての。
「ソッチノ人間ハ我ガ食事トシテ呼ンダガ、オマエハドウヤッテココニ来タ」
「知らないっ! って言うか、食事? 食事って言ったか?」
喰うのか。人間を。
いや、ある意味予想通りで最悪な答えなだけ。
「………東方教会ノ追跡者カト思ッタガ、勘違イカ。我ノ食事ニハナランガ」
巨体が、一瞬で視界から消えた。
………いや、跳ねた! あの巨体で野生動物を遥かに上回る冗談みたいな運動能力!
「消エロ」
視界が埋まった。それが何であるか理解する前に、首から胸にかけて衝撃がぶち当たり、次の瞬間で身体が後ろに吹き飛んだ。
「がはっ!」
コンクリート壁に背中全域を打ち付けられる。
背骨を中心に、肋骨と言う肋骨が折れた感触が脳にざくざく突き刺さる。
天地がひっくり返ったように視界がぐちゃぐちゃ歪み、私はそのままずり落ちて地面に仰向けに転がった。
そんな状況でも頭は意外にはっきりしていて、何とか身体を立て直そうと力を入れるけど、実際には身体はほとんど動かなかった。
「こふっ、かはっ!」
喉の奥から絶え間なく熱く苦い液体が込み上がって来る。
口も、鼻も、焼け付いたようにキツイ熱いアツイアツイアツイ!
辛うじて、左手が動いた。
それで思わず口を覆おうとして、それに触れる事になった。
………骨。
何とか視線を胸元に下ろせば、ブラジャーごと左の乳房が無くなり、喉まで肉が抉り取られ、滅茶苦茶に折れた骨が内側から何本も肉を突き破っていた。
私が触れたのは、多分鎖骨か、ぶっ飛んだ胸骨。
この様子だと多分肺も破れているし他の臓器も怪しい。
意識が残っているのがおかしいほどの大怪我………と言うか致命傷。
即死上等。生きている方が不思議。
事実、今度は大量の急速失血やら何やらで私の意識は急斜面を転がるように暗い淵へと落ちていく。
意識を残そうと必至にもがいても、それは乾いた砂を掴むように脆くボロボロと崩れる。
(………狩野くん………)
死の間際に彼氏の事を思い浮かべる当たり、なんともパターン過ぎる。
(………って、そっか。私、死ぬんだ)
変な形で自分の死を認識してしまった。
まあそんなのが私らしいと言えばそうかもしれないと納得しつつ、私は崩れていく意識を捨てて闇の穴に身を任せた。
陽凪詩絵里 二〇XX年五月六日午後五時五十五分 死亡 享年十六歳
6
井之浜有紀は腕時計を見て呟いた。
「あ………間に合わないか」
果たして、駅前に辿り着いたところで、乗りたかったバスが目の前を通り過ぎて行った。
市内循環バスだからしばらく待てば良いのだが、タッチの差で間に合わないと言うのは精神的によろしくない。
駅前もそろそろ人が多くなる時間帯だし、急ぐのも何だか癪なので、走ってきた動悸を鎮める事も兼ねてゆっくり歩く事にした。
「あら?」
ふと、ある商店と商店の間の、路地裏とも言えない狭い隙間に、奇妙な物が落ちているのに気が付いた。
鞄、だった。暁月学園高等部指定の鞄。
小物程度の物ならともかく、本来そんな所に落ちている筈の無い物だ。しかも、その鞄にはわかり易い特徴があった。
鞄に着けられたストラップだ。B級ホラー映画で有名な殺人人形なんてかなり悪趣味なストラップ。
暁月学園高等部二年七組クラス委員の有紀は、その鞄の持ち主を知っている。他ならぬ自分のクラスの、ちょっとした有名人だ。
飛び抜けて美人と言う訳ではない。スタイルが言い訳でもないし学力が高いと言う訳でもない。
ムードメーカー的な部分もあるけれど毎回と言う訳でもない。
彼女が有名なのは彼女がゲットした彼氏にある。学年でも美形で有名な男子を彼氏にした少女漫画みたいな展開は、あまりそっちの方に興味の無い有紀も驚かされた事だった。
(どうしよう。これって、ここに置いているって訳じゃないわよね。もしかして嫌がらせとか?)
