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ねえ、人形売りの少女のうわさ、知ってる?  作者: 和田喬助
第二話 『掴まれた右腕』
8/29

 朝八時過ぎ、森桜子は印刷室で教材の準備をしていた。

 彼女は、一年生には地理を、二年生には歴史を教えている。まだ大学を卒業してから二年しか経っていないが、教鞭ぶりはベテランのように余裕があると評判だ。それだけ楽しんでいるのだ。生徒にも、スラリとしたスタイルで背が高く、大人っぽい美人な先生だ、と人気がある。

 今日は、一年生の全クラスに暗記テストを行う予定だ。一問一答形式で、それほど難しくはしていない。テスト範囲も明確に教えて、どんな問題を出すか例題も示したから、きっと皆はりきって勉強しているだろう。

 印刷が終わるのを携帯をいじりながら待っていると、背後のドアが音をたてて開いた。慌てて懐に仕舞う。

「おはよう、森くん」

 三年生に経済を教えている雄武先生だった。何も入っていない大きな封筒を持っている。何か教材を印刷しに来たのだろう。

 ふう、と安心して桜子は再び携帯を出す。本来、携帯は職員室以外使用禁止なのだが、この先生は特に彼女をとがめることはしない。

「おはよ、雄武先生」

 振り返ってニコッと笑った。腹の内から湧き起こる本物の笑顔だ。

「今日も短いスカートをはいているなぁ。生徒に覗かれたらどうするんだ」

 心配そうに桜子の下半身を指さした。

「大丈夫よ。そんなことしたら、こうやって蹴り飛ばすから」

 彼女は、誰もいない方へ足蹴りした。ヒールをはいているので、かかとで蹴ったら小さいケガでは済まないかもしれない。

「はっはっは。今日も元気だな。学生の頃と全く変わらん」

 雄武先生は、白髪が混じる頭を苦笑いしながら掻いた。

「いいじゃない。子どもの心を持ち続けるのは、教える側にとってきっと大事なことでしょ」

「君の場合、それが出すぎてしまっているのがいかん。昨日だって、廊下を走っていただろ。生徒の鏡として、あれはどうなんだね」

「あ、あれは、仕方ないわ。授業中ずっとトイレを我慢していたんだもの」

「授業前に毎回コーヒーを飲む習慣、そろそろやめた方がいいんじゃないか?」

 印刷機が止まった。全て刷り終わったのだ。

「どうぞ、先生」

「ああ。ところで……」

 雄武先生は、頭を掻いた。「今夜、一杯やらないか」

 週に一回、先生は彼女を誘う。お互い独身。そして、お互い他の先生ともあまり付き合いがよくない。彼の誘いを断ったことはなかった。

「ええ、いいわよ。どこで飲む?」

「俺の家だ。宅飲みの方が、お金がかからなくていいだろう」

 どちらかの家で飲み会を開いた時、必ずと言っていいほどあの行為に及ぶ。飲みの誘いを受ければ、同時にそのことについてもOKサインを出すということなのだ。

「分かった。今度は最後までいかせてね」

「悪かったな、俺が早くて」

 雄武先生は、フンと鼻を鳴らした。

「覚えてろよ。必ず満足させてやるから」

 印刷室を出ていく桜子の背中に、そう言葉を浴びせた。

「ふふっ、楽しみにしてる」

 ウインクして見せて、戸を閉めた。


 ホームルームが終わると、桜子は廊下で後ろから声をかけられた。

「森先生、ちょっと大事な話があるんですが」

 彼女のクラスの深川隼人だった。弓道部の新部長で、全科目成績が良い。

「いいわよ。進路相談室に来て」

 彼女は階段を下りて、職員室の隣にある部屋に招き入れた。各企業からの求人情報や、就活のハウツー本の入った本棚が、部屋を囲んでいる。

「どうしたの? 何か悩みごと?」

 桜子は丸イスに座った。長机の角を挟んだ所に、深川も腰を下ろした。

「はい。先生は雄武先生と親しいと聞いて……」

 うつむきながらそう話を切り出した。

「雄武先生? 親しいというか、あたしはただの高校時代の教え子よ。それがどうかした?」

 思わず息を飲んだ。

 もしかして、彼と親密な付き合いをしていることがバレたのだろうか。いや、そんなはずはない。デートは隣町でやっている。そこまではこの学校の生徒は行かないからだ。それに、学校の近くで待ち合わせしないように気を配っている。そんな心配をする必要はないはずだが……。

「実は、三年生が引退する二ヶ月くらい前から、先生の僕に対する態度が一変したんです。それまではほとんどと言っていいくらい話をすることはなくて、あるとしたら経費の手続きで先生に確認してもらう程度のことぐらいでした。他に何かあったかもしれませんが、もう忘れました」

 そこまで言うと、視線を桜子の目に合わせた。

「急に、僕を居残り練習させるようになったんです。皆は帰してくれるのに、僕だけ残って一時間打ち続けるんです。日の落ちる時間の遅くなる夏は、もっと時間が長くなります。その間、ずっと後ろのベンチで座って見張っているんです。訳を聞いても、お前のためだとしか言いません」

 深川は、膝の上の拳を震わせている。

「はっきり言って迷惑です。僕は別に大会で勝ち進んで全国に行こうなんて思っていません。ただ皆と楽しく弓道をやりたいだけです。どうして僕だけこんな仕打ちを受けるんですか」

 ふう、と彼は息を吐いた。

「……分かったわ。ただ、あたしが思うに、深川君の勘違いっていうことはないかな? 実は他の部員も極秘に練習しているとか……」

 彼女は戸惑いながら訊いた。

「それはありえません。皆に聞いても、そんな練習はしていないということでした。そもそも皆、やはり弓道で頂点を目指そうっていう気はなくて、ワイワイ楽しめる部活で構わないと思ってます」

「雄武先生には、きっと皆で一致団結して上に登っていく向上心を持ってほしいという気持ちがあるんじゃないしら」

「そんなのいりません。生徒にそんなことを求めるんなら、野球部やサッカー部の顧問をすればいいんですよ」

 ここまで話をしたが、深川の意思は思った以上に固い。そこで初めて、桜子は部員全員の考えを尊重すべきだと思った。

「深川君の考えは、確かに聞いたわ。雄武先生に、キチンと話をしてみる。今日の所は、とりあえずこんな感じでいい?」

 先生の言葉に、彼の表情が少し緩んだように見えた。

「はい。お願いします」

「じゃあ、そろそろ教室に戻って。もうすぐ授業が始まっちゃうから」

 失礼します、と深川は進路相談室を後にした。

 クラス担任って大変だな……。初めて自分のクラスを持って、最初の壁が立ちふさがった。

 今夜、それとなく聞いてみよう。そう頭の片隅に残して、職員室に戻った。


3へ続きます。

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