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旭高校弓道部では、筋トレこそがすべてだと教えられていた。
顧問の先生の監視の元、芝生の上で円になって腕立て伏せが始まった。五十回を二セット、男子は普通に、女子は膝をついて、皆顔を真っ赤にして耐えていた。
もちろん、それだけではない。他の筋肉もバランスよく鍛えるようにと、腹筋や背筋も行う。さすがに他の部活のように走り込みはしないが、スクワットも欠かさない。
ちょっとでも皆のペースから遅れた部員がいたら、先生に尻を平手でぶったたかれる。まるで昭和の時代からやってきた人種のようだ。でも、女子には手を出さないし、注意もしない。放っておく。
一通り筋トレが済むと、ようやく弓矢での練習が始まる。しかし、それまでに皆汗だくだ。
すると先生は、
「先生がいないからって、ダラダラ練習するんじゃないぞ」
と、その場から離れていった。彼は学年主任だから、顧問以外にも仕事が山ほどあると聞いたことがある。
先生の影が完全に見えなくなったとたん、場の空気が一瞬で緩んだ。
「全くよぉ」と、二年生の男子が先陣を切った。「雄武先生、早く辞めてくんねえかな」
すると、副部長の幕別が、
「ホント、それな。先輩と一緒に引退してほしかったぜ」
やっぱりそう思ってたんすね、と一年の小柄な男子が会話に入ってきた。
「当たり前じゃねえか。誰が、あんなガミガミ怒る先生のこと好きになれるかよ」
「好きにはなれないな」
「だな」
「でも、女子には人気あるみたいっすよ。昭和の男っぽい所がいいらしくて」
「そりゃ、学校の中じゃまるで別人のような奴だからな。教頭や校長の目が届く所じゃ、変な真似はしねえよ」
それじゃ、どうして部活じゃこんなに……とほとんどの部員が手を止めて考えていると、
「そんなの、ストレスのはけ口に決まってるさ。ペコペコするしかない俺たちに、全部ぶつけてるんだろ」
部長の深川は、フンと鼻を鳴らした。皆と違って、彼は近くの東屋で弓に弦を張っている。
「部長、雄武先生って弓道の経験あるんですかね」
一年生の長身男子がボソッと言った。
「無い無い。中学から大学まで、ずっとラグビーをしてた。根っからのラガーマンだよ」
「ああ、だからデブなんですね」
「デブじゃねえよ。あれは筋肉の塊。ターミネーターでシュワちゃんの裸見たことねえか? 脱いだらあいつあれぐらいすごいぜ。首周り、見たら分かるだろ?」
幕別が興奮しながら話す。
「先輩、先生の裸見たことあるんすか? もしかして二人って……」
二年生と一年生がニヤニヤしながら、ホモォ……ホモォ……とヤジを飛ばす。
「ちげえよ! 去年、市民プールで泳いでるのを見たことがあるんだ。体だけには憧れるよ」
「ダメっす先輩……。全然ホモッ気が消えてないっす……」
後輩は大笑いするのをこらえている。
「おおい皆、そろそろ練習始めるぞ。無いとは思うが、先生がまた戻ってくるかもしれないからな」
部長のかけ声で、はーいと円がばらけた。
弓道部の練習場所は、グラウンドの隣にある。大人の背ほどの高さの茂みで仕切られていて、その奥に練習スペースがあった。矢を打つ場所にはビニールひもが引かれ、その数十メートル先には一メートルくらいの高さの草に覆われた山がある。何でも、その山ははるか昔の先輩方がどこからか土を持ってきて盛り固めたものだという。砂になっている所に、的が六つ置けるようになっている。
早速、六人的の前に並んで練習が始まった。その後ろには、次に打つ人が並んでいる。皆、体育の時に着るジャージ姿だ。校舎の中で着替えてから外へ出てくる。弓道の正装は、着るのが面倒くさい。
空は、カラッと晴れている。絶好の練習日よりだ。部員全員、雨が降らないことを祈っている。雨で濡れると矢の羽が縮んで使い物にならなくなるからだ。しかも、お休みになることはなく、校舎内でずっと筋トレをしなくてはならない。皆、すっきり晴れた空の下で弓道をしている方が楽しいと思っている。
本当は、打っている人も並んで待っている人もしゃべらずに静かにしていなくてはならないのだが、そのルールはこの弓道部には通用しない。先生がいるとき以外は、常に話があちこちで飛び交っている。
「それにしても」と、一年の小柄な男子が口を開いた。「二年生の女子、まだ行方不明なんすね」
「ああ、香田佐緒里だろ? もう一週間も家に戻ってないらしいぜ。先生が今朝、そう言ってた」
幕別が声を潜めて言った。
「親御さん、一晩帰らなかったすぐ後に警察へ捜索願を出してたみたいだ。あまり大事にはしたくなかったみたいだけど、この街で起きてることを考えたら仕方ないよな」
別の二年生男子が口を挟んだ。
パンッと的を矢が貫いた音がした。部長が当てたのだ。
「佐緒里、どうしちゃったんだろ。あたしたちにも何も連絡してきてないのよ」
佐緒里と同じグループの二年生女子が、少し震えた声で言う。
「事件だな」と、部長が次の矢をつがえながら言った。「誰かに襲われたんだ」
「どうした深川、お前が打っている最中にしゃべるなんて珍しいな」
幕別が、少し驚いたように聞いた。
「この街でもう十件目だぞ。何か裏があると考えるのが普通だろ」
部長の言葉に、確かにな……と全員がうなずいた。
「連続誘拐事件っすかね」
後輩のその言葉に、全員体が強張った。
「それはおかしいって、新聞に書いてあったぞ。被害者には全く接点が無いって」
「それじゃ、それぞれ十人の犯人がいて、その犯人がたまたまこの街に集中しているっていうの?」
「いやいや、それどんな偶然だよ。ありえない。東京でもそんなに頻発してねえよ。こんな田舎ならなおさらだ」
警察や探偵ならともかく、こんな高校生の集団の中で結論が出るわけがない。すっかり重くなってしまった空気の中、しばらくその話題は避けられた。
そして夕方になり、辺りが暗くなって来た頃、先生が顔を出した。部活が終わる時間を見計らって来たのだ。
皆が道具を片付け終わると、その場で解散となった。他の部活なら先生か部長が一言話をするが、この部活にはそんな風習は無い。
そして部長と先生だけが残ると、
「さて、深川。練習始めるか」
先生と深川は弓道場に歩いて行った。
2へ続きます。