よく考えるとありそうな話だった。
美形の彼氏をゲットした彼女に今までそう言う事が無かった事の方が不自然なのかもしれない。あるいは自分が知らないだけで、裏では彼女に嫌がらせが行なわれていても不思議ではなかった。
しばし悩み、それから携帯を取り出してメモリーを検索する。有紀の携帯には連絡網のクラス名簿が住所込みで全部入力されている。緊急時以外は使用できない極秘扱いで、彼女が学園に信用されている証でもある。
「………遠くは、ないみたいね」
ここから徒歩十分とかからないだろう。届けてくる時間は充分ある。
有紀の性格からして、これを明日届けるという選択肢は無い。今日渡されたプリントもあるし、明日の予習が必要な科目もこの鞄の中にある筈だから、絶対に困る筈だ。
有紀は鞄を拾うと、回れ右をして走り出した。
鞄を届けた時、彼女の母親はお礼だと言って小さな容器に詰めた佃煮をくれた。
「でも、あの娘一体どこほっつき歩いてるんだろうねえ」
何気ないその言葉が、何故か引っ掛かった。
*
「行方不明? 彼女が、か?」
住宅地に建てられた高層マンションの一室。市内を見渡す事の出来る窓の向こうを、見つめる女は、その報告に思わず舌打ちを漏らした。
『はい。間違い有りません。おそらく、懸念のノスフェラトゥに接触したと思われます』
予想外の報告に語気を荒げる彼女に対し、携帯の向こうで報告する相手はずっとクールだった。
「くそっ。有り得んと思っていた。調べる限りでは奴の《幻巣世界》は虫篭だ。中に入れる物は奴が選択する。そして奴の選択基準は食糧かそうでないかだ。彼女は始めから除外されている筈なのだ。喰われる事など有り得ないのだから」
『現実に彼女は消息を断ちました。現時点でほぼ間違いは無いかと』
「それが、何を意味しているかわかるか? 彼女が自力で結界の中に入ったと言う事だ。信じられないが、《幻巣世界》に術者の意志を無視して侵入するなど我々でも無理だ。そう考えると、おそらく十中八九彼女は覚醒している」
暫し、沈黙が流れた。
『では、どうしますか?』
「先ず何としても足取りを追え。手遅れになる前に必ず発見しろ。探索員はお前の判断で投入するのを許可する。私は教会の第十二・聖衛騎士団本部と連絡を取り、対ノスフェラトゥの作戦を上申する。従士貴君の奮闘を期待している」
『了解しました。マスター』
通話を切った携帯を握ったまま、窓の向こうの夜空を見つめる。
いや、彼女の瞳に映るのは、ただの夜空ではなかった。呪うべき言葉を吐く相手はこの空の向こうにある。
「………間も無く次の満ち刻が来るか。彼女の存在。このタイミングでのノスフェラトゥの出現。………運命を騙るか、《穢れた月》!」
彼女の憤りは当然であると言えた。
人間ならば、自分の計画が詰めの直前で崩れかけるのを目の前にして平静でいろと言う方が難しい。それが人生だと割り切るには、この問題は余りに大き過ぎた。
しかし、激昂は長く続かない。弟子にもいつも語る事だ。
常に冷静である事。感情を制御できなければ戦いを制する事などできはしない。
まして、この聖戦に敗北は許されないのだから。
彼女は頭が冷めるのを待って緊急連絡用のナンバーを呼び出した。
*
「………やれやれ。気持ち良さそうに寝ている」
少年はぼやきながらも全神経を研ぎ澄まして周囲の気配を探るのに集中した。
「東方教会の連中を誤魔化せるのも限度がある。次にあの月が満ちるまで、あと三日。それまで何とかなるのか?」
緋く、今にも滴り落ちそうな月光が、少年たちが身を隠す人工の迷宮にも差し込んでくる。
その光はまるで獲物を捜し狙う異形の怪物の触手を思わせた。
忌々しげな表情を浮かべ、少年は閉じた窓の隙間から空を睨む。見上げた先にある、彼の瞳に映るもの。
そこにあるものは、おそらく見た者にしかわからない。これの存在を自らの目で見ない限り、理解する事は不可能だろう。
目で捉える事で、初めて認識される現実。
かつて、それを見た人間は少なくは無い。
だが、日没と共に浮かぶそれを認識した者に訪れるのは永遠の恐怖か、果ての無い狂気だった。人間は必ずそのどちらかに支配されるだろう。
過去において一部の詩人や芸術家には、そこから作品を生み出せた者もいた。
もっとも狂気に支配された作品は見る者に理解を得られず、そのほとんどが真の意味を、警告を伝える事無く朽ちていく運命を待つ。
それは人類にとって、ある意味幸福な事なのかもしれない。
恐怖や狂気に支配されないものがあるとすれば、それはもう人間ではない。罵り駆逐されるべき怪物だろう。
それは扇台の街の遥か上。
夜空の中心の玉座に座るが如く、朱く、赤く、紅々と祭火のように輝く。